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第四章「古書店の尼僧」
エピローグ4「ヴァルダさんの正体」
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「あら、いらっしゃい。本当に貴方は、人がいないタイミングばかりを見計らってやって来るわね」
「ええ、僕は台場さんひと筋ですから」
「ヴァルダって呼んでって言ってるでしょ? で、今日は一体何を持ってきたの?」
このお約束のやり取りも、もはや様式美の域に達しようとしていた。持ってきた本を査定しているうちに、ヴァルダさんがふと思い出したような顔で、こうつぶやく。
「そうそう、あのピアニスト死んだそうよ。人を呪えば穴二つっていうけど、ホントよね」
「死んだ?」
「ええ。中村先生の妄想も少しは的を射ていたらしいわ。あの二人、本気で駆け落ちを計画していたそうよ」
「どうして、それが分かったのですか?」
「あの後、私の方でも色々と調べていたのです。先生のいいように計らいますと、言った手前もあるしね」
「そうですね」
「私はね、今回の件で、『悪魔よりも恐ろしいのは人間だ』という思いが、また一層強くなりましたよ」
そこまで言うとヴァルダさんは、突然口を噤んでしまった。
「勿体ぶらないで教えてくださいよ。一体何があったのですか?」
「後悔しても知りませんよ? お腹にいた赤ちゃんの事です」
「少しは的を射ていたと、先ほど仰いましたね? やはり子供は、あの男に殺されていたのですか?」
「その通りです。他人の子供を育てる義理はないし、身重の体では色々と不都合もあるだろうと、海外から人工中絶薬を手に入れて、子供を流産させたそうです」
「では、息子が死んだのも……」
「まさか……。駆け落ちするんだから、息子まで殺す必要はないでしょう? でもあの二人は、毎日のように逢引してたそうだから、何か事故が起こったって不思議じゃないでしょうね」
育児放棄の末の事故死――そういう事か。僕はむしろ、胎児を殺したピアニストよりも、堕胎の提案を素直に受け入れ、息子を捨てて逃げようとしていた母親の方に怒りを感じた。百歩譲って不倫はいいとしても、どちらも自分の子供ではないか?
「流石の中村先生も、ホトホト愛想が尽きたそうです。慰謝料代わりに、財産分与なしで離縁したと言っていました。いくら美人でも、自分の子を殺そうとする女とは、一緒に居たくないわよね」
「そりゃあ、そうでしょうね」
「男が死んだことも、最初は、『ざまあみろ』って喜んでたんです。でも考えていくうちに、段々と薄気味悪くなったらしいの。ピアニストの死は、悪魔と契約もしてないのに祈祷書を使ってしまったことに対する、罰なんじゃないかって……」
「なるほど。教授はまだ、中身を読んではいないんでしょうね」
「ええ、触りたくもないって、仰ってましたからね」
ヴァルダさんは、あれから何度も教授の話を聞き、男の死と祈祷書は無関係だと説明したが、中村教授は聞く耳を持たなかったという。彼は完全にノイローゼ状態に陥り、胃痛も再発してしまったそうだ。そしてとうとう、先日ヴァルダさんの店に、祈祷書を売りに来たのだという。
「一体、いくらで引き取ったんですか?」
「百万円。要らないって言うんだから、もっと安く買い叩いても良かったんだけど、流石に少し可哀想になっちゃってね……。まあ、三百万の商品の買い戻し額としては妥当な金額でしょう」
実際には三百万じゃなくて、その三倍の九百万で売りつけた訳だけど、ヴァルダさんの機嫌を損ねても仕方ないので、僕は黙っていた。まあきっと、捨て値で売っても百万にはなるのだろう。彼女さんは阿漕ではないが、自分が損するような取引は絶対にしないはずだ。
「差し引きで二百万円が手元に残って、本は二冊とも帰ってきたわけですか。やり手ですね、ヴァルダさん」
「最初に貰ってる七十万円もあるから、全部で二百七十万ですけどね。まあ今回は、裏で色々汗もかいたから、妥当な金額でしょう」
「色々?」
「いえ、こちらの話です。戻ってきたシルレルの詩集は、ゆっくり買い手を探そうと思います。なにしろ中村先生のお墨付きですから、業者オークションで捌いたとしても、五~六百万円にはなるんじゃないかしらね?」
「当分は遊んで暮らせますね」
「まあ、祈祷書の方は難しいと思いますけどね。どんなに貴重なものでも、欲しがる人がいて初めて価値が付くものですから……」
という事は、デュッコの写本した聖書は、いま彼女の手元にある。たとえ、本物の悪魔祈祷書ではないにせよ、三人の人間の死に関わったいわくつきの品であることは確かだ。事件にかかわった人間の一人として、中身を一度、確認して見たいと思った。
「見せてくださいよ、ヴァルダさん。祈祷書は今、ヴァルダさんの手元にあるんでしょう?」
「ダメですよ。もしかしたら、貴方もノイローゼになってしまうかもしれません。当分の間、これは店頭に出さずに、私が保管しておきます」
「男の死と祈祷書は無関係だって、さっきヴァルダさんが言ったんじゃないですか? 僕だって、今回の事件の関係者の一人です。中身をちょっと確認するくらいの権利はあるはずだ」
僕がそう主張すると、ヴァルダさんはしぶしぶと言った感じでこう答えた。
「……仕方ありませんね。少しだけですよ」
ヴァルダさんは、抽斗の中から聖書の入った外箱を取り出すと、中身を引き抜いて僕に手渡した。表紙には確かに、デュッコ・シュレーカーの署名がしてある。僕は1ページずつ、丁寧にページをめくっていったが、ときおり挿入される挿絵は、すべて真っ当なものだった。
杞憂かと思って、ヴァルダさんに聖書を返した瞬間、僕は確かに見た。外箱《ケース》の内側に描かれた、巨大な角を持った黒い山羊――額には五芒星が施され、背中には禍々しい黒き翼を背負った悪魔――バフォメットの姿を。
間違いない。本物は外箱だけで、ヴァルダさんは中身をすり替えたのだ。何の変哲もない聖書を引き写した、異端審問をまぬかれるために作られた【もう一つの本物】と――
「満足しましたか?」
「ええ、満足しました。本当にただの聖書だったんですね。期待して損しちゃったなあ……」
「だから、言ったでしょ? デュッコの作った悪魔祈祷書なんて、ただのデタラメよ」
絶対に嘘だ。ヴァルダさんは、『人を嵌める時は、本当の事だけを使って嵌める』と僕に言った。外箱が本物である以上、ヴァルダさんは絶対に悪魔祈祷書を持っている。ただ、店頭に出されていないだけだ。
僕は完全に諦めたふりをしながら、ヴァルダさんの手元を注視していた。そして見た。引き出しの中にしまわれた、もう一冊の聖書。禍々しい黒い装丁に、金色の文字で刻印された悪魔祈祷書の姿を――
だけど僕は、ヴァルダさんの手元を抑えることはしなかった。そんなことをしても何の意味もないからだ。彼女は最初から、僕に嘘など言ってはいなかった。彼女は、四百年前のデュッコと共に長老たちの刺客と戦い、次に仕えるべき伝承者を探して生きる、人知を超えた存在なのだ。
古書店のオーナーである台場さんは、その正体を隠すための仮初の姿に過ぎない。僕は、彼女と共に古書店を経営する夢にうつつを抜かしていた、甘ったるい自分を恥じた。
「そう落ち込むこともないわよ」
「えっ?」
「貴方は伝承者ではないけれど、今の私にとって、とても大切な存在。時間の限られた人間と違って、悠久の時を生きる私たちは、いつだって退屈してるの。貴方みたいなもの好きがいると、気が紛れて助かるわ」
そういってヴァルダさんは、悪戯っぽく笑った。僕はその言葉を、素直に信じようと思った。だってヴァルダさんは、いつだって、本当の事を使って人を騙す天才だから。
『不思議の街のヴァルダさん』完
「ええ、僕は台場さんひと筋ですから」
「ヴァルダって呼んでって言ってるでしょ? で、今日は一体何を持ってきたの?」
このお約束のやり取りも、もはや様式美の域に達しようとしていた。持ってきた本を査定しているうちに、ヴァルダさんがふと思い出したような顔で、こうつぶやく。
「そうそう、あのピアニスト死んだそうよ。人を呪えば穴二つっていうけど、ホントよね」
「死んだ?」
「ええ。中村先生の妄想も少しは的を射ていたらしいわ。あの二人、本気で駆け落ちを計画していたそうよ」
「どうして、それが分かったのですか?」
「あの後、私の方でも色々と調べていたのです。先生のいいように計らいますと、言った手前もあるしね」
「そうですね」
「私はね、今回の件で、『悪魔よりも恐ろしいのは人間だ』という思いが、また一層強くなりましたよ」
そこまで言うとヴァルダさんは、突然口を噤んでしまった。
「勿体ぶらないで教えてくださいよ。一体何があったのですか?」
「後悔しても知りませんよ? お腹にいた赤ちゃんの事です」
「少しは的を射ていたと、先ほど仰いましたね? やはり子供は、あの男に殺されていたのですか?」
「その通りです。他人の子供を育てる義理はないし、身重の体では色々と不都合もあるだろうと、海外から人工中絶薬を手に入れて、子供を流産させたそうです」
「では、息子が死んだのも……」
「まさか……。駆け落ちするんだから、息子まで殺す必要はないでしょう? でもあの二人は、毎日のように逢引してたそうだから、何か事故が起こったって不思議じゃないでしょうね」
育児放棄の末の事故死――そういう事か。僕はむしろ、胎児を殺したピアニストよりも、堕胎の提案を素直に受け入れ、息子を捨てて逃げようとしていた母親の方に怒りを感じた。百歩譲って不倫はいいとしても、どちらも自分の子供ではないか?
「流石の中村先生も、ホトホト愛想が尽きたそうです。慰謝料代わりに、財産分与なしで離縁したと言っていました。いくら美人でも、自分の子を殺そうとする女とは、一緒に居たくないわよね」
「そりゃあ、そうでしょうね」
「男が死んだことも、最初は、『ざまあみろ』って喜んでたんです。でも考えていくうちに、段々と薄気味悪くなったらしいの。ピアニストの死は、悪魔と契約もしてないのに祈祷書を使ってしまったことに対する、罰なんじゃないかって……」
「なるほど。教授はまだ、中身を読んではいないんでしょうね」
「ええ、触りたくもないって、仰ってましたからね」
ヴァルダさんは、あれから何度も教授の話を聞き、男の死と祈祷書は無関係だと説明したが、中村教授は聞く耳を持たなかったという。彼は完全にノイローゼ状態に陥り、胃痛も再発してしまったそうだ。そしてとうとう、先日ヴァルダさんの店に、祈祷書を売りに来たのだという。
「一体、いくらで引き取ったんですか?」
「百万円。要らないって言うんだから、もっと安く買い叩いても良かったんだけど、流石に少し可哀想になっちゃってね……。まあ、三百万の商品の買い戻し額としては妥当な金額でしょう」
実際には三百万じゃなくて、その三倍の九百万で売りつけた訳だけど、ヴァルダさんの機嫌を損ねても仕方ないので、僕は黙っていた。まあきっと、捨て値で売っても百万にはなるのだろう。彼女さんは阿漕ではないが、自分が損するような取引は絶対にしないはずだ。
「差し引きで二百万円が手元に残って、本は二冊とも帰ってきたわけですか。やり手ですね、ヴァルダさん」
「最初に貰ってる七十万円もあるから、全部で二百七十万ですけどね。まあ今回は、裏で色々汗もかいたから、妥当な金額でしょう」
「色々?」
「いえ、こちらの話です。戻ってきたシルレルの詩集は、ゆっくり買い手を探そうと思います。なにしろ中村先生のお墨付きですから、業者オークションで捌いたとしても、五~六百万円にはなるんじゃないかしらね?」
「当分は遊んで暮らせますね」
「まあ、祈祷書の方は難しいと思いますけどね。どんなに貴重なものでも、欲しがる人がいて初めて価値が付くものですから……」
という事は、デュッコの写本した聖書は、いま彼女の手元にある。たとえ、本物の悪魔祈祷書ではないにせよ、三人の人間の死に関わったいわくつきの品であることは確かだ。事件にかかわった人間の一人として、中身を一度、確認して見たいと思った。
「見せてくださいよ、ヴァルダさん。祈祷書は今、ヴァルダさんの手元にあるんでしょう?」
「ダメですよ。もしかしたら、貴方もノイローゼになってしまうかもしれません。当分の間、これは店頭に出さずに、私が保管しておきます」
「男の死と祈祷書は無関係だって、さっきヴァルダさんが言ったんじゃないですか? 僕だって、今回の事件の関係者の一人です。中身をちょっと確認するくらいの権利はあるはずだ」
僕がそう主張すると、ヴァルダさんはしぶしぶと言った感じでこう答えた。
「……仕方ありませんね。少しだけですよ」
ヴァルダさんは、抽斗の中から聖書の入った外箱を取り出すと、中身を引き抜いて僕に手渡した。表紙には確かに、デュッコ・シュレーカーの署名がしてある。僕は1ページずつ、丁寧にページをめくっていったが、ときおり挿入される挿絵は、すべて真っ当なものだった。
杞憂かと思って、ヴァルダさんに聖書を返した瞬間、僕は確かに見た。外箱《ケース》の内側に描かれた、巨大な角を持った黒い山羊――額には五芒星が施され、背中には禍々しい黒き翼を背負った悪魔――バフォメットの姿を。
間違いない。本物は外箱だけで、ヴァルダさんは中身をすり替えたのだ。何の変哲もない聖書を引き写した、異端審問をまぬかれるために作られた【もう一つの本物】と――
「満足しましたか?」
「ええ、満足しました。本当にただの聖書だったんですね。期待して損しちゃったなあ……」
「だから、言ったでしょ? デュッコの作った悪魔祈祷書なんて、ただのデタラメよ」
絶対に嘘だ。ヴァルダさんは、『人を嵌める時は、本当の事だけを使って嵌める』と僕に言った。外箱が本物である以上、ヴァルダさんは絶対に悪魔祈祷書を持っている。ただ、店頭に出されていないだけだ。
僕は完全に諦めたふりをしながら、ヴァルダさんの手元を注視していた。そして見た。引き出しの中にしまわれた、もう一冊の聖書。禍々しい黒い装丁に、金色の文字で刻印された悪魔祈祷書の姿を――
だけど僕は、ヴァルダさんの手元を抑えることはしなかった。そんなことをしても何の意味もないからだ。彼女は最初から、僕に嘘など言ってはいなかった。彼女は、四百年前のデュッコと共に長老たちの刺客と戦い、次に仕えるべき伝承者を探して生きる、人知を超えた存在なのだ。
古書店のオーナーである台場さんは、その正体を隠すための仮初の姿に過ぎない。僕は、彼女と共に古書店を経営する夢にうつつを抜かしていた、甘ったるい自分を恥じた。
「そう落ち込むこともないわよ」
「えっ?」
「貴方は伝承者ではないけれど、今の私にとって、とても大切な存在。時間の限られた人間と違って、悠久の時を生きる私たちは、いつだって退屈してるの。貴方みたいなもの好きがいると、気が紛れて助かるわ」
そういってヴァルダさんは、悪戯っぽく笑った。僕はその言葉を、素直に信じようと思った。だってヴァルダさんは、いつだって、本当の事を使って人を騙す天才だから。
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