18 / 25
第二章
第五話
しおりを挟む
あの日から音瑠の瞳が艶っぽくなり、その視線が煩わしかった。
ただ私もそれに当てられてか、ことあるごとに彼女の指を借りた。時には彼女の仕事を中断させることもあった。
これは自慰行為でしかない。それに彼女に私の下着を汚されるよりマシだ。私はそう自分に言い聞かせた。
そんな生活になって、三日ほど経った。
私はいつも通り遅めの朝食を食べていた。
「昨日も話したけど、展示の打ち合わせで東京の方に行くんだけど、留守にするけど平気? 夕方には戻れるようにするけど」
「別に」
彼女が外出することは知っていた。そのため昼食を作り置きしておくと言っていた。温め直すのも面倒なので外食にしようかと思っていたが。
「私も行く」
「え?」
「打ち合わせじゃなくて、東京に。近くに博物館か美術館ある? 音瑠の打ち合わせが終わるまで一人で見てる」
「あるけど、平気?」
「何かあったら連絡する」
音瑠とは現地で別行動なら気晴らしになりそうだった。何かあった時は音瑠に回収してもらえばいい。
一人で遠くに外出することに不安があったが、かといって音瑠と二人で出かけるのも嫌だった。
* * *
平日の日中の電車内は空いていた。私は距離をとりたかったが、それも変な感じなので、仕方なく隣り合って座る。
アトリエから打ち合わせ場所まではバスと電車を乗り継いで二時間ほどかかる。音瑠がタクシーで行こうとしたのは全力で阻止した。
音瑠は淡いピンクのキャミソールに、ネイビーのジャケットにパンツスタイル。肩に大きめの鞄を提げていた。中には印刷した資料や電子タブレットが入っているようだ。いつもより堅い雰囲気だった。
対して私はいつものジャージ。
音瑠の鞄に、二匹の猫のキーホルダーがついていた。黒猫とベンガル猫のぬいぐるみ。彼女はまだあの連作を描いているのだろうか。ふと気になったが、話題が広がっても嫌なので私は気づかないふりをした。
「展示と会場の運営は先方がやってくれるから、私は作品を貸し出すだけなんだけど。一応、展示方法や打ち合わせもしたくて」
「そう。頑張って」
「うん」
私の気のない返事にも彼女は嬉しそうだった。
私たちは駅の改札を抜けると方向は別々だった。
「本当に、無理しないでね。何かあったらすぐ連絡して」
「分かったから」
音瑠の過保護は相変わらず鬱陶しいが、あまりにも真剣な顔で言われるとなんだか笑えてきた。
私は駅から美術館に向かう。
美術館は広大な公園の敷地内にある。
公園に入ると、植えられた木々の緑が目に入った。春を過ぎ、梅雨を前にして、新緑が色づいていた。
そういえば小夜子と来たな──ふと私は彼女のことを思い出した。
大学二年の時、夏前だったか、提出課題のために彼女と来た。その時、あの日以来会うこともなかった音瑠と再会した。
その音瑠と今は一緒にいて小夜子がいない。
何か皮肉に感じられた。
* * *
西塚小夜子と出会ったのは、大学が始まってすぐのオリエンテーションだった。私たちの専攻のオリエンテーションでは、大学生活や講義の履修、卒業に必要な単位や論文の説明と、学生同士の交流を目的に一泊二日の研修合宿が行われた。
そこで私は小夜子と同室だった。学籍番号順に部屋割りがされており、ちょうど小夜子と私を境目に、推薦入試組と一般入試組に分かれていることが分かった。
小夜子は細身なところとか、久我先輩に似ている。そう思うよりも、前にどこかで会ったような、懐かしさを感じた。
星凛が生まれる前、母の再婚で引っ越して、それから今の場所に住んでいる。その前に、私は小夜子に会ったことがあるのではないか、そんな気がした。ただそんな子供の頃のこと、記憶も曖昧で、誰の顔も名前も浮かんでこなかった。
小夜子のことを思い出せたのは、初めてキスした時だった。私は昔、彼女とキスしたことがある、そう思い出した。ただそれは勘違いかもしれないし、私の甘い感傷かもしれない。
とにかく大学一年のオリエンテーションで出会った時から、私は彼女を目で追いかけ、気づかれないように目を伏せた。
私は音瑠とのことから、誰かと関わることが前以上に怖かった。そんな私にも、小夜子は気にした様子もなく、他の人に接するのと同じ態度で接してくれた。たまたま一緒になった講義で、隣同士で座ったり、お昼を一緒に食べたり、少しずつ私の緊張も和らいでいった。
大学二年の時、博物館か美術館に行ってレポートを提出する課題があった。小夜子は特別な意味などなく私を誘ってくれた。
「蛍野さん、一緒に行こうよ」
「いいけど……」
「私、全然詳しくないからさ、どこかおすすめない?」
「博物館でもいい? 気になる展示があって。けっこう並ぶかもしれないけど平気?」
「いいよ! 一人で並ぶときついけど、二人なら余裕でしょ」
その授業には他にも同じ専攻の学生がいたが、二人きりなことが分かって安心したのと、少しだけ嬉しかった。小夜子は私が大人数──とはいかないまでも、三人以上──が苦手なことを察してくれているようで、だいたいの誘いは二人きりだった。
彼女は気づいてくれる人だと思っていた。だから、気づいてくれているはずなのに、そう思ってしまったから、私は彼女のことを信じられなくなった。怖くなった。
そして当日、駅から博物館に向かう途中、四年ぶりに音瑠と再会した。彼女の在籍する大学のキャンパスが近くにあること、その可能性を失念していた。
動揺する私に、音瑠が鋭い言葉を投げかけた。
私が女性を好きなことを小夜子に知られ、彼女から嫌悪感を向けられるのではないか、また私は孤立していじめられるのではないか、そう思うと、あの頃の感情と光景が私の中に蘇った。真っ暗な水の底に沈められるような、恐ろしい気持ちになった。
その私を、弱さをすべて曝け出した私を、小夜子は強く抱きしめてくれた。私はその時、彼女に恋をした。
それからも彼女は変わらずに私と接してくれた。前と変わったのは私だった。
もう一度彼女の手に、腕に抱き締められたい。彼女の指先を目で追うようになった。そして大学三年の夏、バイトで貯めたお金で、二人で旅行をすることになった。
私は古代美術史のゼミだった。卒論に関するフィールドワークも兼ねて、もともと旅行をしようと思っていた。小夜子にその話をしたところ、彼女も興味を示して一緒に行くことになった。
私の卒業論文のテーマ──
「古代日本人は、魏志倭人伝や日本書紀の記述から、顔や体に刺青を入れていたと考えられるの。土偶と埴輪は作られた年代は、千年近く隔たっているんだけどね、それぞれ刺青を思わせる線が刻まれているものがあって、もしかしたら同じ風習を継承した、同じ民族が担っていた可能性があるの。そのことを卒論にしようと思っているんだ」
旅行先に長野を選んだのは、縄文時代の信仰や祭祀がまだ残っている、とされるものがあるからだった。
「へぇ、なんかすごいね。てか南帆って縄文顔だよね。顔が丸くて目が大きいから」
「小夜子は弥生顔というよりも、古墳顔かな?」
「そんなのあるの?」
「日本人は縄文系と弥生系の二重構造だと思われていたんだけど、古墳人を加えた三重構造だってことが最近分かったんだ」
「結構いろいろ混ざっているんだ」
「奈良時代にはシルクロードを渡って、日本にペルシャ人が来てたんだよ。ペルシャは今のイランのことね。インドより西にあるよ」
小夜子は地理や歴史に弱いので、ところどころ補足を添える。そもそも彼女は中学高校レベルの知識も怪しい。ただ漫画には詳しくて、マニアックな知識、妖怪だとか超能力だとか、格闘技については私より知っていた。
「あと、アジアって言葉の語源は、今から三千年以上前、古代メソポタミアで使われていたアッシリア語で、東や日の出を意味する『アス』、もしくは『アスワ』が由来とされているんだけど。奈良に飛鳥って地名があるし、日本語で明日のことを『あす』って言うよね。日が上るのは東だし、明日は東から来るから。そう考えるとなんかつながりがありそうな気がするんだ。もしかしたらアッシリア人も日本に来てたかも。私たちが思っている以上に、昔の人は自由に世界を旅してたんじゃないかな、って思うんだ」
「え、それすごくない? 飛行機も車もない時代でしょ。歩いて日本に来たってことでしょ? てかメソポタミアってどこだっけ?」
「中東の方だよ。今のイラクがある場所。トルコの東南の方で、アラビア半島の北側にあるよ」
「全然分からない。地球儀ない?」
「地図アプリで見られるんじゃない?」
小夜子は私が蘊蓄を話すと、分からなくても楽しそうに聞いてくれる。聞き返してくれる。こんなにたくさんのことを話せる相手が初めてで、私は嬉しかった。
もっと彼女といろんなことを話したい。私のことを話したい。彼女のことを聞かせてほしい。どんなことが好きで、どんなことをすれば喜んでくれるのか。
私は小夜子が笑ってくれると、嬉しかった。彼女の笑顔をずっとそばで見ていたい。彼女のずっとそばにいられる、そんな存在になりたいと思ってしまった。
旅の終わりに、私は告白した。彼女はもう一度私を抱きしめてくれた。その日初めて、私たちは体を重ね合った。
私は生まれて初めて、心から幸せだと思えた。
* * *
もう小夜子に会えないのだろうか。彼女は今どうしているのだろうか。もし彼女と会ったとして、その先に待つのが破滅と知って、もう一度彼女に恋をするのだろうか。
そんな取り留めもなく、仕方がないことを考えてしまうのは、やはり私の頭がおかしくなってしまったからだろうか。
気分が悪くなり、近くのベンチに私は座る。駅からそんなに距離もないのに、もう力尽きてしまった。
音瑠の打ち合わせは、二時間程度で終わると言っていたが、先に帰ってしまおうか。
それでも、せっかくここまで来たのだから。私はそう思い直して、気怠い体を立たせた。
少し歩くと、向かいから車椅子に乗った女性と、それを押す女性が来た。車椅子の女性は、白のワンピースにピンクのボレロ。後ろを振り向いて、もう一人と何か楽しげに話しているようだった。彼女を見た時、違和感から、私は視線を外せなくなった。ワンピースの裾から先に、あるはずの膝から先がなかった。袖に隠れた腕も不自然に、途中から形を失っている。彼女には手足がない。そのことに気づき、失礼にならないよう視線を外そうとした時、車椅子の女性が顔を前に戻した。
ほとんどすれ違う瞬間だった。横目に彼女の顔が見えた。それに私は立ち止まる。
「小夜子?」
私は急いで振り返った。
「小夜子!」
背中を向けて去っていく、車椅子を押す女性の背中に向かって叫んだ。その影で、車椅子に乗った女性が声を上げた。
「待って! アンナ、車椅子止めて!」
車椅子が止まる。
私の心臓が強く脈打つ。突然高まった血流と圧力に、頭に締め付けられるような痛みが走った。
「南帆? 南帆なの?」
車椅子がゆっくりと向き直る。私より低い目線から、彼女は私を見ていた。黒目がちの目を見開いて、驚いたような顔をしていた。
「小夜子、なの……」
私はその彼女にどんな顔をしていたか分からない。目の前の光景が信じられなかった。
小夜子の顔に、すぐに微笑みが浮かんだ。
「南帆。久しぶり。元気だった?」
私はなんて答えたらいいのだろうか。
「……小夜子、何があったの?」
別れてから二ヶ月ほどしか経っていないのに。いや、それは私の中にある妄想だ。彼女と会うのは大学三年の夏以来だった。その間に、いったい彼女の身に何が起きたのか。
「事故に遭ったんだ」
「いつ?」
「大学三年の時」
「全然知らなかった」
「連絡できなくてごめん。事故のショックで、一時的に記憶喪失になっていたみたい。記憶が戻ったのは最近なんだ」
「そんなことになっていたんだ……」
車椅子を押していた女性が、小夜子の耳元に顔を寄せた。
「サヨちゃん、もう行こう」
そこで私は彼女の存在を改めて認識した。
長いブラウンの髪の、美しい女性だった。その彼女が、冷淡な顔で私を見た。それに私は背筋に冷たいものを感じ、全身に鳥肌が立った気がした。
彼女はつるりとした卵のような輪郭に、鼻梁の通った細い鼻、薄い唇。私を睨むように向けられた大きな目からは、冷血な捕食者の無慈悲さが感じられた。彼女を見た私の第一印象は、蛇のような女だった。その彼女が、四肢をもがれた小夜子の車椅子を押している。それは丸呑みにされた獲物が消化されていく過程のように感じられた。
「ごめん、アンナ。もう少し話がしたい」
アンナと呼ばれた美女は、小夜子に見えない後ろで、目を見開き、下唇を噛んでいた。こんな剥き出しの敵意と憎悪を向けられたのは初めてだった。
「南帆は、今どうしているの? 少しやつれたけど、無理してない?」
「病気で、この間まで入院してた」
それに小夜子は驚いた顔をした。
「何があったの⁉︎」
彼女から気遣いを向けられて、私は面食らった。いや、これが普通の反応なのだろう。私の中の小夜子だったら、「そうなんだ」ぐらいにしか返してくれないと思っていた。
「悪性腫瘍、いわゆるガンの手術で、先週まで入院してたの」
「どうしてそんなことに⁉︎ 知らなかった……相談してくれればよかったのに……」
私はおかしくて、思わず少し笑ってしまった。
五年も音信不通だったのに、どうやって相談すればいいのか。むしろ彼女こそ私に相談か何かしてほしいぐらいだった。
ただ彼女から真心を向けられたのは嬉しかった。
「もう病気は平気なの?」
「まだ通院と薬を飲む必要があるけど。私は平気。ただ手術で取り除いたけど、再発のリスクがあるから、復職するかどうかは悩んでる」
「学芸員になるの南帆の夢だったのに。残念だね……」
「それより小夜子、今どうしているの? どこに住んでいるの?」
「サヨちゃん、もう行こうよ」
苛立った様子でアンナが言う。
「分かった。ごめん、南帆。またね」
小夜子が微笑む。
私はもう二度と小夜子に会えないような気がした。
「小夜子、連絡先教えてよ。前のまま?」
「あー、どうだろう」
小夜子は後ろのアンナを仰ぎ見る。それに彼女は、小夜子にぎこちない微笑みを向ける。
「私のってもう解約しちゃったよね? どうしよう」
「私の連絡先でいいかな。何かあれば私がサヨちゃんに伝えて、代わりに返事をするから」
それに小夜子も微笑む。
「ありがとう。ごめんね」
「いいの。気にしないで」
この二人のただならぬ間柄に、私は、小夜子に恋人がいたことを思い出した。大学二年の時に打ち明けられた、女性の恋人がいること。
私は胸がざわついた。私は大学三年の夏から小夜子と交際し、つい二ヶ月前に別れた。しかしこの世界の小夜子は、大学三年の夏に私の前から消えて、まったく違う人生を送っていた。
胸が引き裂かれそうになった。
こうして彼女と再会した以上、私が彼女と交際していたという記憶は妄想で幻覚だったのか。
アンナがスマートフォンを起動して、連絡先のコードを表示する。それをスキャン画面に切り替えた。
「私が読み込むね」
それに私は我に返った。
「私が読み込んで、あとで連絡します」
彼女に読み込んでもらった場合、何も連絡してくれない気がした。
その直感は当たっていたと思う。小夜子に見えないところで、アンナの美貌から一切の感情が消えた。無表情。まるで作り物の仮面のような顔。ただその大きな目からは、射るような眼光が放たれていた。何か憎しみのような、殺意さえも感じた。
私はこのアンナという女性に会った覚えが、どちらの記憶にもない。どうしてこんなにも敵意を向けられるのか分からなかった。
とにかく私は彼女の連絡先を読み込む。
真っ黒な無地のアイコンに、『ANZU』という名前のアカウントだった。
小夜子はアンナと呼んでいることから、本名は一文字目に『杏』がつくのだろうか。
「よろしくね。南帆ちゃん」
彼女に名前を呼ばれ、私はぞっとした。優しげな声音に反して、捕食者が身動きの取れない獲物に対して、嘲笑うような、なぶるような響きがあった。
こんな女性と一緒で、小夜子は大丈夫なのだろうか。このまま彼女を見送っていいのだろうか。その美しい容姿に反して、蛇のような冷酷さと、肉食獣のような獰猛さが滲み出ていた。
私たちが連絡先を交換している様子を見届けて小夜子が言う。
「それじゃ、南帆。またね」
「うん……」
いつも見上げていた彼女を、見下ろすのは変な気分だった。
アンナが小夜子の車椅子を再び押す。
「またね、南帆ちゃん。連絡待ってるね。今度ゆっくり三人でお茶しよう」
彼女が心にもないことを言っているのが分かった。
私は追いかけたい気持ちがあった。しかし今の小夜子に、いったい私が何をしてあげられるというのか。私は去っていく背中を見送ることしかできなかった。
* * *
帰りの電車では、私は疲れ果て、不覚にも音瑠の肩で眠ってしまった。
帰宅後、私は食欲がなく、風呂に入るのも億劫だった。
「なんか疲れた。もう寝る」
「分かった。夜食、作り置きしておくから、お腹空いたら食べてね」
「うん」
私は着替えもせずに、二階へ向かう。
「南帆ちゃん、何かあった?」
「え?」
階段を上り始めたところで、音瑠から声をかけられた。
「体調悪いの?」
「別に、平気」
「そう……」
私は再び背を向けて階段を上り、寝室に入る。部屋の明かりもつけず、そのままベッドに体を投げた。
今日あったこと、小夜子のことが頭から離れない。私の中でどう処理すればいいか分からなかった。
私はアンナにメッセージを送った。
『蛍野南帆です。小夜子の大学の同期です。よろしくお願いします』
しかし一向に返信も、既読にさえならなかった。このまま何の返信もないかもしれない。やはりあの時、無理にでも追いかけるべきだったか。
ただ追いかけたとして、彼女の近況を知ったとして、私に何ができるだろうか。とにかくまた明日改めて連絡するしかない。
それにアンナという女性。彼女が小夜子の言っていた恋人なのだろうか。
「小夜子の恋人ってどんな人?」
一度だけ聞いたことがあるのを思い出した。大学二年の時だったか。音瑠と遭遇した後のことだった。
私の質問に小夜子がはにかんだように微笑んだ。
「うーん、すごい頭と、顔がいい。意外と束縛きついけど」
中身が感じられなかったので、もしかしたらまだ私にもチャンスがあるのではないか、そんなことを思った。
今日会ったのがその頃と同じ恋人かは分からないが、事故にあったのが大学三年の時なら、当時まだ同じ人と交際していたはず。
アンナが手足を失った彼女を、ずっと支え続けていると思うと、そんなに悪い人には思えなかったが。私に向けられた視線や、表情から、何か底知れぬ意地の悪さが感じられた。
ふと、私は想像してしまう。
今頃、小夜子は彼女に身を任せているのだろうか。アンナと呼ばれた美しい女性、彼女の肢体に巻きつかれ、手も足も出ない小夜子の姿が浮かび上がってきた。
彼女は、きっと蛇のように赤く長い舌を持っているに違いない。舌先は二つに分かれているかもしれない。今頃、蛇のような舌で、小夜子の唇を凌辱しているのだろう。そして彼女は小夜子の首から胸にかけて舐め回し、その薄い胸にある小さな乳首を絡め取る。それに小夜子は切なく声を上げる。その哀切は夜の闇に吸い込まれて誰にも届かない。
アンナは小夜子の下腹部へと進んでいく。赤い舌が、小夜子の閉ざされた花弁を探り当てると、その花床へと分け入る。そこは蜜に濡れていた。
「ああ、クソっ……」
私は無意識に下着に指を入れていた。音瑠のベッドの上で、小夜子とアンナの性行為を想像し、自慰している。いったい私は何をしているのだろうか。
私は小夜子とアンナのことを考えると、心がバラバラになりそうになった。小夜子と私は別れた。それに今の世界で私たちは恋人だったこともない。今の小夜子はあの女のものだ。
もしも小夜子といることを、最期まで一緒にいることを望んでいたら違っていたのだろうか。もう存在しない過去だけれど。
小夜子の体が、あの女の手で、舌で乱れる妄想から私は逃げられない。その妄想を掻き消すために、私の芋虫の指で、私の体に触れても満たされることはなかった。
音瑠を呼びつけようか。いや、やめよう。今は一人でいたい。
音瑠の指を見たら、もうどこにもない小夜子の指を思い出してしまいそうだった。
* * *
翌朝、アンナからの返信がないか確認した。
返信がなければ、もう一度私から連絡をしようと思っていた。
しかしそこには、返信がないどころか、私が彼女に送信したメッセージ自体がなくなっていた。
何が起きたのか──
登録したアカウントのリストの中にも『ANZU』はいなかった。
彼女がアカウントを削除したり、私をブロックしたとしても、履歴まで消えたりしないはず。
私は背筋に冷たいものを感じた。
小夜子と再会したこと自体が妄想だったのだろうか。
私のガンは脳にまで転移していて、現実と妄想の区別がつかなくなってしまったのか。
あのイスカのことだって、そう考えたら納得がいく。
イスカの違和感と、今私の身に起きていることが、同じ理由によるもののように思えた。
ただ私もそれに当てられてか、ことあるごとに彼女の指を借りた。時には彼女の仕事を中断させることもあった。
これは自慰行為でしかない。それに彼女に私の下着を汚されるよりマシだ。私はそう自分に言い聞かせた。
そんな生活になって、三日ほど経った。
私はいつも通り遅めの朝食を食べていた。
「昨日も話したけど、展示の打ち合わせで東京の方に行くんだけど、留守にするけど平気? 夕方には戻れるようにするけど」
「別に」
彼女が外出することは知っていた。そのため昼食を作り置きしておくと言っていた。温め直すのも面倒なので外食にしようかと思っていたが。
「私も行く」
「え?」
「打ち合わせじゃなくて、東京に。近くに博物館か美術館ある? 音瑠の打ち合わせが終わるまで一人で見てる」
「あるけど、平気?」
「何かあったら連絡する」
音瑠とは現地で別行動なら気晴らしになりそうだった。何かあった時は音瑠に回収してもらえばいい。
一人で遠くに外出することに不安があったが、かといって音瑠と二人で出かけるのも嫌だった。
* * *
平日の日中の電車内は空いていた。私は距離をとりたかったが、それも変な感じなので、仕方なく隣り合って座る。
アトリエから打ち合わせ場所まではバスと電車を乗り継いで二時間ほどかかる。音瑠がタクシーで行こうとしたのは全力で阻止した。
音瑠は淡いピンクのキャミソールに、ネイビーのジャケットにパンツスタイル。肩に大きめの鞄を提げていた。中には印刷した資料や電子タブレットが入っているようだ。いつもより堅い雰囲気だった。
対して私はいつものジャージ。
音瑠の鞄に、二匹の猫のキーホルダーがついていた。黒猫とベンガル猫のぬいぐるみ。彼女はまだあの連作を描いているのだろうか。ふと気になったが、話題が広がっても嫌なので私は気づかないふりをした。
「展示と会場の運営は先方がやってくれるから、私は作品を貸し出すだけなんだけど。一応、展示方法や打ち合わせもしたくて」
「そう。頑張って」
「うん」
私の気のない返事にも彼女は嬉しそうだった。
私たちは駅の改札を抜けると方向は別々だった。
「本当に、無理しないでね。何かあったらすぐ連絡して」
「分かったから」
音瑠の過保護は相変わらず鬱陶しいが、あまりにも真剣な顔で言われるとなんだか笑えてきた。
私は駅から美術館に向かう。
美術館は広大な公園の敷地内にある。
公園に入ると、植えられた木々の緑が目に入った。春を過ぎ、梅雨を前にして、新緑が色づいていた。
そういえば小夜子と来たな──ふと私は彼女のことを思い出した。
大学二年の時、夏前だったか、提出課題のために彼女と来た。その時、あの日以来会うこともなかった音瑠と再会した。
その音瑠と今は一緒にいて小夜子がいない。
何か皮肉に感じられた。
* * *
西塚小夜子と出会ったのは、大学が始まってすぐのオリエンテーションだった。私たちの専攻のオリエンテーションでは、大学生活や講義の履修、卒業に必要な単位や論文の説明と、学生同士の交流を目的に一泊二日の研修合宿が行われた。
そこで私は小夜子と同室だった。学籍番号順に部屋割りがされており、ちょうど小夜子と私を境目に、推薦入試組と一般入試組に分かれていることが分かった。
小夜子は細身なところとか、久我先輩に似ている。そう思うよりも、前にどこかで会ったような、懐かしさを感じた。
星凛が生まれる前、母の再婚で引っ越して、それから今の場所に住んでいる。その前に、私は小夜子に会ったことがあるのではないか、そんな気がした。ただそんな子供の頃のこと、記憶も曖昧で、誰の顔も名前も浮かんでこなかった。
小夜子のことを思い出せたのは、初めてキスした時だった。私は昔、彼女とキスしたことがある、そう思い出した。ただそれは勘違いかもしれないし、私の甘い感傷かもしれない。
とにかく大学一年のオリエンテーションで出会った時から、私は彼女を目で追いかけ、気づかれないように目を伏せた。
私は音瑠とのことから、誰かと関わることが前以上に怖かった。そんな私にも、小夜子は気にした様子もなく、他の人に接するのと同じ態度で接してくれた。たまたま一緒になった講義で、隣同士で座ったり、お昼を一緒に食べたり、少しずつ私の緊張も和らいでいった。
大学二年の時、博物館か美術館に行ってレポートを提出する課題があった。小夜子は特別な意味などなく私を誘ってくれた。
「蛍野さん、一緒に行こうよ」
「いいけど……」
「私、全然詳しくないからさ、どこかおすすめない?」
「博物館でもいい? 気になる展示があって。けっこう並ぶかもしれないけど平気?」
「いいよ! 一人で並ぶときついけど、二人なら余裕でしょ」
その授業には他にも同じ専攻の学生がいたが、二人きりなことが分かって安心したのと、少しだけ嬉しかった。小夜子は私が大人数──とはいかないまでも、三人以上──が苦手なことを察してくれているようで、だいたいの誘いは二人きりだった。
彼女は気づいてくれる人だと思っていた。だから、気づいてくれているはずなのに、そう思ってしまったから、私は彼女のことを信じられなくなった。怖くなった。
そして当日、駅から博物館に向かう途中、四年ぶりに音瑠と再会した。彼女の在籍する大学のキャンパスが近くにあること、その可能性を失念していた。
動揺する私に、音瑠が鋭い言葉を投げかけた。
私が女性を好きなことを小夜子に知られ、彼女から嫌悪感を向けられるのではないか、また私は孤立していじめられるのではないか、そう思うと、あの頃の感情と光景が私の中に蘇った。真っ暗な水の底に沈められるような、恐ろしい気持ちになった。
その私を、弱さをすべて曝け出した私を、小夜子は強く抱きしめてくれた。私はその時、彼女に恋をした。
それからも彼女は変わらずに私と接してくれた。前と変わったのは私だった。
もう一度彼女の手に、腕に抱き締められたい。彼女の指先を目で追うようになった。そして大学三年の夏、バイトで貯めたお金で、二人で旅行をすることになった。
私は古代美術史のゼミだった。卒論に関するフィールドワークも兼ねて、もともと旅行をしようと思っていた。小夜子にその話をしたところ、彼女も興味を示して一緒に行くことになった。
私の卒業論文のテーマ──
「古代日本人は、魏志倭人伝や日本書紀の記述から、顔や体に刺青を入れていたと考えられるの。土偶と埴輪は作られた年代は、千年近く隔たっているんだけどね、それぞれ刺青を思わせる線が刻まれているものがあって、もしかしたら同じ風習を継承した、同じ民族が担っていた可能性があるの。そのことを卒論にしようと思っているんだ」
旅行先に長野を選んだのは、縄文時代の信仰や祭祀がまだ残っている、とされるものがあるからだった。
「へぇ、なんかすごいね。てか南帆って縄文顔だよね。顔が丸くて目が大きいから」
「小夜子は弥生顔というよりも、古墳顔かな?」
「そんなのあるの?」
「日本人は縄文系と弥生系の二重構造だと思われていたんだけど、古墳人を加えた三重構造だってことが最近分かったんだ」
「結構いろいろ混ざっているんだ」
「奈良時代にはシルクロードを渡って、日本にペルシャ人が来てたんだよ。ペルシャは今のイランのことね。インドより西にあるよ」
小夜子は地理や歴史に弱いので、ところどころ補足を添える。そもそも彼女は中学高校レベルの知識も怪しい。ただ漫画には詳しくて、マニアックな知識、妖怪だとか超能力だとか、格闘技については私より知っていた。
「あと、アジアって言葉の語源は、今から三千年以上前、古代メソポタミアで使われていたアッシリア語で、東や日の出を意味する『アス』、もしくは『アスワ』が由来とされているんだけど。奈良に飛鳥って地名があるし、日本語で明日のことを『あす』って言うよね。日が上るのは東だし、明日は東から来るから。そう考えるとなんかつながりがありそうな気がするんだ。もしかしたらアッシリア人も日本に来てたかも。私たちが思っている以上に、昔の人は自由に世界を旅してたんじゃないかな、って思うんだ」
「え、それすごくない? 飛行機も車もない時代でしょ。歩いて日本に来たってことでしょ? てかメソポタミアってどこだっけ?」
「中東の方だよ。今のイラクがある場所。トルコの東南の方で、アラビア半島の北側にあるよ」
「全然分からない。地球儀ない?」
「地図アプリで見られるんじゃない?」
小夜子は私が蘊蓄を話すと、分からなくても楽しそうに聞いてくれる。聞き返してくれる。こんなにたくさんのことを話せる相手が初めてで、私は嬉しかった。
もっと彼女といろんなことを話したい。私のことを話したい。彼女のことを聞かせてほしい。どんなことが好きで、どんなことをすれば喜んでくれるのか。
私は小夜子が笑ってくれると、嬉しかった。彼女の笑顔をずっとそばで見ていたい。彼女のずっとそばにいられる、そんな存在になりたいと思ってしまった。
旅の終わりに、私は告白した。彼女はもう一度私を抱きしめてくれた。その日初めて、私たちは体を重ね合った。
私は生まれて初めて、心から幸せだと思えた。
* * *
もう小夜子に会えないのだろうか。彼女は今どうしているのだろうか。もし彼女と会ったとして、その先に待つのが破滅と知って、もう一度彼女に恋をするのだろうか。
そんな取り留めもなく、仕方がないことを考えてしまうのは、やはり私の頭がおかしくなってしまったからだろうか。
気分が悪くなり、近くのベンチに私は座る。駅からそんなに距離もないのに、もう力尽きてしまった。
音瑠の打ち合わせは、二時間程度で終わると言っていたが、先に帰ってしまおうか。
それでも、せっかくここまで来たのだから。私はそう思い直して、気怠い体を立たせた。
少し歩くと、向かいから車椅子に乗った女性と、それを押す女性が来た。車椅子の女性は、白のワンピースにピンクのボレロ。後ろを振り向いて、もう一人と何か楽しげに話しているようだった。彼女を見た時、違和感から、私は視線を外せなくなった。ワンピースの裾から先に、あるはずの膝から先がなかった。袖に隠れた腕も不自然に、途中から形を失っている。彼女には手足がない。そのことに気づき、失礼にならないよう視線を外そうとした時、車椅子の女性が顔を前に戻した。
ほとんどすれ違う瞬間だった。横目に彼女の顔が見えた。それに私は立ち止まる。
「小夜子?」
私は急いで振り返った。
「小夜子!」
背中を向けて去っていく、車椅子を押す女性の背中に向かって叫んだ。その影で、車椅子に乗った女性が声を上げた。
「待って! アンナ、車椅子止めて!」
車椅子が止まる。
私の心臓が強く脈打つ。突然高まった血流と圧力に、頭に締め付けられるような痛みが走った。
「南帆? 南帆なの?」
車椅子がゆっくりと向き直る。私より低い目線から、彼女は私を見ていた。黒目がちの目を見開いて、驚いたような顔をしていた。
「小夜子、なの……」
私はその彼女にどんな顔をしていたか分からない。目の前の光景が信じられなかった。
小夜子の顔に、すぐに微笑みが浮かんだ。
「南帆。久しぶり。元気だった?」
私はなんて答えたらいいのだろうか。
「……小夜子、何があったの?」
別れてから二ヶ月ほどしか経っていないのに。いや、それは私の中にある妄想だ。彼女と会うのは大学三年の夏以来だった。その間に、いったい彼女の身に何が起きたのか。
「事故に遭ったんだ」
「いつ?」
「大学三年の時」
「全然知らなかった」
「連絡できなくてごめん。事故のショックで、一時的に記憶喪失になっていたみたい。記憶が戻ったのは最近なんだ」
「そんなことになっていたんだ……」
車椅子を押していた女性が、小夜子の耳元に顔を寄せた。
「サヨちゃん、もう行こう」
そこで私は彼女の存在を改めて認識した。
長いブラウンの髪の、美しい女性だった。その彼女が、冷淡な顔で私を見た。それに私は背筋に冷たいものを感じ、全身に鳥肌が立った気がした。
彼女はつるりとした卵のような輪郭に、鼻梁の通った細い鼻、薄い唇。私を睨むように向けられた大きな目からは、冷血な捕食者の無慈悲さが感じられた。彼女を見た私の第一印象は、蛇のような女だった。その彼女が、四肢をもがれた小夜子の車椅子を押している。それは丸呑みにされた獲物が消化されていく過程のように感じられた。
「ごめん、アンナ。もう少し話がしたい」
アンナと呼ばれた美女は、小夜子に見えない後ろで、目を見開き、下唇を噛んでいた。こんな剥き出しの敵意と憎悪を向けられたのは初めてだった。
「南帆は、今どうしているの? 少しやつれたけど、無理してない?」
「病気で、この間まで入院してた」
それに小夜子は驚いた顔をした。
「何があったの⁉︎」
彼女から気遣いを向けられて、私は面食らった。いや、これが普通の反応なのだろう。私の中の小夜子だったら、「そうなんだ」ぐらいにしか返してくれないと思っていた。
「悪性腫瘍、いわゆるガンの手術で、先週まで入院してたの」
「どうしてそんなことに⁉︎ 知らなかった……相談してくれればよかったのに……」
私はおかしくて、思わず少し笑ってしまった。
五年も音信不通だったのに、どうやって相談すればいいのか。むしろ彼女こそ私に相談か何かしてほしいぐらいだった。
ただ彼女から真心を向けられたのは嬉しかった。
「もう病気は平気なの?」
「まだ通院と薬を飲む必要があるけど。私は平気。ただ手術で取り除いたけど、再発のリスクがあるから、復職するかどうかは悩んでる」
「学芸員になるの南帆の夢だったのに。残念だね……」
「それより小夜子、今どうしているの? どこに住んでいるの?」
「サヨちゃん、もう行こうよ」
苛立った様子でアンナが言う。
「分かった。ごめん、南帆。またね」
小夜子が微笑む。
私はもう二度と小夜子に会えないような気がした。
「小夜子、連絡先教えてよ。前のまま?」
「あー、どうだろう」
小夜子は後ろのアンナを仰ぎ見る。それに彼女は、小夜子にぎこちない微笑みを向ける。
「私のってもう解約しちゃったよね? どうしよう」
「私の連絡先でいいかな。何かあれば私がサヨちゃんに伝えて、代わりに返事をするから」
それに小夜子も微笑む。
「ありがとう。ごめんね」
「いいの。気にしないで」
この二人のただならぬ間柄に、私は、小夜子に恋人がいたことを思い出した。大学二年の時に打ち明けられた、女性の恋人がいること。
私は胸がざわついた。私は大学三年の夏から小夜子と交際し、つい二ヶ月前に別れた。しかしこの世界の小夜子は、大学三年の夏に私の前から消えて、まったく違う人生を送っていた。
胸が引き裂かれそうになった。
こうして彼女と再会した以上、私が彼女と交際していたという記憶は妄想で幻覚だったのか。
アンナがスマートフォンを起動して、連絡先のコードを表示する。それをスキャン画面に切り替えた。
「私が読み込むね」
それに私は我に返った。
「私が読み込んで、あとで連絡します」
彼女に読み込んでもらった場合、何も連絡してくれない気がした。
その直感は当たっていたと思う。小夜子に見えないところで、アンナの美貌から一切の感情が消えた。無表情。まるで作り物の仮面のような顔。ただその大きな目からは、射るような眼光が放たれていた。何か憎しみのような、殺意さえも感じた。
私はこのアンナという女性に会った覚えが、どちらの記憶にもない。どうしてこんなにも敵意を向けられるのか分からなかった。
とにかく私は彼女の連絡先を読み込む。
真っ黒な無地のアイコンに、『ANZU』という名前のアカウントだった。
小夜子はアンナと呼んでいることから、本名は一文字目に『杏』がつくのだろうか。
「よろしくね。南帆ちゃん」
彼女に名前を呼ばれ、私はぞっとした。優しげな声音に反して、捕食者が身動きの取れない獲物に対して、嘲笑うような、なぶるような響きがあった。
こんな女性と一緒で、小夜子は大丈夫なのだろうか。このまま彼女を見送っていいのだろうか。その美しい容姿に反して、蛇のような冷酷さと、肉食獣のような獰猛さが滲み出ていた。
私たちが連絡先を交換している様子を見届けて小夜子が言う。
「それじゃ、南帆。またね」
「うん……」
いつも見上げていた彼女を、見下ろすのは変な気分だった。
アンナが小夜子の車椅子を再び押す。
「またね、南帆ちゃん。連絡待ってるね。今度ゆっくり三人でお茶しよう」
彼女が心にもないことを言っているのが分かった。
私は追いかけたい気持ちがあった。しかし今の小夜子に、いったい私が何をしてあげられるというのか。私は去っていく背中を見送ることしかできなかった。
* * *
帰りの電車では、私は疲れ果て、不覚にも音瑠の肩で眠ってしまった。
帰宅後、私は食欲がなく、風呂に入るのも億劫だった。
「なんか疲れた。もう寝る」
「分かった。夜食、作り置きしておくから、お腹空いたら食べてね」
「うん」
私は着替えもせずに、二階へ向かう。
「南帆ちゃん、何かあった?」
「え?」
階段を上り始めたところで、音瑠から声をかけられた。
「体調悪いの?」
「別に、平気」
「そう……」
私は再び背を向けて階段を上り、寝室に入る。部屋の明かりもつけず、そのままベッドに体を投げた。
今日あったこと、小夜子のことが頭から離れない。私の中でどう処理すればいいか分からなかった。
私はアンナにメッセージを送った。
『蛍野南帆です。小夜子の大学の同期です。よろしくお願いします』
しかし一向に返信も、既読にさえならなかった。このまま何の返信もないかもしれない。やはりあの時、無理にでも追いかけるべきだったか。
ただ追いかけたとして、彼女の近況を知ったとして、私に何ができるだろうか。とにかくまた明日改めて連絡するしかない。
それにアンナという女性。彼女が小夜子の言っていた恋人なのだろうか。
「小夜子の恋人ってどんな人?」
一度だけ聞いたことがあるのを思い出した。大学二年の時だったか。音瑠と遭遇した後のことだった。
私の質問に小夜子がはにかんだように微笑んだ。
「うーん、すごい頭と、顔がいい。意外と束縛きついけど」
中身が感じられなかったので、もしかしたらまだ私にもチャンスがあるのではないか、そんなことを思った。
今日会ったのがその頃と同じ恋人かは分からないが、事故にあったのが大学三年の時なら、当時まだ同じ人と交際していたはず。
アンナが手足を失った彼女を、ずっと支え続けていると思うと、そんなに悪い人には思えなかったが。私に向けられた視線や、表情から、何か底知れぬ意地の悪さが感じられた。
ふと、私は想像してしまう。
今頃、小夜子は彼女に身を任せているのだろうか。アンナと呼ばれた美しい女性、彼女の肢体に巻きつかれ、手も足も出ない小夜子の姿が浮かび上がってきた。
彼女は、きっと蛇のように赤く長い舌を持っているに違いない。舌先は二つに分かれているかもしれない。今頃、蛇のような舌で、小夜子の唇を凌辱しているのだろう。そして彼女は小夜子の首から胸にかけて舐め回し、その薄い胸にある小さな乳首を絡め取る。それに小夜子は切なく声を上げる。その哀切は夜の闇に吸い込まれて誰にも届かない。
アンナは小夜子の下腹部へと進んでいく。赤い舌が、小夜子の閉ざされた花弁を探り当てると、その花床へと分け入る。そこは蜜に濡れていた。
「ああ、クソっ……」
私は無意識に下着に指を入れていた。音瑠のベッドの上で、小夜子とアンナの性行為を想像し、自慰している。いったい私は何をしているのだろうか。
私は小夜子とアンナのことを考えると、心がバラバラになりそうになった。小夜子と私は別れた。それに今の世界で私たちは恋人だったこともない。今の小夜子はあの女のものだ。
もしも小夜子といることを、最期まで一緒にいることを望んでいたら違っていたのだろうか。もう存在しない過去だけれど。
小夜子の体が、あの女の手で、舌で乱れる妄想から私は逃げられない。その妄想を掻き消すために、私の芋虫の指で、私の体に触れても満たされることはなかった。
音瑠を呼びつけようか。いや、やめよう。今は一人でいたい。
音瑠の指を見たら、もうどこにもない小夜子の指を思い出してしまいそうだった。
* * *
翌朝、アンナからの返信がないか確認した。
返信がなければ、もう一度私から連絡をしようと思っていた。
しかしそこには、返信がないどころか、私が彼女に送信したメッセージ自体がなくなっていた。
何が起きたのか──
登録したアカウントのリストの中にも『ANZU』はいなかった。
彼女がアカウントを削除したり、私をブロックしたとしても、履歴まで消えたりしないはず。
私は背筋に冷たいものを感じた。
小夜子と再会したこと自体が妄想だったのだろうか。
私のガンは脳にまで転移していて、現実と妄想の区別がつかなくなってしまったのか。
あのイスカのことだって、そう考えたら納得がいく。
イスカの違和感と、今私の身に起きていることが、同じ理由によるもののように思えた。
20
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
【完結】【R18百合】会社のゆるふわ後輩女子に抱かれました
千鶴田ルト
恋愛
本編完結済み。細々と特別編を書いていくかもしれません。
レズビアンの月岡美波が起きると、会社の後輩女子の桜庭ハルナと共にベッドで寝ていた。
一体何があったのか? 桜庭ハルナはどういうつもりなのか? 月岡美波はどんな選択をするのか?
おすすめシチュエーション
・後輩に振り回される先輩
・先輩が大好きな後輩
続きは「会社のシゴデキ先輩女子と付き合っています」にて掲載しています。
だいぶ毛色が変わるのでシーズン2として別作品で登録することにしました。
読んでやってくれると幸いです。
「会社のシゴデキ先輩女子と付き合っています」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/759377035/615873195
※タイトル画像はAI生成です
【完結】【R18百合】女子寮ルームメイトに夜な夜なおっぱいを吸われています。
千鶴田ルト
恋愛
本編完結済み。細々と特別編を書いていくかもしれません。
風月学園女子寮。
私――舞鶴ミサが夜中に目を覚ますと、ルームメイトの藤咲ひなたが私の胸を…!
R-18ですが、いわゆる本番行為はなく、ひたすらおっぱいばかり攻めるガールズラブ小説です。
おすすめする人
・百合/GL/ガールズラブが好きな人
・ひたすらおっぱいを攻める描写が好きな人
・起きないように寝込みを襲うドキドキが好きな人
※タイトル画像はAI生成ですが、キャラクターデザインのイメージは合っています。
※私の小説に関しては誤字等あったら指摘してもらえると嬉しいです。(他の方の場合はわからないですが)
校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話
赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる