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第四章「古書店の尼僧」
第45話「盗人の心理」
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「中村先生みたいなお方ばっかりだったら、この家業も苦労はしないのだけれど、中には性質の悪いお客もずいぶんいてね」
「丸ごと一冊、立読みとかですか?」
「そんなのは、しょっちゅうよ。ホント、最初から買う気のない人は、読むのが早いのね」
「そうなんですか?」
「ええ。店の本の上に腰をかけて、三十分ほどでおしまいまで読んじゃってから、私の処へ本を持って来て、『ねえ君。これ、千円に負からないのかい? 大して面白い本でもないぜ』なんて、顔負けしちゃいます。大きなお世話よね」
そういってヴァルダさんはお手上げのポーズをした。多分、それくらいの事は日常茶飯事なのだろう。
「あはは……。他にはどんな困った客が来るんですか?」
「文科の学生さんなんかは、試験前に良く来るわね」
「参考書を買いにですか?」
「買うわけないじゃない。あの棚の上の大英百科全書を抱えおろして、入り用のページをスマホで撮ってから、そのまま置きっ放しよ。まあ、それくらいなら構わないのだけれど、たまにページを破って持っていく子がいるのね」
「それは酷い」
「でしょう? でも大学には、修身って科目はありませんからね。常識を知らない子は、そんなものなんでしょう。でも、もっとひどいのは、丸ごと一冊、本を持って行ってしまう人。つまり万引ね」
「そんな人いるんですか?」
「沢山いるわよ。しかも、その万引の手段ってのが、トリック付きなんですから感心しちゃうわ」
「トリックというと……。すり替えか何かですか?」
「ご明察。彼らは皆、普通には盗まないの」
ヴァルダさん、少し呆れたような顔をしてこう続けた。
「一冊か二冊、つまらない本を裸で抱えて、如何にも暇つぶしの学生らしい面構えで、飄然と入って来るのね。狙っている本は、ちゃんと決まっているのだけど、直ぐにその本の処へ行くようなヘマはしないの」
「そこが、彼らの手なんでしょうね」
「その通りよ。書棚のあちこちを上から下まで丹念に見回し、時には一度見た場所に戻ったりもしながら、狙った本へ少しずつ近付いて行くの。そして、如何にも『偶然見つけた』といった恰好で、気安く中身を確認したりしているのね」
ヴァルダさんは、ここで一つ息を継いだ。
「そうなるとこっちだって、最初から疑っているんじゃありませんから、つい眼をそらしてしまうのよね。さも、つまらなさそうな顔をして、本を棚に返したと思ったら、大間違いのあに計らんや。用意して来た本を、目当ての本とすり替えて、外箱ごと元の隙間へ戻してるって訳」
身振り手振りを交えたヴァルダさんの説明は、とても真に迫っていた。そこまで分かっているなら、いっそ出入り禁止にしてしまえばいいのに、何故そうしないのだろう?
「大胆不敵だなあ……」
「ええ。目当ての本をチャント小脇に挟みながら、『ロクな本が在りやがらねえ』とでも言いたげな顔つきで、堂々と店を出て行くんだから大した度胸だわ。ホント、考えたものよね」
「外見じゃわからないし、現場を直に押さえたのでなければ、呼び止めるのもなかなか難しいでしょうしねえ……」
「その通りよ。しかもこれは、一度や二度の話じゃないの。同じ人が、何度でもやっていくのよ」
ヴァルダさんは珍しく感情が高まってきたのか、少し声を荒げてこう続けた
「百歩譲ってお金のない学生さんなら、出世払いという事も考えない訳じゃないわ。だけど、これをやるのは学生さんばかりじゃないのよ。相当の月給を取っておいでになる立派な紳士の方でも、時々この手をおやりになるんです」
「へー」
「貴方の学校の先生なんか、こっちの方が本職なんじゃないかって言うレベルの達人が、数人おいでになるの。なかなか鮮やかな御手前なのよ」
そいつは是非、名前を伺っておきたいものだ。
「そのネタがあれば、単位がヤバいときの交渉材料になりそうです。誰だか教えていただけませんか?」
「そんなの、私に何の得もないじゃない。勝手に留年でもしなさいよ」
「ひどいなあ……」
素人にしてはどうにも手際が良すぎるし、だいいち、職業が職業だから、まさかと思って油断してしまうのだと、ヴァルダさんは愚痴をこぼした。
「それはそうでしょうね。ところで先生たちは、本当に代金は支払わないのですか?」
「というと?」
「お金に困っている訳ではないのなら、単にスリルを楽しんでいるとか、そういう話かと思いまして」
「残念ながら違うわね。でも、そういう方々は、たいてい本物の本好きに限るようですね」
「本好きが、本を盗みますかね?」
「そういうのもいるってことよ。珍しい本だと思えば高価そうだし、店番の女は与し易そうなガキに見えるし、フラフラとお遣りになるのが病み付きになって、段々面白くなって来たのでしょう」
「良心がすり切れちゃってるんですね」
「ええ、とても人間業とは思えません。それくらい大胆、巧妙になっておいでになるんです。お相手を仰せつけられたこちらは敵いませんよ」
そういってヴァルダさんは、大きくため息をついた。
「しかし、ヴァルダさん。ずっとそのままという訳にもいかないでしょう? 一体どうなさるおつもりですか?」
「私ね、とりあえず相手のやり口を知ろうと思って、店内のいたるところにカメラを付けて見たの。現場では分からなくても、後で記録を見てみると、手口から何からスッカリ分かっちゃうという訳ね」
「なるほど。それで説明が、真に迫っていた訳だ」
「そういうこと。最近では、入口からノッソリ入ってくる時の態度を見ただけでも、あらかた見当が附いて来ました。『さては、おやり遊ばすな』とね……」
そういって、ヴァルダさんは不敵に笑った。この人は本を商うよりも、客あしらいの方を楽しんでるんじゃないかって思う時が、時々ある。
「面白いのはね。お金は払ってくれないんだけど、万引した本を持って帰って読んでしまってから、ソッと返しに来る人があるのです」
「ああ、それは少しわかる気がします。この頃の小説本と来たら、一度読んだら二度と読む気になれないものが多いですからね」
「ライトノベルとか言う奴かしら? 『タダでもいいから引き取ってくれ』と言う御仁が時々いらっしゃるので、そういうものは仕方なく引き取って、特価品の棚に並べます。案外売れるから、不思議なものよね」
「安い娯楽ですからね」
「それとも、お宝だと思って持って帰って調べてみたら、特に珍しい本でもなかったからかしら? 今日の貴方の『晩年』みたいに」
「泥棒の心理はよく分かりません。何も良心に背いてまで持ってくるほどのシロモノじゃなかったと、まあそういう事でしょう」
「無賃乗車で行って、改札の外に出ないまま、用事を済ませて帰って来るようなものね。まったく、良心があるんだかないんだか……」
そういってヴァルダさんは、再びため息をついた。勿論、まったく返って来ない本も沢山もあり、そういうのは彼女の方でもちゃんと把握していて、帳面に付けているらしい。
「まあでも、余程の希少本でない限り、黙って知らん顔をしています。元値を考えたら、別に大したものでもないしね」
「客が来るたびに身構えて、棚の中味をいちいち調べるのも面倒ですしね」
「まあ、手癖が収まらないようなら、いつか動画を証拠に、正札の三倍を請求してやるつもりではいるんだけどね」
「流石はヴァルダさん。転んでもただは起きない」
「そりゃあ、こちらだって商売ですもの。そうして、中味のすり替えられた本の前に立っておられた方々を、あの方、この方と思い出しているうちに、だんだんお人柄がわかって参りますから、不思議なものです」
ヴァルダさんは、どうやら興が乗って来たらしい。最初は金まで払わせようとしたのに、今では僕に、自分の話を聞いて欲しくて仕方なさそうである。これだから僕は、この店に来るのが止められないのだ。
「そういえばこの間、こんな事がありましたよ。これは又、シルレルに勝るとも劣らない、物凄く素敵な本でしたが……」
(続く)
「丸ごと一冊、立読みとかですか?」
「そんなのは、しょっちゅうよ。ホント、最初から買う気のない人は、読むのが早いのね」
「そうなんですか?」
「ええ。店の本の上に腰をかけて、三十分ほどでおしまいまで読んじゃってから、私の処へ本を持って来て、『ねえ君。これ、千円に負からないのかい? 大して面白い本でもないぜ』なんて、顔負けしちゃいます。大きなお世話よね」
そういってヴァルダさんはお手上げのポーズをした。多分、それくらいの事は日常茶飯事なのだろう。
「あはは……。他にはどんな困った客が来るんですか?」
「文科の学生さんなんかは、試験前に良く来るわね」
「参考書を買いにですか?」
「買うわけないじゃない。あの棚の上の大英百科全書を抱えおろして、入り用のページをスマホで撮ってから、そのまま置きっ放しよ。まあ、それくらいなら構わないのだけれど、たまにページを破って持っていく子がいるのね」
「それは酷い」
「でしょう? でも大学には、修身って科目はありませんからね。常識を知らない子は、そんなものなんでしょう。でも、もっとひどいのは、丸ごと一冊、本を持って行ってしまう人。つまり万引ね」
「そんな人いるんですか?」
「沢山いるわよ。しかも、その万引の手段ってのが、トリック付きなんですから感心しちゃうわ」
「トリックというと……。すり替えか何かですか?」
「ご明察。彼らは皆、普通には盗まないの」
ヴァルダさん、少し呆れたような顔をしてこう続けた。
「一冊か二冊、つまらない本を裸で抱えて、如何にも暇つぶしの学生らしい面構えで、飄然と入って来るのね。狙っている本は、ちゃんと決まっているのだけど、直ぐにその本の処へ行くようなヘマはしないの」
「そこが、彼らの手なんでしょうね」
「その通りよ。書棚のあちこちを上から下まで丹念に見回し、時には一度見た場所に戻ったりもしながら、狙った本へ少しずつ近付いて行くの。そして、如何にも『偶然見つけた』といった恰好で、気安く中身を確認したりしているのね」
ヴァルダさんは、ここで一つ息を継いだ。
「そうなるとこっちだって、最初から疑っているんじゃありませんから、つい眼をそらしてしまうのよね。さも、つまらなさそうな顔をして、本を棚に返したと思ったら、大間違いのあに計らんや。用意して来た本を、目当ての本とすり替えて、外箱ごと元の隙間へ戻してるって訳」
身振り手振りを交えたヴァルダさんの説明は、とても真に迫っていた。そこまで分かっているなら、いっそ出入り禁止にしてしまえばいいのに、何故そうしないのだろう?
「大胆不敵だなあ……」
「ええ。目当ての本をチャント小脇に挟みながら、『ロクな本が在りやがらねえ』とでも言いたげな顔つきで、堂々と店を出て行くんだから大した度胸だわ。ホント、考えたものよね」
「外見じゃわからないし、現場を直に押さえたのでなければ、呼び止めるのもなかなか難しいでしょうしねえ……」
「その通りよ。しかもこれは、一度や二度の話じゃないの。同じ人が、何度でもやっていくのよ」
ヴァルダさんは珍しく感情が高まってきたのか、少し声を荒げてこう続けた
「百歩譲ってお金のない学生さんなら、出世払いという事も考えない訳じゃないわ。だけど、これをやるのは学生さんばかりじゃないのよ。相当の月給を取っておいでになる立派な紳士の方でも、時々この手をおやりになるんです」
「へー」
「貴方の学校の先生なんか、こっちの方が本職なんじゃないかって言うレベルの達人が、数人おいでになるの。なかなか鮮やかな御手前なのよ」
そいつは是非、名前を伺っておきたいものだ。
「そのネタがあれば、単位がヤバいときの交渉材料になりそうです。誰だか教えていただけませんか?」
「そんなの、私に何の得もないじゃない。勝手に留年でもしなさいよ」
「ひどいなあ……」
素人にしてはどうにも手際が良すぎるし、だいいち、職業が職業だから、まさかと思って油断してしまうのだと、ヴァルダさんは愚痴をこぼした。
「それはそうでしょうね。ところで先生たちは、本当に代金は支払わないのですか?」
「というと?」
「お金に困っている訳ではないのなら、単にスリルを楽しんでいるとか、そういう話かと思いまして」
「残念ながら違うわね。でも、そういう方々は、たいてい本物の本好きに限るようですね」
「本好きが、本を盗みますかね?」
「そういうのもいるってことよ。珍しい本だと思えば高価そうだし、店番の女は与し易そうなガキに見えるし、フラフラとお遣りになるのが病み付きになって、段々面白くなって来たのでしょう」
「良心がすり切れちゃってるんですね」
「ええ、とても人間業とは思えません。それくらい大胆、巧妙になっておいでになるんです。お相手を仰せつけられたこちらは敵いませんよ」
そういってヴァルダさんは、大きくため息をついた。
「しかし、ヴァルダさん。ずっとそのままという訳にもいかないでしょう? 一体どうなさるおつもりですか?」
「私ね、とりあえず相手のやり口を知ろうと思って、店内のいたるところにカメラを付けて見たの。現場では分からなくても、後で記録を見てみると、手口から何からスッカリ分かっちゃうという訳ね」
「なるほど。それで説明が、真に迫っていた訳だ」
「そういうこと。最近では、入口からノッソリ入ってくる時の態度を見ただけでも、あらかた見当が附いて来ました。『さては、おやり遊ばすな』とね……」
そういって、ヴァルダさんは不敵に笑った。この人は本を商うよりも、客あしらいの方を楽しんでるんじゃないかって思う時が、時々ある。
「面白いのはね。お金は払ってくれないんだけど、万引した本を持って帰って読んでしまってから、ソッと返しに来る人があるのです」
「ああ、それは少しわかる気がします。この頃の小説本と来たら、一度読んだら二度と読む気になれないものが多いですからね」
「ライトノベルとか言う奴かしら? 『タダでもいいから引き取ってくれ』と言う御仁が時々いらっしゃるので、そういうものは仕方なく引き取って、特価品の棚に並べます。案外売れるから、不思議なものよね」
「安い娯楽ですからね」
「それとも、お宝だと思って持って帰って調べてみたら、特に珍しい本でもなかったからかしら? 今日の貴方の『晩年』みたいに」
「泥棒の心理はよく分かりません。何も良心に背いてまで持ってくるほどのシロモノじゃなかったと、まあそういう事でしょう」
「無賃乗車で行って、改札の外に出ないまま、用事を済ませて帰って来るようなものね。まったく、良心があるんだかないんだか……」
そういってヴァルダさんは、再びため息をついた。勿論、まったく返って来ない本も沢山もあり、そういうのは彼女の方でもちゃんと把握していて、帳面に付けているらしい。
「まあでも、余程の希少本でない限り、黙って知らん顔をしています。元値を考えたら、別に大したものでもないしね」
「客が来るたびに身構えて、棚の中味をいちいち調べるのも面倒ですしね」
「まあ、手癖が収まらないようなら、いつか動画を証拠に、正札の三倍を請求してやるつもりではいるんだけどね」
「流石はヴァルダさん。転んでもただは起きない」
「そりゃあ、こちらだって商売ですもの。そうして、中味のすり替えられた本の前に立っておられた方々を、あの方、この方と思い出しているうちに、だんだんお人柄がわかって参りますから、不思議なものです」
ヴァルダさんは、どうやら興が乗って来たらしい。最初は金まで払わせようとしたのに、今では僕に、自分の話を聞いて欲しくて仕方なさそうである。これだから僕は、この店に来るのが止められないのだ。
「そういえばこの間、こんな事がありましたよ。これは又、シルレルに勝るとも劣らない、物凄く素敵な本でしたが……」
(続く)
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