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20 危急存亡
20-3 豆を煮て持って羹《あつもの》となす
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周りがやけに騒がしい。体を起こすと、なにやらよくわからないところいる。
(はて、ここは…)
だんだん周りが見えてくる。ここは見覚えがある。そう、ここは岐阜城下の滝川家の屋敷だ。
「鶴!」
忠三郎を呼ぶ声がして、振り返ると少し離れたところに義太夫が立っている。あぁ、これは夢なのだと思いつつ、義太夫の方へ歩いていく。
「義太夫、わしはもう疲れた。不毛な争いはやめにしてくれ」
忠三郎がため息まじりにそう言うと、義太夫は常のごとくカラカラと笑う。
「不甲斐ない奴。また泣き言か。それで家を背負っていけるのか。もはや信長公もおられぬ。殿を頼ることも出来ず、その有様で、これからどうするつもりじゃ」
「そこまで分かっていながら、何故、その方は…義兄上はわしを苦しめる。もう疲れた。戦さは終わりにしたい。おぬしらがために、わしは悪様に罵られておるのだぞ」
忠三郎の恨み言を聞いて、義太夫は笑い、ガサゴソと懐を探り始める。
「腹が減っておろう?食うか?」
「ま、待て、義太夫。それはもしや…例の饅頭ではないか?」
「おぉ、覚えておるか。左様。大和の饅頭屋の饅頭じゃ」
義太夫が嬉しそうに懐から饅頭を取り出した。目の前に突き付けられた饅頭からは、この世のものとも思えぬ異臭が漂っている。
「やめろ!義太夫、それを離してくれ!」
「遠慮するな。ほれ、美味いぞ」
義太夫は平然と饅頭を口に放り込む。
(恐ろしい奴)
忠三郎はぞっとして立ち上がり、後ずさりする。
すると遠くから笑い声が聞こえてきた。
(あれは…)
吹雪と章姫だ。二人が饅頭を恐れる忠三郎を見て、笑っている。
「如何した、鶴。ほれ、食え」
饅頭を持った義太夫が二・三歩近づいてくる。
後ずさりする忠三郎の背後で、ふいに嫌な気配を感じた。
「殿…」
聞き覚えのある声に振り返ると、頭から糞尿まみれになった町野長門守がこちらに近づいてくる。
「なっ長門!その方まで…。近寄るな!」
長門守はこの世の者とも思えぬ足取りで、ゆらりゆらりと近づきながら、
「幼き頃より付従ってきたそれがしに対して、あまりと言えばあまりに冷たい仰せよう…」
「いや、そうではない!待て、待て長門!」
すると饅頭を手にした義太夫が
「そうじゃ、鶴。その方は人の情けを知らぬ」
「義太夫!近寄るな!わしはもう帰る」
「今更、何を言うておる。その方が勝手に伊勢に攻め入ったのではないか」
笑みをたたえた義太夫がほれ、ほれと饅頭を突き付け、更に近づく。
一方、背後の長門守も
「殿がここまで我らを連れて来られたのじゃ。それが、挙句の果ては近寄るななどと…」
前後を挟まれ、どんどん距離が縮んでいく。ついに窮した忠三郎は両目を閉じ、満身の力を籠めて両手を固く握ると、
「二人とも、やめろ!わしは日野に帰る!そもそも最初から戦さなどはしとうなかった。義兄上と戦う気などなかった。こんな戦さ、最初から嫌だったのじゃ。もうたくさんだ!やめてくれ-!」
大声で叫ぶと、
「殿!殿!起きてくだされ!」
激しく揺り動かされて、ハタと目が覚めた。
「長門!ま、まて!待ってくれ!」
町野長門守が心配そうに忠三郎を見ている。
「如何なされました?」
長門守の驚く顔を見て、夢から覚めたと気づいた。
「大事ありませぬか。泣き叫んでおられましたぞ」
驚いて頬を拭うと、汗と涙で濡れている。
「ひどい夢を見た」
「殿、夢どころではありませぬ。夜襲でござります」
「何!」
慌てて起き上がる。辺りは騒然とし、鋭く響く金属音とけたたましい銃声が耳に入ってきた。
「あれほど柵を巡らせたというのに何故…」
乗り越えてきたなどとは考えられない。
「城からの奇襲ではござりませぬ。将監様の手勢かと」
「義兄上が来ておるのか!」
一益が桑名から兵を差し向けてきたのであれば、これは義太夫どころの騒ぎではない。うかうかすると兵が離散し、総崩れになる。
「馬をひけ!法螺を吹き、退却の太鼓を…」
太刀を取ろうとして、どこにも見当たらないことに気付いた。
「太刀がない」
よくよく見ると、陣羽織までない。
「長門!一大事じゃ!太刀がない!」
父、賢秀が信長から下賜された備前長光の太刀。それに忠三郎が信長から褒美として渡された大事な陣羽織までなくなっている。
「殿、落ち着いてくだされ。まずは甲冑をつけねば危のうござりまする」
「皆、探せ!わしの太刀と陣羽織を探してくれ!」
長門守が甲冑を着せる間、あれこれと思い起こしてみる。軍議を終えて戻った時には確かに太刀も陣羽織もあった。
(あの御前女郎か)
あれは一益が送り込んできた女郎に違いない。酒を飲んだ後の尋常ではない眠気も、薬が仕込まれていたと考えれば合点がいく。
「殿!一大事でござりますぞ」
町野左近の声が響き、慌てた様子で帷幕の中に入って来た。
「爺、次は何事か」
「殿の馬がおりませぬ」
「な、何と申した?」
にわかに町野左近の言う意味が分からず、問い返した。
「他の者の馬は揃っておりまするが、何故か殿の馬だけがどこにも見当たらなく…」
左義長の褒美に信長から下賜された馬、小雲雀。忠三郎の馬の中でも一番大切な馬がいなくなったという。
(右府様から頂いたものばかりがなくなっている)
すべて一益が仕向けたことだろう。忠三郎が最も大切にしていることは知っていた筈だ。それをいとも簡単に持ち去っていった。
(義兄上は何故、かような意地の悪いことばかりなさるのじゃ)
未だ先ほどの悪夢が続いているかのようだ。悔しさに涙を滲ませながら、町野左近が用意した替馬に跨った。
「皆、一度引け!兵を纏め、陣を立て直すのじゃ!」
声高に叫び、武将たちに退却を命じて回った。
城から更に一里ほど後退したところで兵を纏め、いざ一益と勝負しようかと辺りを見渡したが、すでに敵の姿がなかった。
「将監様は早、桑名に戻られたものかと」
多勢に無勢。奇襲は仕掛けられても、大軍が陣形を立て直して攻めかかれば危うくなる。そうなる前にさっさと引き返してしまったらしい。明るくなってくると、味方の兵の躯ばかりが目についた。一益はある程度の戦果をあげると、無傷で桑名に戻ったのだろう。
「殿!してやられました!」
「今度は何か!」
寄せ手が奇襲にあって退却している間に、何日もかけて掘り進めていた坑道に敵の兵が火を放ち、そこにいた金堀衆百名が焼け死んだ。
「金堀攻めしていることを察していたのか…」
亀山城を土竜攻めで落としている。何度も同じ手が通用する相手でもない。せめて見抜かれていることに気付くべきだった。
「義兄上は…随分と激しく煎りつけてくる」
それでも本気ではないだろう。昨夜の夜襲。一益が本気だったのであれば、薬で完全に寝入っていた味方は総崩れとなり、兵が離散していた。その結果、忠三郎の周りから誰もいなくなり、命を落としていたかもしれない。
「殿~!お喜びあれ~!」
がっくり肩を落としているところに、町野長門守がなんとも場の空気を察しない声を響かせる。
「かような有様で、何を喜べと申すか」
忠三郎が苦笑いすると、町野長門守は嬉々として片膝つき、太刀と陣羽織を掲げる。
「おぉ、これは!」
なくなったと思っていた大事な備前長光と陣羽織だ。
「長門!でかした!どこにあった?」
忠三郎が途端に明るい声を発すると、町野長門守が自慢げに胸をそらす。
「我らが昨夜、陣を張っていたところに、小雲雀とともに置かれていたのを見つけました!」
「小雲雀もおったのか!」
「見つけたのはそれがしの郎党にござりまする」
町野長門守が郎党を引き連れて、懸命に探してくれていたようだ。喜んで床几から立ち上がり、幔幕を蹴って外へ出ると、小雲雀が何事もなかったかのように繋がれていた。
「小雲雀!探しておったぞ!」
忠三郎が嬉しさに馬の首をなでる。小雲雀も心なしか笑顔をたたえているようにさえ見えた。
(これは一体、何の真似か)
忠三郎の首など、取ろうと思えばいつでも取れる、そう言っているのだろうか。
「殿!もう一つ、朗報が!」
譜代家臣の稲田数馬助が現れて、片膝付いた。
「おぉ、数馬助。如何いたした?」
「わが手の者が、城から逃げてきた兵を取り押さえておりまする」
「でかした、数馬助!すぐに連れて参れ」
「ハハッ!」
兵糧はあと何日分残っているのか。もう残り少ない筈だが、城内の様子を知りたいと思っていたところだった。
(風向きが変わって来たか)
奇襲を受け、意気消沈していたが、どうもそうではないかもしれない。忠三郎が帷幕に戻り、床几に腰をすえて待ちわびていると、ほどなく稲田数馬助が城兵を連れて戻って来た。
「殿、これは…」
連れて来られた城兵の顔を見て、町野長門守が驚いて言葉を失っている。
(思っていたのとは随分と違うのかもしれぬ)
その場に崩れるように座った城兵は、痩せこけて体を起こしているのもやっとの様子だった。
「城に残った兵糧は、あと如何ほどであるか?」
「恐れながら、兵糧などは、とうに底をついておりまする」
嘘・偽りではないようだ。
忠三郎が峯城攻撃に加わってからひと月以上が経過して、いまはもう四月。籠城から数えれば五か月以上経過している。城兵は約千人。いつまでも士気旺盛なので、千人分を五か月分、つまり五千人分の兵糧を運び入れたのかと舌を巻いていたが、どうやら兵糧はすでに尽きていたらしい。
(それで義兄上は奇襲をかけた)
奇襲をかけ、寄せ手を引き付けて城兵を逃がそうとしたのだろう。ところが城は二重三重の柵で囲まれていて、容易に助け出すことは難しいと考え、一益は兵をひいた。
「兵糧が尽きたとは…では、みな、何を食べておるのか」
「死んだ馬、野鳥、兎、ネズミ、モグラ、それと若葉、木の皮を煎じたものを」
「木の皮?」
「義太夫様が、若葉、木の皮は薬であると、そう仰せになりました」
いかにも義太夫らしいが、木の皮がどれほど腹のたしになるというのか。
「そんなことになっていようとは…。で、そのような有様で、まだ城を開けぬというておるのか」
「我らはよう存じませぬ。ただ、義太夫様は、死者の躯を食ってでも城は開けぬと豪語していたと、聞き及んでおりまする」
城兵の言葉に、帷幕内が静まり返った。
(何故そこまで…)
頑ななまでに意地を見せてくるのか。
「殿。また将監様に頼み、城を開けるよう使者を送っていただいては如何なもので?」
町野長門守がそっと声をかける。
(されど、それでは…)
何度も一益に頼むのはさすがに憚られた。これでは本当に、一益がいなければ城ひとつ落とせないことになってしまう。
「長門、矢文を撃て」
「は、矢文を?」
「左様。義兄上が開城を命じられたと義太夫に知らせよ」
一日も早く開城させなければ、義太夫が死ぬかもしれない。城兵に食事を与えるよう命じると、忠三郎は一人、昔のことを思い起こした。
岐阜での人質時代。城下の滝川屋敷では、いつも、義太夫が食事の支度をして、食え食えと言って食べさせてくれていた。時としてそれは味のない汁であり、釜炊きに失敗した生米に近い飯であり、得体のしれない草であったりもしたが、下手は下手なりに膳奉行を務めていた。何かあると、懐から食べ物を取り出し、渡してくれた義太夫。
人は飯を食うものと、そう言っていた義太夫が今にも餓死しそうな状況に追い込まれている。
(義太夫、おぬしは何故、そこまでして戦うのか)
果たして矢文に応じてくるだろうか。応じなかったときは、どうしたらいいのか。
伊勢 峯城。
義太夫は広縁に横たわり、うつろな目で流れる雲を見ている。
「美味そうじゃ」
かすれた声でそう言うと、傍で柱にもたれていた滝川助九郎が目を開けて
「何か、食うものがござりましたか」
「あれを見よ。うまそうな握り飯じゃ」
青い空に浮かぶ雲を見て、握り飯という。
「…何を見ても食い物に見える」
手に持った木の皮をしゃぶりながら、握り飯を思い浮かべて目を閉じる。
一益が兵を率いて奇襲をかけているのは城から伺い知ることができた。あの勢いを見る限り、新介たちはうまく長島に合流できているようだ。秀吉の一群が北陸に向かったという話もあるが、その後はどうなったのだろうか。
「こう囲まれていては、何もわからぬ」
義太夫は先ほどから、愚痴ばかり言っている。助九郎もいい加減、返事をする気力もわかず、目を閉じたままだ。
義太夫がしきりにぼやいていると、やがてどたどたと足音が聞こえ、誰かがやってきた。
「寄せ手から矢文が届いておりまする」
日本右衛門がすっかりやせ細った腕を伸ばして矢文を渡す。両眼は陥没し、うつろな表情だ。
「お?矢文?」
と、義太夫が結び目を解き、中を改める。
「フム…」
「なんの知らせで?」
「殿が城をあけろと言うておると」
「まことで?」
助九郎が目を開き、身を起こした。城を開ければ飯にありつけると言いたげだ。
「かような虚言に惑わされるな。鶴のやつ、出鱈目なことばかりぬかしおってからに。わしは城を開けよという殿の直筆書状がなくば、断じて城を開けぬ。あ~、いらんことしたせいで、くたびれた」
騒ぐとそれはそれで疲れる。それに気づいた義太夫はピタリと押し黙る。見ると日本右衛門がその場にうずくまり、下を向いたまま微動だにしない。
「おい!日本右衛門!しっかりいたせ!水を飲んでおらんのか?助九郎、水を飲ませよ」
日本右衛門は元々華奢な体つきだった。この状態で飲んでいないと死んでしまう。助九郎が慌てて水を汲んできて日本右衛門の口に流し込む。
兵糧が完全に尽きてから二十日たつ。ヘビ、トカゲ、カエル、ネズミ、バッタと何でも食糧にしてきたが、いかんせん千人もの食糧には程遠い。老いた者、体力のない者から次々に倒れていった。
「とにかく水を飲め。わしの曽爺様は飯も食わずに半年生き延びたという言い伝えがある」
「義太夫殿の曽爺様とは殿の爺様のことで?その方は仙人か何かか?」
助九郎がうつろな目で尋ねると、義太夫は、いや、と首を振り
「甲賀でも評判の酒飲みであったそうな」
「ではもしや…飯を食わずに飲んでいたのは酒では?」
「無論、酒じゃ」
おかしいと思えばそんなことか。助九郎は疲れて再び目を閉じる。
「忠三郎様が付近の夏麦畑を焼き払いました。これでは付近の村からも餓死者がでることは避けられぬものかと」
桑名近郊でも畑が焼き払われている。これも夏麦を狙ったものだろう。三十年ごとの大飢饉を抜かせば、年間を通して食糧が不足するのはちょうど今頃。毎年、春から夏に至る時期は作物の収穫の端境期にあたるため、食糧が不足しがちで餓死者が多くでる。それも夏麦の収穫を迎えた後にはひと段落つくのだが、今年はそうもいかないようだ。
「いらん連中が早う伊勢から退散してくれねば、北勢はどうにもならん」
義太夫はふぅと息をつくと、ふらふらと立ち上がった。
「いずこへ?」
「また木の皮をこさいでくる。助太郎も呼んで、皆に水を…。はて、助太郎はいずこへ参った?」
辺りを見回すが、助太郎の姿がない。
「兄者は…何か食えるものを探しに行ったやもしれませぬな」
「まぁ、よい。戻ったら伝えておけ」
さすがの義太夫も、こう空腹では足取りも重い。足を引きずるようにえっちらおっちらと歩いて行った。
四月十日。岐阜の織田信孝が挙兵したとの知らせが届いているが、伊勢では峯城からの矢文の返事がないまま、攻城戦はいつ終わるともなく続いている。
(義太夫の奴、矢文を見ておるのであろうか)
その後、逃げてくる兵もおらず、城の様子は全く分からない。寄せ手側も、いつ一益が桑名から奇襲をかけてくるかもしれず、気の抜けない状況が続いている。
(歌でも詠もうか)
そう思い、床几を立ち上がって筆を取ったところで、町野長門守が帷幕に入ってきた。
「殿!峯城から使者が」
「何、まことか!通せ!」
ようやく待ちわびた使者が来た。忠三郎が喜んで待ち構えていると、意外な者がフラフラとふらつきながら帷幕の中に通された。
「その方…助太郎ではないか」
見違えた。つい先日まで日野にいた滝川助太郎だが、うつろなその目は落ち窪み、顔色は青黒く変色し、やせ細った体は骨と皮ばかりになっている。
「長門、粥を食わせてやれ。口上はその後で聞こう」
「ハハッ!」
長門守が慌てて外へ出ていく。
「いえ…それには及びませぬ。城では皆、飢えに苦しんでおりまする。それがし一人が腹を満たすわけには参りませぬ」
「ここで倒れては役目を果たすこともできまい。少しは何か口にせい」
長門守が戻り、手にした白粥を渡そうとするが、助太郎はそれを受取ろうとはしない。
「それがしは使者ではありませぬ」
「何?使者ではない?では…」
「忠三郎様にお願いがあって参りました。城の者はもはや飢えて死を待つのみ。それでも義太夫殿は、殿の直筆書状がなければ城を開けぬと仰せで。どうか、囲みを解いて我らを解放してくだされ」
「されど…囲みを解いたとて、義太夫が城から出てくるとは思えぬが…」
忠三郎が考え込むと、町野長門守が二人を交互に見ながら、
「殿、これはやはり将監様にお願いするしか…」
恐る恐るそう言うと、忠三郎は助太郎を見た。
「わかった。わしから義兄上に頼もう。助太郎、まずは飯を食い、その上で長門と二人で桑名へ向かえ。よいな」
「忠三郎様…」
涙にむせぶ助太郎に、町野長門守が椀を渡すと、助太郎がようやく受り、白粥を口にする。
「美味い!」
溢れる涙を拭い、震える手で一口ずつ口に運ぶ助太郎を見ながら、長門守ももらい泣きしている。忠三郎はその二人を見ながら、複雑な思いを抱え、筆を取った。
翌日、忠三郎から長文の書状を持たされた滝川助太郎と町野長門守がともに桑名に向かった。
桑名で二人を出迎えた佐治新介と玉姫は、助太郎のあまりの変わりように絶句し、峯城の状況を理解した。
「なんということじゃ。義太夫殿はご無事なのか」
涙ながらにそう問う玉姫に、助太郎は大きくうなずき、
「木の皮を食って、英気を養っておられまする」
ますます心配になるような返事に、玉姫は色を失う。そこへ一益が入って来た。
「助太郎、よう戻った」
「殿!」
助太郎は一益の顔を見るなり号泣した。これは余程のことと、居並ぶ誰もが言葉を失い、しばし涙にむせぶ助太郎を見守る。供に来た町野長門守が忠三郎からの書状を津田小平次に渡すと、小平次はそのまま一益に差し出した。
「この上、何を言うてきたのやら」
一益は黙ってそれを受け取り、中を改める。
見ると、漢詩が書かれていた。
豆を煮て持って羹となし
豉を漉して もって汁となす
萁は釜の下にありて然え
豆は釜の中にありて泣く
本は同根より生ずるに
相い煎ること何ぞ太だ急なるや
魏の曹操の子、曹植の詠った七歩詩。豆を煮て鍋物を作り、豆を濾して汁を取る。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く。元は同じ根から生じたものなのに、なぜ、激しく煎り付けるのですか。
曹操の息子、曹丕と曹植は二人とも詩文の才があったと言われている。兄弟は父の生前、跡目争いをし、結果的に兄の曹丕が跡目を継いだが、兄は父の死後、異母弟の曹植を遠国へ左遷した。
ある日、曹丕は弟を呼び出し、さほどの才があるならば、今より七歩歩く間に一首詠め。できなければ首を斬ると言う。その兄の無理難題に対し、弟は一歩一歩歩みを進め、七歩目に振り返って兄を見ると、朗々とこの詩を吟じた。詠み終えた弟の目からは涙がとめどなく溢れ出、兄は不機嫌そうに席を立ったという。
この話から「豆を煮るに豆殻をもって炊く」という兄弟間の争いを意味することわざが生まれた。
「義太夫殿は殿の直筆書状を見なければ城を開けぬと仰せで」
峯城が開城すると、取り囲んでいた軍勢は皆、桑名、長島に向かってくる。義太夫はそれが分かっているから意地になって城を守り、敵を引き付けている。
「開城を促す文をしたため、藤十郎を峯城に向かわせる。それゆえ、助太郎。その方は少し休め」
「ハハッ」
早く向かわせなければ犠牲者が増える。一益は急いで文をしたためると藤十郎と町野長門守を送り出す。
「あいや、藤十郎殿!お待ちを!」
館を出ようとしたところで玉姫が呼び止めた。
「これを…これを義太夫殿に…」
石を拾うと小袖の切れ端で包んで渡した。
「は…。確かに、預かり申した」
持たせるならば食べ物かと思ったが石とは。よく分からぬ夫婦だと思いながらも先を急ぐのでそのまま受け取り、城を出た。
思ったよりも帰りの早い二人を迎え、忠三郎は藤十郎が持ち帰った書状の中身を改める。
「確かに…開城せよとの記載を確認した。…で、他には何も?」
忠三郎宛には何もないのか、という意味で聞いたのだが、藤十郎は、はて、と首を傾げ、
「義太夫殿の奥方からこれを義太夫殿にと…」
「玉姫殿から?」
小袖の切れ端に何かが包まれている。開いてみると、中身は石と一本の糸だった。忠三郎は不思議そうに石を手に取り、持ち上げて石の下を伺い、上を伺い、何の石かと確かめるが、どこからどう見ても、ただの石だった。
「如何なる意味か?」
「それは…それがしにも分かりかねまする」
忠三郎はしばし考え込んでいたが、やがて謎が解け、クスリと笑った。
「よい。持って行ってやれ。喜ぶであろう。…で、わし宛には何もないのか?」
「は?…いや、これといって何も…」
「然様か」
あからさまに落胆する。峯城開城後は、いよいよ長島へ攻め入ることになる。その前に一益は何かを伝えてくれるのではないかと、淡い期待を抱いていた。
「早う義太夫のところへ行き、開城するようにと伝えてくれ」
寂しげに言うと、藤十郎を送り出した。
(義兄上はこのまま長島に籠り、柴田殿の援軍を待つおつもりなのであろうか)
北陸から南下してきた柴田勢と、それを迎え撃つ羽柴勢は、北近江あたりで激突するだろう。羽柴勢が敗れれば、柴田勢はこちらに進軍してくる。両方から挟み撃ちにされれば今度はこちらが危ない。
(いずれにせよ、まずは桑名を落とさねば)
大川に挟まれた長島を攻略するのは難しい。しかし桑名であれば、大軍をもってすれば落とすことも可能だ。
(義兄上には悪いが、ここは引けぬところだ)
長島は攻めにくい分、大軍を動かすには時がかかる。桑名を落とし、一益を長島に封じ込めておけば、柴田勢が押し寄せたとしても逃げ道がある。
そこまで考えると、忠三郎は町野左近を呼んで陣払いを命じ、峯城の開城を待つことにした。
義太夫は今日も広縁に寝転がり、木の皮を咥えて空に浮かぶ雲を眺めている。
「今日は餅にみえるのう。助九郎、その方、何に見える?」
助九郎は目を開けるのもおっくうになり、目を閉じたまま、
「わしはここ数日、なにやら腹が減らなくなりました」
「わしもじゃ。いよいよわしらも仙人の域に達したやもしれぬな。なにやら最近、幻まで見るようになったわい」
やけに体が重い。皆、同じようで、最近、めっきり人の話し声が聞こえなくなった。いないわけではないが、話す気力さえも湧かないようだ。
「義太夫殿、藤十郎殿がお見えになりました」
日本右衛門がふらりふらりと現れて告げた。
「藤十郎………。藤十郎とな!」
あわてて体を起こすと、目が回る。広間へ行くのも辛く、どうにか立ち上がろうとすると、向こう側から藤十郎がやってくるのが見えた。
「義太夫殿!殿からの書状をお持ちしましたぞ」
「何、殿から?」
藤十郎が開いて見せると、確かに一益の筆跡だった。
「皆、喜べ!殿が城を開けて桑名に引き上げよと仰せじゃ。城を出る!」
まだ気力のある者たちが声をあげる。
「城を出られるので?」
「おぉ、早う支度せい」
義太夫が手を付き、立ち上がろうとすると、藤十郎が慌てて懐から包みを取り出した。
「奥方からこれを」
「お?玉姫殿から?」
小袖の切れ端らしき包みを開けると、中から石と糸がでてきた。義太夫は、石をジッと見つめる。
「小石…と、糸とな」
感極まり、眼に涙を浮かべた。
「久しく会わぬうちに文が上達しておる…早う会いたいのう」
まじまじと糸と石を見つめ、涙声でそう言うと、ギュッと握りしめた。
「城を出る。先に行き、鶴に伝えよ」
「ハハッ。では早々に」
藤十郎が去っていくと、助九郎が
「どうやって桑名へ?馬はとうに食ってしまいましたぞ」
「そうじゃ。忘れておった。致し方あるまい。歩いていくか」
兎にも角にも、草一本生えていない城の中とは異なり、外にはなにかしらの草も生えている。ぽつぽつ雑草を食べながらでも桑名までたどり着ければまともな食べ物にありつける。長い籠城戦を思えば、外に出られるだけでも嬉しかった。
四月十七日。ついに峯城が開城した。入城したときは見えていた雪もすっかり姿を消し、木々が青々と茂っている。もう初夏だ。義太夫は郎党を連れて城を出て、山を下りてきた。
「外の空気は城の中と変わらぬなぁ」
よろめきながらも地を踏みしめ、一月以来の城の外の景色を堪能する。
「外も中も、空は繋がっておりまする。変わるはずも…」
助九郎が義太夫の惚けた話にあわせていると、前方に何かが光ったような気がして、咄嗟に刀を抜いた。
「義太夫殿!」
「なにごとか!」
義太夫も手にした槍を構える。見ると、降りていく先に鉄砲隊が待ち構え、こちらに筒口を向けている。
「口惜しや!鶴にたばかられたか!」
騙されたと気づいたが、時すでに遅し。新介をすんなりと桑名に退却させた話を聞いていたために、すっかり油断していた。
「こうなれば一人でも多く道ずれにして、果てるまでじゃ!」
槍を振り回し、最後の力を振り絞って叫ぶと、
「義太夫殿!お待ちあれ!」
聞き覚えのある声が響いた。鉄砲隊の後ろから姿を現したのは町野長門守だ。
ふと振り返ると、後方にいた日本右衛門が、そっと後ずさりして、逃げようとしている。
(しめた!日本右衛門!逃げろ!逃げて、殿に知らせるのじゃ)
その心の声が聞こえたかどうか、日本右衛門が身を低くし、少しずつ後ろに下がっていくのが見える。
「町野殿。これは如何なることか。城を開ければ命は取らず、桑名への退去を認めるという約定は、もしや謀であったか」
日本右衛門から注意を逸らそうと義太夫が声高に呼びかける。
「命は取りませぬ。されど将は皆、捕えよとの命にて」
助九郎が目配せした。義太夫は目で頷き、
「鶴のやつ、ずいぶんと姑息な真似をしてくれるわい。わしは逃げも隠れもせぬ。捕えるならばさっさと捕えよ」
槍を捨てて言い放つと、足軽たちがどやどやと詰めかけ、義太夫を取り囲んだ。義太夫がさりげなく振り返ると、日本右衛門が草むらを掻き分け、走っていく姿が見える。
(頼むぞ、日本右衛門!おぬしはわしが名をつけた日の本一の素破じゃ!)
隣にいた助九郎が刀を捨てると、町野長門守が近づいてきた。
「義太夫殿。ご案じめさるな。我が主、蒲生忠三郎が待ちかねておりますぞ」
「わしをどうしようというのか。ようわからんが覚悟はすでにできておる。どこへなりと連れていけ!」
共にいた忠三郎の従弟、青地兄弟もその場で捕えられ、そのまま忠三郎の陣営へと連行された。
(はて、ここは…)
だんだん周りが見えてくる。ここは見覚えがある。そう、ここは岐阜城下の滝川家の屋敷だ。
「鶴!」
忠三郎を呼ぶ声がして、振り返ると少し離れたところに義太夫が立っている。あぁ、これは夢なのだと思いつつ、義太夫の方へ歩いていく。
「義太夫、わしはもう疲れた。不毛な争いはやめにしてくれ」
忠三郎がため息まじりにそう言うと、義太夫は常のごとくカラカラと笑う。
「不甲斐ない奴。また泣き言か。それで家を背負っていけるのか。もはや信長公もおられぬ。殿を頼ることも出来ず、その有様で、これからどうするつもりじゃ」
「そこまで分かっていながら、何故、その方は…義兄上はわしを苦しめる。もう疲れた。戦さは終わりにしたい。おぬしらがために、わしは悪様に罵られておるのだぞ」
忠三郎の恨み言を聞いて、義太夫は笑い、ガサゴソと懐を探り始める。
「腹が減っておろう?食うか?」
「ま、待て、義太夫。それはもしや…例の饅頭ではないか?」
「おぉ、覚えておるか。左様。大和の饅頭屋の饅頭じゃ」
義太夫が嬉しそうに懐から饅頭を取り出した。目の前に突き付けられた饅頭からは、この世のものとも思えぬ異臭が漂っている。
「やめろ!義太夫、それを離してくれ!」
「遠慮するな。ほれ、美味いぞ」
義太夫は平然と饅頭を口に放り込む。
(恐ろしい奴)
忠三郎はぞっとして立ち上がり、後ずさりする。
すると遠くから笑い声が聞こえてきた。
(あれは…)
吹雪と章姫だ。二人が饅頭を恐れる忠三郎を見て、笑っている。
「如何した、鶴。ほれ、食え」
饅頭を持った義太夫が二・三歩近づいてくる。
後ずさりする忠三郎の背後で、ふいに嫌な気配を感じた。
「殿…」
聞き覚えのある声に振り返ると、頭から糞尿まみれになった町野長門守がこちらに近づいてくる。
「なっ長門!その方まで…。近寄るな!」
長門守はこの世の者とも思えぬ足取りで、ゆらりゆらりと近づきながら、
「幼き頃より付従ってきたそれがしに対して、あまりと言えばあまりに冷たい仰せよう…」
「いや、そうではない!待て、待て長門!」
すると饅頭を手にした義太夫が
「そうじゃ、鶴。その方は人の情けを知らぬ」
「義太夫!近寄るな!わしはもう帰る」
「今更、何を言うておる。その方が勝手に伊勢に攻め入ったのではないか」
笑みをたたえた義太夫がほれ、ほれと饅頭を突き付け、更に近づく。
一方、背後の長門守も
「殿がここまで我らを連れて来られたのじゃ。それが、挙句の果ては近寄るななどと…」
前後を挟まれ、どんどん距離が縮んでいく。ついに窮した忠三郎は両目を閉じ、満身の力を籠めて両手を固く握ると、
「二人とも、やめろ!わしは日野に帰る!そもそも最初から戦さなどはしとうなかった。義兄上と戦う気などなかった。こんな戦さ、最初から嫌だったのじゃ。もうたくさんだ!やめてくれ-!」
大声で叫ぶと、
「殿!殿!起きてくだされ!」
激しく揺り動かされて、ハタと目が覚めた。
「長門!ま、まて!待ってくれ!」
町野長門守が心配そうに忠三郎を見ている。
「如何なされました?」
長門守の驚く顔を見て、夢から覚めたと気づいた。
「大事ありませぬか。泣き叫んでおられましたぞ」
驚いて頬を拭うと、汗と涙で濡れている。
「ひどい夢を見た」
「殿、夢どころではありませぬ。夜襲でござります」
「何!」
慌てて起き上がる。辺りは騒然とし、鋭く響く金属音とけたたましい銃声が耳に入ってきた。
「あれほど柵を巡らせたというのに何故…」
乗り越えてきたなどとは考えられない。
「城からの奇襲ではござりませぬ。将監様の手勢かと」
「義兄上が来ておるのか!」
一益が桑名から兵を差し向けてきたのであれば、これは義太夫どころの騒ぎではない。うかうかすると兵が離散し、総崩れになる。
「馬をひけ!法螺を吹き、退却の太鼓を…」
太刀を取ろうとして、どこにも見当たらないことに気付いた。
「太刀がない」
よくよく見ると、陣羽織までない。
「長門!一大事じゃ!太刀がない!」
父、賢秀が信長から下賜された備前長光の太刀。それに忠三郎が信長から褒美として渡された大事な陣羽織までなくなっている。
「殿、落ち着いてくだされ。まずは甲冑をつけねば危のうござりまする」
「皆、探せ!わしの太刀と陣羽織を探してくれ!」
長門守が甲冑を着せる間、あれこれと思い起こしてみる。軍議を終えて戻った時には確かに太刀も陣羽織もあった。
(あの御前女郎か)
あれは一益が送り込んできた女郎に違いない。酒を飲んだ後の尋常ではない眠気も、薬が仕込まれていたと考えれば合点がいく。
「殿!一大事でござりますぞ」
町野左近の声が響き、慌てた様子で帷幕の中に入って来た。
「爺、次は何事か」
「殿の馬がおりませぬ」
「な、何と申した?」
にわかに町野左近の言う意味が分からず、問い返した。
「他の者の馬は揃っておりまするが、何故か殿の馬だけがどこにも見当たらなく…」
左義長の褒美に信長から下賜された馬、小雲雀。忠三郎の馬の中でも一番大切な馬がいなくなったという。
(右府様から頂いたものばかりがなくなっている)
すべて一益が仕向けたことだろう。忠三郎が最も大切にしていることは知っていた筈だ。それをいとも簡単に持ち去っていった。
(義兄上は何故、かような意地の悪いことばかりなさるのじゃ)
未だ先ほどの悪夢が続いているかのようだ。悔しさに涙を滲ませながら、町野左近が用意した替馬に跨った。
「皆、一度引け!兵を纏め、陣を立て直すのじゃ!」
声高に叫び、武将たちに退却を命じて回った。
城から更に一里ほど後退したところで兵を纏め、いざ一益と勝負しようかと辺りを見渡したが、すでに敵の姿がなかった。
「将監様は早、桑名に戻られたものかと」
多勢に無勢。奇襲は仕掛けられても、大軍が陣形を立て直して攻めかかれば危うくなる。そうなる前にさっさと引き返してしまったらしい。明るくなってくると、味方の兵の躯ばかりが目についた。一益はある程度の戦果をあげると、無傷で桑名に戻ったのだろう。
「殿!してやられました!」
「今度は何か!」
寄せ手が奇襲にあって退却している間に、何日もかけて掘り進めていた坑道に敵の兵が火を放ち、そこにいた金堀衆百名が焼け死んだ。
「金堀攻めしていることを察していたのか…」
亀山城を土竜攻めで落としている。何度も同じ手が通用する相手でもない。せめて見抜かれていることに気付くべきだった。
「義兄上は…随分と激しく煎りつけてくる」
それでも本気ではないだろう。昨夜の夜襲。一益が本気だったのであれば、薬で完全に寝入っていた味方は総崩れとなり、兵が離散していた。その結果、忠三郎の周りから誰もいなくなり、命を落としていたかもしれない。
「殿~!お喜びあれ~!」
がっくり肩を落としているところに、町野長門守がなんとも場の空気を察しない声を響かせる。
「かような有様で、何を喜べと申すか」
忠三郎が苦笑いすると、町野長門守は嬉々として片膝つき、太刀と陣羽織を掲げる。
「おぉ、これは!」
なくなったと思っていた大事な備前長光と陣羽織だ。
「長門!でかした!どこにあった?」
忠三郎が途端に明るい声を発すると、町野長門守が自慢げに胸をそらす。
「我らが昨夜、陣を張っていたところに、小雲雀とともに置かれていたのを見つけました!」
「小雲雀もおったのか!」
「見つけたのはそれがしの郎党にござりまする」
町野長門守が郎党を引き連れて、懸命に探してくれていたようだ。喜んで床几から立ち上がり、幔幕を蹴って外へ出ると、小雲雀が何事もなかったかのように繋がれていた。
「小雲雀!探しておったぞ!」
忠三郎が嬉しさに馬の首をなでる。小雲雀も心なしか笑顔をたたえているようにさえ見えた。
(これは一体、何の真似か)
忠三郎の首など、取ろうと思えばいつでも取れる、そう言っているのだろうか。
「殿!もう一つ、朗報が!」
譜代家臣の稲田数馬助が現れて、片膝付いた。
「おぉ、数馬助。如何いたした?」
「わが手の者が、城から逃げてきた兵を取り押さえておりまする」
「でかした、数馬助!すぐに連れて参れ」
「ハハッ!」
兵糧はあと何日分残っているのか。もう残り少ない筈だが、城内の様子を知りたいと思っていたところだった。
(風向きが変わって来たか)
奇襲を受け、意気消沈していたが、どうもそうではないかもしれない。忠三郎が帷幕に戻り、床几に腰をすえて待ちわびていると、ほどなく稲田数馬助が城兵を連れて戻って来た。
「殿、これは…」
連れて来られた城兵の顔を見て、町野長門守が驚いて言葉を失っている。
(思っていたのとは随分と違うのかもしれぬ)
その場に崩れるように座った城兵は、痩せこけて体を起こしているのもやっとの様子だった。
「城に残った兵糧は、あと如何ほどであるか?」
「恐れながら、兵糧などは、とうに底をついておりまする」
嘘・偽りではないようだ。
忠三郎が峯城攻撃に加わってからひと月以上が経過して、いまはもう四月。籠城から数えれば五か月以上経過している。城兵は約千人。いつまでも士気旺盛なので、千人分を五か月分、つまり五千人分の兵糧を運び入れたのかと舌を巻いていたが、どうやら兵糧はすでに尽きていたらしい。
(それで義兄上は奇襲をかけた)
奇襲をかけ、寄せ手を引き付けて城兵を逃がそうとしたのだろう。ところが城は二重三重の柵で囲まれていて、容易に助け出すことは難しいと考え、一益は兵をひいた。
「兵糧が尽きたとは…では、みな、何を食べておるのか」
「死んだ馬、野鳥、兎、ネズミ、モグラ、それと若葉、木の皮を煎じたものを」
「木の皮?」
「義太夫様が、若葉、木の皮は薬であると、そう仰せになりました」
いかにも義太夫らしいが、木の皮がどれほど腹のたしになるというのか。
「そんなことになっていようとは…。で、そのような有様で、まだ城を開けぬというておるのか」
「我らはよう存じませぬ。ただ、義太夫様は、死者の躯を食ってでも城は開けぬと豪語していたと、聞き及んでおりまする」
城兵の言葉に、帷幕内が静まり返った。
(何故そこまで…)
頑ななまでに意地を見せてくるのか。
「殿。また将監様に頼み、城を開けるよう使者を送っていただいては如何なもので?」
町野長門守がそっと声をかける。
(されど、それでは…)
何度も一益に頼むのはさすがに憚られた。これでは本当に、一益がいなければ城ひとつ落とせないことになってしまう。
「長門、矢文を撃て」
「は、矢文を?」
「左様。義兄上が開城を命じられたと義太夫に知らせよ」
一日も早く開城させなければ、義太夫が死ぬかもしれない。城兵に食事を与えるよう命じると、忠三郎は一人、昔のことを思い起こした。
岐阜での人質時代。城下の滝川屋敷では、いつも、義太夫が食事の支度をして、食え食えと言って食べさせてくれていた。時としてそれは味のない汁であり、釜炊きに失敗した生米に近い飯であり、得体のしれない草であったりもしたが、下手は下手なりに膳奉行を務めていた。何かあると、懐から食べ物を取り出し、渡してくれた義太夫。
人は飯を食うものと、そう言っていた義太夫が今にも餓死しそうな状況に追い込まれている。
(義太夫、おぬしは何故、そこまでして戦うのか)
果たして矢文に応じてくるだろうか。応じなかったときは、どうしたらいいのか。
伊勢 峯城。
義太夫は広縁に横たわり、うつろな目で流れる雲を見ている。
「美味そうじゃ」
かすれた声でそう言うと、傍で柱にもたれていた滝川助九郎が目を開けて
「何か、食うものがござりましたか」
「あれを見よ。うまそうな握り飯じゃ」
青い空に浮かぶ雲を見て、握り飯という。
「…何を見ても食い物に見える」
手に持った木の皮をしゃぶりながら、握り飯を思い浮かべて目を閉じる。
一益が兵を率いて奇襲をかけているのは城から伺い知ることができた。あの勢いを見る限り、新介たちはうまく長島に合流できているようだ。秀吉の一群が北陸に向かったという話もあるが、その後はどうなったのだろうか。
「こう囲まれていては、何もわからぬ」
義太夫は先ほどから、愚痴ばかり言っている。助九郎もいい加減、返事をする気力もわかず、目を閉じたままだ。
義太夫がしきりにぼやいていると、やがてどたどたと足音が聞こえ、誰かがやってきた。
「寄せ手から矢文が届いておりまする」
日本右衛門がすっかりやせ細った腕を伸ばして矢文を渡す。両眼は陥没し、うつろな表情だ。
「お?矢文?」
と、義太夫が結び目を解き、中を改める。
「フム…」
「なんの知らせで?」
「殿が城をあけろと言うておると」
「まことで?」
助九郎が目を開き、身を起こした。城を開ければ飯にありつけると言いたげだ。
「かような虚言に惑わされるな。鶴のやつ、出鱈目なことばかりぬかしおってからに。わしは城を開けよという殿の直筆書状がなくば、断じて城を開けぬ。あ~、いらんことしたせいで、くたびれた」
騒ぐとそれはそれで疲れる。それに気づいた義太夫はピタリと押し黙る。見ると日本右衛門がその場にうずくまり、下を向いたまま微動だにしない。
「おい!日本右衛門!しっかりいたせ!水を飲んでおらんのか?助九郎、水を飲ませよ」
日本右衛門は元々華奢な体つきだった。この状態で飲んでいないと死んでしまう。助九郎が慌てて水を汲んできて日本右衛門の口に流し込む。
兵糧が完全に尽きてから二十日たつ。ヘビ、トカゲ、カエル、ネズミ、バッタと何でも食糧にしてきたが、いかんせん千人もの食糧には程遠い。老いた者、体力のない者から次々に倒れていった。
「とにかく水を飲め。わしの曽爺様は飯も食わずに半年生き延びたという言い伝えがある」
「義太夫殿の曽爺様とは殿の爺様のことで?その方は仙人か何かか?」
助九郎がうつろな目で尋ねると、義太夫は、いや、と首を振り
「甲賀でも評判の酒飲みであったそうな」
「ではもしや…飯を食わずに飲んでいたのは酒では?」
「無論、酒じゃ」
おかしいと思えばそんなことか。助九郎は疲れて再び目を閉じる。
「忠三郎様が付近の夏麦畑を焼き払いました。これでは付近の村からも餓死者がでることは避けられぬものかと」
桑名近郊でも畑が焼き払われている。これも夏麦を狙ったものだろう。三十年ごとの大飢饉を抜かせば、年間を通して食糧が不足するのはちょうど今頃。毎年、春から夏に至る時期は作物の収穫の端境期にあたるため、食糧が不足しがちで餓死者が多くでる。それも夏麦の収穫を迎えた後にはひと段落つくのだが、今年はそうもいかないようだ。
「いらん連中が早う伊勢から退散してくれねば、北勢はどうにもならん」
義太夫はふぅと息をつくと、ふらふらと立ち上がった。
「いずこへ?」
「また木の皮をこさいでくる。助太郎も呼んで、皆に水を…。はて、助太郎はいずこへ参った?」
辺りを見回すが、助太郎の姿がない。
「兄者は…何か食えるものを探しに行ったやもしれませぬな」
「まぁ、よい。戻ったら伝えておけ」
さすがの義太夫も、こう空腹では足取りも重い。足を引きずるようにえっちらおっちらと歩いて行った。
四月十日。岐阜の織田信孝が挙兵したとの知らせが届いているが、伊勢では峯城からの矢文の返事がないまま、攻城戦はいつ終わるともなく続いている。
(義太夫の奴、矢文を見ておるのであろうか)
その後、逃げてくる兵もおらず、城の様子は全く分からない。寄せ手側も、いつ一益が桑名から奇襲をかけてくるかもしれず、気の抜けない状況が続いている。
(歌でも詠もうか)
そう思い、床几を立ち上がって筆を取ったところで、町野長門守が帷幕に入ってきた。
「殿!峯城から使者が」
「何、まことか!通せ!」
ようやく待ちわびた使者が来た。忠三郎が喜んで待ち構えていると、意外な者がフラフラとふらつきながら帷幕の中に通された。
「その方…助太郎ではないか」
見違えた。つい先日まで日野にいた滝川助太郎だが、うつろなその目は落ち窪み、顔色は青黒く変色し、やせ細った体は骨と皮ばかりになっている。
「長門、粥を食わせてやれ。口上はその後で聞こう」
「ハハッ!」
長門守が慌てて外へ出ていく。
「いえ…それには及びませぬ。城では皆、飢えに苦しんでおりまする。それがし一人が腹を満たすわけには参りませぬ」
「ここで倒れては役目を果たすこともできまい。少しは何か口にせい」
長門守が戻り、手にした白粥を渡そうとするが、助太郎はそれを受取ろうとはしない。
「それがしは使者ではありませぬ」
「何?使者ではない?では…」
「忠三郎様にお願いがあって参りました。城の者はもはや飢えて死を待つのみ。それでも義太夫殿は、殿の直筆書状がなければ城を開けぬと仰せで。どうか、囲みを解いて我らを解放してくだされ」
「されど…囲みを解いたとて、義太夫が城から出てくるとは思えぬが…」
忠三郎が考え込むと、町野長門守が二人を交互に見ながら、
「殿、これはやはり将監様にお願いするしか…」
恐る恐るそう言うと、忠三郎は助太郎を見た。
「わかった。わしから義兄上に頼もう。助太郎、まずは飯を食い、その上で長門と二人で桑名へ向かえ。よいな」
「忠三郎様…」
涙にむせぶ助太郎に、町野長門守が椀を渡すと、助太郎がようやく受り、白粥を口にする。
「美味い!」
溢れる涙を拭い、震える手で一口ずつ口に運ぶ助太郎を見ながら、長門守ももらい泣きしている。忠三郎はその二人を見ながら、複雑な思いを抱え、筆を取った。
翌日、忠三郎から長文の書状を持たされた滝川助太郎と町野長門守がともに桑名に向かった。
桑名で二人を出迎えた佐治新介と玉姫は、助太郎のあまりの変わりように絶句し、峯城の状況を理解した。
「なんということじゃ。義太夫殿はご無事なのか」
涙ながらにそう問う玉姫に、助太郎は大きくうなずき、
「木の皮を食って、英気を養っておられまする」
ますます心配になるような返事に、玉姫は色を失う。そこへ一益が入って来た。
「助太郎、よう戻った」
「殿!」
助太郎は一益の顔を見るなり号泣した。これは余程のことと、居並ぶ誰もが言葉を失い、しばし涙にむせぶ助太郎を見守る。供に来た町野長門守が忠三郎からの書状を津田小平次に渡すと、小平次はそのまま一益に差し出した。
「この上、何を言うてきたのやら」
一益は黙ってそれを受け取り、中を改める。
見ると、漢詩が書かれていた。
豆を煮て持って羹となし
豉を漉して もって汁となす
萁は釜の下にありて然え
豆は釜の中にありて泣く
本は同根より生ずるに
相い煎ること何ぞ太だ急なるや
魏の曹操の子、曹植の詠った七歩詩。豆を煮て鍋物を作り、豆を濾して汁を取る。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く。元は同じ根から生じたものなのに、なぜ、激しく煎り付けるのですか。
曹操の息子、曹丕と曹植は二人とも詩文の才があったと言われている。兄弟は父の生前、跡目争いをし、結果的に兄の曹丕が跡目を継いだが、兄は父の死後、異母弟の曹植を遠国へ左遷した。
ある日、曹丕は弟を呼び出し、さほどの才があるならば、今より七歩歩く間に一首詠め。できなければ首を斬ると言う。その兄の無理難題に対し、弟は一歩一歩歩みを進め、七歩目に振り返って兄を見ると、朗々とこの詩を吟じた。詠み終えた弟の目からは涙がとめどなく溢れ出、兄は不機嫌そうに席を立ったという。
この話から「豆を煮るに豆殻をもって炊く」という兄弟間の争いを意味することわざが生まれた。
「義太夫殿は殿の直筆書状を見なければ城を開けぬと仰せで」
峯城が開城すると、取り囲んでいた軍勢は皆、桑名、長島に向かってくる。義太夫はそれが分かっているから意地になって城を守り、敵を引き付けている。
「開城を促す文をしたため、藤十郎を峯城に向かわせる。それゆえ、助太郎。その方は少し休め」
「ハハッ」
早く向かわせなければ犠牲者が増える。一益は急いで文をしたためると藤十郎と町野長門守を送り出す。
「あいや、藤十郎殿!お待ちを!」
館を出ようとしたところで玉姫が呼び止めた。
「これを…これを義太夫殿に…」
石を拾うと小袖の切れ端で包んで渡した。
「は…。確かに、預かり申した」
持たせるならば食べ物かと思ったが石とは。よく分からぬ夫婦だと思いながらも先を急ぐのでそのまま受け取り、城を出た。
思ったよりも帰りの早い二人を迎え、忠三郎は藤十郎が持ち帰った書状の中身を改める。
「確かに…開城せよとの記載を確認した。…で、他には何も?」
忠三郎宛には何もないのか、という意味で聞いたのだが、藤十郎は、はて、と首を傾げ、
「義太夫殿の奥方からこれを義太夫殿にと…」
「玉姫殿から?」
小袖の切れ端に何かが包まれている。開いてみると、中身は石と一本の糸だった。忠三郎は不思議そうに石を手に取り、持ち上げて石の下を伺い、上を伺い、何の石かと確かめるが、どこからどう見ても、ただの石だった。
「如何なる意味か?」
「それは…それがしにも分かりかねまする」
忠三郎はしばし考え込んでいたが、やがて謎が解け、クスリと笑った。
「よい。持って行ってやれ。喜ぶであろう。…で、わし宛には何もないのか?」
「は?…いや、これといって何も…」
「然様か」
あからさまに落胆する。峯城開城後は、いよいよ長島へ攻め入ることになる。その前に一益は何かを伝えてくれるのではないかと、淡い期待を抱いていた。
「早う義太夫のところへ行き、開城するようにと伝えてくれ」
寂しげに言うと、藤十郎を送り出した。
(義兄上はこのまま長島に籠り、柴田殿の援軍を待つおつもりなのであろうか)
北陸から南下してきた柴田勢と、それを迎え撃つ羽柴勢は、北近江あたりで激突するだろう。羽柴勢が敗れれば、柴田勢はこちらに進軍してくる。両方から挟み撃ちにされれば今度はこちらが危ない。
(いずれにせよ、まずは桑名を落とさねば)
大川に挟まれた長島を攻略するのは難しい。しかし桑名であれば、大軍をもってすれば落とすことも可能だ。
(義兄上には悪いが、ここは引けぬところだ)
長島は攻めにくい分、大軍を動かすには時がかかる。桑名を落とし、一益を長島に封じ込めておけば、柴田勢が押し寄せたとしても逃げ道がある。
そこまで考えると、忠三郎は町野左近を呼んで陣払いを命じ、峯城の開城を待つことにした。
義太夫は今日も広縁に寝転がり、木の皮を咥えて空に浮かぶ雲を眺めている。
「今日は餅にみえるのう。助九郎、その方、何に見える?」
助九郎は目を開けるのもおっくうになり、目を閉じたまま、
「わしはここ数日、なにやら腹が減らなくなりました」
「わしもじゃ。いよいよわしらも仙人の域に達したやもしれぬな。なにやら最近、幻まで見るようになったわい」
やけに体が重い。皆、同じようで、最近、めっきり人の話し声が聞こえなくなった。いないわけではないが、話す気力さえも湧かないようだ。
「義太夫殿、藤十郎殿がお見えになりました」
日本右衛門がふらりふらりと現れて告げた。
「藤十郎………。藤十郎とな!」
あわてて体を起こすと、目が回る。広間へ行くのも辛く、どうにか立ち上がろうとすると、向こう側から藤十郎がやってくるのが見えた。
「義太夫殿!殿からの書状をお持ちしましたぞ」
「何、殿から?」
藤十郎が開いて見せると、確かに一益の筆跡だった。
「皆、喜べ!殿が城を開けて桑名に引き上げよと仰せじゃ。城を出る!」
まだ気力のある者たちが声をあげる。
「城を出られるので?」
「おぉ、早う支度せい」
義太夫が手を付き、立ち上がろうとすると、藤十郎が慌てて懐から包みを取り出した。
「奥方からこれを」
「お?玉姫殿から?」
小袖の切れ端らしき包みを開けると、中から石と糸がでてきた。義太夫は、石をジッと見つめる。
「小石…と、糸とな」
感極まり、眼に涙を浮かべた。
「久しく会わぬうちに文が上達しておる…早う会いたいのう」
まじまじと糸と石を見つめ、涙声でそう言うと、ギュッと握りしめた。
「城を出る。先に行き、鶴に伝えよ」
「ハハッ。では早々に」
藤十郎が去っていくと、助九郎が
「どうやって桑名へ?馬はとうに食ってしまいましたぞ」
「そうじゃ。忘れておった。致し方あるまい。歩いていくか」
兎にも角にも、草一本生えていない城の中とは異なり、外にはなにかしらの草も生えている。ぽつぽつ雑草を食べながらでも桑名までたどり着ければまともな食べ物にありつける。長い籠城戦を思えば、外に出られるだけでも嬉しかった。
四月十七日。ついに峯城が開城した。入城したときは見えていた雪もすっかり姿を消し、木々が青々と茂っている。もう初夏だ。義太夫は郎党を連れて城を出て、山を下りてきた。
「外の空気は城の中と変わらぬなぁ」
よろめきながらも地を踏みしめ、一月以来の城の外の景色を堪能する。
「外も中も、空は繋がっておりまする。変わるはずも…」
助九郎が義太夫の惚けた話にあわせていると、前方に何かが光ったような気がして、咄嗟に刀を抜いた。
「義太夫殿!」
「なにごとか!」
義太夫も手にした槍を構える。見ると、降りていく先に鉄砲隊が待ち構え、こちらに筒口を向けている。
「口惜しや!鶴にたばかられたか!」
騙されたと気づいたが、時すでに遅し。新介をすんなりと桑名に退却させた話を聞いていたために、すっかり油断していた。
「こうなれば一人でも多く道ずれにして、果てるまでじゃ!」
槍を振り回し、最後の力を振り絞って叫ぶと、
「義太夫殿!お待ちあれ!」
聞き覚えのある声が響いた。鉄砲隊の後ろから姿を現したのは町野長門守だ。
ふと振り返ると、後方にいた日本右衛門が、そっと後ずさりして、逃げようとしている。
(しめた!日本右衛門!逃げろ!逃げて、殿に知らせるのじゃ)
その心の声が聞こえたかどうか、日本右衛門が身を低くし、少しずつ後ろに下がっていくのが見える。
「町野殿。これは如何なることか。城を開ければ命は取らず、桑名への退去を認めるという約定は、もしや謀であったか」
日本右衛門から注意を逸らそうと義太夫が声高に呼びかける。
「命は取りませぬ。されど将は皆、捕えよとの命にて」
助九郎が目配せした。義太夫は目で頷き、
「鶴のやつ、ずいぶんと姑息な真似をしてくれるわい。わしは逃げも隠れもせぬ。捕えるならばさっさと捕えよ」
槍を捨てて言い放つと、足軽たちがどやどやと詰めかけ、義太夫を取り囲んだ。義太夫がさりげなく振り返ると、日本右衛門が草むらを掻き分け、走っていく姿が見える。
(頼むぞ、日本右衛門!おぬしはわしが名をつけた日の本一の素破じゃ!)
隣にいた助九郎が刀を捨てると、町野長門守が近づいてきた。
「義太夫殿。ご案じめさるな。我が主、蒲生忠三郎が待ちかねておりますぞ」
「わしをどうしようというのか。ようわからんが覚悟はすでにできておる。どこへなりと連れていけ!」
共にいた忠三郎の従弟、青地兄弟もその場で捕えられ、そのまま忠三郎の陣営へと連行された。
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歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
転生一九三六〜戦いたくない八人の若者たち〜
紫 和春
歴史・時代
二〇二〇年の現代から、一九三六年の世界に転生した八人の若者たち。彼らはスマートフォンでつながっている。
第二次世界大戦直前の緊張感が高まった世界で、彼ら彼女らはどのように歴史を改変していくのか。
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
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