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第三章「黒衣の少女」

第37話「退歩的な紳士」

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「では、貴方の考えによると、合理性を無視して『意識的に』それに逆行する人間は、非開化主義者でも、キチガイでもないということね?」
「そうだ。いくら合理主義者たちでも、過去に前例のない偉業を成しとげた歴史上の偉人たちが、すべて無知蒙昧もうまいの徒とはいわないだろう」

 物事には例外がつきものとはいえ、これほど沢山の例外が、これほど頻繁にみられるはずがない。間違っているのは絶対に、合理主義者たちの方のはずだ。

 そもそも文明は、人間のいかなる性質を和げたというのだろう? 文明はただ、感覚の多面性を発達させるばかりで、それ以外の何ものでもありはしない。そして、この多面性の発達を突きつめてゆくと、人間はおそらく、『他人の血の中に、正義や快感を見出す』ようになるはずだ。いや、実際そのとおりになっているのだ。

「歴史を振り返るに、最も洗練された流血魔は、ほとんど一人の例外もなく、高度な教育を受けてきた人たちだよ。決して、愚か者なんかじゃない」

 ヒトラーは富裕層の家に生まれ、成績は劣等だったが、当時としては十分な教育を受け、心から芸術を愛す男だった。彼と並び称されるスターリンも、奨学金を得て神学校に進んだ努力家で、ユーゴーを愛読書とする文学少年であったのだ。

「悪魔と呼ばれた独裁者二人が、真っ当な教育を受けてきた人間だったのは、皮肉よね。彼らの疑心暗鬼のために、一体何千万人の人間が死に追いやられたのかしら?」
「別に昔話でもないさ。クメールルージュや毛沢東……二十一世紀の現在に至るまで、知的階層の行った虐殺の話は枚挙にいとまがない」

 彼女が何のために、僕の前に現れたかは知らないが、今のところ、僕らの間に見解の齟齬はないようだった。

「民主カンボジアの指導者であったポル・ポトは、元々フランスへの国費留学生だった。党の指導層もまた、彼を中心とした知的エリートたちだ。彼らは僅か、三年八ヶ月の間に百七十万人もの国民を虐殺した。彼らの生みの親といっても過言ではない毛沢東は、スケールが違う。自らの語録を六十五億冊も印刷して民衆を煽り立て、文化大革命で何千万人もの人命を奪ったんだ」

 しかも彼らは、自分たちの地位を守るために、資本家や政治家や医者や将校といった知的エリートから、好んで殺戮していったのだ。

「僕が思うに、文明というものは、沢山の狂人を拡大再生産するためのシステムに過ぎないんだよ」

 無論、太古の昔から人は人を殺してきた。だがかつて戦争は、軍人同士が行うものであったし、ごく一部の狂人を除けば、流血の中に快楽を見出す事は無かった。ところが現在の僕たちは、流血を穢らわしいことと考えていながら、それ以上に穢らわしいこと平気でやり、比較的善良な市民でさえも、大義なき殺人に対して見て見ぬ振りをしている。 

「僕と、ボンクラな道徳を唱える奴らと、一体どちらが間違っているか、わかったもんじゃないと思うよ。僕はただ、歴史上の事実を述べているだけだ。文明は、僕らの生活を便利にはしたけれど、個人の幸福には何ら関与していないんだ」

 彼女は少し考えるような仕草をした後、僕にこう語りかけた。

「ねえ、知ってる? クレオパトラはね、女奴隷たちの胸に金の針を突き刺して、彼らが叫び声を立てたり身をもがいたりするのに、快感を覚えたそうよ」
「そうなんだ。それは例え話ではなくて事実かい?」
「事実であることを、私は知っているわ。貴方はこれは、『それは人がまだ野蛮だった時代のことだから』って思う?」
「思わないな。人はもっと巧妙に、もっと沢山の人間に対して、針を突き立てると思う。思考の訓練を受けている人間であればあるほど、むしろ、理性や学問の示すとおりに行動しようとはしないものだ」

「古い悪習がなくなって、常識と科学が人間の本性を完全に再教育したとしても?」
「したとしても、だ。その時はきっと、今よりももっとひどい事が起こるに違いない」

 それが現実のものとなった時、ヒトはみずから好んで過誤を犯したり、自らの利益と相反する行動をとることはなくなる。そればかりか、その時は「科学そのもの」が人間を教導することになるはずだ。

 簡単に言えば、ヒトは自由意志や気まぐれを持たなくなり、ピアノの鍵盤か、オルゴールの釘みたいなものになってしまうという事である。

「この世のすべての人間の行為が、自然の法則によって数学的に分類されることになったら、実際に行動を起こすまでもなく、全ての結果が事前に分かることになるわ。つまり、あやふやな『可能性』なんて言葉は死語になる訳だけれども、そういう世界は来ないってこと?」

「いや、違う。そういう世界は来るかもしれない。それが実現した時は、数学的な正確さで計算された新しい経済関係が始まって、今の僕たちが抱えているほとんど全ての問題が解決するだろう。そういう世界を待ち望む人間も、沢山いるに違いない」

 そう、その事は別に否定しない。だが……

「だけどね、これはもう物語でも何でもなく、僕自身の意見としていうんだが、そういう世界がこの世にあらわれた瞬間に、恐ろしいほどの倦怠が僕らを襲ってくるだろう。何故ならば、自分の意志では、何もすることがなくなるからだ」
「キカイにやらされるだけになるという事ね」
「そう。僕は退屈の恐ろしさを知っている。この世の一切のものが合理化された時、僕たちは退屈まぎれに、一体どんなことを考えだすか分からない。君の言う、金の針を刺すことだって、元々は退屈ざましのためじゃないか?」

 合理主義者たちは、「そんな人間は存在しえない」と抗弁するだろうが、僕は絶対にそういう人間が出てくることを、確信しているのだ。

「だけど、それ自体は別に大した問題ではない。それよりも、もっと重要な事は、『こんな世界は、もうごめんだ!』と叫ぶ人間が現れた時、ソイツはもはや、「金の針を刺されて喜ぶようになっているかもしれない」という事だ」
「えっ?」
「なにしろ人間は馬鹿なんだ。あきれ返るほどに馬鹿なんだ。馬鹿という言葉が適当でなければ、比類ないほどの【恩知らず】なんだよ」

 だからたとえば、見渡すかぎり【分別】で充満しているような未来の世界で、何かこう退歩的な、人を小馬鹿にした顔つきの紳士が出しぬけに現れ、両手を腰に当て肘をはりながら、一同に向かってこう叫びだしたとしても、僕はいっこうに驚かないだろう。

「どうだね、諸君! いっそ、この世界をひと思いに足で蹴飛ばして、木っぱ微塵にしてしまったら? 何か目的がある訳ではない。私はただ、この対数表コンピューターを悪魔どもの餌食にしてしまって、自分の馬鹿げた意志通りに、自由に生活してみたいのだ!」

(続く)
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