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第四章「古書店の尼僧」
第51話「ヴァルダさんの嵌め込み」
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「あの……。僕はいったん席を外した方が良いでしょうか?」
「ここまで来たら、最後まで聞いていきなさい。先生もそれでよろしいですね?」
教授は少し不満そうな顔をしながらも、静かにうなずいた。ピアニストの悪事を立証できるのは、ヴァルダさんだけである。盗みに対する引け目は全く感じていないようだが、ここで彼女にごねられるのはまずいと考えているのだろう。
「まず告発の件ですが、これは殺人を調査する事になりますから、当然刑事事件になります。もし先生がソンナ事をされますと、『あの本をどこから手に入れたのか』という事が、警察できっと問題になりましょう。私が警察へ呼ばれまして、正直のところを申立てましたら、先生の御身分は一体どうなるんですか?」
「……」
「あはは。それ御覧なさい。まあ告発の件はともかく、奥様の浮気の件については、喜んでご協力いたします。こちらは民事ですからね。警察が介入してくる事は無いし、相手の男はボンボンの様ですから、たんまり慰謝料をせしめられるはずです」
「そうだな」
「但し、それには条件があります」
「なんだ?」
「窃盗品の賠償は、正札の三倍が相場です。九百万円お支払いいただけるなら、あの祈祷書をお譲りいたしましょう」
「九百!」
「それに、これまでの口止め料と、浮気調査への協力。そして、あの祈祷書以外にお手付けになった数々の本の代金として、〆て一千万。それで全て、先生の良いようにして差し上げます」
そういって、ヴァルダさんはニヤリと笑った。
「バカなことを言うな! 恐喝で訴えるぞ!」
「そしたら私は、先生が祈祷書をお手付になった動画を持って、警察に行くだけです。先生は今のお仕事を失い、奥様の浮気を立証することも出来ず、祈祷書を没収される事でしょう。それでよろしければ、どうぞご自由に……」
「……」
見事なものだと僕は思った。ヴァルダさんはきっと、教授が本を盗み出すことを見越して、敢えてあの場所に祈祷書を置いたのだ。この手は一度しか使えないから、これまで盗られた本については一切請求はしなかった。まさか教授は、窃盗現場を動画で抑えられているとは思いもしてしなかったはずだ。
「四百……。いや、五百万なら出す。それ以上は無理だ。家のローンも残っているし、家内は結構金遣いが荒くて、家にそれほど余裕もないんだ。五百で勘弁してくれ」
「なるほど……。では、キャッシュは三百で結構ですよ。裁判にもお金はかかりますし、貯金を全てはたかせるのも可哀想ですしね」
「えっ?」
「その代わり、私が先生にお譲りしたシルレルの詩集をお返し下さい。それで残額の七百万と相殺して差し上げます。先生が、お支払いになった七十万の十倍。何も不満はないはずです」
「……」
教授は一瞬苦々しい顔をしたが、直ぐにそれ以外に手はないことを悟り、ヴァルダさんの提案を受け入れた。
「では、こちらの契約書にサインをしてください。何しろ人間というものは、直ぐに心変わりするものですからね。いえ、奥様の事を申し上げているのではございませんよ」
そういって、ヴァルダさんが抽斗から取り出した契約書には、たったいま語った事が全て書かれていた。つまり、『中村教授が悪魔祈祷書を一千万円で購入し、うち七百万円分をシルレルの詩集で物納する』という内容だ。
金額までバッチリ書いてあるという事は、ヴァルダさんは教授が店に来る前から、この展開を予見していたという事になる。勿論、彼女にとって不利になりかねない口止め料だとか、調査協力費だのは一切書かれていない。流石だなと僕は思った。
「契約はこれで完了です。ではこれを」
ヴァルダさんは先ほどの抽斗の中から、大きめの封筒を取り出すと中村教授に渡した。
「これは?」
「念のため、ご自宅にお伺いした際に、浮気現場の写真を撮っておいたのです。奥様の不貞行為を立証するには、この写真だけで十分かと思います。お望みであれば、その手の裁判に強い弁護士も紹介できますが、どうされますか?」
「いや、結構だ」
「では、シルレルの詩集は明日中にお持ちください。残額の二百万は、月末までで結構です」
「承知した」
教授は写真の入った封筒を受け取り受け取り、まだ小雨の降る街中に消えていった。
「まあ、今日のところはこんなものかしらね」
ひと心地付いたと言う感じで、ヴァルダさんがそう呟く。
「お見事でしたね。なんだってずっと、ユダヤの陰謀論なんか唱えてるのかと思ったら、こんな計画があったとは」
「まあ、妻の不貞に冷静でいられる男はそうはいないですからね。彼の疑念を駆り立てるためにも、それらしい話を聞かせる必要があったのです。貴方が居てくれて助かりました」
「ようやく僕も、ヴァルダさんのお役に立てたという事ですね」
「ええ。奥さんの浮気のお陰で、七十万で買いたたかれたシルレルも、無事に取り返せましたし」
「素晴らしいですね。僕は心の中で、拍手喝采したい気持ちでしたよ」
「因果応報という事ですよ。知識のない人間を嵌める輩は、別の知識を持つ人間に嵌められるのです。私はまだ善良な方ですよ。あの祈祷書も、実際はタダの聖書ですが、三百万位の価値は本当にありますしね」
「えっ?」
「悪魔祈祷書なんて、全部デタラメですよ。だから、警察沙汰になるのは避けたかったのです。大方、私の話を聞いてるうちに疑心暗鬼になって、自分の胃が痛みだしたんでしょう。動画の話も全部ウソなんです」
そういってヴァルダさんは、本当に嬉しそうに笑った。
(続く)
「ここまで来たら、最後まで聞いていきなさい。先生もそれでよろしいですね?」
教授は少し不満そうな顔をしながらも、静かにうなずいた。ピアニストの悪事を立証できるのは、ヴァルダさんだけである。盗みに対する引け目は全く感じていないようだが、ここで彼女にごねられるのはまずいと考えているのだろう。
「まず告発の件ですが、これは殺人を調査する事になりますから、当然刑事事件になります。もし先生がソンナ事をされますと、『あの本をどこから手に入れたのか』という事が、警察できっと問題になりましょう。私が警察へ呼ばれまして、正直のところを申立てましたら、先生の御身分は一体どうなるんですか?」
「……」
「あはは。それ御覧なさい。まあ告発の件はともかく、奥様の浮気の件については、喜んでご協力いたします。こちらは民事ですからね。警察が介入してくる事は無いし、相手の男はボンボンの様ですから、たんまり慰謝料をせしめられるはずです」
「そうだな」
「但し、それには条件があります」
「なんだ?」
「窃盗品の賠償は、正札の三倍が相場です。九百万円お支払いいただけるなら、あの祈祷書をお譲りいたしましょう」
「九百!」
「それに、これまでの口止め料と、浮気調査への協力。そして、あの祈祷書以外にお手付けになった数々の本の代金として、〆て一千万。それで全て、先生の良いようにして差し上げます」
そういって、ヴァルダさんはニヤリと笑った。
「バカなことを言うな! 恐喝で訴えるぞ!」
「そしたら私は、先生が祈祷書をお手付になった動画を持って、警察に行くだけです。先生は今のお仕事を失い、奥様の浮気を立証することも出来ず、祈祷書を没収される事でしょう。それでよろしければ、どうぞご自由に……」
「……」
見事なものだと僕は思った。ヴァルダさんはきっと、教授が本を盗み出すことを見越して、敢えてあの場所に祈祷書を置いたのだ。この手は一度しか使えないから、これまで盗られた本については一切請求はしなかった。まさか教授は、窃盗現場を動画で抑えられているとは思いもしてしなかったはずだ。
「四百……。いや、五百万なら出す。それ以上は無理だ。家のローンも残っているし、家内は結構金遣いが荒くて、家にそれほど余裕もないんだ。五百で勘弁してくれ」
「なるほど……。では、キャッシュは三百で結構ですよ。裁判にもお金はかかりますし、貯金を全てはたかせるのも可哀想ですしね」
「えっ?」
「その代わり、私が先生にお譲りしたシルレルの詩集をお返し下さい。それで残額の七百万と相殺して差し上げます。先生が、お支払いになった七十万の十倍。何も不満はないはずです」
「……」
教授は一瞬苦々しい顔をしたが、直ぐにそれ以外に手はないことを悟り、ヴァルダさんの提案を受け入れた。
「では、こちらの契約書にサインをしてください。何しろ人間というものは、直ぐに心変わりするものですからね。いえ、奥様の事を申し上げているのではございませんよ」
そういって、ヴァルダさんが抽斗から取り出した契約書には、たったいま語った事が全て書かれていた。つまり、『中村教授が悪魔祈祷書を一千万円で購入し、うち七百万円分をシルレルの詩集で物納する』という内容だ。
金額までバッチリ書いてあるという事は、ヴァルダさんは教授が店に来る前から、この展開を予見していたという事になる。勿論、彼女にとって不利になりかねない口止め料だとか、調査協力費だのは一切書かれていない。流石だなと僕は思った。
「契約はこれで完了です。ではこれを」
ヴァルダさんは先ほどの抽斗の中から、大きめの封筒を取り出すと中村教授に渡した。
「これは?」
「念のため、ご自宅にお伺いした際に、浮気現場の写真を撮っておいたのです。奥様の不貞行為を立証するには、この写真だけで十分かと思います。お望みであれば、その手の裁判に強い弁護士も紹介できますが、どうされますか?」
「いや、結構だ」
「では、シルレルの詩集は明日中にお持ちください。残額の二百万は、月末までで結構です」
「承知した」
教授は写真の入った封筒を受け取り受け取り、まだ小雨の降る街中に消えていった。
「まあ、今日のところはこんなものかしらね」
ひと心地付いたと言う感じで、ヴァルダさんがそう呟く。
「お見事でしたね。なんだってずっと、ユダヤの陰謀論なんか唱えてるのかと思ったら、こんな計画があったとは」
「まあ、妻の不貞に冷静でいられる男はそうはいないですからね。彼の疑念を駆り立てるためにも、それらしい話を聞かせる必要があったのです。貴方が居てくれて助かりました」
「ようやく僕も、ヴァルダさんのお役に立てたという事ですね」
「ええ。奥さんの浮気のお陰で、七十万で買いたたかれたシルレルも、無事に取り返せましたし」
「素晴らしいですね。僕は心の中で、拍手喝采したい気持ちでしたよ」
「因果応報という事ですよ。知識のない人間を嵌める輩は、別の知識を持つ人間に嵌められるのです。私はまだ善良な方ですよ。あの祈祷書も、実際はタダの聖書ですが、三百万位の価値は本当にありますしね」
「えっ?」
「悪魔祈祷書なんて、全部デタラメですよ。だから、警察沙汰になるのは避けたかったのです。大方、私の話を聞いてるうちに疑心暗鬼になって、自分の胃が痛みだしたんでしょう。動画の話も全部ウソなんです」
そういってヴァルダさんは、本当に嬉しそうに笑った。
(続く)
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