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21 風を追う者
21-5 故郷の黄昏
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三九郎が都から姿を消した数日後。
四日市日永。
佐治新介の容態が急変したとの知らせを受けた義太夫は助九郎を伴い、洛外にある暘谷庵から日永に急行した。
馬を乗り潰しながら駆け遠しに駆け、寺につき、案内された部屋に入ると新介はかろうじて意識があった。
「新介!しっかりいたせ!」
声をかけると気づいたらしく、うつろに目を開けて義太夫を見る。
「玉疵も槍疵も大小あわせて相当な数。これまでは大事に至らなかったものでも、此度は弾丸から毒が入りしもの。もはや手のつくしようもありませぬ」
僧医は申し訳なさそうに頭を下げる。義太夫は助九郎と顔を見合わせ、ありありと死相の浮かぶ新介の顔を覗き込むと、
「義太夫か…」
新介がかすかな声でそう言った。
「おぉ。気づいたか。久助様を取り戻した。これで我が家も安泰じゃ!」
聞こえているのかいないのか、新介は短く息をするばかりだ。
(口惜しや…)
これまで一益の片腕として何千人もの兵を従えて戦い抜いてきた。つい数か月前には秀吉の大軍勢を相手に一歩も引かずに籠城戦を戦い抜き、天下に比類なき武勇と敵味方に称えられたというのに、今は一介の浪人として朽ち果てようとしている。
「さぞやご無念の思いを抱えておいででは…」
助九郎が涙を浮かべると、
「義太夫」
新介が何か言いたげに呼びかける。義太夫は新介の顔に耳を寄せた。
「もう一度…北勢を…」
擦れるような声だ。北勢を取り返せと、そう言っているのだと分かった。義太夫はふいに涙がこみ上げ、何度もうなずいた。
「この無念は必ずわしが晴らそう。それゆえ…何も案ずるな」
新介の顔を覗き込んでそう言うと、ほとんど見えていないと思われる新介の目がにわかに見開いた。
「あやつに…復讐してくれ」
今度ははっきりとそう聞こえた。
「あやつ?…それはもしや…」
「忠…」
新介が言いかけ、苦しそうに息をして目を閉じる。返事に困った義太夫が助九郎を見ると、
「忠三郎様に復讐せよと、そう仰せになりたかったのでは」
「さ、然様。天敵ゆえに、さもあらん」
それは分かっているが、容易に返事ができない。なんと言葉をかけようかと戸惑っていると助九郎が義太夫を押しのけ、新介の傍ににじり寄る。
「新介殿!必ず、必ずや忠三郎様を倒し、新介殿の無念を晴らしまする!」
「助九郎、ち、ちとそれは…」
「義太夫殿もそう仰せでござります!」
「え?わし?…いや、それは…」
「四の五の言わず、義太夫殿もここで誓ってくだされ!」
何度も助九郎に促され、致し方なく
「新介。案ずるな。鶴のことなら、わしに任せておけ」
そう言ったが、新介に聞こえていたのかどうかは分からない。新介は苦しそうに息をするだけで、それ以上、返事をすることはなかった。
(何故にかようなことに…)
武田を滅ぼし、意気揚々と上野の地に入り、城持ちとなって供に喜んでいたのはつい一年前のことだ。それがあろうことか、関東の広大な地はもとより、住み慣れた北勢までも奪われ、思いを残したまま死んでいく従弟の姿はあまりに哀しく、世の無常を嘆かずにはいられない。
「やっと伊勢に戻ったというにのう」
日永の一角にある秋の日の庵の空気は、どこか懐かしさを感じるものであり、遠い過去の記憶が心の奥から浮かび上がってくる。
新介を一益の家臣に加えようと、尾張から甲賀に行ったときのことが思い起こされた。あのときは半ば騙すようにして甲賀から京へ、そして尾張に連れて行った。思えば二人とも若かった。危険を厭わず、面白そうだと思うことには喜んで飛び込んだ。
一益に従ったことで、二人は一益同様、一族から縁を切られ、家系図からも抹消された。帰る故郷を失った義太夫と新介に、一益はこの日永を、新しい故郷とするようにと菩提寺を用意してくれた。
日永は失った故郷よりも遥かに暖かく、海の幸にも恵まれた実り豊かな地だ。
尾張に近く、何かと騒乱に巻き込まれる長島、桑名と比べると、比較的戦禍を被ることもなく、人々は平穏に暮らしている。戦い疲れたとき、ふと足を運び、心を落ち着けるひとときをもつにはふさわしい地だった。
庭先を見ると、あたたかな秋の日差しが眩しい。
(もう晩秋か)
空は薄紅色に染まり、木々の葉は金色に輝いている。西日が静かに傾きながら、隅々に長い影を落とす。冷たい風が頬を撫でるたびに、枯葉がひらひらと舞い落ち、ささやくような音を立てていた。光の角度が低くなるにつれて、池の水が黄金色に輝き、その中に温かな気配が滲んでいる。日が沈むまでのわずかな間、世界はまるで時が止まったかのように静寂に包まれ、冬の訪れを予感させる冷たさが肌に染み渡る。
長い籠城戦を終え、滝川家の家人たちが長島城を追われたのは七月。もう三か月が経過している。里山の紅葉が終わりを告げ、田からは稲が消えて殺風景な景色が広がるころ、暖かい日永にも寒い冬が訪れる。晩秋の西日は、別れの寂しさと新しい始まりの予感を同時に胸に刻み込む、儚く美しい瞬間を描き出していた。
佐治新介が息を引き取ったのはその翌日の早朝。甲賀にいる佐治一族に引き渡そうかとも思ったが、思い直し、滝川家の家人として日永の寺に葬った。
「我らはまた必ず北勢に戻る。新介もここにおれば、皆が墓参りにくる。しばしのとき、ここで待っておれ」
亡き従弟へ話しかけ、墓前に花を添える義太夫に、助九郎が思い出したように
「義太夫殿。死に際の新介殿との約定を守られるでしょうな」
「ん?約定?とは?」
惚けてそう言う義太夫に、助九郎が本気で怒る。
「忠三郎様の首を、新介殿の墓前に供えるのでござりましょう?」
「お?おぉ、忘れておった」
なんともいい加減な返事に、約束を守る気などないことが伝わって来た。
「見損ないましたぞ。無念の死を遂げた新介殿との約定を反故になさるおつもりか」
助九郎が目をむいて咎めると、義太夫はうんうんと頷く。
「新介は何も首を取れとは言うてはおらなんだ」
「されど復讐せよと」
「然様。助九郎、よいことを教えてやる。鶴に復讐するのであれば、首を取るなどという容易い方法では意味がない」
義太夫が笑ってそう言うと、助九郎は首を傾げる。
「では、どうしろと?」
「新介の遺言じゃと言うて、助太郎のように、事あるごとに鶴を助けてやれ。あやつの性格では、そのほうが余程、効果がある」
「助ける?忠三郎様を?」
義太夫の言わんとしていることがわからず、助九郎が怪訝な顔をすると、義太夫が脇差を取り、
「こいつを新介の形見分けだというて鶴に渡してこい。さすれば、わしの言うたことの意味がわかる」
助九郎は渡された脇差を押し頂くが、どうにも義太夫の言うことは謎めいている。
「兎に角、行って参れ。ついでに殿にも新介が死んだと知らせてこい」
悪ふざけにしても度を越していて、腑に落ちなかったが、助九郎は脇差を包み、都に戻ることにした。
京の都、南蛮寺。
何度か通っている中で、忠三郎は河内のキリシタンたちの動向を耳にする。
「三箇殿は明智に味方したと?」
宣教師たちに聖地とまで言わしめた河内。その河内にある三箇教会の代表のようなキリシタン大名、三箇頼照。三箇の領内、深野大池では毎年春先になると、河内の内外から見物人が押し寄せるような復活の祭りが行われていた。しかし、本能寺の変を知り、明智勢が押し寄せることを危惧した三箇老人が明智方に味方したために、三箇教会は羽柴勢により城とともに焼き払われ、三箇父子の首には報奨金がかけられた。
「そのようなことがあったとは…で、いま、三箇殿はいずこへ?」
忠三郎が驚いて尋ねると、牧村長兵衛は辺りを憚りながら
「大和に逃れたという話でござりまする」
「大和?大和は筒井殿の領内。かの国はいにしえよりの仏教国のはずでは」
筒井家はもともと興福寺の僧侶の家系で、大和は今でも寺社の勢力が武家を凌駕している。
「いかにも。されど筒井家の跡取りの藤四郎殿は三箇殿の人柄に感服し、お二人を領内に匿っているとか」
筒井藤四郎。伊賀攻めの時に何度か顔を見たことがある。そんな大胆なことをしそうな人間には見えなかった。秀吉に咎められたときに、なんと申し開きをするつもりなのだろう。それよりも何故、あえて危ない橋を渡っているのだろうか。
「三箇殿というお方が、それほどのお方なのでしょう」
忠三郎の周りの人間の心を惹きつけるキリシタンたち。その魅力は何なのか。彼らの信仰とはどういうものなのか。日ごとに興味が湧いてくる。
少し離れたところから、子供たちの歌声が聞こえてくる中、忠三郎があれこれと思いめぐらしていると、
「忠三郎様」
助太郎に声を掛けられた。
「如何した、助太郎」
「ちと…お目通りを願っている者が…」
「わしに?」
助太郎が言いにくそうにしているので、呼ばれるままについていくと、助太郎の弟、助九郎が裏手で待っていた。
「誰かと思えば助九郎ではないか。久しいのう」
忠三郎が屈託ない笑顔を見せる。先日、屋敷に忍び込んで、虎から子供をさらっていったのが助九郎とは思っていないようだ。助九郎はやや緊張した面持ちで懐から脇差を取り出し、忠三郎の前に掲げる。
「これは?」
「新介殿より、形見分けの品でござりまする」
「形見分け…」
忠三郎の顔から笑みが消え、無言で脇差を手に取る。しばしの間、何かを考えているように脇差をじっと見つめていたが、
「新介が死んだと?」
「はい。七月の矢田山での玉疵が元で」
そうだったのか、と忠三郎が改めて脇差を見る。あの時、周りの草が燃え、辺り一面が煙に包まれていた。新介が怪我をしていたことには気づいていたが、致命傷になるような手傷を負っているとは思っていなかった。
「新介がこの脇差をわしに渡せと?」
悲壮な面持ちで問う忠三郎に、助九郎は一瞬、なんと言おうかと迷ったが、
「は、はい。不始末の責任を感じて一度は腹を切ろうとしたところ、殿に止められ、再度、ご恩に報いようと怪我の治療を続けておりましたが、容態は悪くなるばかり。いよいよというときに我らを呼ばれました。末期(まつご)に忠三郎様のことを思い起こされ、苦しい息の下、脇差をお渡しするようにとそう言い残すと思い残すことがなくなったと見え、目を閉じ、そのまま息を引き取られました」
話している内にかなり脚色された話になってしまった。助九郎も話しながらだんだんと感極まったのと、辻褄をあわせようと考え考え話したために、言葉に詰まり、妙に真実味を増した話になった。
忠三郎はじっと助九郎の話を聞いていたが、何の疑いもなく信じたらしく、唇を噛みしめ、頷いた。
「昔はよく、助九郎や新介に武芸を教えてもろうたな」
感慨深く、岐阜の人質時代を思い出して語り始める。忠三郎の記憶の中ではかなり美化されているようだ。まともに武芸を教えていたのは助九郎だけで、義太夫や新介は遊び半分で火縄銃やら手裏剣やらを取り出し、忠三郎に持たせてからかっていたのだから、美談とは程遠い話なのだが。
「新介には借りばかり作り、礼の一つを言うこともできなかった」
「は…」
忠三郎が目に涙を浮かべ、助九郎を見る。
「されど、この借りは返す。助九郎、わしが必ずや葉月殿を取り戻して見せる。近々、義兄上のもとを訪ね、葉月殿の話をしようと思うていたところじゃ。義兄上に伝えておいてくれ」
「ハハッ」
脇差を渡したことで、忠三郎は何やら勘違いをしている。このまま勘違いさせていていいのだろうか。助九郎が困惑しながら暘谷庵に戻ると、義太夫が伊勢から戻って来たところだった。
「義太夫殿。例の脇差を忠三郎様にお渡しして参りましたが…」
本当にあれが新介の言う復讐になっているのだろうかと疑問を感じつつ、そう告げる。
「おぉ、それは大儀であったな」
「されど新介殿の形見の品を忠三郎様にお渡ししてよろしかったので?」
そんな大切な品であれば、一益に渡すべきではないかとおもったが、
「よいよい。気にするな。あれは新介の脇差ではない」
義太夫が平然と言ったので、助九郎は耳を疑った。
「新介殿の形見分けではなかったので?」
「然様。あれは鶴の脇差じゃ。峯城明け渡しのあとで、わしが拝借したもの。されど玉姫殿に叱られたゆえ、いつか返そうと思うていた。ちょうどよかったわい」
ぬけぬけとそう言う。
「元は忠三郎様のものだったと?されど、忠三郎様は脇差を見て、目に涙を浮かべて…」
どういうことかと助九郎が首を傾げると、義太夫が腹を抱えて笑い出した。
「鶴めが泣いておったのか!これは可笑しいわい。のう、助九郎。わしの言うた通りであったろう?あやつは今頃は己の脇差であったことも忘れ、これなるは新介の形見の品と、脇差を見て悲嘆にくれ、袖を濡らしておることじゃろう」
なんとも度を越した義太夫の悪ふざけに助九郎はあきれ果て、言葉もない。
「されど、借りは返す、葉月様を取り戻すと、そう仰せでした」
「なに、鶴がそのようなことを?」
「はい。それゆえ、殿と話すと」
「それはまた…いや、待て。もしやそれは…」
忠三郎の魂胆が見えた。
柴田勝家と織田信孝の死によって戦乱が収まったかに見えているが、未だ天下には火種が燻っている。
(もしや、また殿を戦さに駆り出そうとしているのでは)
そうだとすれば、また、伊勢を戦場にして戦うことになりかねない。
(もう一度旗揚げか)
一益は今、これまでにないほど平穏な日々を送っている。武田攻めの前から隠居を望んでいたが、皮肉にも戦さに負け、北伊勢を奪われることによって、一益の願いは叶えられた。忠三郎はそれを承知で、葉月を使って一益を戦場に駆り出そうとしているのではないだろうか。
四日市日永。
佐治新介の容態が急変したとの知らせを受けた義太夫は助九郎を伴い、洛外にある暘谷庵から日永に急行した。
馬を乗り潰しながら駆け遠しに駆け、寺につき、案内された部屋に入ると新介はかろうじて意識があった。
「新介!しっかりいたせ!」
声をかけると気づいたらしく、うつろに目を開けて義太夫を見る。
「玉疵も槍疵も大小あわせて相当な数。これまでは大事に至らなかったものでも、此度は弾丸から毒が入りしもの。もはや手のつくしようもありませぬ」
僧医は申し訳なさそうに頭を下げる。義太夫は助九郎と顔を見合わせ、ありありと死相の浮かぶ新介の顔を覗き込むと、
「義太夫か…」
新介がかすかな声でそう言った。
「おぉ。気づいたか。久助様を取り戻した。これで我が家も安泰じゃ!」
聞こえているのかいないのか、新介は短く息をするばかりだ。
(口惜しや…)
これまで一益の片腕として何千人もの兵を従えて戦い抜いてきた。つい数か月前には秀吉の大軍勢を相手に一歩も引かずに籠城戦を戦い抜き、天下に比類なき武勇と敵味方に称えられたというのに、今は一介の浪人として朽ち果てようとしている。
「さぞやご無念の思いを抱えておいででは…」
助九郎が涙を浮かべると、
「義太夫」
新介が何か言いたげに呼びかける。義太夫は新介の顔に耳を寄せた。
「もう一度…北勢を…」
擦れるような声だ。北勢を取り返せと、そう言っているのだと分かった。義太夫はふいに涙がこみ上げ、何度もうなずいた。
「この無念は必ずわしが晴らそう。それゆえ…何も案ずるな」
新介の顔を覗き込んでそう言うと、ほとんど見えていないと思われる新介の目がにわかに見開いた。
「あやつに…復讐してくれ」
今度ははっきりとそう聞こえた。
「あやつ?…それはもしや…」
「忠…」
新介が言いかけ、苦しそうに息をして目を閉じる。返事に困った義太夫が助九郎を見ると、
「忠三郎様に復讐せよと、そう仰せになりたかったのでは」
「さ、然様。天敵ゆえに、さもあらん」
それは分かっているが、容易に返事ができない。なんと言葉をかけようかと戸惑っていると助九郎が義太夫を押しのけ、新介の傍ににじり寄る。
「新介殿!必ず、必ずや忠三郎様を倒し、新介殿の無念を晴らしまする!」
「助九郎、ち、ちとそれは…」
「義太夫殿もそう仰せでござります!」
「え?わし?…いや、それは…」
「四の五の言わず、義太夫殿もここで誓ってくだされ!」
何度も助九郎に促され、致し方なく
「新介。案ずるな。鶴のことなら、わしに任せておけ」
そう言ったが、新介に聞こえていたのかどうかは分からない。新介は苦しそうに息をするだけで、それ以上、返事をすることはなかった。
(何故にかようなことに…)
武田を滅ぼし、意気揚々と上野の地に入り、城持ちとなって供に喜んでいたのはつい一年前のことだ。それがあろうことか、関東の広大な地はもとより、住み慣れた北勢までも奪われ、思いを残したまま死んでいく従弟の姿はあまりに哀しく、世の無常を嘆かずにはいられない。
「やっと伊勢に戻ったというにのう」
日永の一角にある秋の日の庵の空気は、どこか懐かしさを感じるものであり、遠い過去の記憶が心の奥から浮かび上がってくる。
新介を一益の家臣に加えようと、尾張から甲賀に行ったときのことが思い起こされた。あのときは半ば騙すようにして甲賀から京へ、そして尾張に連れて行った。思えば二人とも若かった。危険を厭わず、面白そうだと思うことには喜んで飛び込んだ。
一益に従ったことで、二人は一益同様、一族から縁を切られ、家系図からも抹消された。帰る故郷を失った義太夫と新介に、一益はこの日永を、新しい故郷とするようにと菩提寺を用意してくれた。
日永は失った故郷よりも遥かに暖かく、海の幸にも恵まれた実り豊かな地だ。
尾張に近く、何かと騒乱に巻き込まれる長島、桑名と比べると、比較的戦禍を被ることもなく、人々は平穏に暮らしている。戦い疲れたとき、ふと足を運び、心を落ち着けるひとときをもつにはふさわしい地だった。
庭先を見ると、あたたかな秋の日差しが眩しい。
(もう晩秋か)
空は薄紅色に染まり、木々の葉は金色に輝いている。西日が静かに傾きながら、隅々に長い影を落とす。冷たい風が頬を撫でるたびに、枯葉がひらひらと舞い落ち、ささやくような音を立てていた。光の角度が低くなるにつれて、池の水が黄金色に輝き、その中に温かな気配が滲んでいる。日が沈むまでのわずかな間、世界はまるで時が止まったかのように静寂に包まれ、冬の訪れを予感させる冷たさが肌に染み渡る。
長い籠城戦を終え、滝川家の家人たちが長島城を追われたのは七月。もう三か月が経過している。里山の紅葉が終わりを告げ、田からは稲が消えて殺風景な景色が広がるころ、暖かい日永にも寒い冬が訪れる。晩秋の西日は、別れの寂しさと新しい始まりの予感を同時に胸に刻み込む、儚く美しい瞬間を描き出していた。
佐治新介が息を引き取ったのはその翌日の早朝。甲賀にいる佐治一族に引き渡そうかとも思ったが、思い直し、滝川家の家人として日永の寺に葬った。
「我らはまた必ず北勢に戻る。新介もここにおれば、皆が墓参りにくる。しばしのとき、ここで待っておれ」
亡き従弟へ話しかけ、墓前に花を添える義太夫に、助九郎が思い出したように
「義太夫殿。死に際の新介殿との約定を守られるでしょうな」
「ん?約定?とは?」
惚けてそう言う義太夫に、助九郎が本気で怒る。
「忠三郎様の首を、新介殿の墓前に供えるのでござりましょう?」
「お?おぉ、忘れておった」
なんともいい加減な返事に、約束を守る気などないことが伝わって来た。
「見損ないましたぞ。無念の死を遂げた新介殿との約定を反故になさるおつもりか」
助九郎が目をむいて咎めると、義太夫はうんうんと頷く。
「新介は何も首を取れとは言うてはおらなんだ」
「されど復讐せよと」
「然様。助九郎、よいことを教えてやる。鶴に復讐するのであれば、首を取るなどという容易い方法では意味がない」
義太夫が笑ってそう言うと、助九郎は首を傾げる。
「では、どうしろと?」
「新介の遺言じゃと言うて、助太郎のように、事あるごとに鶴を助けてやれ。あやつの性格では、そのほうが余程、効果がある」
「助ける?忠三郎様を?」
義太夫の言わんとしていることがわからず、助九郎が怪訝な顔をすると、義太夫が脇差を取り、
「こいつを新介の形見分けだというて鶴に渡してこい。さすれば、わしの言うたことの意味がわかる」
助九郎は渡された脇差を押し頂くが、どうにも義太夫の言うことは謎めいている。
「兎に角、行って参れ。ついでに殿にも新介が死んだと知らせてこい」
悪ふざけにしても度を越していて、腑に落ちなかったが、助九郎は脇差を包み、都に戻ることにした。
京の都、南蛮寺。
何度か通っている中で、忠三郎は河内のキリシタンたちの動向を耳にする。
「三箇殿は明智に味方したと?」
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忠三郎が驚いて尋ねると、牧村長兵衛は辺りを憚りながら
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「大和?大和は筒井殿の領内。かの国はいにしえよりの仏教国のはずでは」
筒井家はもともと興福寺の僧侶の家系で、大和は今でも寺社の勢力が武家を凌駕している。
「いかにも。されど筒井家の跡取りの藤四郎殿は三箇殿の人柄に感服し、お二人を領内に匿っているとか」
筒井藤四郎。伊賀攻めの時に何度か顔を見たことがある。そんな大胆なことをしそうな人間には見えなかった。秀吉に咎められたときに、なんと申し開きをするつもりなのだろう。それよりも何故、あえて危ない橋を渡っているのだろうか。
「三箇殿というお方が、それほどのお方なのでしょう」
忠三郎の周りの人間の心を惹きつけるキリシタンたち。その魅力は何なのか。彼らの信仰とはどういうものなのか。日ごとに興味が湧いてくる。
少し離れたところから、子供たちの歌声が聞こえてくる中、忠三郎があれこれと思いめぐらしていると、
「忠三郎様」
助太郎に声を掛けられた。
「如何した、助太郎」
「ちと…お目通りを願っている者が…」
「わしに?」
助太郎が言いにくそうにしているので、呼ばれるままについていくと、助太郎の弟、助九郎が裏手で待っていた。
「誰かと思えば助九郎ではないか。久しいのう」
忠三郎が屈託ない笑顔を見せる。先日、屋敷に忍び込んで、虎から子供をさらっていったのが助九郎とは思っていないようだ。助九郎はやや緊張した面持ちで懐から脇差を取り出し、忠三郎の前に掲げる。
「これは?」
「新介殿より、形見分けの品でござりまする」
「形見分け…」
忠三郎の顔から笑みが消え、無言で脇差を手に取る。しばしの間、何かを考えているように脇差をじっと見つめていたが、
「新介が死んだと?」
「はい。七月の矢田山での玉疵が元で」
そうだったのか、と忠三郎が改めて脇差を見る。あの時、周りの草が燃え、辺り一面が煙に包まれていた。新介が怪我をしていたことには気づいていたが、致命傷になるような手傷を負っているとは思っていなかった。
「新介がこの脇差をわしに渡せと?」
悲壮な面持ちで問う忠三郎に、助九郎は一瞬、なんと言おうかと迷ったが、
「は、はい。不始末の責任を感じて一度は腹を切ろうとしたところ、殿に止められ、再度、ご恩に報いようと怪我の治療を続けておりましたが、容態は悪くなるばかり。いよいよというときに我らを呼ばれました。末期(まつご)に忠三郎様のことを思い起こされ、苦しい息の下、脇差をお渡しするようにとそう言い残すと思い残すことがなくなったと見え、目を閉じ、そのまま息を引き取られました」
話している内にかなり脚色された話になってしまった。助九郎も話しながらだんだんと感極まったのと、辻褄をあわせようと考え考え話したために、言葉に詰まり、妙に真実味を増した話になった。
忠三郎はじっと助九郎の話を聞いていたが、何の疑いもなく信じたらしく、唇を噛みしめ、頷いた。
「昔はよく、助九郎や新介に武芸を教えてもろうたな」
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「新介には借りばかり作り、礼の一つを言うこともできなかった」
「は…」
忠三郎が目に涙を浮かべ、助九郎を見る。
「されど、この借りは返す。助九郎、わしが必ずや葉月殿を取り戻して見せる。近々、義兄上のもとを訪ね、葉月殿の話をしようと思うていたところじゃ。義兄上に伝えておいてくれ」
「ハハッ」
脇差を渡したことで、忠三郎は何やら勘違いをしている。このまま勘違いさせていていいのだろうか。助九郎が困惑しながら暘谷庵に戻ると、義太夫が伊勢から戻って来たところだった。
「義太夫殿。例の脇差を忠三郎様にお渡しして参りましたが…」
本当にあれが新介の言う復讐になっているのだろうかと疑問を感じつつ、そう告げる。
「おぉ、それは大儀であったな」
「されど新介殿の形見の品を忠三郎様にお渡ししてよろしかったので?」
そんな大切な品であれば、一益に渡すべきではないかとおもったが、
「よいよい。気にするな。あれは新介の脇差ではない」
義太夫が平然と言ったので、助九郎は耳を疑った。
「新介殿の形見分けではなかったので?」
「然様。あれは鶴の脇差じゃ。峯城明け渡しのあとで、わしが拝借したもの。されど玉姫殿に叱られたゆえ、いつか返そうと思うていた。ちょうどよかったわい」
ぬけぬけとそう言う。
「元は忠三郎様のものだったと?されど、忠三郎様は脇差を見て、目に涙を浮かべて…」
どういうことかと助九郎が首を傾げると、義太夫が腹を抱えて笑い出した。
「鶴めが泣いておったのか!これは可笑しいわい。のう、助九郎。わしの言うた通りであったろう?あやつは今頃は己の脇差であったことも忘れ、これなるは新介の形見の品と、脇差を見て悲嘆にくれ、袖を濡らしておることじゃろう」
なんとも度を越した義太夫の悪ふざけに助九郎はあきれ果て、言葉もない。
「されど、借りは返す、葉月様を取り戻すと、そう仰せでした」
「なに、鶴がそのようなことを?」
「はい。それゆえ、殿と話すと」
「それはまた…いや、待て。もしやそれは…」
忠三郎の魂胆が見えた。
柴田勝家と織田信孝の死によって戦乱が収まったかに見えているが、未だ天下には火種が燻っている。
(もしや、また殿を戦さに駆り出そうとしているのでは)
そうだとすれば、また、伊勢を戦場にして戦うことになりかねない。
(もう一度旗揚げか)
一益は今、これまでにないほど平穏な日々を送っている。武田攻めの前から隠居を望んでいたが、皮肉にも戦さに負け、北伊勢を奪われることによって、一益の願いは叶えられた。忠三郎はそれを承知で、葉月を使って一益を戦場に駆り出そうとしているのではないだろうか。
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弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
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