白鬼

藤田 秋

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第零章 千年目の彼岸桜 後編

0-29 一途な犬

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「お止めくださ——」

 珀蓮は小百合を制しようと彼女の肩を掴んだが、突然の痺れが身体を駆け抜け、力が入らなくなってしまった。
 小百合を押し返すことも適わず、珀蓮はくたりと手を降ろす。

「何、か……仕込み、ました、ね……?」
 動悸も速くなり、体温も徐々に上がっていく。珀蓮は息を切らせ、珍しく冷静さを欠いた表情で小百合を見上げた。

「ごめんなさい」
 彼女は申し訳なさそうに脣を噛み、珀蓮から目を逸らした。

 それが答えだった。
 恐らく晩酌の際、酒に何らかの薬を混ぜていたのだろう。小百合は珀蓮に酌をしていた為、隙はいくらでもあった。

 珀蓮は歯を噛み締め、力を入れようとしたが、痺れがそれを邪魔する。彼の白い顔は段々と赤みを帯び、目が潤み始めた。

「してやられましたね」
 苦笑いする姿は、授業中に困った質問をする生徒に向ける日常の姿そのものだ。

 しかし、それが強がりなのだとすぐにわかった。珀蓮は身体の妙な疼きに顔を歪め、小さく呻いたのだ。

「珀蓮さん……」
 苦しむ彼の姿が艶っぽく見えるのは、自分が狂ってしまったからなのだろうか。

 小百合は息を飲み、軽く開いていた珀蓮の着物をそろりと更に開く。
 珠のように綺麗な白い肌。ほっそりとした見た目に反して逞しい胸板が外気に晒された。

 胸は大きく上下し、彼の身体が正常でないことを示している。
 小百合は珀蓮の肌に触れようと手を伸ばしてみたが、顔を赤くして縮こまってしまった。

「……慣れ、な、いこと……は、しな、いほう、が、よろしい、かと」
 珀蓮は絶え絶えに言うが、言葉の端々から余裕が垣間見えた。
 抵抗はしていないが、かといって屈伏しているわけでも無さそうだ。

「馬鹿にしないで……っ! 私は本気なんだから……」
 小百合は珀蓮をキッと睨むが、いまいち凄みが無い。

 それは珀蓮が微かに余裕を取り戻しつつあることに起因しているのだろう。彼はゆっくりと息を整え、口を開いた。

「結論から、申し上げ、ますが……このようなことをしたところで、私の意志は変わることはありません」

 その言葉は事務的な冷たさと、強い意志を孕んでいた。
 珀蓮は小百合を真っ直ぐと見据えているが、彼の緑色の瞳は別の誰かを映し出している。

「何で、何でなの……その人は珀蓮さんの傍に居ないのに……」
 小百合は、珀蓮が想いを寄せている女性はこの里に居ないことを直感していた。

 彼はずっと一人暮らしであり、女っ気が無いことを知っていたからだ。
 自分の方が傍に居るのに、珀蓮の瞳は遠くの誰かを見つめていることが悔しい。

「えぇ、そうですね……」
 珀蓮は切なげに笑い、目を細めた。

「あの方は私を忘れて、他の誰かと結ばれていることでしょう」

 忌々しい婚約者のことを思い出す。あの男だけには渡したくなかった。
 だが、結果的には彼女を明け渡す形になった。珀蓮は元から居ないものとして、真は婚姻に応じただろう。

 二人の思い出も全て失くして。

「それじゃあ、珀蓮さんは報われないじゃない!」
 小百合は、報われないのに何故想い続けるのかと問う。珀蓮はまたもや笑みを浮かべ、穏やかに答えた。

「私は彼女の『過去』を奪うという大罪を犯しました」
「過去を奪ったって……」
 小百合は困惑しつつ、視線で解説を求める。

「少々事情がございまして、私に関する記憶を消させて頂きました。私ごときが関わっていたとはいえ、あの方の尊い過去には変わりません」

 過去とは記憶。
 人の人格、過去の記憶の積み重ねによって成り立っている。その一部を奪うということは、その人の人格を勝手に変えてしまう事と同義だ。
 彼はそれを罪と呼んでいる。

 常軌を逸した発言ではあるが、小百合は珀蓮が不思議な術を扱えることを知っている為、なんとか受け入れることが出来た。

「だからこそ、私は自分に『一生、あの方を覚えている』という罰を科しました。故に、彼女を想い続けているのです」
 珀蓮は自ら、奪った過去に囚われる道を選んだのだ。

「先生……」
 彼の痛ましさに、小百合は何と言葉を掛けて良いのかわからなかった。
 彼女は、珀蓮の過去も何も知らない。事情もわからずに、掛けられる言葉も無かった。

「——というのは建て前ですよ」
「へ?」
 突然、茶目っ気のある表情を見せた珀蓮に、小百合は間抜けな声を上げる。

「ただ単純に、お慕いしているのです。あの方のこと以外、考えられないのですよ。何度生まれ変わっても、私は同じ人に恋をする……そう思えるほど」

 彼の見せる笑顔は少年のように純粋で、一途であった。

 小百合は呆気に取られ、そして悟った。名前も顔も知らない誰かには適わないと。

 妙に冷静になった。
 気持ちが収まったわけではない。しかし、納得してしまったが為に、もう食い下がる気を無くしてしまったのだ。

「……先生って、犬みたい」
 珀蓮が、純粋に主人を思い続けるような従順な犬に見えた。

「えぇ、犬ですよ」
 言い得て妙だ、と彼はまた微笑んだのだった。

「はぁーっ、もうやんなっちゃったぁ! 先生のばーか!」
 その言葉とは裏腹に、小百合は何か吹っ切れたような清々しい笑顔だった。
 そして、そそくさと珀蓮の服の乱れを直し、彼の上から降りる。

「小百合さん……」
「知ってたよ。こんなことしたって、振り向いてくれないことくらい」
 小百合は押し入れまで移動すると、そのまま開け、布団を引きずり出す。

「でも、どうすれば良いかわからなかったんだよね」
 敷き布団をてきぱきと床に広げ、掛け布団を持ったまま珀蓮に近付いた。

「ごめん、まだ痺れるでしょ? 動けないだろうから、今日はここに泊まっていってね」
 と、掛け布団を珀蓮の上にふわりと被せる。

 自分の力では珀蓮を運べない為、動けるようになったら敷き布団まで自力で移動してとの旨を伝えた。
 珀蓮は小百合の切り替えの早さに感心しつつ、罪悪感を覚えていた。

「申し訳ございません……」
「良いよ。というか、私がやったことだもん。本当にごめんなさい」

 ばつが悪そうな珀蓮とは対照的に、小百合はあっけらかんとしている。
 つい先程まで、泣きながら珀蓮に襲い掛かっていたことが、嘘のように思えてしまうほどだ。

「……お気持ちに応えられなくて、申し訳ありません」
「良いよ。というか、謝るくらいなら私を貰ってよね!」

 小百合は明るく振る舞い、珀蓮に背を向けるようにして部屋の戸口まで歩みを進める。
 部屋の外に出て振り返ると、勝ち気な表情で胸を張って見せた。

「ふーんだ! 良い女になって、先生なんかより、ずーっと良い人見つけてやるもんねーだ! 後悔しても知らないもんね!」

 小百合は珀蓮に指をさして宣言すると、『おやすみ』と言って廊下と部屋の境界となる障子を閉めた。

「……えぇ、小百合さんなら大丈夫ですよ」
 もう聞こえて居ないだろうが、珀蓮は廊下の小百合に向かって語り掛けた。

***

 威勢良く部屋を出て、自室に向かう途中。
 段々、視界が悪くなってきた。何故か、ぼやけて揺れるのだ。
 どうしてだろうと頬に手をやると、指先が少し濡れてしまった。

 そこで、自分が泣いているのだと気付いたのだ。

「あぁ、泣いてばっかりだなぁ……」
 小百合は泣き笑いを浮かべ、袖で乱暴に涙を拭ったのだった。
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