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第四章「古書店の尼僧」

第44話「シルレルの嵌め込み」

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「二人の間には、とても有名なエピソードがあってね」
「どんなですか?」
「シルレルがまだ若かりし頃にこの詩集を買って、あまりのつまらなさに、『こんな下らない本なんか、もう読んでやるもんか!』って言って、地べたに叩きつけたらしいの」
「なんですそれ? そんなエピソードじゃ、付加価値も何もないじゃないですか」
「最後まで話を聞きなさいな。彼はその後思い直して、その本を拾いあげた。やっぱり、最後まで読もうと思ったのね」
「元を取ろうとした訳ですね」
「かも知れないわね。そしたら、その先の詩に何やら琴線に触れるものがあったらしくてね……」

 ヴァルダさんが言うには、詩集を拾い上げたシルレルは、今度は三拝九拝して涙を流しながら、『ゲーテ様、あなたは詩の神様です。私は貴方のおみ足の泥を嘗めるにも足りない、哀れな者です』とか何とか云って、額の上に詩集を押付けたそうである。僕には全く分からない世界だ。

「それって、ただのメンヘラじゃないですか」
「詩人なんて、大抵がメンヘラでしょ? シルレルは直ちに手紙を出して、『貴方の本領は、詩の世界にこそある』と断言したそうよ。ゲーテはその手紙がよっぽど嬉しかったのか、彼の才能を直ぐに認めて、そこから二人の交流が始まったの」
「その手紙のきっかけとなった詩集が、その本だと?」
「その通り。その後、彼らは共同で作品を発表したり、互いに競い合ったりしながら、ドイツ古典主義と呼ばれる文学様式を確立したの。先にシルレルが亡くなったんだけど、その時ゲーテは『我が半身を失った』とまで言って嘆いたそうよ。どう? 相当な価値が付きそうな話でしょ?」
「まあ、そうですね」

 僕はそのシルレルとか言う詩人を知らないし、詩についても良く分からないが、その一連のエピソードが本当なら、この本の値段は、少なくとも一桁は上がるのだろうと思った。

「まあでも、私は洋書が専門じゃないから、万一の事があったらいけないと思って、東北大学の文学部で、ドイツ文学の権威でいらっしゃる中村先生に鑑定を願おうと、その本をお持ちしたの」
「鑑定はどうだったんですか?」
「先生自身が、『ぜひ譲って欲しい』とおっしゃって、その場で七十万円でお買い上げになったわ」
「それは凄い。わらしべ長者みたいだ」
「いえいえ。先生も中々、お人が悪いのよ」
「どういうことですか?」
「よくよく話を聞いてみると、もしこの詩集をドイツに持っていったら、『十万ユーロでもいいから譲ってくれ』と言う人間が幾らでもいるらしいの。まあ私も、もし本物なら、百万、二百万じゃ効かないと思ってはいたんだけどね」

 今、一ユーロは百二十五円くらいだから、十万ユーロは千二百五十万円の計算になる。もし自分の売り渡した本がそんな希少本だったら、流石の僕でも気が狂ってしまうだろう。爺ちゃんの蔵には洋書も沢山ある。署名欄だけはちゃんと確認してから持ってこようと、僕は心に決めた。

「まあ、最初の買い取りが二万円ですからね。欲をかいたって仕方ないです。投資が三十五倍になったと思って諦めましょう」
「そうよね。もしあの高校生がまた店に来ることがあれば、お茶菓子くらいは出してあげようと思うわ」
「いいですね。ところで、何か後日談はないんですか? 例えば、その本はやっぱり偽物だったとか……」
「特にないわね。というか、中村先生は、よくこの店にもお見えになる常連なのよ。古い本をお探しになるのが、何よりの楽しみのようね」
「ホント、いい道楽ですよね」

 あまりにもメシマズな話なので、僕はそう吐き捨てた。ヴァルダさんが大儲けしたなら我慢も出来るが、これじゃ、金を払ってまで、話を聞いてる甲斐がない。

「お爺様の蔵書を小分けにして売りに来る貴方も、なかなかのものじゃないかしら?」
「いやあ……」
「別に褒めてないわ。最近の学生さんは、何を考えてるやら良く分からないわね」

 ヴァルダさんはそういうと、不意に思い出したように、こう続けた。

「胸がすく……と言うところまでは行かないでしょうけど、先生絡みでもうひとつ面白い話があったわ」
「どんな話ですか?」
「この店のお客さんは、学生さんが主体でしょ? あまり高価な本は置けないし、洋書は欲しがる人があまりいないから、洋書は大抵、『原書』と書いた貼札をして同じ棚に並べてあるの」
「そうですね。結構値付けも、いいかげんな感じです」
「まあ、そういう訳でもないんだけど、私は仕入れをするときに『トータルで、利益が出ればよい』という考え方なの。だから別に、洋書で儲けようとは思ってないのよ。色々調べるのも手間ですしね」
「なるほど」
「で、この間、大学を卒業される学生さんの蔵書を大量に買い取りした時に、

 GEORGE KAWANO'S “MACBETH”(Prototype)

 という、タイトルの本があったのね。私、シェークスピア絡みの評論か何かだと思って、いつも通りに『原書』と張り札をして、三千円の値札を付けておいたの。そしたら先生が、その本を棚の中から引っぱりだして、私の鼻先に突付けて、お叱りになったわ」
「一体、どういうことですか?」
「その本は、河乃《かわの》譲治の企画書の英訳だったのよ。私はよく知らないのだけど、マクベスって、なんだか有名なTVアニメらしいわね」
「ああ、なるほど。『超時空戦機マクベス』ですか。僕も子供の頃よく見ました」

 実際に僕が見たのは再放送だけど、当時は相当、人気のある作品であったらしい。マクベスは、アニメマニアなら、必ず押さえておかなければならない作品の一つではある。

「先生はお怒りになりながらも、『これは、マクベスの外国人向け同人誌の中でも、最も古いものだから』とおっしゃって、三万円でその本を買ってゆきました。まあ、ゲーテの詩集の埋合わせを、少しばかりして頂いたようなものね」
「なるほど。どっちが原書なんだか、訳がわかりませんね」
 
 僕がそう言って笑った時、一人の中年の男が、傘を畳みながら店の中に入ってきた。今まで一度も会ったことのない男だ。
「あら先生、いらっしゃい。この雨の中を、ご来店有難うございます」
「ああ……。少し、この辺の本を見せてもらうよ」
「どうぞ、ごゆっくり」

 ヴァルダさんは、入ってきた男にそう声を掛けると、僕の方に振り返った。

「一体、どこまで話したかしら?」
「先生が、『マクベス』の企画書の英訳を三万円で買っていったところまでです」
「そうだったわね。まったく恐れ入ったわ。私のミスなんだから、そのまま三千円で買って行かれたって、別に文句はなかったんだけど」
「まあ、ゲーテの話にしたって、別にヴァルダさんが損をした訳じゃないですもんね」

 彼女に引かれるのは嫌だから黙っていたが、僕は結構なアニメオタクだった。だがそんな書籍の存在は、僕でも知らない。中村と言う教授は中々のやり手の様だから、案外三万円でも買いの本だったのかもしれない。

《続き》
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