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第三章「黒衣の少女」

第34話「僕が書けなくなった訳」(前編)

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 さて、諸君に質問するが、自分自身の屈辱感の中にさえ、快感を見いだそうなどと企らむ人間が、はたして自己を尊敬し得るものだろうか?

 僕がこう言うのは、甘ったるい慚愧ざんきの念のためではない。そもそも僕は、子どもの時から、『ごめんなさい、お母さん。これからはもうしません』などと言うのが、我慢できない性質たちだった。だがこれは、自分の非を認めるのが嫌だったという意味ではない。

 こういうセリフを、年端もいかぬ子どもくせに上手く言える自分が嫌だったのだ。そう、まったく、心の底からそう思っているかのように、僕は言えたのだ。

 僕はてんで悪いことをしたような覚えがない時に、よくわざとヘマをやってのけた。誰かが笑えば、自分も道化の笑いを返し、誰かが怒れば、僕はまたしても心の底から反省して、後悔の涙を流したのである。

 無論、これは自分で自分を欺いたのだが、何も芝居を打った訳ではない。ただなんとなく、僕の心が突然、そんな嫌な真似をさせるのだ。この場合、自然の法則さえも責める訳にはゆかない。もっともこの因果律は、これまでの人生で何度も何度も、こっぴどく僕を侮辱しつづけて来たのだけれど……。

 こんな記憶は、思い返すのも厭わしい。実際ものの一分もたつと、僕はもう毒々しい気持ちを抱きながら、「こんなことはみんな嘘だ。いまいましい嘘だ。とってつけた嘘だ。こんな後悔も、感激も、更生の誓いも皆、何もかも嘘だ!」と自分で自分を苛むのである。今度は本当に苦しんでいるのだが、何故だかこちらは信じてもらえない。だから僕は、自分の苦しみや悲しみを、他人に理解されることそのものを諦めた。

 そもそも僕はなんのために、自分で自分をひん曲げたり、苦しめたりして来たのだろう? 諸君、試しに聞いてみるがいい。その答えは、『ただボンヤリと生きているのが、退屈でたまらなかった』だけなのだ。いや、まったくその通りなのだ。

 僕の事を嘲る前に、よくよく気をつけて、自分自身を観察して見たまえ。なるほどその通りだと、きっと合点がゆくはずだ。これは程度問題であって、何者でもない人間が、このつまらない世界で生きてゆこうと思うなら、自分で色々な冒険を案出して、人生ものがたりを創作しなければならないのだ。

 僕はその創作のために、これまで何度、腹を立てて来たか分からない。勿論、最初はただ、なんとはなしにわざとやる。自分でも、そんなことに腹を立てる訳はないと承知している。だが、自分で自分に油をかけて行くうちに、ついには心底から腹を立てるようになってしまうのだ。

 回路のおかしくなった僕の脳ミソは、もはやこういう芝居を打つことに最適化カスタマイズされてしまって、もはや自分の意志を支配することすら出来なくなってしまった。つまり、それが演技であるのか、自分の本当の気持ちであるのか、自分でも分からなくなってしまっているのだ。

 無理に恋をしようと思ったことさえある。しかも相手は人妻であったのだ。正直なところ、僕はずいぶん苦しんだ。魂の奥底では、自分が苦しんでいるなどとは微塵も信じられず、むしろ冷笑の気持ちが働くのだけど、それでも、とにかく苦しんだ。本当に、正真正銘の苦悩を体感した。嫉妬の念に駆られて、前後を忘れたこともある。

 だがそれもこれも、結局は皆、【退屈】から出たことなのだ。

 諸君、すべては退屈から生ずるのだ。人間は何かを演じていないと、惰性に圧倒されてしまうのである。実際、意識というものから直接生ずる合法的な結果は、この惰性なのだ。いい換えるなら、「意識的になにもしない生活」である。このことは、既に前に述べておいた。

 くり返していうが、とくに強調してくり返していうのだが、すべての直情行動的な人間は、彼らが鈍感で、思慮の浅い人間であればこそ、あのように行動できるのだ。これをどう説明したらよかろうか? そうだ、こういったらいい。

 彼らは自身の浅薄な思慮のために、本質でも何でもない第二義的な原因を根本的なものと取り違え、「絶対不変の原則を発見した!」と、恐ろしくせっかちに確信する。そこでホッと安堵の息をつくのだ。ここがもっとも重要な点である。

 実際、何か活動を始めようとする人間には、その信念が正しかろうと正しくなかろうと、【なんの疑惑も残らないようにする】という作業が必要である。でないと、何事も成しえないからだ。ところで、たとえば僕などは、どうしたら自分を安堵させることができるのだろうか? 

 自己の支柱とすべき『生きる理由』は、一体どこにあるのだろうか? 
 肝心かなめの基礎は、どこに置けばいいのだ? 
 仮にそれが分かったところで、どこからそれを、持って来たらいいのだろうか?

 僕は思索の自己鍛錬をしているので、一つの根本的原因を突き詰めることにより、更なる原因が湧き出してくる。そしてこれが、無限に続くのだ。これが即ち、すべての意識とか、思索とかいうものの本質なのである。してみると、もうこれこそが、例の因果律というやつに違いない。

 そうすると、結局、最後はどうなるのだろう? 結論としては、やはり同じことなのである。つい先ほど、僕が復讐について話していたのを思い出してもらいたい(どうせ諸君は、ろくすっぽ聞いてはいなかったとは思うが)。

 前にも述べたとおり、人が人に復讐するのは、その行動に【正義】を見いだすからである。自分は正しいことをしてると思い込めるからこそ、あらゆる点において迷いがなくなる。つまり、「自分は正しい事をしている」という確信を抱いて初めて、落ちつき払って他人を攻撃したり、目の前の壁を打ち破ったりすることが出来る訳だ。

 ところが僕は、その行為に正義も発見しなければ、意義などもいっこうに見いだせないので、もし誰かに復讐するとしても、せいぜい【面当て】が出来るにすぎない。この面当てというやつは、それをしたところで相手は微動だにしないにせよ、一切のものを克服する力がある。だから、立派に根本的原因の代わりを勤めることが出来るはずなのだ。

 しかし、もし僕に、本当は面当てをしたいという気持ちなどまるでなかったとしたら、一体どうしたらいいのだろう?

 憤怒は感情としては存在しながら、ここでもまた、例のいまわしい意識の法則の作用で、化学分解的にばらばらになってしまう。論証は霧のごとく消え失せ、責任者は見つからないで終わってしまう。そして、侮辱はもはや侮辱ではなく、宿命みたいなものになってしまうのだ。

 いうならば、誰を責めることもできない、「他人を喜ばせるために、書きましょう」みたいなものに変わってしまうのである。
 
(続く)
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