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21 風を追う者
21-3 隠遁
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戦乱が収まり、天下に再び泰平が訪れた。
虎に次いで、章姫とその母咲菜、侍女たちが去った日野中野城では静かな時が流れている。
「桃源郷とはよう言うたものじゃ」
広縁に寝転がり、ぼんやりと空を見上げていた義太夫がそう言うと、忠三郎が呼んでいた書状を畳みながら、
「桃源郷?」
「然様。殿が仰せであった。この日野谷は桃源郷じゃと」
「義兄上が?」
長島が開城したのは七月。あれから一か月たつが、一益はどこへ行ったのか消息を掴むことができない。義太夫が当たり前のようにふらふらと現れたときは驚いたが、諸国からの仕官の誘いを断り、何をするでもなく日野中野城に滞在している。
「ではずっとここにおればよい。わしに仕えるか?」
「その方の家来なんぞ、ご免じゃ。わしは殿以外に仕える気はない」
助太郎にも誘わせているが、義太夫からは常に同じ返事しか返ってこない。
「ではこのまま野に埋もれるつもりか。それとも、義兄上は一旗揚げるおつもりがあるのか」
「左様なことはおぬしには関わりなきことじゃ」
曖昧な返事を返したつもりだろうが、言下に否定しなかったということは何かしら動いているのだろうと察し、
「義太夫、聞いてくれ。この日野の隣、近江八幡を領しているのが堀久太郎であることはおぬしもよう存じておろう。筑前が久太郎の領地を加増するとなると、やもすれば、わしはこの地を追われかねない。なんとしてもそれだけは避けたい」
「それは難しいかもしれぬな」
堀久太郎は長年、織田家の奉行だった。そのときの縁を使って秀吉の天下取りのために諸将に働きかけている。それに比べ、忠三郎はどうだろうか。
「苦労人の久太郎に比べると、そのほうは世間知らずの世渡り下手。そう上手く思惑通りになるとは思えぬが」
「そのことはよう存じておる。それゆえ、次に戦さとなったときには義兄上の力をお借りしたい。義兄上だとて北勢を取り返すおつもりがあろう?さすれば、わしが中勢を取ろう。そうしてまずは我等で伊勢全土を抑える。義兄上が声をかければ紀州の雑賀・根来衆、それに志摩の九鬼殿も動かれよう。そのうえで…」
忠三郎が壮大な計画を話し出すと、義太夫は面倒くさそうに手を振るよ。
「大概にせい。この上、まだ殿に戦させよと申すか。殿はのう、戦さに飽き飽きされておるのじゃ。筑前から貰うておる隠居料だけで十分と仰せられておる。だいたい、虎殿の生んだ和子も、葉月様も、章姫様まで筑前の元に取りこめられていて、誰一人帰される気配もない。殿がどれほど心を痛めておられるか、わからんか」
虎、葉月、章姫を秀吉の元に送ったのは忠三郎だ。その話をされると忠三郎はぐうの音もでない。
「殿も、若殿も、未だ赤子の顔を見ることも叶わぬのじゃ」
「虎は京の我が家の屋敷におる。行く行くは、赤子は三九郎の元に送り届けるつもりでおる」
忠三郎の約束はあてにならない。天下一、気の長い漢の異名をもつ忠三郎を待っていたら、三九郎は老人になってしまう。
(三条にある蒲生家の屋敷におるのか)
戦さがひと段落ついたころ、忠三郎は都に屋敷を構えた。そこそこな規模のその屋敷は、秀吉を迎え入れるために建てたようだ。
義太夫の目がきらりと光るが、忠三郎は気づかない。
「虎は産後の肥立ちが悪い。子を生んでから、ずっと臥せっておる」
何の説明もなく、突然、秀吉の側室にされた虎は毎日悲しみに暮れ、生きる気力を失ってしまった。兄である忠三郎が声をかけても聞いているのかいないのか、うわの空で、魂が抜けたように生気のない表情を浮かべている。
「虎のことはともかくとしても…義兄上の孫ならば、我が家の鶴千代がおるではないか」
不満そうにそう言ったので、義太夫は驚いて起き上がる。
「それはもしや…滝川家最大の秘密を存じておるのか。誰から聞いた?」
「滝川家最大の秘密?章殿の母が来て喋った。あれはまことのことなのであろう?」
咲菜であれば、口を滑らせたとしても不思議はない。義太夫は苦笑して、
「されど我が家の嫡子は虎殿の生んだ和子様じゃ。ここは若殿は頑として譲らぬ」
意外に頑固な三九郎は、妻帯するつもりがないらしい。
「女子などはどこにでもおろう。虎や虎の生んだ子にこだわる必要もない。三九郎は何故そこまで虎にこだわっておるのか」
忠三郎の言いようは、なんとも軽々しい。三九郎が聞いたら刀を掴んで怒るだろう。
「おぬしには分からんじゃろうなぁ」
いちいち説明するのも面倒で、義太夫が軽く流すと、
「三九郎には悪いとは思うが、筑前は義兄上を恐れている。義兄上が存命中は人質の解放はない。三九郎もそのくらいのことは分かっておろう。それよりも義兄上はいずこにおわす。伊勢か?」
何度もしつこく聞いているが、義太夫は惚けて話を逸らすばかりだ。
「大坂で本腰入れて築城しているらしいではないか」
また話を逸らされた。忠三郎は苦笑して
「元々は右府様が丹羽殿に命じて作ろうとしていた城。縄張りは終わっていたのであろう。今は、羽柴家の黒田官兵衛が総奉行を務め、大掛かりな城を築こうとしておる。今年中には本丸が完成するという話じゃ」
秀吉は四国攻めを視野に入れ、大坂に本拠地を移そうとしている。その規模からいっても安土城に対抗しようとしているのが分かる。
「わしもそろそろ旅にでる」
義太夫がふらりと立ち上がると、忠三郎は慌てて
「何。待て、義太夫。去るのであれば、せめて義兄上の居場所を教えよ」
義太夫に逃げられては手掛かりを失ってしまう。
「お?殿に会いたいか?会ってどうする?詫びでもいれるか?」
「それは…」
会ってどうするかと言われると返事に困る。忠三郎が思いあぐねていると義太夫は笑って
「まぁよい。伝えておいてやる。世話になった。また腹が減ったら立ち寄るやもしれぬ」
「我が城を一服一銭茶屋扱いするな」
義太夫は笑って部屋を出た。
(何処へいくのか)
何か目的をもって姿を消したように思える。義太夫は、そして一益の次の一手は何なのだろうか。
京の都にある南蛮寺。イエズス会が古い寺の跡に南蛮寺を建てたのは二十年以上前になる。その後、高山右近の父、高山図書他のキリシタンの寄進により、大規模な改修が行われた。南蛮寺は通称で、正式な名前は被昇天の聖母教会。キリシタンたちの間では珊太満利亜上人の寺と呼ばれていた。信長が生涯を終えた本能寺や信忠が討死した二条新御所も近く、ここだけが戦禍を免れたのは奇跡に近い。
信長横死からすでに一年が経過しているが、この南蛮寺では信長存命中と変わらず、連日、畿内のキリシタンたちが集まりミサが行われている。
近江、日野の地から都に上った義太夫は、真っ先に南蛮寺に足を向けた。
「ここはいつ来ても人が大勢おるのう」
熱心に修道士の話を聞く人々を横目で見ながら、傍にいる助九郎に声をかけると、
「天下を揺るがす大事が起これば、人は自然と何ものをも揺るがすことなき力を求むるものじゃ」
なにやら聞き覚えのある声がする。振り向くと案の定、ロレンソだった。
「生臭坊主か。随分と坊主らしいことを抜かしおる」
心なしか小さくなったロレンソを見て、義太夫がフンと笑うと、ロレンソが隣の母屋を指さす。
「どこで油を売っておった。お待ちじゃ、早う行け」
ロレンソに急かされ、義太夫は母屋へ足を向ける。
長島城を出て以来、滝川家の家人たちは各地に散らばり、今後の情勢を伺っていた。京の都では二か所に分かれて潜んでいる。その一つが南蛮寺の敷地内にある数寄屋造の小さな建物だ。
「待て、素浪人」
ロレンソに呼び止められ、義太夫は振り返る。
「素浪人?わしのことか」
「ほかにおらぬ。ほれ、これを持っていけ」
と薬袋を渡された。
「相変わらず無礼な奴じゃ」
義太夫は小声でぶつぶつと呟きながら薬袋を懐に入れる。
「怪我人の容態は?」
「捗々しくない」
矢田山夜襲の際、足に被弾した新介がなかなか回復しない。傷口が化膿し、どうにもならなくなったためにとても都に連れてくることはできなかった。致し方なく地縁のある四日市日永の寺へ預け、木全彦次郎を共において都に上った。ロレンソに相談したところ、医師であり宣教師でもあったアルメイダ神父に西洋医術の手ほどきを受けた修道士が伊勢まで赴き、膝から下を切断したが熱は下がらず、一進一退を繰り返すばかりで回復の目途がたたない。
「人に命を与えるのは全能の神のなせる業。されどその人の命を取るのもまた神。こればかりはどうにもならぬことじゃ」
「かように落ちぶれたままで死なせるわけにはいかん」
そうはいっても手立てがない。
「何かないのか。南蛮人の妖術とか」
「然様なものはない。森羅万象を司るのは神のみ。南蛮人ではない」
義太夫はがっかりして母屋の戸口を開く。
「若殿。義太夫でござります」
「義太夫、戻ったか。こちらへ参れ」
奥から三九郎の声がした。
「如何であった。忠三郎から聞き出せたか」
「はい。御台様と和子様はここからそう遠くない三条にある蒲生家の屋敷におると、そう言うておりました」
「すぐそばではないか。大坂で城を築いていると聞き及んだ。ぐずぐずしておれば、大坂に移されてしまうのではないか?」
「御台様は産後の肥立ちが悪く、臥せっておられるご様子。それゆえに蒲生家の屋敷からは動かせずにおるのでしょう。鶴めは油断しきっておりまするゆえ、奪い返すのであれば今が時。まさに天の与うるところかと」
忠三郎が日野にいる間は屋敷の警備も手薄だろう。義太夫の言う通り、事を起こすのであれば今かもしれない。
「助九郎に屋敷を偵察に行かせたうえで、明日の夜、決行しようではないか」
「されど、殿にお知らせしたほうがよいのでは…」
一益は長島開城とともに家督を三九郎に譲るといって隠居生活を送っている。三九郎は前回の夜討ち失敗の件を思い起こし、少し考えたが、
「父上にいらぬ心配はかけとうない。わしと、義太夫、助九郎、藤十郎の四人で行こう」
「ハハッ。ではそれがしは、御台様と和子様の身代わりを用意いたしまする」
明日の夜、密かに屋敷に入り、二人を奪還し、替え玉を置いて帰ってくる。
「久方ぶりに腕が鳴るのう」
久しぶりの素破らしい仕事に心躍らせ、振り返ると助九郎も嬉しそうに笑っている。明日の夜が楽しみだ。
都の外れにある暘谷庵。六郎と九郎を隠し育てるために作ったこの庵で、一益と風花は八郎を連れ、久しぶりに子供たちとのひと時を過ごしていた。
六郎、九郎はともに十歳になり、逞しく成長している。六郎の山犬たちには子供が生まれ、更に増えてにぎやかだ。
静かな暮らしとは少し違うかもしれないが、暘谷庵に来てからのひと月、領地も城も、すべて失ったというのに、風花はこれまでにないほど溌溂としていた。
「そなたは風変わりな女子じゃ」
一国の主から一介の浪人に等しい身分に落ちたが、風花はそれを苦にするでもなく、日々楽しそうに過ごしている。
「殿や子らとともに過ごすときがようやく訪れたのでござります。これほど嬉しいことはありませぬ」
信長からの急な出陣命令もない。他国からの侵入に怯えることもない。片時も休まることがなかった日々を思えば、今の暮らしはこれまでにないほど平穏な暮らしだ。
(これで葉月が戻ってくれれば…)
秀吉の元に連れていかれたきり、行方が分からない葉月。津田小平次がその行方を捜しているが、見つけることができずにいる。風花も口にこそ出さないが、時折物思いにふける時がある。明るく振舞ってはいても、葉月のことが気がかりなのだろう。
(小平次一人では探しきれぬか。…であれば、動くしかないが)
素破ではない小平次では探索は難しい。そろそろ腰をあげなければならないかもしれない。と考えていると、外で遊んでいた子供たちが何やら急に騒ぎ出した。
「何事か」
「父上!爺が戻りました!」
九郎の大きな声が聞こえ、ほどなく谷崎忠右衛門が姿を現した。
「ただいま戻りました」
旅姿の忠右衛門は子供たちに飛びつかれながら、汗を拭い、荷を解く。
「忠右衛門、大儀であった。越前からの道は難儀したであろう。七郎は息災であったか?」
一益の末子、七郎が養子に出された丹羽長秀は柴田勝家の旧領、越前を領している。
「忠右衛門が戻りましたか」
風花が気づき、喜んで駆けてきた。忠右衛門は恭しく一礼すると、懐から書状を取り出す。
「七郎様から殿へ」
開いてみると文頭に『一筆余談啓上』と書かれている。
「これは七郎が?」
「はい。早八歳におなりで、殿に似たとても賢いお子でござりまする」
忠右衛門が相好を崩すと、風花が覗き込むように七郎の書状を見て、
「なんとも達者な筆遣いではありませぬか。のう、殿」
風花が涙ぐみ、袖を濡らす。七郎が丹羽長秀の元に送られてから三年になる。満足に文字を書くこともできなかった七郎が、堂々とした字を書いて便りを寄こすとは、子供の成長は早いなと感心した。
(七郎の顔を見に行きたいが…)
葉月を取り戻すまでは都を動くわけにはいかない。
「忠右衛門、長旅で疲れたであろう。少し休め」
「ハハッ。…そういえば、ここへ来る途中の茶屋で、義太夫殿が団子を食べておりましたな」
「義太夫が都に戻ったか」
虎とその子の居場所を探っていた義太夫が都に戻ったということは、居所が分かったのだろう。
「こちらへは顔を出しませぬな」
風花が何気なくそう言う。
「三九郎が事を起こそうとしているやもしれぬ」
一益が手を打って山村一朗太を呼ぶと、山犬の世話をしていた一朗太が現れ、片膝付く。
「南蛮寺にいる三九郎の様子を見て参れ」
「若殿の。ハハッ」
一朗太が去ると、風花が不安そうな顔で一益を見る。
「大事に至らねばよいのですが…」
三九郎は若さに任せて事を焦りすぎるきらいがある。義太夫が暘谷庵に寄り付かないのは、三九郎が一益に告げずに虎を奪い返そうとしているからだ。
「どうしたものか」
秀吉を刺激しないように、家臣たちを何か所かに分け、目立たないように都に潜ませているが、虎を奪い返せば大事になる。
(うまくいったとして、都にいるわけにはいかなくなる。伊勢に逃がすか、それとも…)
もっと遠くまで逃がした方がいいかもしれない。
「殿が皆に、目立つなと言い含めておるというに、堂々と茶屋で団子を食べておるとは、まことに言語道断にござります」
忠右衛門があきれたように言う。いかにも義太夫らしいと風花も笑うが、
(いや…もしや…)
はたと思い当たり、
「忠右衛門、その茶屋は何処にある茶屋であった?」
「この先の…通りをまっすぐに行き、二本目の筋を左に曲がったところで」
「三条か?」
「はい。三条でござりまする」
蒲生家の屋敷がある場所だ。
(そういうことか)
義太夫は屋敷に忍び込むため、茶屋で団子を食べながら下見していたのだろう。
虎や葉月がいるとすれば、姫路、山崎、京のいずれかとは思っていたが、いずれにせよ、大坂に連れていかれれば奪い返すのが難しくなることは三九郎も心得ている筈だ。今日、見に行ったということは、決行は今日、明日、明後日のいずれかの夜。月のない夜を狙うのであれば、明日だ。
(分かりやすい奴め)
ふいに可笑しくなり、笑い始めると、風花も忠右衛門も不思議そうに一益を見る。
(案外、あやつめ、わしに知らせるつもりで、わざわざ目立つようなことをしていたのかもしれぬな)
看過するわけにもいかない。久しぶりに腰をあげるときが来たようだ。
戦国武将たちの習慣の中でもフロイスが指摘した、ひどい悪習慣のひとつに、酒の飲み方がある。酒宴では相手が下戸でもない限り、泥酔するまで飲ませるのが常であり、皆、吐くまで飲むが、どうやら南蛮ではそうではないらしい。
岐阜以来の忠三郎の友人の一人、美濃の牧村長兵衛も都に来るたびに声をかけ、つい先日までは屋敷に洛中の傾城屋から遊女を呼んで楽しく酒を飲んでいたが、最近になって誘いを断るようになった。
忠三郎は不審に思い、上洛すると洛外にある長兵衛の屋敷に赴いた。すると主の長兵衛は留守で、南蛮寺にいるという。
(高山右近殿が度々、南蛮寺に誘っているという話であったな)
致し方なく南蛮寺に向かうことにした。
「牧村様はもしや、キリシタンになろうとしておるのでは?」
町野長門守の言葉を忠三郎は笑い飛ばす。
「まさか、左様なことはあるまい。長兵衛殿には側室が三人おる。ロレンソ殿は側室は認められぬというし、三人の側室を追い出すわけにも行くまいて」
振り返ってそう言うと、長門守の後ろからついてきている滝川助太郎が立ち止まって通りの向こう側を見ている。
「如何した、助太郎」
「は…いえ…」
弟の助九郎によく似た者が走っていく姿が見えたような気がした。
(まさか都にいるはずもない)
いつも気にかけているから、見ず知らずの者でさえも弟に見えただけかと思い、忠三郎の後に付き従って南蛮寺に入った。
会堂の中では大勢の人が着座して問答の最中だった。見まわしてみると、牧村長兵衛らしき後姿が見えた。
「終わるまで、このまま待とう」
忠三郎が小声で町野長門守に声をかける。
話し手はロレンソ。皆、ロレンソの話に熱心に耳を傾けている。ロレンソが肥後(熊本)から托鉢をしながら都へたどり着き、布教をはじめたとき、都では誰も家を貸す人がいなかったという。ようやく借りた崩壊寸前の家は雨漏りがひどく、隣は大きな厠で異臭を放っていた。
奇跡的に将軍に拝謁したロレンソは布教許可を得たものの、キリスト教を敵視する人々によって都を追われた。進退窮まったロレンソと宣教師たちは堺に行き、そこでキリシタンであった堺の豪商、日比屋了慶に助けられる。日比屋了慶が自らの屋敷をキリスト教の教会堂として提供したことで、堺の町にキリスト教が広まった。そして同じ堺の豪商、小西隆佐が洗礼を受けた。秀吉の側近、小西行長の父だ。
ロレンソは宣教師たちとともに堺から大和に行き、そこでは高山右近の父、高山図書がキリシタンになった。次に河内へ行き、そこでは三箇老人をはじめとして多くの人々がキリシタンになった。
ロレンソによってキリシタンになった者たちは多い。日本語を習得した宣教師もいたが、ロレンソをはじめとする日本人修道士たちがいなければ難しい教理の話をすることはできない。貧相な外見からでは想像もできないほど、ロレンソの話は分かりやすく真理を的確についており、なによりもロレンソ自身がキリスト教を体現していたことが、多くの人々の心を惹きつけた。
こうしていると信長がロレンソを召し出し、宗論したときを思い出す。
この地を表しているという球体の形をした図面。伴天連たちから献上された地球儀は信長のお気に入りのひとつで、地球儀を回しながら、南蛮人がどこから来たのか、日の本へたどり着く道すがらどのような危険な目にあったのか、ロレンソは丁寧に説明した。
(あのとき、確か…)
信長はそれほどの危険を冒してまで来た理由を尋ねた。キリシタンの教えというのはそれほどに価値あるものなのか、それともこの日の本から何かを持ち去るために来たのか、と。それに対してロレンソは何と答えたか。
(盗みだすために来たのだと、そう答えた)
多くの人々の魂を悪魔の手の中から奪い、創造主なる神の元へ返すために来たのだと答えた。それに対し、信長は大変感じ入り、ロレンソの答えに満足げに頷いた。
「なぜ、ロレンソ殿なのであろうか」
遠い昔、岐阜で一益からロレンソを正式に紹介されたときから、不思議に思っていた。ロレンソは足が不自由で片目は見えておらず、もう片方の目もかろうじて見えているかどうか。この上もなく貧相で、お世辞にも霊験あらたかとはいいがたい。
「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ぶ。有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ぶ」
背後で声がして、振り返ると三九郎が立っていた。
「三九郎…」
まさか都にいるとは思っていなかった。しかも白昼堂々と南蛮寺に出入りしているとは。
「おぬしのようなものに神の摂理は分かるまい。何を探りに来た?」
「随分な物言いではないか。都におったのか。一人か?」
忠三郎が常の笑顔でそう言うが、三九郎はにこりともせず、
「馴れ馴れしく話しかけるな。もう縁も所縁もなき他人。おぬしに答えるつもりもない」
ちらりと背後にいる助太郎を見て、その場を後にした。
「三九郎のやつ、もう少し柔らかい物言いができぬものか」
忠三郎が町野長門守に同意を求めるように言うと、長門守は苦笑して、
「なんともそれは…」
なんと返事をしたらよいかと困っていると、散会となったらしく、忠三郎に気づいた牧村長兵衛が近づいてきた。
「忠三郎殿もお見えとは」
「おぉ、長兵衛殿。お屋敷にお伺いしたところ、こちらと聞き及びましたゆえ。長兵衛殿は最近、熱心に南蛮寺に通っておるとか。まさかキリシタンになるおつもりではありますまいな」
まさかとは思ったが確認してみると、長兵衛は笑顔で頷く。
「そのまさかでござるよ。家中にも同心しておる者がおり、ともにキリシタンになるべく、これよりロレンソ殿から講義を受けることとになっておりまする」
「されど、側室方は如何なされる所存で?」
「皆、暇を出すことと致しました」
これにはさすがの忠三郎も驚いて声もでない。三人もいる側室に暇を出すとは。
「直に右近殿も参られる。忠三郎殿も話を聞いて帰られては?」
一体、牧村長兵衛にどんな心境の変化があったのだろうか。先ほどの三九郎の捨て台詞も気になり、勧められるまま、高山右近の到着を待つことにした。
日が暮れたころ、南蛮寺の裏手にある母屋では、三九郎、義太夫、助九郎の三人が顔を突き合わせて話し合っていた。
「何故、忠三郎がかようなところにおるのであろうか」
忠三郎が上洛してくることは想定にない。今日上洛したのであれば、しばらく都に留まるつもりだろう。
「これはうっかり失念しておりました。あやつは暇さえあれば都に来て、屋敷に女子を呼んで戯れておるのでござります」
義太夫は妻帯して以来、忠三郎の誘いを断っていたために、そんなこともあったなと今更ながらに思い出した。
「如何いたしましょう。忠三郎様が屋敷におられるうちは家人も多いものかと。これは日を改めた方がよいような…」
にわかに自信がなくなってきた助九郎が不安げにそう言う。兄の助太郎も供にいるのであれば、こちらの手の内を悟られる可能性がある。
「やっと子の顔を見られると思うていたが…」
三九郎が落胆するのを見て、義太夫は少し考えた後、
「あやつが南蛮寺に現れたのは、恐らくは牧村長兵衛か高山右近辺りに声をかけられたに違いありませぬ。ということは、今日、明日は南蛮寺で伴天連の話を聞き、その後に屋敷に戻るものかと。鶴が南蛮寺にいる内に御台様と和子様をすり替えてしまえば、それと悟られることもなくお二人を取り戻すことができましょう」
「義太夫の申す事、尤もである。…で、替え玉の用意はできておるのか」
「ハッ、ご案じめさるな。それがしにお任せを」
義太夫が自信満々に胸を叩くので三九郎も安心して頷く。
「では手筈どおり明日夜に決行する。藤十郎にも伝えおけ」
「ハハッ」
にわかに忠三郎が姿をあらわしたので動揺したが、屋敷にいなければ何の問題もない。多少不安は残るものの明日の夜には二人を奪い返すことになった。
三九郎がすっかり細くなった月を見上げる。
(虎も同じ月を見ているだろうか)
臥せっているという虎のことが案じられる。虎は兄の忠三郎とは違う。常にひっそりと生きているような虎には都の水はあわない。華やいだ生活はかえって心労が重なるばかりだろう。伊勢に連れ戻り、静かな暮らしを取り戻すことができれば、きっと回復してくれる。
明日は新月。月のない夜だ。うまくいけば、明日の今頃は虎と過ごすことができるだろう。
虎に次いで、章姫とその母咲菜、侍女たちが去った日野中野城では静かな時が流れている。
「桃源郷とはよう言うたものじゃ」
広縁に寝転がり、ぼんやりと空を見上げていた義太夫がそう言うと、忠三郎が呼んでいた書状を畳みながら、
「桃源郷?」
「然様。殿が仰せであった。この日野谷は桃源郷じゃと」
「義兄上が?」
長島が開城したのは七月。あれから一か月たつが、一益はどこへ行ったのか消息を掴むことができない。義太夫が当たり前のようにふらふらと現れたときは驚いたが、諸国からの仕官の誘いを断り、何をするでもなく日野中野城に滞在している。
「ではずっとここにおればよい。わしに仕えるか?」
「その方の家来なんぞ、ご免じゃ。わしは殿以外に仕える気はない」
助太郎にも誘わせているが、義太夫からは常に同じ返事しか返ってこない。
「ではこのまま野に埋もれるつもりか。それとも、義兄上は一旗揚げるおつもりがあるのか」
「左様なことはおぬしには関わりなきことじゃ」
曖昧な返事を返したつもりだろうが、言下に否定しなかったということは何かしら動いているのだろうと察し、
「義太夫、聞いてくれ。この日野の隣、近江八幡を領しているのが堀久太郎であることはおぬしもよう存じておろう。筑前が久太郎の領地を加増するとなると、やもすれば、わしはこの地を追われかねない。なんとしてもそれだけは避けたい」
「それは難しいかもしれぬな」
堀久太郎は長年、織田家の奉行だった。そのときの縁を使って秀吉の天下取りのために諸将に働きかけている。それに比べ、忠三郎はどうだろうか。
「苦労人の久太郎に比べると、そのほうは世間知らずの世渡り下手。そう上手く思惑通りになるとは思えぬが」
「そのことはよう存じておる。それゆえ、次に戦さとなったときには義兄上の力をお借りしたい。義兄上だとて北勢を取り返すおつもりがあろう?さすれば、わしが中勢を取ろう。そうしてまずは我等で伊勢全土を抑える。義兄上が声をかければ紀州の雑賀・根来衆、それに志摩の九鬼殿も動かれよう。そのうえで…」
忠三郎が壮大な計画を話し出すと、義太夫は面倒くさそうに手を振るよ。
「大概にせい。この上、まだ殿に戦させよと申すか。殿はのう、戦さに飽き飽きされておるのじゃ。筑前から貰うておる隠居料だけで十分と仰せられておる。だいたい、虎殿の生んだ和子も、葉月様も、章姫様まで筑前の元に取りこめられていて、誰一人帰される気配もない。殿がどれほど心を痛めておられるか、わからんか」
虎、葉月、章姫を秀吉の元に送ったのは忠三郎だ。その話をされると忠三郎はぐうの音もでない。
「殿も、若殿も、未だ赤子の顔を見ることも叶わぬのじゃ」
「虎は京の我が家の屋敷におる。行く行くは、赤子は三九郎の元に送り届けるつもりでおる」
忠三郎の約束はあてにならない。天下一、気の長い漢の異名をもつ忠三郎を待っていたら、三九郎は老人になってしまう。
(三条にある蒲生家の屋敷におるのか)
戦さがひと段落ついたころ、忠三郎は都に屋敷を構えた。そこそこな規模のその屋敷は、秀吉を迎え入れるために建てたようだ。
義太夫の目がきらりと光るが、忠三郎は気づかない。
「虎は産後の肥立ちが悪い。子を生んでから、ずっと臥せっておる」
何の説明もなく、突然、秀吉の側室にされた虎は毎日悲しみに暮れ、生きる気力を失ってしまった。兄である忠三郎が声をかけても聞いているのかいないのか、うわの空で、魂が抜けたように生気のない表情を浮かべている。
「虎のことはともかくとしても…義兄上の孫ならば、我が家の鶴千代がおるではないか」
不満そうにそう言ったので、義太夫は驚いて起き上がる。
「それはもしや…滝川家最大の秘密を存じておるのか。誰から聞いた?」
「滝川家最大の秘密?章殿の母が来て喋った。あれはまことのことなのであろう?」
咲菜であれば、口を滑らせたとしても不思議はない。義太夫は苦笑して、
「されど我が家の嫡子は虎殿の生んだ和子様じゃ。ここは若殿は頑として譲らぬ」
意外に頑固な三九郎は、妻帯するつもりがないらしい。
「女子などはどこにでもおろう。虎や虎の生んだ子にこだわる必要もない。三九郎は何故そこまで虎にこだわっておるのか」
忠三郎の言いようは、なんとも軽々しい。三九郎が聞いたら刀を掴んで怒るだろう。
「おぬしには分からんじゃろうなぁ」
いちいち説明するのも面倒で、義太夫が軽く流すと、
「三九郎には悪いとは思うが、筑前は義兄上を恐れている。義兄上が存命中は人質の解放はない。三九郎もそのくらいのことは分かっておろう。それよりも義兄上はいずこにおわす。伊勢か?」
何度もしつこく聞いているが、義太夫は惚けて話を逸らすばかりだ。
「大坂で本腰入れて築城しているらしいではないか」
また話を逸らされた。忠三郎は苦笑して
「元々は右府様が丹羽殿に命じて作ろうとしていた城。縄張りは終わっていたのであろう。今は、羽柴家の黒田官兵衛が総奉行を務め、大掛かりな城を築こうとしておる。今年中には本丸が完成するという話じゃ」
秀吉は四国攻めを視野に入れ、大坂に本拠地を移そうとしている。その規模からいっても安土城に対抗しようとしているのが分かる。
「わしもそろそろ旅にでる」
義太夫がふらりと立ち上がると、忠三郎は慌てて
「何。待て、義太夫。去るのであれば、せめて義兄上の居場所を教えよ」
義太夫に逃げられては手掛かりを失ってしまう。
「お?殿に会いたいか?会ってどうする?詫びでもいれるか?」
「それは…」
会ってどうするかと言われると返事に困る。忠三郎が思いあぐねていると義太夫は笑って
「まぁよい。伝えておいてやる。世話になった。また腹が減ったら立ち寄るやもしれぬ」
「我が城を一服一銭茶屋扱いするな」
義太夫は笑って部屋を出た。
(何処へいくのか)
何か目的をもって姿を消したように思える。義太夫は、そして一益の次の一手は何なのだろうか。
京の都にある南蛮寺。イエズス会が古い寺の跡に南蛮寺を建てたのは二十年以上前になる。その後、高山右近の父、高山図書他のキリシタンの寄進により、大規模な改修が行われた。南蛮寺は通称で、正式な名前は被昇天の聖母教会。キリシタンたちの間では珊太満利亜上人の寺と呼ばれていた。信長が生涯を終えた本能寺や信忠が討死した二条新御所も近く、ここだけが戦禍を免れたのは奇跡に近い。
信長横死からすでに一年が経過しているが、この南蛮寺では信長存命中と変わらず、連日、畿内のキリシタンたちが集まりミサが行われている。
近江、日野の地から都に上った義太夫は、真っ先に南蛮寺に足を向けた。
「ここはいつ来ても人が大勢おるのう」
熱心に修道士の話を聞く人々を横目で見ながら、傍にいる助九郎に声をかけると、
「天下を揺るがす大事が起これば、人は自然と何ものをも揺るがすことなき力を求むるものじゃ」
なにやら聞き覚えのある声がする。振り向くと案の定、ロレンソだった。
「生臭坊主か。随分と坊主らしいことを抜かしおる」
心なしか小さくなったロレンソを見て、義太夫がフンと笑うと、ロレンソが隣の母屋を指さす。
「どこで油を売っておった。お待ちじゃ、早う行け」
ロレンソに急かされ、義太夫は母屋へ足を向ける。
長島城を出て以来、滝川家の家人たちは各地に散らばり、今後の情勢を伺っていた。京の都では二か所に分かれて潜んでいる。その一つが南蛮寺の敷地内にある数寄屋造の小さな建物だ。
「待て、素浪人」
ロレンソに呼び止められ、義太夫は振り返る。
「素浪人?わしのことか」
「ほかにおらぬ。ほれ、これを持っていけ」
と薬袋を渡された。
「相変わらず無礼な奴じゃ」
義太夫は小声でぶつぶつと呟きながら薬袋を懐に入れる。
「怪我人の容態は?」
「捗々しくない」
矢田山夜襲の際、足に被弾した新介がなかなか回復しない。傷口が化膿し、どうにもならなくなったためにとても都に連れてくることはできなかった。致し方なく地縁のある四日市日永の寺へ預け、木全彦次郎を共において都に上った。ロレンソに相談したところ、医師であり宣教師でもあったアルメイダ神父に西洋医術の手ほどきを受けた修道士が伊勢まで赴き、膝から下を切断したが熱は下がらず、一進一退を繰り返すばかりで回復の目途がたたない。
「人に命を与えるのは全能の神のなせる業。されどその人の命を取るのもまた神。こればかりはどうにもならぬことじゃ」
「かように落ちぶれたままで死なせるわけにはいかん」
そうはいっても手立てがない。
「何かないのか。南蛮人の妖術とか」
「然様なものはない。森羅万象を司るのは神のみ。南蛮人ではない」
義太夫はがっかりして母屋の戸口を開く。
「若殿。義太夫でござります」
「義太夫、戻ったか。こちらへ参れ」
奥から三九郎の声がした。
「如何であった。忠三郎から聞き出せたか」
「はい。御台様と和子様はここからそう遠くない三条にある蒲生家の屋敷におると、そう言うておりました」
「すぐそばではないか。大坂で城を築いていると聞き及んだ。ぐずぐずしておれば、大坂に移されてしまうのではないか?」
「御台様は産後の肥立ちが悪く、臥せっておられるご様子。それゆえに蒲生家の屋敷からは動かせずにおるのでしょう。鶴めは油断しきっておりまするゆえ、奪い返すのであれば今が時。まさに天の与うるところかと」
忠三郎が日野にいる間は屋敷の警備も手薄だろう。義太夫の言う通り、事を起こすのであれば今かもしれない。
「助九郎に屋敷を偵察に行かせたうえで、明日の夜、決行しようではないか」
「されど、殿にお知らせしたほうがよいのでは…」
一益は長島開城とともに家督を三九郎に譲るといって隠居生活を送っている。三九郎は前回の夜討ち失敗の件を思い起こし、少し考えたが、
「父上にいらぬ心配はかけとうない。わしと、義太夫、助九郎、藤十郎の四人で行こう」
「ハハッ。ではそれがしは、御台様と和子様の身代わりを用意いたしまする」
明日の夜、密かに屋敷に入り、二人を奪還し、替え玉を置いて帰ってくる。
「久方ぶりに腕が鳴るのう」
久しぶりの素破らしい仕事に心躍らせ、振り返ると助九郎も嬉しそうに笑っている。明日の夜が楽しみだ。
都の外れにある暘谷庵。六郎と九郎を隠し育てるために作ったこの庵で、一益と風花は八郎を連れ、久しぶりに子供たちとのひと時を過ごしていた。
六郎、九郎はともに十歳になり、逞しく成長している。六郎の山犬たちには子供が生まれ、更に増えてにぎやかだ。
静かな暮らしとは少し違うかもしれないが、暘谷庵に来てからのひと月、領地も城も、すべて失ったというのに、風花はこれまでにないほど溌溂としていた。
「そなたは風変わりな女子じゃ」
一国の主から一介の浪人に等しい身分に落ちたが、風花はそれを苦にするでもなく、日々楽しそうに過ごしている。
「殿や子らとともに過ごすときがようやく訪れたのでござります。これほど嬉しいことはありませぬ」
信長からの急な出陣命令もない。他国からの侵入に怯えることもない。片時も休まることがなかった日々を思えば、今の暮らしはこれまでにないほど平穏な暮らしだ。
(これで葉月が戻ってくれれば…)
秀吉の元に連れていかれたきり、行方が分からない葉月。津田小平次がその行方を捜しているが、見つけることができずにいる。風花も口にこそ出さないが、時折物思いにふける時がある。明るく振舞ってはいても、葉月のことが気がかりなのだろう。
(小平次一人では探しきれぬか。…であれば、動くしかないが)
素破ではない小平次では探索は難しい。そろそろ腰をあげなければならないかもしれない。と考えていると、外で遊んでいた子供たちが何やら急に騒ぎ出した。
「何事か」
「父上!爺が戻りました!」
九郎の大きな声が聞こえ、ほどなく谷崎忠右衛門が姿を現した。
「ただいま戻りました」
旅姿の忠右衛門は子供たちに飛びつかれながら、汗を拭い、荷を解く。
「忠右衛門、大儀であった。越前からの道は難儀したであろう。七郎は息災であったか?」
一益の末子、七郎が養子に出された丹羽長秀は柴田勝家の旧領、越前を領している。
「忠右衛門が戻りましたか」
風花が気づき、喜んで駆けてきた。忠右衛門は恭しく一礼すると、懐から書状を取り出す。
「七郎様から殿へ」
開いてみると文頭に『一筆余談啓上』と書かれている。
「これは七郎が?」
「はい。早八歳におなりで、殿に似たとても賢いお子でござりまする」
忠右衛門が相好を崩すと、風花が覗き込むように七郎の書状を見て、
「なんとも達者な筆遣いではありませぬか。のう、殿」
風花が涙ぐみ、袖を濡らす。七郎が丹羽長秀の元に送られてから三年になる。満足に文字を書くこともできなかった七郎が、堂々とした字を書いて便りを寄こすとは、子供の成長は早いなと感心した。
(七郎の顔を見に行きたいが…)
葉月を取り戻すまでは都を動くわけにはいかない。
「忠右衛門、長旅で疲れたであろう。少し休め」
「ハハッ。…そういえば、ここへ来る途中の茶屋で、義太夫殿が団子を食べておりましたな」
「義太夫が都に戻ったか」
虎とその子の居場所を探っていた義太夫が都に戻ったということは、居所が分かったのだろう。
「こちらへは顔を出しませぬな」
風花が何気なくそう言う。
「三九郎が事を起こそうとしているやもしれぬ」
一益が手を打って山村一朗太を呼ぶと、山犬の世話をしていた一朗太が現れ、片膝付く。
「南蛮寺にいる三九郎の様子を見て参れ」
「若殿の。ハハッ」
一朗太が去ると、風花が不安そうな顔で一益を見る。
「大事に至らねばよいのですが…」
三九郎は若さに任せて事を焦りすぎるきらいがある。義太夫が暘谷庵に寄り付かないのは、三九郎が一益に告げずに虎を奪い返そうとしているからだ。
「どうしたものか」
秀吉を刺激しないように、家臣たちを何か所かに分け、目立たないように都に潜ませているが、虎を奪い返せば大事になる。
(うまくいったとして、都にいるわけにはいかなくなる。伊勢に逃がすか、それとも…)
もっと遠くまで逃がした方がいいかもしれない。
「殿が皆に、目立つなと言い含めておるというに、堂々と茶屋で団子を食べておるとは、まことに言語道断にござります」
忠右衛門があきれたように言う。いかにも義太夫らしいと風花も笑うが、
(いや…もしや…)
はたと思い当たり、
「忠右衛門、その茶屋は何処にある茶屋であった?」
「この先の…通りをまっすぐに行き、二本目の筋を左に曲がったところで」
「三条か?」
「はい。三条でござりまする」
蒲生家の屋敷がある場所だ。
(そういうことか)
義太夫は屋敷に忍び込むため、茶屋で団子を食べながら下見していたのだろう。
虎や葉月がいるとすれば、姫路、山崎、京のいずれかとは思っていたが、いずれにせよ、大坂に連れていかれれば奪い返すのが難しくなることは三九郎も心得ている筈だ。今日、見に行ったということは、決行は今日、明日、明後日のいずれかの夜。月のない夜を狙うのであれば、明日だ。
(分かりやすい奴め)
ふいに可笑しくなり、笑い始めると、風花も忠右衛門も不思議そうに一益を見る。
(案外、あやつめ、わしに知らせるつもりで、わざわざ目立つようなことをしていたのかもしれぬな)
看過するわけにもいかない。久しぶりに腰をあげるときが来たようだ。
戦国武将たちの習慣の中でもフロイスが指摘した、ひどい悪習慣のひとつに、酒の飲み方がある。酒宴では相手が下戸でもない限り、泥酔するまで飲ませるのが常であり、皆、吐くまで飲むが、どうやら南蛮ではそうではないらしい。
岐阜以来の忠三郎の友人の一人、美濃の牧村長兵衛も都に来るたびに声をかけ、つい先日までは屋敷に洛中の傾城屋から遊女を呼んで楽しく酒を飲んでいたが、最近になって誘いを断るようになった。
忠三郎は不審に思い、上洛すると洛外にある長兵衛の屋敷に赴いた。すると主の長兵衛は留守で、南蛮寺にいるという。
(高山右近殿が度々、南蛮寺に誘っているという話であったな)
致し方なく南蛮寺に向かうことにした。
「牧村様はもしや、キリシタンになろうとしておるのでは?」
町野長門守の言葉を忠三郎は笑い飛ばす。
「まさか、左様なことはあるまい。長兵衛殿には側室が三人おる。ロレンソ殿は側室は認められぬというし、三人の側室を追い出すわけにも行くまいて」
振り返ってそう言うと、長門守の後ろからついてきている滝川助太郎が立ち止まって通りの向こう側を見ている。
「如何した、助太郎」
「は…いえ…」
弟の助九郎によく似た者が走っていく姿が見えたような気がした。
(まさか都にいるはずもない)
いつも気にかけているから、見ず知らずの者でさえも弟に見えただけかと思い、忠三郎の後に付き従って南蛮寺に入った。
会堂の中では大勢の人が着座して問答の最中だった。見まわしてみると、牧村長兵衛らしき後姿が見えた。
「終わるまで、このまま待とう」
忠三郎が小声で町野長門守に声をかける。
話し手はロレンソ。皆、ロレンソの話に熱心に耳を傾けている。ロレンソが肥後(熊本)から托鉢をしながら都へたどり着き、布教をはじめたとき、都では誰も家を貸す人がいなかったという。ようやく借りた崩壊寸前の家は雨漏りがひどく、隣は大きな厠で異臭を放っていた。
奇跡的に将軍に拝謁したロレンソは布教許可を得たものの、キリスト教を敵視する人々によって都を追われた。進退窮まったロレンソと宣教師たちは堺に行き、そこでキリシタンであった堺の豪商、日比屋了慶に助けられる。日比屋了慶が自らの屋敷をキリスト教の教会堂として提供したことで、堺の町にキリスト教が広まった。そして同じ堺の豪商、小西隆佐が洗礼を受けた。秀吉の側近、小西行長の父だ。
ロレンソは宣教師たちとともに堺から大和に行き、そこでは高山右近の父、高山図書がキリシタンになった。次に河内へ行き、そこでは三箇老人をはじめとして多くの人々がキリシタンになった。
ロレンソによってキリシタンになった者たちは多い。日本語を習得した宣教師もいたが、ロレンソをはじめとする日本人修道士たちがいなければ難しい教理の話をすることはできない。貧相な外見からでは想像もできないほど、ロレンソの話は分かりやすく真理を的確についており、なによりもロレンソ自身がキリスト教を体現していたことが、多くの人々の心を惹きつけた。
こうしていると信長がロレンソを召し出し、宗論したときを思い出す。
この地を表しているという球体の形をした図面。伴天連たちから献上された地球儀は信長のお気に入りのひとつで、地球儀を回しながら、南蛮人がどこから来たのか、日の本へたどり着く道すがらどのような危険な目にあったのか、ロレンソは丁寧に説明した。
(あのとき、確か…)
信長はそれほどの危険を冒してまで来た理由を尋ねた。キリシタンの教えというのはそれほどに価値あるものなのか、それともこの日の本から何かを持ち去るために来たのか、と。それに対してロレンソは何と答えたか。
(盗みだすために来たのだと、そう答えた)
多くの人々の魂を悪魔の手の中から奪い、創造主なる神の元へ返すために来たのだと答えた。それに対し、信長は大変感じ入り、ロレンソの答えに満足げに頷いた。
「なぜ、ロレンソ殿なのであろうか」
遠い昔、岐阜で一益からロレンソを正式に紹介されたときから、不思議に思っていた。ロレンソは足が不自由で片目は見えておらず、もう片方の目もかろうじて見えているかどうか。この上もなく貧相で、お世辞にも霊験あらたかとはいいがたい。
「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ぶ。有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ぶ」
背後で声がして、振り返ると三九郎が立っていた。
「三九郎…」
まさか都にいるとは思っていなかった。しかも白昼堂々と南蛮寺に出入りしているとは。
「おぬしのようなものに神の摂理は分かるまい。何を探りに来た?」
「随分な物言いではないか。都におったのか。一人か?」
忠三郎が常の笑顔でそう言うが、三九郎はにこりともせず、
「馴れ馴れしく話しかけるな。もう縁も所縁もなき他人。おぬしに答えるつもりもない」
ちらりと背後にいる助太郎を見て、その場を後にした。
「三九郎のやつ、もう少し柔らかい物言いができぬものか」
忠三郎が町野長門守に同意を求めるように言うと、長門守は苦笑して、
「なんともそれは…」
なんと返事をしたらよいかと困っていると、散会となったらしく、忠三郎に気づいた牧村長兵衛が近づいてきた。
「忠三郎殿もお見えとは」
「おぉ、長兵衛殿。お屋敷にお伺いしたところ、こちらと聞き及びましたゆえ。長兵衛殿は最近、熱心に南蛮寺に通っておるとか。まさかキリシタンになるおつもりではありますまいな」
まさかとは思ったが確認してみると、長兵衛は笑顔で頷く。
「そのまさかでござるよ。家中にも同心しておる者がおり、ともにキリシタンになるべく、これよりロレンソ殿から講義を受けることとになっておりまする」
「されど、側室方は如何なされる所存で?」
「皆、暇を出すことと致しました」
これにはさすがの忠三郎も驚いて声もでない。三人もいる側室に暇を出すとは。
「直に右近殿も参られる。忠三郎殿も話を聞いて帰られては?」
一体、牧村長兵衛にどんな心境の変化があったのだろうか。先ほどの三九郎の捨て台詞も気になり、勧められるまま、高山右近の到着を待つことにした。
日が暮れたころ、南蛮寺の裏手にある母屋では、三九郎、義太夫、助九郎の三人が顔を突き合わせて話し合っていた。
「何故、忠三郎がかようなところにおるのであろうか」
忠三郎が上洛してくることは想定にない。今日上洛したのであれば、しばらく都に留まるつもりだろう。
「これはうっかり失念しておりました。あやつは暇さえあれば都に来て、屋敷に女子を呼んで戯れておるのでござります」
義太夫は妻帯して以来、忠三郎の誘いを断っていたために、そんなこともあったなと今更ながらに思い出した。
「如何いたしましょう。忠三郎様が屋敷におられるうちは家人も多いものかと。これは日を改めた方がよいような…」
にわかに自信がなくなってきた助九郎が不安げにそう言う。兄の助太郎も供にいるのであれば、こちらの手の内を悟られる可能性がある。
「やっと子の顔を見られると思うていたが…」
三九郎が落胆するのを見て、義太夫は少し考えた後、
「あやつが南蛮寺に現れたのは、恐らくは牧村長兵衛か高山右近辺りに声をかけられたに違いありませぬ。ということは、今日、明日は南蛮寺で伴天連の話を聞き、その後に屋敷に戻るものかと。鶴が南蛮寺にいる内に御台様と和子様をすり替えてしまえば、それと悟られることもなくお二人を取り戻すことができましょう」
「義太夫の申す事、尤もである。…で、替え玉の用意はできておるのか」
「ハッ、ご案じめさるな。それがしにお任せを」
義太夫が自信満々に胸を叩くので三九郎も安心して頷く。
「では手筈どおり明日夜に決行する。藤十郎にも伝えおけ」
「ハハッ」
にわかに忠三郎が姿をあらわしたので動揺したが、屋敷にいなければ何の問題もない。多少不安は残るものの明日の夜には二人を奪い返すことになった。
三九郎がすっかり細くなった月を見上げる。
(虎も同じ月を見ているだろうか)
臥せっているという虎のことが案じられる。虎は兄の忠三郎とは違う。常にひっそりと生きているような虎には都の水はあわない。華やいだ生活はかえって心労が重なるばかりだろう。伊勢に連れ戻り、静かな暮らしを取り戻すことができれば、きっと回復してくれる。
明日は新月。月のない夜だ。うまくいけば、明日の今頃は虎と過ごすことができるだろう。
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