滝川家の人びと

卯花月影

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17 武士の鑑

17-3 上州騒乱

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 翌日、一益は集めた諸将の前で、再度、能興行を行った。
「殿、朗報にござりまする」
 義太夫が喜んで走って来た後ろには、武田信玄の娘、松姫の警護をするために送り出していた木全彦一郎がいた。
「彦一郎、戻ったか」
 武田滅亡後、松姫は八王子金照庵に逃れていた。知らせを受けた織田信忠は松姫を正室として迎えるために八王子に使いを送っていた。その松姫は、上洛の途上で信忠の死を知った。
「松姫様は八王子に戻り、出家なさいました。父はそれを見届け、滝川家の一大事を知って戻って来たと、そう申しておりまする」
 口のきけない彦一郎の代わりに、息子の彦次郎が説明する。
「松姫は寺に入ったか?」
「はい。城介様の菩提を弔うと、そう仰せだったとか」
「よく戻ってくれた。大儀であった」
 小回りがきく彦一郎が戻って来たことは朗報だ。
(されど…)
 松姫はついに信忠に会うことはなかった。あれほど苦心して、なんとか二人の仲を取り持とうとしてきたことは全て水泡に帰した。
(まことに世は無常)
 父信長に逆らってまで添い遂げようとした信忠の松姫への思いもすべて、燃え上がる二条城とともに粉塵と化してしまった。
「痛ましい限りにて…」
 義太夫が肩を落とす。
「風にも知らせてやらねばな」
 信忠の思いを知って、松姫を織田家に迎え入れたいと望んでいたのは風花だ。この話の結末を、知らせなければならない。
「おお、すっかり失念しておりました。御台様といえば、もうひとつ朗報が。殿、お待ちかねの御台様からの文が届いておりまする」
「何、風から便りが届いておったのか」
「はい。このように、それがしの懐で温めておりました」
 全く余計な気遣いであるが、一益は黙って義太夫から書状を受け取る。もどかしく中を開くと、折鶴がはらりと落ちた。
 信長、信忠の横死を知って、動揺して手紙を書いてきたようだ。光秀に京の暘谷庵が滝川家と所縁があることは知られてはおらず、暘谷庵にいる六郎、九郎は無事。二人の身を案じたキリシタンたちが数名、供にいると綴られている。
「河内の三箇はキリシタンを守るため、明智に降ったとある」
 書状の日付は六月三日。やはり七日前だ。明智勢は峠を越えて伊勢には入っていないようだった。
「本国が無事で何より。他には何か書かれてはおられぬので?」
「他にはない」
 一益は書状を畳むと、床に落ちた折鶴を拾い上げた。
(まだ無事であろうか)
 伊勢は無事。されど心細く、不安が募る日々。早く伊勢に戻って欲しいと綴られていた。風花がここまで不安をあらわにするのも珍しい。余程のことだ。
「義太夫、沼田に戻り、真田安房守に城を返す支度を整えよ」
 上州を元の主に返して伊勢に戻る。
「ハハッ。では早々に戻りまする」
 短い間であったが世話になった上州の地に別れを告げる。支度を整えようと義太夫が沼田に足を向けようとしたとき、
「義太夫殿」
 廊下でふいに呼び止められた。振り返ると国衆の一人と思しき年若い男が義太夫を上目遣いで見ている。
「ん?はて?」
 一口に上州の国人といっても何十人もいる。一益はひとりひとりを覚えているようだが、義太夫にはとても覚えきれるものではない。誰だったかなと首を傾げると
「沼須城主、藤田能登守にござる」
「ふむ。それはまた雪深い地を治めておられるのう」
 能登守といっても自称で、能登を治めているわけではないことくらいは分かっているが、目の前の男が怒ったような顔をしているので呆けたことを言いたくなった。
「沼田は元々はそれがしが城代を務めていた城。どうかそれがしに預かり置かれたい」
「ほう?」
「真田の本領は信濃。沼田とはほど遠い地。返すのであればそれがしに返すのが筋というもの」
 真田昌幸の本領が信濃にあるから、返すなら自分に寄こせと、そう言っている。
「何を言うかと思えば。元来は如何にもあれ、武田滅亡の折に真田殿から故右府様へ差し上げたる城なれば、真田殿にお返しいたすが筋じゃ」
 義太夫がそう言って曖昧な笑いを返すと、藤田能登守はむっとして、その場を後にした。
(妙な奴じゃな)
 元々は真田昌幸の口利きで武田に仕えたという話だったが、さほど仲がよいわけでもないのだろう。このまま引き下がるとも思えなかったが、取り急ぎ、沼田に戻ることにした。
 
 沼田に戻った義太夫。雇い入れた小者や侍女たちに金子を渡し、最後の掃除と心得て、三日もかけて城内を掃き清めた。
「城明け渡しか…」
 経験はないが、その昔、南北朝のころ、佐々木道誉が屋敷を明け渡す時は、婆娑羅《ばさら》大名らしく、雅な演出をしたと聞いたことがある。
「やはりここは、色をつけて返さねばな」
 広間に花瓶、香炉などを飾り、一益に合わせて数寄者を演出することにした。一度、広間を出て、再度入りなおし、全体を見回してみる。
「何か足りぬような…。おお、そうじゃ、そうじゃ」
 ゴトゴトと音を立てて具足櫃を運び入れると、広間の真正面、一番奥に鎧を置き、太刀を一振り置いた。
「我ながら惚れ惚れするような粋な演出。戦国の婆娑羅大名、滝川義太夫ここにあり。真田安房守も度肝を抜くじゃろう」
 満足げに広間を見渡していると、助九郎が慌てた様子で姿を現す。
「よいところに来た。見よ、助九郎。関東公方も真っ青の、この風雅な広間を」
「義太夫殿、かようなところで戯れている場合ではありませぬぞ」
「何を申すか。戯れているのではない。上州の者に、わしが文武両道、雅なもののふと知らしめてこの地を去るため、忙しく立ち働いておるのがわからぬか」
 義太夫が誇らしげに言うと、助九郎はそれどころではない、と制して、
「奇襲でござる」
「奇襲?はて?」
 助九郎に引きずられるように物見櫓まで行き、外を見ると、確かに攻め寄せてくる軍勢が見えた。
「お味方ではないようじゃ。どこから湧いた?」
「あれなるは藤田能登守では?」
 義太夫が城を真田昌幸に返すと言ったので、強引に奪い取りにきたのだろう。
「婆娑羅なわしが悦に入っておるときに、不粋な奴め」
「義太夫殿、如何なされる」
「わしはまだこの城の城代。逃げるわけにもいくまいて。真田に城を返してやれとの殿の仰せじゃ。どれ、一泡ふかせてくれるわ」
 義太夫は武器蔵に向かい、大鉄砲を携え戻ると、再び櫓に上る。見ると、思ったよりも敵の兵の数が多いようだ。
「藤田能登守がかような大軍を動かせるとは…。こやつらは何処から参ったかのう」
「藤田は越後の長尾伊賀守に使いを出し、三国峠から上杉勢を招き入れたようでござりまする。ほれ、あれに上杉の旗印が見えまする」
「上杉勢…」
 まだ厩橋に兵を戻していないのが幸いした。こちらの兵力はざっと見積もっておよそ四千。
「敵の兵力は?」
「五千は下らないかと…」
 一人で上杉勢相手に戦うには荷が重いが、ここは武士の意地を見せたいところだ。兵を纏め、大手門に向かおうとしたところで、早くも敵兵の侵入を許していることに気づいた。
「敵もこの城を熟知しておる。これは侮れぬわい」
 あわてて狼煙をあげ、厩橋の一益に知らせると、攻め寄せる敵に銃弾を浴びせながら、城の奥深くへ侵入した敵の後を追う。
「どこへ行った?」
「これは拙い。恐らくは水ノ一門では?」
 助九郎が臍を噛む。
「水曲輪か」
 水ノ一門の先にある水曲輪。ここには井戸がある。沼田城をよく知る藤田能登守は、水の手を断って籠城を阻止しようとしているようだ。
「口惜しや~」
 なんとしても死守しなければならなかった水曲輪が、容易く敵の手におちている。
「助九郎、続け!」
 義太夫は櫓から飛び降りると、馬に乗り、大手門目指して走り出した。
「義太夫殿!これはいよいよ我らも覚悟を決めねばなりませぬぞ!」
「嫌じゃ!わしは伊勢に戻るのじゃ!これ以上、敵を城に入れるな!鉄砲隊前にでよ!攻め入る敵に一斉に撃ち込め!」
 義太夫は馬を駆け回らせて下知して回る。敵の動きが速い。井戸はもう壊されるだろう。水曲輪を抑えられては籠城はできない。一か八か。ここで一気に片をつけるしかない。
 馬を走らせていくと、大手門が見えてきた。門はすでに破壊されており、大勢の敵兵が門をくぐっていくのが見えた。
(抑えきれるか…)
 いよいよ突撃しようかと覚悟を決めたとき、地鳴りにも似た音が鳴り轟き、地面が大きく揺れた。大手門入り口で大勢の敵が倒れている。
「な、なんじゃ?」
「お味方の大筒でござりまする!」
 おや、と見ると、門の向こうに味方と思しき鉄砲隊の姿が見えた。
「義太夫!」
 向こう側から声をかけてきたのは佐治新介だ。
「新介か!」
 恐ろしい爆音に驚いた敵の兵は、新手の出現を知って、慌てて門から離れ、逃げ惑う。
「彦一郎、彦次郎もまもなく参る」
 後詰が随分と早い。
「藤田能登守と義太夫が話しているのに気づいた殿が、挙兵の備えをしていたところに沼田から狼煙が上がるのを見て、我らを先に送らせたのじゃ」
「先に?ということは…」
「木全親子の後に、殿が二万の兵を率いて出馬される」
「ほ?に、二万?」
 そんな軍勢がどこにいたのだろうか。
「士は義を立つる者。殿の潔いおことばに感じ入った上州のものどもが我も我もと殿の元に馳せ散じたのじゃ」
「なんと…。絵巻物のごとき話じゃ…」
 義太夫が驚いていると、新介が後ろの兵たちを城内に誘導する。
「兎も角、城に入った敵を一掃し、殿が来られるまで、持ちこたえるのじゃ」
「相わかった!」
 一度は死を覚悟したが、どうやら虎口を脱したらしい。
(それにしても、三日もかけて掃き清めた城が…)
 城門まで破壊されている。これでは掃除をやり直さなければならない。

 翌日、藤田能登守が越後へ逃れた。沼田城を守り切った義太夫は、真田昌幸に城を明け渡し、厩橋に戻って来た。
(おや、これは…)
 厩橋を出る前とは空気が一変して、雑兵、小者に至るまで、誰も彼も緊張感を漂わせている。何があったのかと皆がいる広間へ足を向けると、北条家から知らせが届いていた。
「やはり都の異変はすでに知れ渡っておるようで、深谷まで兵を進めておる様子にござりまする」
 新介が書状を指し出した。北条氏直からの書状には、同盟継続を望むとある。
「これは真っ赤な偽り。盗人猛々しいとはこのこと。上州を奪わんとしてこちらへ向かっているに相違ありませぬ」
 新介が怒ってそう言うと、一益は冷笑する。
「手筈通りではないか。鉢形の北条安房守に、厩橋が欲しくば、ここまで来て城を受け取れと、そう申し伝えよ」
 もはや一戦は避けられない。一益は重臣たちを広間に集めた。
「羽柴筑前、丹羽五郎左、柴田修理ら織田家重臣どもは、わしよりも上方に近い。我らが報を受ける前に、すでに知らせを受け取り、兵を動かしておるじゃろう。さすれば明智日向守を上回る軍勢となり、これを討ち果たすと思われる。されどこの関東。故右府様から関八州警固を命じられ、預かり置いた上州を、黙って北条に差し出すことはできぬ。かねてから申し合わせの通り、これより討って出て和田城に入り、国人衆が集まるのを待つ。されど三九郎、その方はここへ残れ」
 思いもかけず留守居を命じられた三九郎は顔色を変えて片膝立てた。
「なんと仰せられまする。皆が死地に赴くというに、それがし一人、ここに残ることなどできませぬ」
「若殿、お待ちを。若殿は大事な我が家のご嫡子。殿は後に残るもののことを考えて…」
 傅役もりやくの津田秀重が一益の意を組み、説いて聞かせようとするが、三九郎は黙っていられず、
「父上!どうかそれがしもお連れ下され」
 声高に一益に訴えかけた。
「若殿。若殿の御役目は家督を継ぐこと。北伊勢本国にいる皆のことをお考えあれ」
 佐治新介が言葉を添えるが、三九郎には老臣たちの言葉が耳に入らない。口惜しそうに唇を噛んでうつむいた。義太夫をはじめとする他の家臣たちは、もの言いたげに一益と三九郎を見ていたが、どうにも父子の会話に割って入ることが躊躇われ、誰も声を発することができない。
(若殿を置いていかれるということは、殿は死を覚悟しておいでか)
 皆、そう理解している。三九郎にもそれが分かるからこそ、供に行くと言って引かないのだろう。
 一益が目を閉じたまま何も言わないので、その場は静まり返り、じめじめとした梅雨の不快な空気も相まって、広間に息詰まるような重苦しさが漂う。
「父上はこの三九郎が臆病者の汚名をきてもよいと仰せか。ここで己一人、命を惜しみ、笑いものになれと、そう仰せになりまするか」
 三九郎が下を向き、怒りを押し殺してそう言うが、やはり一益は目を閉じたまま、口を開こうとしない。
「殿…」
 これが今生の別れとなるかもしれない。もう少し、三九郎に何か言葉をかけてやってほしい、そう思った義太夫が恐る恐る声をかけると、一益がようやく目を見開いた。
「いにしえより生者必滅・会者定離という。生まれれば必ず死はあり、親しき者ともいつかは別れがくる。わしは義のために戦う。そなたは信義により生きよ」
 一益が静かに言い聞かせる。死に急ぐなと、そう言っている。
「三九郎。そなたは物の哀れを知らぬ武骨一遍の者ではない筈。どこまで行っても我らはもののふ。命を惜しまず、名を惜しむ。されど、そなたはそうであってはならぬ」
「父上、それは父上のお言葉とも思えませぬ。今になって何を仰せで」
「わしばかりか、そなたまで命落とすことあらば、皆がこの上州で路頭に迷うことになろう。臣下の命を預かりし君主。悪戯に命を粗末にするは君主たるものにあるまじき愚行である。万一、わしが討たれることあらば、皆を伊勢に連れ帰るのが責務と心得よ」
 三九郎は未だ納得いかず、死地に赴く皆を見送る苦しさは如何とも耐えがたく、ことばを返せないでいる。
 一益はしばし、三九郎をじっと見ていたが、やがて押し黙ったままの三九郎から、家臣たちに視線をうつした。
「では皆、よいか。これより北条を迎え撃つ」
 一益は更に、木全彦次郎を城に残した。松井田にいる津田小平次他、若い者たちを留守居に残し、国衆と老臣たちを引き連れ、厩橋を出立した。
 
 六月十四日。日野中野城に吉報が届けられた。
「山崎表において合戦があり、羽柴様の軍勢が明智日向守を打ち破り、日向守は即時落居、坂本城へ向かう途中の山科にて百姓等に打ち殺されたとのことにござりまする」
 中野城内は一気に沸き返り、皆、手に手を取って喜んだ。
「わずか一日で決着がついたか。で、安土は如何なった?」
 歓喜の声が響く中、忠三郎が常と変わらぬ様子でそう訊ねると、
「安土には未だ明智左馬助が立てこもり、堀様の軍勢が向かっておりまする」
 知らせをもたらした者はそれだけ言うと、足早に姿をくらました。
(久太郎が安土に…)
 羽柴秀吉の指示だろう。大坂表にいた丹羽長秀や池田恒興といった織田家の重臣のほか、摂津の高山右近、中川清秀も秀吉とともにいる。
 もう明智勢が日野を襲ってくることはない。家臣たちは胸をなでおろし、父、賢秀の指示で酒宴の準備が進められた。
「若殿!大殿から振る舞い酒が」
 町野長門守も嬉しそうな声をあげる。
「おぉ、皆、大儀じゃ」
 忠三郎は明るく返事をし、ふらりと立ち上がると、庭先におり、辺りを見回した。
「助太郎、おるか?」
 近くに潜んでいるであろう滝川助太郎に声をかけると、木陰から助太郎が姿を現す。
「いま知らせを持ってきた者、あれは滝川家の素破か?」
「いえ、見知らぬ者にござりまする」
 助太郎が生真面目な顔でそう答える。
(やはりそうか)
 忠三郎は可笑しくなって、ふと笑った。
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「落ち武者狩りにあう前に、二人を見つけ出さねば…」
 近江一帯は強盗・盗人が溢れかえっているが、唯一、日野谷の治安は守られている。
(もはや日野に来るしか残されてはおらぬ筈。きっと日野目指して逃げている)
「人を出して探させよ。必ず、日野に現れる」
「ハハッ」
 忠三郎は二人を見つけ出してどうするつもりなのか。長門守は困惑しつつも、重い腰を上げた。
 
 下剋上とは戦国時代になってから生まれたことばではない。古くは陰陽道の必読書である書髄の国『五行大義』に出てくる言葉で五行説からくる。万葉集が編纂されたころにはすでに大陸からもたらされていたらしい。『五行大義』は、下が上を剋するを剥く、下の上に剋するは理にそむくと説いている。
 室町期では鴨川の二条河原に張り出された落書に、『下克上する成出者』と書かれている。しかしこれはあくまでも背かれる側が成り上がりものと罵っているだけにすぎず、戦国期においては天が与えし好機を生かした世直しとも捉えられた。
(いずれにせよ、褒められたことではない)
 忠三郎は信楽院の標の松を見上げる。この松の元に眠る高祖父蒲生貞秀。四男として生まれ、他家に養子にだされていたが、応仁の乱の頃から幕府と結びついて蒲生宗家を乗っ取った。その後、南近江の土豪に娘を嫁がせ、息子を養子に送り出して勢力を拡大していった。同じようなことは忠三郎の祖父、快幹も行っている。六角氏の客将となり、六角の力を借りて蒲生宗家を奪い取り、最終的には宗家の蒲生秀紀を毒殺して遺恨を根絶した。しかしそれで満足していたようには見えない。その後の快幹の動きを見るにつけ、六角氏の権力をも奪い取ろうとしていた節がある。
(織田家の侵攻がなければ、南近江一帯を手にするつもりでいたのであろう)
 野心家の祖父ならやりかねないなと、忠三郎は苦笑する。
 蒲生家では一代毎に英傑が生まれ、同じ歴史を繰り返すと言われている。
 そんなことを考えていると、表門から人馬の音が聞こえてきた。
「若殿、参られたよし」
 町野長門守に促され、忠三郎が本堂に足を向ける。
 従弟の後藤喜三郎は、忠三郎の想像通り、わずかな共を連れて日野に潜伏していた。知らせを聞いた忠三郎は、人目につかないように、喜三郎をこの信楽院に連れてこさせた。
 本堂にはげっそりとやつれた喜三郎が、肩を落として座っていた。山崎の戦からこの二日あまり、まともな食事もとれてはいないようだ。
「喜三郎…」
 声をかけるが、喜三郎は目を合わせようとはしない。
「青地四郎左も池田孫四郎も、皆、降伏し、城を明け渡したようじゃ」
 遠慮がちにそう言うと、喜三郎が冷笑した。
「蒲生の末のことなど、然も有らば有れ。わしには関りのないことじゃ」
 蒲生家のことなど、どうでもいいと、そう言っている。後藤喜三郎は母方の従弟だ。忠三郎は、然様か、と愛想笑いを返し、
「山崎からここまで来るのは骨がおれたことであろう。ほとぼりが冷めるまで、日野におるがよい。折を見て、わしが織田家の諸将に取りなそう」
 十二分に気を遣ってそう言ったつもりだった。ところが喜三郎はそれを聞いて、カッと目を見開いて忠三郎を睨んだ。
「それで勝ったつもりか、鶴!」
 その勢いに、忠三郎が息を飲んでいると、喜三郎がさらに続ける。
「わしの首を取り、手柄を栄してはどうじゃ。これまでも数多の身内を生贄にしてのし上がってきたではないか」
 憎々しげに自分を睨む後藤喜三郎に、忠三郎は返すことばもない。
(何があって、ここまで嫌われたのか…)
 皆目見当もつかず、黙って喜三郎の顔を見る。
「その方は祖父、快幹瓜二つ。兄も弟も葬り、己一人がのし上がるためには手段を選ばぬ。いかに乱世とはいえ、かような非道を天が許すと思うな!」
「兄も弟も…」
 兄とは先年死んだ重丸のことだろう。しかし
(弟…とは?)
 なんのことかと首を傾げると、喜三郎が失笑し、
「まことに何も知らぬのか。相変わらずじゃな。可笑しいとは思わなんだか。賢秀殿には正室のほかに側室が二人おり、女子が四人も生まれておるというのに、男はそのほう一人。そのような筈がないと、気づかなんだか」
 そこまで言われ、昔、母方の叔父、千種三郎左衛門に聞いた話を思い出した。そして、その時に渡された、母の手という古歌がつづられた短冊。
 
 袖ひちてむすびし水のこほれるを
               春立つけふの風やとくらむ
               
(母上が子を…わしの弟を亡くしたと、そう言っていた)
 六角家騒動の際、母、お桐は命を落とした。その後、父、賢秀は側室を何人か迎え、子をなしていた。その一人が三九郎の正室になったお虎であるが、忠三郎は同じ城にいながら、父の側室たちとも、異母妹たちともほぼ、交流がない。
「病死ではない…と?」
「賢秀殿に問うてみよ。そう都合よく男だけが幾人も病死するのかどうかを。先祖たちが過去にしてきたような、その方から家督を奪い取るものが出ないように、皆、葬られてきたのじゃ」
 口から出まかせを言っているとは思えない。千種三郎左衛門も、病死だとは一言もいっていなかった。あのときは、弟のことを一言も言わない父に、疑念を持ったが。
(数多の身内を生贄とは、かような所以か)
 そして従兄弟たちは、忠三郎が敢えて従兄弟たちを死に至らしめていると、そう思っているのだろう。
「喜三郎」
 何か言おうと思い、名を呼んだ。しかしその後に続くことばが浮かんでこない。
(何を言っても同じか)
 どう言っても通じないだろう。それに気づくと、つと、喜三郎に背を向けた。
「若殿、あの…」
 慌てて後に続く町野長門守が、なんと言葉をかけようかと忠三郎の顔色を伺うと、
「喜三郎に屋敷を用意してやれ」
 短くそう言い、本堂を後にした。
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