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第三章「黒衣の少女」

第38話「異世界転生・チート物を生み出す装置」

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「自分自身の空想や、妄想通りに振舞う事――これがすなわち、世人の見のがしている最も有利な利益だ。こればかりはどんな分類にも当てはまらず、またこいつらのために、いっさいの体系や理論は絶対に成立しない」

「熱狂する」ということは、自分自身の利益に反してもできるばかりか、時によると、断然そうしなければならないことがある。たとえそれが、どんなに突拍子もないことであろうと、自分自身の気まぐれ通りに生きる。それが、【人間にとっては一番大事】なのだ。

 理知や利益の命ずるところにしたがうのは、表向きはそれに従っていたとしても、けっして本心ではないのだ。仮にそれが、法に反するものであろうと、本気でそれをやりたいと思ってしまえば、仕方ない。

「あの賢人たちが、誰も彼も、『人間には何かしら、常軌にかなった道徳的な行動が必要だ』と主張しているのは、いったい何故でしょうね?」
「それこそ、引きこもりが言ってた。『読者を喜ばせるために書きましょう』と同じことさ。それを信じさせることで得をする人間が、どこかにいるんだろうよ」

 人間にとって一番大事なのは、【自分勝手に熱狂すること】だけであって、この好き勝手がどんなに割にあわなくとも、またどんな悲惨な結果を自分にもたらそうとも、構ってはいられないのである。

「自分勝手な熱狂なんていうものは、本当のところ存在しやしないと、彼らは言うかもしれない。科学は人間をすっかり解剖し尽くしたので、今ではそれは、公然の事実になっているのです、とね」
「その言い分には、一理ある」と僕は答えた。

「だがもし本当に、我々の意欲や気まぐれにすら法則が発見されてしまったら――つまり、それらのものがどういう法則によって発生するのか? いかなる方向に進んで行くか? といった諸問題にまで、数学的な方式が発見されてしまったら――その時はおそらく、人間は熱意そのものを失ってしまうだろう」
「どうして?」
「だって、キカイの指示に従って熱狂するなんて、何が面白いんだよ? その時人間は、完全に人間ではなくなってしまって、オルゴールの針か、それに類したものになってしまうだろう」

 希望も意志も欲望もないような人間が、オルゴールの針でなくって、一体なんだというのだ? 

「じゃあ、本当にそんなことが起こり得るかどうか、ひとつ可能性を考えてみようじゃない?」

 黒衣の少女は、僕にそう言葉を投げかけた。

「私たちの行動は、大部分は間違っているのだ。つまり、我々が時として、とてつもない馬鹿げたことを望むのは、利益を獲得するための一番楽な方法が、その馬鹿げた行動の中にあるように勘違いしてしまうからだ……と言われたら、貴方はどうする?」
「それは、さっきも答えたよ。そういう事が、すっかり説き明かされて、コンピューター上で計算されてしまったら、いわゆる欲望なるものは、完全に存在しなくなるんだ」
「それで?」
「もしいつか、熱狂と理性がこっそりと談合し、完全に合意してしまったら、僕たちは熱狂なんかしないで、理性の働きに従うようになるだろう」

 まったく、いつかそのうちには、いわゆる「自由意志の法則」が発見されてしまうのかもしれない。すべての熱狂や、気まぐれまでもが、本当に細かく分析されるようになるのかもしれない。すると当然、冗談は抜きにして、本当に何か表のようなものが出来あがることになる。すると僕たちは、本当にこの表通りに行動するようになるのだ。

「たとえば、僕がある人に、『異世界転生・チート物とか、書いてて本当に楽しい?』と煽って見せたとする。それは僕の意志ではなく、そのように煽らなければならぬと、キカイに指示されたから、そうするんだ」

 しかも僕が、そんな風に他人を煽っておきながら、「書くのはともかく、読むのは好きなのだ」と、正確な計算の上で証明されるとすれば、その時は一体、どんな自由が僕に残されるというのだろう? 

「もしそれが実現されるとすれば、僕たちはもう、実質的には何にもすることがなくなってしまう。仮初にも物書きである僕たちが、そうした表やキカイの指示に従い、【異世界転生・チート物を大量に生み出す装置】になることを定められているのだとすれば、仕方がないから、異世界転生・チート物さえも受け容れるべきという事になるのさ」

「実際に、現実はそうなりつつあるんじゃないかしら? もしかしたら、その世界では、貴方もまた、異世界転生・チート物に快楽を見出すだけの萌豚になってしまっているかもね」
「まさにそのとおりだ」

 今でも結構好きなことは、流石に黙っていた。僕は引きこもりとは違うからだ。本当に情けないとは思うが、読んでて楽しいんだから仕方ない。僕が黙り込んでいると、少女の方から助け船が出てきた。

「理性は確かに結構なものに相違ないわ。だけど、理性は要するにただの理性であって、単に人間の理知的能力を満足させるにすぎない。だけど、熱狂は、【生きることそのもの】よ」

 少女のその言葉は、ほんの少しだけ僕に勇気を与えた。

「そんな言葉を、もっと聞かせてくれないか? 正直に言えば、近頃の僕は、心が折れそうなんだ。僕の作品が理解されないのは構わない。だけど、自分で自分の作品が面白くないのは困る」

「では、こんな言葉はどうかしら? 理性はただ、食べて、寝て、出すのとおなじ、人間の生理的作用の一つに過ぎない」
「それで?」
「熱狂に浮かされた人々の生活は、しばしば、悲惨なものになりがちだけど、それでもやはり生きる目的であって、単なる平方根を求めるような仕事とは違う。理性がそもそも何を知っているというのよ?」

 理性はただ、『今まで正しいと証明できたもの』を知っているにすぎず、ヒトがどんなに努力を重ねようと、理性では把握しきれない世界が、厳粛として存在し続けるはずだと、彼女は主張した。

「第一、貴方が理性的能力を発揮してる時間なんか、一日に二時間くらいでしょ? そんなものを満足させるのではなく、【生きることそのもの】ために生きたいと願うのは、ヒトとして自然な話じゃないかしら?」
「確かにその通りだ。だが、今の僕を熱狂させるもの――生きることそのもの――は、一体何だろう?」

 僕はもう相場を張る意欲を失ってしまった。創作に関しても、自分が書かなければならない理由を見失いかけている。「今やらなきゃダメだ」という強迫観念だけは、依然として存在するのだけれども……。

「それは私には分からないわ。でも、ヒトという生き物は、自分の内部に存する一切のものを賭けて、意識的に、あるいは無意識的に、『熱狂』に向かうための活動をしている。見当違いもあるけれど、とにかくそのために生きているのよ」

《続く》
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