遠い海に消える。

中原涼

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 兄は連日家を空けるようになった。
 理由は明白であり、それを分かっている俺に、帰ってきて欲しいなどと言う権利はなく、ようやく手に入れた兄の連絡のチャットも、三週間前の「今夜は甘いものが食べたい」「シュークリーム買ったよ!」というやり取りを最後に動いていない。
 たまに兄が深夜に戻ってきただろう形跡を見ては、胸が締め付けられ、ただ身勝手な焦燥感に耐えるしかなかった。履き替えただろう靴、食事を用意しておくと、時折消えている事が、唯一の喜びだった。
 帰って来てくれているという事実が、ただ何にも代えがたく嬉しかった。この広すぎる部屋に、兄といるのだと思うことができるから。
 だから今日も家にラップを掛けたグラタンを冷蔵庫に残してきた。テーブルには一言「冷蔵庫にグラタンが入ってます」と書置きだけを残して。
 俺は混雑した朝の電車に乗り込むと、人ごみで揉みくちゃになりながら、両足に力を入れて、吊革にしがみ付いていた。
 あの花火を見た日から、身体が怠く重い。明らかに避けられているという事実や、これからの不安で、一日一日がまるで明かりのない暗闇に放り込まれたような感覚だ。今日は特にその感覚がひどい気がする。一瞬でも気を緩めたら人波に一気に攫われてしまいそうだ。
 そんな風に考えている時、
「なあ、オメガ居ねえ?」
 そんな囁きが聞こえた。
 その呟きに、反射的に体が強張ると、俺ははっと気づいてスマホを取り出した。
 まさか、と思いながら、俺は震える指先で日付を確認する。
 隣のスーツ姿の男は不審そうにあたりを見渡してから、知り合いらしい男に「なあ」と、返事を促し、彼もまた言葉を濁すようにあー、と呟く。
 スマホの画面に表示されているカレンダーは「ヒート予定日」を三日ほど過ぎていた。それを見て、心臓が止まるかと思った。不意に電車が大きく揺れた。
 思わずふらついてしまい、男とぶつかり、反射的に謝ろうと顔を上げると、男と目が合い、謝罪しようと唇を動かす一瞬。
 俺は、――あ、俺だ。そう感じた。
 虎に睨まれた小動物は、本能的に自分が捕食者であると瞬時に理解し、逃げ出す本能を持っているに違いない。そして、それはオメガである、自分にも当てはまるものでもある。
 男の眼が、冷ややかに温度を下げ、俺は背筋が凍る様な緊張を感じ後ずさった。
「お前」
 男が呟くと同時に、車内に到着のアナウンスが流れた。電車がホームに滑り込み、ドアが開くと、俺は人波をかき分けながら電車を転がるように降りた。
 駅のどこかにオメガ用の隔離避難場所があるはずだ。とりあえずそこに入らないと。
 焦る気持ちで頭上の案内板を見渡す。通勤通学ラッシュで人と何度も肩がぶつかり、舌打ちされ、
「今の奴」
 という声に心臓が怯えて跳ねる。
 どうしよう。
 無意識に体の温度が上昇してくるのを感じると、俺は殆どパニックに近い状態で、目の前が潤んでくる視界の中、オメガの避難所を探した。喉をせり上がってくる熱い息と不安で、胸が重く苦しい。
 ようやく改札口の案内板に、避難所を見つけると、俺は走った。もつれそうな足を踏ん張り、崩れそうに笑う膝に手を付きながら階段を駆け上がる。せわしなく人が絶えず往来する改札口近くの、駅を員室の横に小さく赤いプラカード見つけた。
 俺は丁度手の空いている女性駅員に声を掛けると、彼女は俺の様子を見てぎょっと目を大きくしてから、すぐにその扉を開いてくれた。
 六畳ほどの個室に入ると、人工センサーで勝手に光が点灯する。簡易椅子とテーブルが置いてあり、俺は鞄の中を漁った。
 生理的な涙が零れて、手の甲にぽたりと落ちると、情けなさが増して、涙がぼたぼたと落ちた。教科書を出して、ファイルを出して、財布、スマホ、ペンケース。けれど、薬入れが見つからない。
 ヒート期に薬を忘れるなんてありえない。
 そもそもヒート期を計算し忘れるなんて、まずオメガとしてあり得ない。
 俺はテーブルの前に座り込むと、スマホで兄の番号を呼び出してから、すぐに駄目だと消した。
 どうしよう、どうしたら……。
 短くなる呼吸と、心臓がまるで意志とは反対に大きく脈打ち、身体が熱く火照る。俺は眼を閉じると、数字を一から八までゆっくり数えて、呼吸を落ち着かせようとした。
 すると前触れも予感もなく、手の中でスマホが震えた。征人からだ。俺はすぐに彼に電話を掛けると、彼は1コール出てくれた。
「もう授業始まるぞー、サボりかー?」
「ごめん、ヒート来て……薬もなくて、今避難所で……」
 慣れ親しんだ征人の声に気が緩むと、堪えて抑え込んだはずの嗚咽が、喉の痛みと共に込み上げてくる。堪えていた不安が言葉を稚拙にさせたが、それでも訴えると、征人は二つ返事で「今行く」と答えてくれた。
「ごめん」
「大丈夫だから、待ってな」
 そう言うと電話が切れた。俺は駅員の女性に声を掛け、暫く使わせてほしいと言うと、彼女もオメガなのか、快く穏やかに了承してくれた。更にはお茶まで淹れてくれ、ただただ感謝しかなかった。
 少し気が落ち着くと、投げ散らかした私物を拾って鞄にしまい、朦朧とする視界の中、ただ天井を見つめた。
 オメガのヒートに当てられたアルファやベータの性犯罪防止の為、緊急時にオメガの使用が許されている避難所は、割と頻繁に見かける事はあったが、まさか自分が世話になる日が来るなんて。
 情けない気持ちで、俺はこれからの事を考えた。家に帰るにしても、このまま外に出たら何があるか分からない。タクシーを捕まえられても、運転手がオメガじゃない可能性の方が高いのだ。だとしたらどうやって帰ればいい? 電車なんか乗るのは到底無理だし、徒歩も以ての外だ。
ぐるぐると考えを巡らせていると、
「光、大丈夫か?」
 軽いノックの後に扉が開き、入ってきたのは征人だった。彼は素早く扉を閉めると、鍵も内側からしっかり閉めて、背負っていたリュックを下ろしながら中身を探る。
「俺の薬、多少は効くだろうから、ちょっと飲んでみて」
「本当にごめん、ありがと」
 俺は差し出されたピルケースから薬を拝借して、口に放り込み、淹れてもらったお茶で流し込む。
 オメガのヒート期の薬は、個体差によって微妙に調合が変わる事があるが、ベースは一緒なので、高ぶりや香りを、ある程度抑える事ができるはずだ。
 薬が喉を取って行くと、安心して強張っていた力がゆっくりと抜けていくのを感じた。
 
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