滝川家の人びと

卯花月影

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22 死児の齢を数う

22-1 戦禍再び

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 明けて天つ正しき十二の年。
 大坂城本丸が完成し、城下には多くの屋敷や寺院が立ち並んだ。キリシタンの教会も大阪の地に建てようと高山右近たちがいろいろと手配したらしく、すでに河内にあった教会を大坂の地に移設した。
 都を飛び出した三九郎は、ロレンソとともに大阪に移設された教会に赴き、そこで意外な人物に会う。
 敷地内に足を踏み入れと、庭先で草むしりをしている老人が目に付いた。河内の砂と呼ばれている地から来たキリシタンだろうと思い、さして気に止めてはいなかったが、よく見るとその顔に見覚えがある。
「もしや貴殿は…」
 声をかけると老人が顔をあげた。
「おぉ、これは滝川殿じゃ」
 といったのは紛れもなく三箇老人だった。明智光秀に味方したためにその首に報奨金がかけられ、大和に逃れていた三箇親子は高山右近の執り成しによって許され、大坂の教会に寄宿していた。
(このご仁は変わらぬな)
 三箇にいたころから下働きの者に交じって立ち働いていた。三箇老人は何処へいってもこうなのだろう。とはいえ、三箇にいたころは領主の父であり、城に住み、俸禄も得ていた。今は息子の三箇頼連共々、領地を召し上げられた浪人だ。
「三箇殿はもう戦さ場に出るおつもりはないのでしょうな」
 分かり切ったことだったが、聞きたくなった。三箇老人は笑って、
「いやはや。今の暮らしには何の不自由もござらぬ。もう戦さ場にでることもないかと思うとむしろ、もっと早う、こうした暮らしを選び取るべきであったと、かように考えておる次第にて」
 負け惜しみでもなんでもなく、心からそう思っているようだった。
(父上も、同じようにお考えかもしれぬ)
 家臣たちは勿論、滝川家の外からも一益にもう一旗あげてほしいと望む声は多い。それに対して一益は何も言及しない。しかし暘谷庵で風花や子供たちと暮らしている姿を見ていると、そんなことは望んでいないのではないかと思わされる。
ーもっと早う、こうした暮らしを選び取るべきであったー
 三箇老人の言葉が頭から離れない。武田攻めの折、一益は隠居を望んでいた。関東の広大な領地を返上してでも、隠居して伊勢で静かに暮らしたいと、そう願っていた。
(されど織田家に仕えてから得て来たもの全てを失った今、このまま終わるわけにはいくまい)
 北伊勢五群を取り戻さなければならない。このままでは終われない。
 
 洛外、暘谷庵。
 秀吉が織田信雄に安土からの退去を命じた話がつたわって来た。天下の情勢が怪しくなってきたことを知った滝川家の家臣たちが次々に一益の前に伺候する。
「洛中では、羽柴筑前が織田家を滅ぼそうとしているのではないかという噂が広まっておりまする。これは北伊勢を取り戻すときも近いかもしれませぬぞ」
 伊勢から来た道家彦八郎が言うと、義太夫、谷崎忠右衛門、津田小平次といった家臣たちは互いに顔を見合わせて喜ぶ。
「再び伊勢が戦場になること必定かと」
 一益が退去した長島城。今は北伊勢を掌握した織田信雄が居城としている。
「中将様が兵を挙げれば戦場となるのは尾張、伊勢。この流れであれば、再び…」
 と義太夫が言いかけたとき、表門に人の気配を感じた。
「誰か来たような…」
 家人にしては賑やかだ。
「客人か」
 一益が顔を上げると、満面笑顔で入ってきたのは蒲生忠三郎だ。
「鶴ではないか。また己の屋敷であるかのように…。案内も請わずに入ってくるな」
 義太夫が居並ぶ家臣たちを伺いながら言う。当の忠三郎は家臣たちの冷ややかな視線を気に留める風もなく、目の前を通り過ぎ、常の笑顔で一益の前に座る。
「義兄上に折り入ってお話が」
「中将殿のことであろう?」
「さすがは義兄上。仰せの通り」
 秀吉は大坂城築城により、将軍職の任官と、大坂遷都を朝廷に求めた。秀吉が天下の覇権を京・安土から大坂へ移そうとしていることが明るみになり、織田信雄が傀儡であることは皆が認めることになった。さすがの信雄もそれに気づき、秀吉への不信感を強めている。
「両者の間を取り持つため、池田殿と相談して、お二人を近江の園城寺にお呼びし、話し合う時を設けたのですが…」
 信雄が園城寺まで出向いてきたのに対し、秀吉は信雄が自分を殺そうとしていると言って大坂から動かず、信雄に大坂まで来いといいだした。これには仲裁をしている池田恒興も忠三郎も困ってしまい、致し方なく秀吉の求めるままに信雄の下にいる四人の家老を大坂へと連れ出し、秀吉に会わせた。
「中将殿には他意はなく、家老たちの口から、筑前殿を闇討ちしようなどというのはただの噂であると、言上した次第にて」
 秀吉は、信雄が暗殺を企てていることを夢で知らされた、と言ったという。
「そして誓紙を出すようにと家老たちに命じたところ、岡田重孝、津川雄光、浅井田宮丸の三名は素直にそれに応じ、それぞれ筑前殿に人質を出したものの…」
「滝川三郎兵衛は拒んだと」
「はい。ようお分かりで」
 北畠家の庶流木造家出身の滝川三郎兵衛雄利。一益が南伊勢を攻略するときに北畠家を懐柔するため、寺にいたのを還俗させて滝川姓を与え、信雄の家老にした経緯がある。
 滝川三郎兵衛には抜け目なく世を渡れるような素養があり、今回も秀吉の言いなりになって誓紙を出すことの危うさを見抜いていたようだ。
「結局、両者の会談はならず。中将殿は長島に戻られました」
 池田恒興も忠三郎も、善意で仲裁をかってでたようだが、見事に秀吉の思惑通りに動いている。
 忠三郎は戦場で兵を率いて戦うことはできるが、謀将だった祖父快幹と違い、謀略は苦手だ。信長の近臣だったとはいえ、堀久太郎、長谷川藤五郎のような奉行衆とは異なり、どこかの家の取次ぎをしていたわけでもなく、文官として働いたことがない。武道、遊芸には長けてはいても政治《まつりごと》には疎いところがある。
「とはいえ、なんとか戦さを回避しようと中将殿が家老を筑前殿のもとへ送り、両者の行き違いを埋めようとしておられたのは事実」
「それで戦さが回避できるかもしれぬと、そなたはそう思うていたのか」
 人が良すぎる。信雄をけしかけて、戦さに持ち込もうとしているのは秀吉だ。家老たちは信雄が送ったのではなく、秀吉が話し合いのためにと呼びだしたに過ぎない。
(三家老ももう終わりだ)
 秀吉に懐柔されている。勝家の時と同じで、配下の者を手懐けて、いざ合戦となったときに寝返るように仕向けている。例えそうでなくとも、滝川三郎兵衛の口から、三家老が誓紙を出し、人質を送ったことを信雄に伝えれば、信雄は三人が寝返ったと思い、始末するだろう。
「最早戦さは避けられぬ状況かと。されど、義兄上。これは朗報。千載一遇の機会でござりまする。葉月殿と北伊勢を取り戻すのは、今まさにこの時をおいてありませぬ」
「そなたは筑前の使いで参ったか」
 秀吉に何か言い含められてきたのだろう。忠三郎は悪びれることもなく、はい、と答え、
「中将殿と手切れとなりしときには、どうか羽柴筑前にお味方くだされ。此度の戦さ、お味方いただければ、勝っても負けても葉月殿をお返しするとのことにござりまする」
 信雄が兵をあげると困るのは蒲生家になる。
 今や美濃、尾張だけではない。伊勢全土が織田信雄の支配下にある。その中でただ一つ。忠三郎の叔父、関盛信のいる亀山城だけがポツンと取り残されたようになっていた。
(関安芸守はいい餌だ)
 秀吉と織田信雄が手切れになれば、伊勢において関盛信の亀山城だけが羽柴方の城になり、いの一番に攻略される。
「更に、勝った暁には義兄上に北伊勢五群をお返しすると」
「それはまことか!」
 義太夫が身を乗り出すと忠三郎は笑って
「まことじゃ。負けても義兄上には三千石、三九郎には一万五千石を約束するとのことであった。ただし、」
「ただし?」
「滝川勢の大将は三九郎ではなく、あくまで義兄上であることが条件でござります」
 主戦場となるのは桑名、長島あたり。もしくはかつて一益が領していた蟹江城を含む尾張二郡。この辺りを一番知っているのは一益だ。当然、信雄側からも味方に付くようにと使者が来るだろう。しかし葉月が捕らわれている以上、選択の余地はない。
「忘れておるようじゃが、南伊勢は如何する?」
 信雄の配下の北畠の旧臣の多くは南伊勢を領している。
「それは…三十郎殿を味方につけられぬでしょうか」
 それしかない。
 信長の弟、織田三十郎信包。信雄の配下ではあるが、娘は秀吉の側室となって姫路にいる。説き伏せれば味方につくだろうと思われた。
 フムフムと聞いていた義太夫が、そういえば、と思い出し、
「鶴、その方、三十郎殿とともに峯城を攻撃してきたではないか。いうなれば戦友、いや糞友じゃ。糞馬の友じゃ。おぬしが三十郎殿に使者を送ればよい」
 峯城攻略の際、三十郎は蒲生勢とともに石垣を登ろうとして糞尿まみれにされている。忠三郎は嫌なことを思い出させる義太夫をちらりと恨めし気に見てから、
「それは…なかなかに難しく…」
 苦笑いするばかりで明言しない。忠三郎自身もそうだが、蒲生家の家臣の中にも弁のたつものがいない。これから家を背負って立つ身でなんとも心もとない。
「致し方ない。誰もいないのであれば、義太夫、彦八郎の二人を送り込むゆえ、案ずるな」
「へ?それがしが…」
 義太夫はにわかに名前を出されて、眼を瞬かせる。
 なんの武功もあげられない三十郎に、刀ではなく剃刀を研いでさっさと出家しろ、などと矢文を送ったのはつい数か月前だ。三十郎やその下にいる家臣たちに会うのは気まずい。義太夫がちらりと道家彦八郎の顔を見て、顔をしかめていると、
「義太夫、頼み入る」
 忠三郎が頭を下げる。
(こんなことになると分かっていたら、つまらん矢文など送りつけねばよかったわい)
 これは何か手土産を用意していかねば、と義太夫はまた頭を悩ますことになった。
「三十郎殿を説くのはよいとしても、兵を挙げるとなると事はそう容易ではない。二つ返事というわけにもいくまい」
 意に反して乗り気ではない一益の返事に、忠三郎はもどかしげに膝をにじり寄せ、
「なにを迷っておいでで?これ以上ない好条件ではありませぬか」
 いかに忠三郎が急かせても、一益は目を閉じたまま、言葉を発しようとはしない。居並ぶものは皆、一益が立つかどうか、固唾をのんで見守っている。
 よろしくない雰囲気に、義太夫が周囲を見回し、人払いする。
 皆が立ち上がって場を去り、三人だけになってもなお、一益は黙ったままだ。
 見かねた義太夫が忠三郎に声をかける。
「鶴、中将殿は主筋。前回の戦さは、我らが織田家の兄弟の諍いに巻き込まれたにすぎぬ。されど此度は羽柴筑前が織田家から天下の覇権を奪い取ろうとしていることは明白。殿は主筋に弓引くことに躊躇いがあるのじゃ」
「これは笑止千万。では中将殿に天下人が務まるとでも?弟と諍いを起こし、挙句の果てに詰め腹切らせるような者でも主筋は主筋と、そう申すか?」
 忠三郎が向きになっていうので、義太夫は苦笑し、
「おぬしに中将殿を責める資格があるのか」
「わしが北伊勢に攻め入ったことを言うておるのか。それとこれとは違う。あれは義兄上が関家の城を奪い取ったがために…」
「おぬしにはおぬしの大儀があって兵を差し向けてきたのであろう。それと同じように中将殿には中将殿の大儀があろうよ。所詮、兄弟は他人の始まり。己の利となるのであれば、闇に葬ることもいとわぬのが乱世。されど領地を失った我等からすれば、そうそう割り切って考えることなどできぬわい」
 愚将と言われる織田信雄と同列にされたのが余程腹に据えかねたのか、忠三郎は憮然となって口を閉じた。
 再び場が静まり返り、離れたところから子供たちが遊ぶ声が響いてくる。いつまでも機嫌の悪い忠三郎に、一益は重い口を開く。
「鶴。家を守り、国を守るために兵を挙げたそなたを、わしは責めようとは思わぬ。されど、如何なる戦さであっても戦さは戦さ。戦さに大儀などはない。互いに大義を掲げ、大掛かりな戦さをすればするほど、多くの者に憎まれ、その憎しみは増大し、復讐の応酬を呼び込む。泥沼と化した長島願証寺との戦さを忘るるな。欲や怒りに捕らわれ、己の思いだけで突き進み、他国を屍の山とするなら、やがては地をさすらうこととなる。いにしえより、兵を好む君主をもって栄えた国などはない」
「では義兄上はご助勢くださらぬと?」
 忠三郎が目をむいて怒るので、一益は、いや、と首を横に振る。どうやら言いたいことの半分も伝わっていないようだと分かると、
「兵を挙げよう」
 短くそう言ったので、忠三郎は手を打って喜んだ。
「さすが義兄上!そう仰せくださると思うておりました」
 一益は黙ってうなずくと、手を打って津田小平次を呼び、酒肴の支度をさせる。
 次の戦さも戦場は伊勢、尾張。大掛かりな戦いになりそうだ。

 夜も更け、皆が寝静まり、忠三郎と義太夫の二人は盃を片手にふらふらと庭先に出る。
「洛外は昼も夜も変わらず静かじゃ」
 蒲生家の屋敷がある洛中と違い、洛外は往来する人もおらず、付近に建物もない。
「義兄上はもっと喜ばれるかと思うていたが」
 忠三郎が月を見上げてポツリとそうつぶやく。
 今宵は忠三郎が気を利かせ、屋敷から上質の酒を持参してくれた。美味い酒にありついた義太夫は上機嫌だ。
「その方と同じ。伊勢を戦場にされるのが嫌なのであろう」
 鼻歌交じりにそう言う。
「我らは伊勢攻略であちこち焼き払って歩いたせいで、未だに評判が悪い。何万人もの民を葬った罪は重すぎて負いきれるものではない。されど殿は悪評に耐え、辛抱強く、田畑を捨てて逃げた百姓どもが戻ってくるのを待った。民が少しずつ、北勢に戻ってからは、荒廃した土地を何年もかけて豊穣な地に変えた。あの日永周辺を切り開いたのも、雨季になると水害に悩まされていた地で堤を築かせたのも殿じゃ。我等、滝川の者が何年もかけてなしてきたことは、領主が変わったとて、なくなるようなものではない。その方、日永に行ったのであれば、目にしたであろう。一面に広がる畑を」
 長島で何万人もの民を葬ったのは一益一人ではない。忠三郎も、織田家に連なる多くの武将も参戦し、この地は屍の山と化した。
 戦後、残された滝川家の人々は、どんな思いで荒廃した地を復興させてきたのか。
「われらは己が利だけを求めて北勢を復興させたのではない。今や、誰が領主であっても作物は毎年実を実らせるし、民は収穫を喜んでおる。後の時代の人々には我らのことが記憶に残ることはないかもしれぬ。されど、思い起こすものがいなくなっても種蒔く者がいる限り、この地には豊かな実が実る。そう考えると、我らの役目はもう、終わっておるのかもしれぬな」
 北勢を取り返せるかもしれないと話したときにはあんなに喜んでいたのに、今は、何の未練もないかのように言う。
「義太夫、おぬしは伊勢を取り戻したいと思うたのではないのか」
「それは無論、取り戻したい。されど殿が乗り気ではあるまい。手塩にかけて育てた伊勢を焼け野原にするくらいであれば、このまま静かに隠遁したいと、殿は、そうお考えではなかろうか」
 桑名とその城下を焼き払ったのは忠三郎だ。そう言われてしまうと何も言えなくなる。
「義兄上は、やがては地をさすらう者となると、そう仰せであった。あれは如何なる意味か」
 正直、何の話か分からなかった。一益は何を言いたかったのだろうか。
「あれは…」
 義太夫は疲れたと見えて広縁に腰を下ろす。
「おぬしを案じておるのじゃ」
「案じるとは、何を?」
「分からんじゃろ。今の鶴は筑前に利用されているだけ。今は分からずとも、直に分かるようになる。分かった時におぬしがどうするのか。戦うことをやめるのか、戦い続けるのか、それはようわからんが、そのときに今日のことを思い起こすがよい」
 義太夫の言うときとは、いつ訪れるのだろうか。いずれにせよ、望むと望まざるとに関わらず、雪解けにはまた大きな戦さになる。次はもう織田家の内部の争いには留まらない。徳川家康、長曾我部元親、雑賀・根来衆を巻き込み、天下分け目の大戦さになるだろう。

 翌朝早く、義太夫と道家彦八郎の二人は、信長の弟信包に会うため、伊勢安濃津城に向かった。
 二人が旅姿で出かけていくのと入れ違いに、日永にいた木全彦次郎が現れた。
「殿。伊勢では今、羽柴殿が伊勢に攻め入るのではないかと噂されておりまする」
 一益が伊勢を去った後、四日市日永を治めているのは織田信雄だ。北勢ではまた戦さが始まると騒ぎになっている。
「然様。それゆえ義太夫と彦八郎を中勢の三十郎殿の元へ向かわせた」
「なんと!では入れ違いに…。これは困ったことになるやもしれませぬ」
 彦次郎が焦った顔でそう言う。
「何か不都合があったか?」
「籍殿が楠城にいることをお忘れで?」
「籍とは…楠木十郎に嫁いだ、あの娘か」
 話は三年前。大坂本願寺が開城したころまでさかのぼる。
 南北朝以来の名家楠木家は北勢四十八家のひとつ。当主の楠木正具は本願寺に味方し、大坂で討死した。名家の血を絶やさぬため、そして配下の土豪たちを纏めるために、楠木家の親戚筋から当主を立てて家を存続させようとしたところ、当時十二だった十郎に白羽の矢が立った。
 居城の楠城は四日市にある。北勢を治めるため、十郎を元服させるときに、滝川家の姫を嫁がせるようにと信長から命がくだったが、十郎に見合う年齢の娘がいなかった。滝川家連枝の義太夫、新介、道家彦八郎の三名にも打診したが、姫などおりません、という返事だった。
 織田家の直臣だった道家彦八郎を信長の元に送り、該当する姫がいないと報告させると、信長は烈火のごとく怒り、彦八郎を蹴り上げ、刀を抜いて彦八郎の首元に突き付けた。
『ぬしらに容易く騙されるほど、予の目はふさいではおらぬわ!』
 と、怒鳴ったらしい。
 道家彦八郎は真っ青になり、床に額を擦り付けて何度も謝り、今すぐ伊勢に戻り、婚儀の支度を整えます、と言って帰って来た。
 戻って来た彦八郎の話を聞き、一益は驚き、
『そなた、子がおったのか?』
 と聞くと、いいえ、と首を横に振る。
『確かに我が家で子を預かり、育てておりまする。されど、我が家の娘ではありませぬ』
『預かっている?どこの娘じゃ』
『義太夫殿が蟹江の商家の娘に産ませた子でござりまする』
『義太夫の娘?』
 一益はその時、はじめて、義太夫に娘がいたことを知った。
『かれこれ十二年ほど前。義太夫殿が懇意にしていた商家の娘が子を産んだのでござります。されど産後の肥立ちが悪く、子を産んで一月後に命を落としました。あの当時はまだ殿が独り身であったころ。義太夫殿は殿に遠慮して、とても子を育てることなどできぬと言うて我が家に子を預けに参りました』
『では、何ゆえに娘などおらぬと偽りを申した?』
『それは義太夫殿が、娘は武家には嫁がせたくないと、そう言うて…』
 義太夫が十年以上も隠してきた理由がわかった。一益に遠慮したのではなく、政略結婚の道具にされることを懸念したのだろう。
 義太夫には悪いとは思ったが、信長が知っている以上、どう足掻いても嫁がせなければならない。
 その後、渋る義太夫を説き伏せ、彦八郎に支度を整えさせて、楠木十郎に嫁がせた。その娘がお籍だ。楠木十郎は長く一益の配下にいたが、今は織田信雄の家臣になっている。
「楠木十郎殿は、つい先ごろまで義太夫殿が守っていた峯城におられます」
「なに、では楠城《くすじょう》は城代だけか」
 信雄が楠木十郎を峯城に移したということは、すぐそばにある亀山城を攻略しようと画策しているのではないか。
「峯城には続々と援軍が送り込まれ、千種城の千種三郎左衛門も入城したという話で」
 千種三郎左衛門は忠三郎の母、お桐の弟だ。
(これはまた、やりにくくなってきた)
 義太夫と彦八郎が安濃津城へ行けば、楠木十郎が峯城にいることを知ってしまうだろう。
「義太夫殿がまた、妙なことを始めなければよいのですが」
 懸念する彦次郎に、一益も頷き、
「その前に伊勢に行かねばならぬ。今の話を聞く限り、いつ亀山城が攻め込まれてもおかしくない。彦次郎、皆に支度をさせよ」
「ハハッ」
 信雄が挙兵したとしても、秀吉が大軍を集めて伊勢に侵攻するには少し時間がかかる。
(そのまえに、この件は片付けておかねば)
 秀吉が来る前であれば、思惑通りに事を進められる。うまくいけば、楠木十郎と千種三郎左衛門を逃がすことができるかもしれない。
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