滝川家の人びと

卯花月影

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25 越前の雪

25-1 鬼無里の鬼

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 木曽・東美濃から奥三河にむけて長久手で討死した池田恒興の次男・池田輝政と、森長可の弟・森一重が兵を進めている。
 その一方、一益の内命を受けた義太夫と日本右衛門は、軍勢の通り道を避けて、富山から上越を経由して険しい山を越え、信濃入りすることにした。
「越後のビシャとかいう大名が北信濃侵攻のために整備した道というだけのことはありまするな」
 信濃へ続く道は思いのほか整備されていた。
「それは毘沙門天のことかや」
 日本右衛門が言っている大名とは、自らを毘沙門天の化身とした上杉謙信のことだ。
「あの上杉も羽柴方についたのじゃ。戦さの勝敗はもうきまったようなものではないか」
 謙信亡き後、養子同士の家督争いが起き、上杉家は大きく弱体化した。上杉にはもはや秀吉と戦うほどの力は残されていない。
「さて毘沙門天はよいとして、ここは何処じゃ」
 先に立って歩いている義太夫の後ろをひたすらついて歩いていた日本右衛門はエッと驚く。
「ここは何処、とは?義太夫殿。分かって歩いていたのではなかったので?」
「かようなところは初めて来た。存じておる筈もなし」
「なんと!」
 自信満々に歩いていたので、道を知っているものと思ってついてきた日本右衛門は仰天する。
「如何なされる所存で?」
「そう慌てるな。そのうち人影も見えて来よう」
 山中をひたすらに歩いて半日余り。目についたのは猿や鹿で、人影を全く見ていない。
「さ、されどここは道でありましょうか?」
「ん?どうかのう」
 なんとも頼りにならない返事に、日本右衛門は不安が募るばかり。
 その後も獣道のような道を歩き続けていると、山の背に日が傾きだしてしまった。
「暗くなれば益々迷うばかり。もう諦めて、どこか夜を明かす場所を探したほうがよいのでは?」
 さしもの義太夫もウームと唸り、あと少し、もう少し、と谷川に沿って歩き続ける。しかし、いくら歩いても見覚えのない山が目に入るばかり。
(かように険しき山越えであったか)
 だんだんと自信がなくなってきたころ、思いもかけず、街道と思しき道にでることができた。
「谷間を歩くときは辺りを伺いつつ歩みを進めよ。罠や伏兵の恐れがある」
「その危険な谷間に連れてきたのは義太夫殿ではありませぬか」
 随分と道を外れてしまっている。そもそも信濃にいたのは武田攻めのときだけ。その後は上野に行ったため、信濃の地の利を心得ていなかった。ところが、偶然にも道の先に集落らしきものが見え始めた。
「ほれ見よ。あれなるは村ではないか。わしの言うた通りであろう?」
 義太夫は誇らしげに言うが、眼下に見える村落が目指す上田ではないようだ。
「そこのお方。ここはいずこであろうか?」
 農作業を終えた百姓らしき翁に尋ねてみた。
「ここか。ここは鬼無里きなさじゃ」
「きなさ?」
 聞き覚えがない。
 この地は鬼無里と呼ばれている。かつては鬼が住んでいたと伝わる谷だ。目指す上田からは少し外れていた。
「亡霊の次は鬼。我等は妙な者ばかり相手にしておる」
 鬼の無い里と書いて鬼無里と呼ぶ。つまり鬼は退散したあとだが、そんなことは分からない義太夫と日本右衛門。不安にかられて見回してみると谷の周りは見たこともないほどの恐ろしい断崖絶壁。鬼が住んでいたとしても可笑しくはない。
 こんな物騒なところは早く退散してしまいたいが、日暮れまでに上田に着きそうにはなかった。
「万が一にも鬼がでたら、なんとされる?」
「逃げるに決まっておろう」
「戦わぬので?」
「たわけたことを申すな。我等二人だけで鬼の集団と戦い、捕らわれて食われでもしたら如何するのじゃ」
 つまらない話をしていたら、本当に鬼が出てきそうだ。義太夫はぶるると震えると、先を急ぎ始めた。
「義太夫殿。かように早くに歩かれては追いつけませぬ」
「早ういたせ、鬼がでたら…」
 と言いかけたとき、にわかに光るものが顔をかすめた。
「うぉ!な、なにが起きた?」
「矢が…」
 日本右衛門が言い終わる前に、木々の後ろから武装した百姓らしき姿が現れた。
「でた!!鬼じゃ!」
「落ち着いてくだされ。あれは人でござりまする」
 一目散に逃げようとする義太夫の行く手にも、新手が姿を見せる。見れば、先ほど道を尋ねた百姓が混じっている。どうやらただの百姓ではなかったようだ。
「確かに人ではないか。肝をつぶしたわい。人ならば恐るるにたらず」
 胸をなでおろし、すぅと息を吸って
「何奴じゃ!わしを滝川義太夫と知っての狼藉か!」
 声高に叫んだ。
「義太夫殿。かようなところで名乗りをあげては、かえって危ういのでは…」
 日本右衛門が小声で話していると、頭目と思しき大柄の男が笑いはじめる。
「口から出まかせを申すな!わしは滝川義太夫をこの目で見たことがある。滝川義太夫といえば、音に聞こえた滝川一益の甥。身の丈、六尺三寸(百九十センチ)はある、鬼でも震え上がる恐ろしき形相の大男。されど、その方はせいぜい四尺三寸が関の山ではないか」
 取り囲んでいた者たちが皆、笑い始める。
「六尺三寸?わしが?」
 義太夫は振り返って日本右衛門と顔を見合わせる。
「偽者がおるのかのう?」
「義太夫殿を見たというからには、確かに見たのでは?」
「へ?誰を?わしはあのような者に会うたことはないが…」
 しかも六尺三寸とは。一体、どこからそんな話になったのか。
 誰と間違われているのか気になる。
「その方らは大方、徳川か北条あたりの素破であろう」
「何を言うか。わしはわしじゃ。滝川左近の甥の義太夫じゃ。わし自らがそう言うておるのじゃ」
 すると背後にいた農夫が鍬を片手にして
「義太夫なれば、大不便者とかいうおかしな旗をさしておったぞ」
 と、また妙なことを言い始めた。
(大不便者?)
 旗指物には『大ふへん者』と仮名で書かれていたのだろう。濁点を打つところを間違えている。偽者は、大不便者ではなく、大武辺者と書きたかったのではないだろうか。
(もしや、その大不便者は…)
 そんな旗を指すような者は一人しかいない。
(慶次か)
 滝川家から前田家に戻った義太夫の一子、前田慶次郎と思われた。
(何のつもりで、わしの名をかたらっておるのやら…)
 おかげで面倒なことになっている。
「それは慶次じゃ。わしではない。わしが義太夫じゃ」
「偽りを申すな!」
 義太夫がどういっても、相手は目の前にいるのが義太夫だと信じようとはしない。どうしたものかと思いあぐねていると、遠くから誰かが叫びながら走って来た。
「皆、待て!同士討ちじゃ!それなるはまことに滝川義太夫殿じゃ!」
 おや、と顔を覗いてみると、今度は見覚えがある。
「沼田で会うた老翁…。あの山、後ろ山の唐沢殿か」
 真田家家臣の唐沢玄蕃だ。
「義太夫殿、お久しゅうござる。すぐにでも上田へ案内したきところじゃが今日はもう日が暮れる。今宵は鬼無里にある我らの屋敷にお泊りあれ」
 唐沢玄蕃の執り成しで、居並ぶ者たちもようやく目の前にいるのが義太夫だと信じてくれた。

 鬼無里をはじめとする上田城領域。この辺り一帯には、唐沢玄蕃ら真田昌幸の息のかかった者たちが潜み、徳川方の動きを探っている。
「驚いたのう、義太夫殿自らおいでくださるとは。三九郎殿は上田におる。先ほど、知らせを送ったゆえ、直に参られよう」
 滝川勢が上州を引き上げて三年。その後、信濃・上野は上杉・北条・徳川といった近隣大名の狩り場と化した。その中にあって真田昌幸は地侍たちを従え、戦乱に乗じて領地を広げ、大名として独立。上杉、北条、徳川と、次々に主を変えて存続を図ったため、「表裏比興ひょうりひきょうの者」と評された。
「万を超える徳川勢を相手に単身で籠城とはさすが信玄の両眼と呼ばれた真田殿じゃ」
「それも滝川殿が東国諸将を抑えて下されたゆえのこと。佐竹、佐野を羽柴陣営に組み込んだは滝川殿の調略と聞き及びました」
 一益は、北条、徳川を抑えるため、上州統治時代に近臣としていた国人衆に働きかけ、佐竹、佐野の両家を味方につけることに成功している。
「関東では滝川殿の武勇が知れ渡っておる。我が方に三九郎殿がおられるゆえ、従う者も増え、未だ上田城は持ちこたえておりまするぞ」
「そのことじゃ。羽柴勢は三河を襲うために大掛かりな戦さ支度をはじめておる。陸からは無論のこと、志摩・南勢からも大船で駿河湾を制する。いよいよ徳川を潰すつもりと見えたが、確たる勝算あってのことではなかろうかと殿はそう睨んでおるが…」
 唐沢玄蕃は義太夫の話を頷いて聞いている。いかにも何かを知っているような顔をしているが、なかなか手の内を明かしてはくれない。
 二人が話をしていると、障子に影が映った。
「三九郎様がお越しでござりまする」
 ほどなく入って来た三九郎は、一年前、伊勢で別れたときと変わっていなかった。
「義太夫、久方ぶりじゃ」
「若殿」
 義太夫は感慨深く三九郎を見上げる。
「お二人で積もる話もあろう。先ほどの話の続きは、我等から話すわけにもいかぬゆえ、三九郎殿にお聞きくだされ」
 唐沢玄蕃はそう言うと、気を利かせてその場を後にした。
「上田城には城の外へと通じる間道がある。それゆえ、皆、自由に出入りしておる。長い籠城戦にも十分に耐え得よう」
「恐れながら、羽柴筑前に一方的に廃嫡を命じられたとはいえ、若殿は大切な我が家のご嫡子。殿は大変案じておられまする。かような鬼が住んでいたような危うい地へ足を踏み入れてはなりませぬ」
 義太夫が真顔で言うと、三九郎はかすかに笑って立ち上がり、障子を開け放って広縁に出る。
「義太夫、おぬしは勘違いしておる。この地にはもう鬼はおらぬ。それゆえに鬼無里と呼ばれておる」
「へぇ。されど相手は里人に恐れられる鬼。残党がおるやもしれず…」
「あの山が見えるか。あれは一夜山と呼ばれておる。鬼が一夜で築いた山ゆえにそう呼ばれる」
 三九郎が指さす方向には一夜山。その後ろには左右に連なる山々が広がる。
「鬼が住んでいたのは千年も前、天武帝のころ。帝は山々に守られたこの谷こそ、都にふさわしいと考え、この地への遷都を試みた。それを知った鬼たちが、遷都の邪魔をしようと築いた山があれなる一夜山じゃ」
 怒った天武帝は家臣に命じて谷に住んでいた鬼を根絶やしにしたという。それ以来、この地は鬼無里と呼ばれている。
「されどわしは、この地に住んでいたのは鬼ではなく、人だったのではないかと、そう思う」
「はぁ。人が…帝に背き、遷都を邪魔立てしたと?」
「然様。人であれ、鬼であれ、ここに住んでいた者たちは、都から下って来た軍勢によって滅ぼされた」
「さりながら、この地は都となってはおりませぬ。何ゆえにそうまでして計画した遷都を取りやめたのでござりましょうな」
「それは…」
 遷都を取りやめなければならない天変地異が起きた。後に天武地震と呼ばれる大地震と、その復興もままならない、わずか五か月後に起きた浅間山の噴火。
「世を治める者は、何であっても己の命ひとつで事を動かせると思い違いをする。されどすべては天の知るところ。この天地を司っているのは人にあらず。鬼とは人の心に住まうもの。天地を揺るがす天変地異により、この地を己がままにしようとした帝の軍勢は恐れをなして去った。それゆえにこの地は鬼無里と呼ばれるようになったと、わしはそう思う」
「鬼とは人の心に住まうもの…」
 お籍が籠っていた楠城。女子供しかいないと分かっていた筈なのに、羽柴勢は火をかけ、城も人も焼き尽くしてしまった。
(あれこそ鬼畜な所業。されど…)
 かつては一向衆を相手に同じことをしてきた。信長の命とはいえ、心が痛まなかったわけではない。しかし、実際に身に降りかかってみると、容易に看過できるものではなかった。
「若殿はそのようにお考えで」
 上方を離れ、三九郎はまた少し変わったように見える。義太夫が三九郎の話に感心していると、三九郎は意外な話をはじめた。
「徳川家の老臣が調略され、寝返る算段となっておる」
「え?そ、それはまことで?老臣とは…」
「岡崎城代の石川数正じゃ」
「石川…といえば、徳川家の軍制を一手に負っているという腹臣では…」
 それが本当であれば、大変なことだ。徳川家の事情はすべて秀吉に筒抜けになり、これまで散々翻弄され、手を焼いてきた徳川家康を滅ぼすこともできる。
「では、それゆえの籠城と…。して羽柴領全域から兵を集めて三河に攻め入る手筈を整えているのも、それゆえと」
「然様。徳川の命運も尽きることとなる。されど…」
 そうたやすく事が運ぶだろうか。
「石川数正が寝返るとなれば、もはや徳川は風前の灯火。若殿は何を案じておいでで?」
 浮かない顔をする三九郎に、義太夫が不思議に思ってそう尋ねる。
「いや…取りててて何というわけではない。何とはなしに、心にかかることがあるだけじゃ。それよりも義太夫。その方に聞いてみたいと思うていたことがある」
「は、改めて何を?」
 振り向いた三九郎は、落ち着いた表情を浮かべて義太夫を見る。
「父上は…なにゆえに八郎ではなく、わしを嫡子となされたのであろうか」
 長年、疑問に思っていたのだろう。三九郎が真顔で尋ねると義太夫は笑って、
「そのようなことで。それは殿の口からお聞かせ願いたいところではあれど、それもいつになるかも分かりませぬゆえ、それがしの存念を申し上げましょう。若殿が初めて殿に会うたとき、殿は内心、大層驚いておいででござりました」
「父上が驚いていた、とは?」
「恐れながら若殿は殿の若いころによう似ておいでで。誰をも信ぜず、周りは皆、敵ばかりと、そうお考えであることが顔にでていました。そのような若殿であればこそ、一筋縄ではいかぬ甲賀の素破どもを束ねることができると、殿はそう思われたものかと。事実、若殿が嫡子となられたときも誰一人異論を唱える者もなく、むしろ、皆、安堵していたほどで」
 身体が弱く、蝶よ花よと大切に育てられた八郎では、家中を束ねることが難しいことは皆、承知していた。
「羽柴筑前が何を言おうと、今でも若殿は我が家のご嫡子。家臣一同、皆、そう思うておりまする」
 三九郎は浮かない顔で聞いていたが、いや、と首を横に振る。
「皆の期待を裏切るようであるが、わしはもう誰にも仕えることはせぬ。このまま浪人として過ごしたい」
 それが三九郎の本音だ。
 義太夫は驚き、口を挟もうとするが、
「許せ、義太夫。所詮、わしは皆と同じ一介の素破にすぎぬ。人の主として生きる重圧にはもう耐えられぬ」
 もう二度と顔を見ることもできないお虎のこと。そして多くの家臣たちを失った心の痛手が、三九郎にそう言わしめている。きっぱりとそう言われてしまうと、義太夫としても何も言うことができなくなった。

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