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第二章 車内でも隣には

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 泰三にはまた家に行くと別れを告げたあと目雲の要望で一緒に目雲のマンションに帰ってきた。
 ゆきにお茶を出し、ベッドを背にして二人で座る。
 車の中ではゆきは話しかけることもわざとせず、目雲も黙ったまま色々と考えていた。

 だから一息ついて口を開けは泰三との話になる。

「言葉の背景やニュアンスを感じ取れているんですね、流石翻訳家です」

 どこがとは言わずに話し始めた目雲に、ゆきはあの時の会話を再現したことを言っているのだと分かって首を振る。

「そういう訳ではないですよ」
「そうですか?」

 ゆきは頷き、理由を話す。

「ただお母様がずっと幸せそうに微笑んでいらして、目雲さんに会えた時も、お話している時もとても嬉しそうでしたから。私に対しても敵視というよりは、興味津々ではあるようでしたが、否定的な態度は感じられませんでした。それにお母様は他人軸で生きてない感じがして」

 分かりやすいように自己啓発本などでよく見る言葉を使ってみたが目雲にはいまいち響かない。

「他人軸ですか?」

 ゆきが手短に解説を加える。

「私の解釈なんですが、自分軸の人は周囲の人の評価が自分に影響しないってことで、他人軸で生きている人は他人の評価ばかりが気になる人ってことなんですが、お母様は自分軸というよりは軸はお父様にあるような気がして、でもそれ以外の人の評価は考えもしないというか耳に入らないというか」
「そんな感じです」

 目雲の賛同に、ゆきは笑みを深くする。

「だから世間体とかで話をする方じゃないって思ったら、話すこと全部お父様か目雲さんたちご兄弟のことだなって」
「ゆきさんはそう思って母の話を聞いてたんですね」

 だからあの解釈ができたのかと目雲も納得できた。

「あと、目雲さんの彼女だからってわけじゃなくて、ちゃんと私に対しての会話してくれてる気がしました。目雲さんとの将来を考えなさいって言っているのではなくて、実体験として結婚するって良いことだと教えてくれていると思えました。強要という雰囲気でもなっかったですし、朗らかでおおらかで温かい方ですね」

 今までだったらそんなことはないと否定から入っていた目雲も、今は自分の経験に基づいた印象を話すことができる。

「あまり感情の変化は見たことがないですね、いつでもああで……そういえば、子供の頃に兄のことで怒っていたな。大翔が小学三年か、濡れ衣を着せられて、それで学校に抗議に行って。なかなかに恐かったです」

 感情の起伏がない人の怒りをゆきは思い浮かべる。

「静かに怒る感じですか?」
「そうです、決して声を荒げたり粗暴になったりは一切なく冷静で、それで意見を強く示すことができる姿は本当に怖かったです。叱ったりするのは父の役目になっていたので母のそんな姿見たのはその時だけですね。泣いてるのも見たことないです。弟がいろいろやらかして謝っているのはたまにありましたけど」
「立派なお母さんですね」
「……そうですね」

 それからいろいろな思いが巡っている目雲をそっと見守っていたゆきは、それが落ち着いた頃に目雲に一つ素朴な疑問を零した。

「お母様はあまりお料理されなかったみたいですけど、目雲さんたちが小さい頃からお父様がされていたんですか?」

 ゆきの問いもさもありなんと目雲にも分かっていた。

「それが父も料理だけは壊滅的にできないんです。他の家事は父はもちろん母も部屋の掃除とか洗濯とかは一応それなりには。父は手先は器用なので裁縫などもできていろいろ小学生の頃は繕ったり作ったりは父がしてました。ただ料理だけは、母はもう問題外だと思って下さい。父は単純なのならいいんです。食パンにジャムを塗ったり、ご飯も炊飯器で炊いてただ握るおにぎり作るくらいなら父でもできるんですけど、火を使ったり味付けを必要とするものは食べられたものではないですね。母はそもそも不器用なようで包丁を握らせることもできません」

 そこまでとなると赤ちゃんの離乳食とか大丈夫だったのだろうかと、目雲が立派に育っているにもかかわらず心配になる。

「本当に幼い頃はどうされていたんでしょうか?」

 目雲も記憶にあることではなかったが、両親から聞いた話をゆきに教える。

「父の母が、僕の父方の祖母ですね、僕が生まれるくらいまでは手伝いに来ていたみたいです。でももともと祖母は父のことも無理して女手一つで育てたりでかなり体が弱っていたようで、僕が物心つく頃に亡くなって、うっすらと入院している風景みたいなのは覚えています」
「おばあ様もご苦労されたんですね」

 ゆきは微笑みながらも悲しげだった。

「そうですね、僕からしたら祖父になる人は相当ひどい父親だったと父自身が言っていたので、父が子供の頃に離婚してそれは良かったとは思ってるようでしたけど。そのせいで苦労したのは間違いないみたいですね、最後に孫の世話をできたのは喜んでいたとも言っていましたけど」
「そうなんですね」

 時代も含め計り知れない苦労があったのだろうと偲ぶゆきに、目雲は思い出したついでに家族の説明をする。

「ちなみに母方の祖母も亡くなっています。美人薄命だと祖父は言っていましたけど、写真で見る限りでもかなり綺麗な人でしたね。そちらもご令嬢で政略結婚だったそうです、ただ祖父は一目惚れしたみたいですけど。子供にはなかなか恵まれなくて、母が生まれてそれほどしないうちに病気で亡くなったそうです」
「お母様もとてもお綺麗な人ですもんね」
「祖父はなかなか強面なので、婚礼の写真はかなり美女と野獣でしたよ」

 ゆきは目雲がこれほど家族のことに詳しいことそのものが家族の仲の良さを物語っているように思った。
 それだけ会話があり、いろんな話ができる間柄でなければ、祖父母の馴れ初めなんて知りようもないはずだから。

「資産家の一人娘だったってことですよね、駆け落ちするのは大変なことですね」
「そうでもしないと結婚できなかったんでしょうね、昭和の後期なのでそれより以前とはまた違うとは思いますけど、バブルとかその辺りだと状況がどうなのか」
「好景気と不況の狭間ですから、経済に精通していると世間の狂喜乱舞とその後の混乱が見えて余計心配だったのかもしれないですね、ご令嬢としての立場というより娘の将来を心配して芸術家との結婚には賛成できなかった親心でしょうか」

 一般家庭でも不安定な職業な相手との結婚は賛成ばかりではないだろうと、二人で腑に落ちる。

「だから祖父さんはさっさと折れたのか。面子とかで動く人ではなかったから、不確定な要素に振り回されるより自分で動いて利を取ったんだろうな」
「本当に真実の意味で賢い方だったんですね。真理を見ていると言えば良いのか」

 目雲は生前の祖父を思い出し、パワフルで多くのことに造詣が深く、いくらでも話をしていられた尊敬できる人物を、ゆきにも知ってもらいたくなる。

「かなりバランス感覚が優れていたのは間違いないと思います。いくつか事業もしてましたが、生まれからして歴史ある資産家の家でそれを運用してさらに大きくした手腕と損切りの判断も躊躇わない判断力と、それでいて情も持ち合わせていて、あと恐い顔に似合わず繊細な芸術も愛していた人です」

 目雲がどこか誇らしげにそこまでいう人物に自然と畏敬の念を抱く。

「素晴らしい人ですね、是非お会いしてみたかったです」
「僕もゆきさんを会わせたかった。きっと祖父も喜んでくれたとも思いますし、ゆきさんも面白い話をたくさん聞けたはずです」

 ゆきの好奇心をくすぐる話をいくらでも持っていただろうと思うと目雲は本当に悔やまれた。本の中でゆきが触れているであろう昭和の時代の生の話にゆきが食いつかないはずがないと容易に想像がつく。

 どうしてなんでと、終りが来ることが仕方ないと理解して尚、割り切れなかったその死を、また思い出す。ただ同時にその後誰とも祖父との思い出話をしていなかったことも思い至る。亡くなった頃にはもうすでに両親との仲は険悪になっており、兄弟ともそのことに触れても触れなくとも長く会話は続かず、更に残されていた遺産のせいでそれが話題に上がることが多くなる。そして当然親戚はその話しかしない。全てが目雲にとっては煩わしいばかりで、祖父の死を悼むことだけを純粋にできる時間はなかった。

 それがゆきに会わせたかったと思うことで、改めて祖父を思い出し、そしてやっとまともに悼み、そして偲ぶことができると感じた。
 目雲はゆきに祖父が語った話を代わりに話して聞かせる。キラキラとした瞳でそれに聞き入る姿にまた一つ胸の霧が晴れていくようだった。

 いくらでも聞いていたいと思ったゆきも目雲にそれほどまでに言わしめる人物にとても興味が湧いたが、それと同時に目雲の父の印象もまた向上する。

「そのおじい様を納得させたということはお父様も相当素晴らしい方ですね」
「芸術の良し悪しは僕にはよく分かりませんが、祖父は評価してましたし高く売れるくらいには価値があるものを生み出してるようですけど、それ以外はいたって普通ですね。穏やかな人柄とは言えますが、母の方がインパクトがあるので影は薄めですよ」

 ここに来て身内の辛辣さを表す目雲に思わず笑ってしまいながら、ゆきはピンとこない話に首を傾げる。

「お母様ですか?」
「あの時はほとんど黙って座っていましたが、動けば必ず何かしら起こします。それに黙って座ってるのだって本当は違和感があって良いんですよ、正月の挨拶で息子に彼女を連れて来させてるのに、何をするでもなくただ座って話聞いてるだけというのは本来不可思議な行動です」
「そうするように言われていたからではないんですか?」

 ゆきは目雲が言い聞かせているというようなことを言っていたから何も不思議に感じなかった。

「あまり何も言うなと忠告してありましたけど、母は昔からああいう場面では率先して何かすることはありません。もてなすと言うのは歓談することであって、手ずから何かするという発想が薄いんです。会を主催し不手際ないように事前に準備して、本番はそれを振る舞い招待客の相手をする。だから準備はいろいろしてくれますが、それも主に手配すると言った感じです」

 ゆきはそれにも目の輝きを変える。

「おぉ、真のお嬢様ですね」
「それに何かさせるとこちらの仕事が増えるのでただ座っててもらった方がいいという現実もあります」
「なんとなく想像できます、家事ができないということの推測ですけど」

 ゆきの母もテンションを上げ過ぎるとやらかす人種なので他人事だとはとても思えなかった。

「その推測で間違いないと思います、過去に数々壊したり汚したりしてるので、母はあれがベストな対応です。でも普通ではないですよね、父や兄にいろいろさせているだけに見えていたと思います」

 そういう目雲にゆきはクスクスと笑う。

「ゆきさん?」
「目雲さんも一緒だなと思って」
「僕ですか? そんなことなかった思いますけど」
「あの日のことではなくて、日頃私に対してそうだなって、お手本はお父様とお兄様なんですね」

 言われ自身の行動を振り返るととても否定できない目雲だった。

「……言われて気が付きました」
「お父様も確かにそうでしたし、お兄様はお母様にも奥様にもお子さんにもいろいろと気を配ってらしたので、並外れた視野を持って配慮ができる方で驚きました」

 ゆきの言葉の人物をそのまま想像した目雲は辟易した表情になった。

「気疲れが酷そうですね」
「そうかもしれないですね、ご本人が無理されてなければいいですが、あの場面だけ見たら汐織さんが少し心配しているかもしれませんね」
「あの兄のそれに気付けるゆきさんが珍しいんです、誰も大翔が気疲れしそうなんて雰囲気感じません」
「雰囲気は全然出てませんでしたよ、ただ痒い所に手が届くと言いますか、そういうさり気無い心配りで、本当に見習いたいなと」
「子供の頃からですから、それなりに息抜きできるはずですよ。結局性分なんでしょう」

 幾分突き放したような言い方にゆきはクスリと笑ってしまう。

「目雲さんもお兄さんには痛烈ですね」
「そうですか?」

 今まで話さなかったせいで、口にするとそういう印象になってしまうのかもしれないと目雲は思い至るが、ゆきはそこに身内の親しみを感じてもいた。

「お父様のお母様に対する雰囲気はずっと変わらず?」
「思い返せばずっとそうですね、子供の頃はそれが当たり前でしたけど中高でどの家庭もそうではないと悟りました。目の前であからさまなことはなかったですが、父の優先はいつでも母でしたから」

 仲が良いとは思っていたが、他所の家ではそうでもないことも多いと知ってからは、目雲はきちんと世間一般の感覚も身につけた。決して両親を否定するわけではなくて、夫婦仲が良いことが当たり前ではないと認識したのだ。
 ゆきも自分の両親の仲の良さを理解しているので、目雲の両親もそうであって嬉しかった。

「素敵なご夫婦です」
「……否定はできません」
「はい」

 目雲も自分と相容れない存在になっていた両親でも夫婦仲を疑うことはなく、父親のあの様子を見てさらに納得した。



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