滝川家の人びと

卯花月影

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16 巨星墜つ

16-3 歌姫

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 一益が厩橋に入ったとの知らせを受けた五月。
 甲斐から戻って以来、平穏な日々が続いていたかに見えた安土だったが、蒲生忠三郎の周りが俄かに騒がしくなった。
「久太郎、何やら城介殿の元へ誰か向かったようじゃが、何が起きておる?」
 忠三郎が常のごとく、飄々と訊ねると、堀久太郎は呆れた顔をして
「何も知らぬのか。ついに四国征伐が決まり、城介様、神戸三七殿、丹羽殿へ挙兵を促すため、矢部善七郎殿たち奉行衆が向かったのじゃ」
 噂になってはいたが、やはりそうかと忠三郎はひとり頷く。
「明智殿は…」
「日向守殿はなんとか戦さを避けようと、度々上様にも進言し、長曾我部の元へ使者を送ってはいたが、ついに取次を下ろされた」
 やはり心配していたとおりになった。
(これでは日向守殿の面目は丸つぶれだ)
 そして長曾我部家と縁のある斎藤利三。利三はどうするだろうか。不穏な空気を感じ、早めに一益に知らせを送ろうと城下の滝川屋敷へ向かった。
 屋敷に入ると、安土城内とはまた違う騒がしさがある。
「助太郎、如何した?」
 忙しく立ち働く滝川助太郎に声をかけると、
「殿が厩橋で能興行すると仰せで、その支度で皆、慌てふためいておりまする」
「厩橋で能興行?」
 おや、と首を傾げると、
「上州の者たちを招いて、宴を催す由にて」
 関東仕置きの一環だろう。
「義兄上も関八州の取次として、お忙しいご様子じゃ」
 振り返って町野長門守に笑いかけると、町野長門守が微妙な笑顔を返して来た。
「長門?」
 いかにも何か言いたげな長門守に、忠三郎が近寄る。
「何かあったか?」
「は…それがその…なんと申し上げるべきか…いや、申し上げぬべきか…されどここで申し上げねば、お家への忠誠心が問われるというもの…」
 相変わらず、はっきりと物を言わない町野長門守に、忠三郎が苦笑する。
「はっきり申せ。言いにくきことか」
「それがしからは何とも…。姫様に直接お尋ねくだされ」
 長門守が額に汗をかきながら、うつむいてそう言う。
「姫様?」
 同じ館にいる章姫のことだろう。
「章殿?然様か…」
 やけに回りくどいと思いながらも、章姫の部屋へと向かう。その途中で滝川家の老臣、谷崎忠右衛門にばったりと出くわした。
「これは忠三郎様…」
 脇に片膝つく忠右衛門が、何故か睨んでいるような気がする。
(はて…?)
 妙な空気を感じたが、さして気にも留めずに章姫の元へ向かった。
 
 章姫の部屋の前には侍女が一人、心配そうに襖の向こうを窺っている。
「如何した、章姫殿になにか?」
「忠三郎様!」
 侍女は忠三郎の顔を見ると驚いて、襖の向こうに声をかける。
「姫様。忠三郎様が…」
 侍女の声は中まで聞こえている筈だが、返事がない。
「中におられるのか?」
「…はい、ただ…臥せっておいでで…」
「流行り病か?」
 心配した忠三郎が訊ねると、侍女は首を横に振り、先ほどの谷崎忠右衛門と同じように、非難するような目を向けた。
「典医の申す処、つわりではないかと…」
「つわり…?」
 忠三郎が目を丸くする。
「章姫様はご懐妊にござりまする」
 章姫の具合が悪いので、典医に章姫を診せたところ、懐妊していると言われ、章姫の側近の者たちはみな、色を失っていた。
 もしやと思い、後ろを振り返ると町野長門守がサッと視線を避ける。
「長門、何故隠しておった?」
「姫様から口留めされておりました」
「然様か…」
 忠三郎はフムと頷き、章姫の部屋に入る。章姫は侍女が言った通り、こちらに背を向け、床に臥せっていた。
「章殿、ご懐妊とのことにてまことに祝着至極。お身体の具合は如何であろうか」
 忠三郎が常の笑顔で訊ねても、章姫は背を向けたまま、押し黙っている。
「ご案じめさるな…元気な子を産んでくだされ。雪にも申し伝えておきまする」
 生まれてくる子を正室の子として育てるのは問題ない。遅かれ早かれ、吹雪を説得して側室を迎えなければと思っていたところだ。
(されど…)
 吹雪の妹である章姫を側室として迎えるのは憚れる。父の信長や叔父の一益がいいと言うとも思えない。
「では、わらわを側室としてお迎えくださるのか」
 章姫が初めて声を発した。
 忠三郎がいやいや、と笑って
「さすがにそれは…。上様の姫を二人も貰うてしもうては、世のそしりを受け…」
 忠三郎が言い終わる前に、臥せっていた章姫がにわかに起き上がり、傍にあった脇息をつかんで忠三郎に投げつけた。忠三郎は咄嗟のことでよけきれず、脇息が音を立てて額を直撃する。
「いたたた…姫…お手柔らかに…」
 姉の吹雪はどんなに怒っても脇息を投げつけるなどという無作法なことはしない。どうも章姫は勝手が違う、と舌を巻いていると、
「子だけ奪い取って、わらわを捨て置くと、そう申されるか」
 額を抑える忠三郎に、章姫の罵声が飛ぶ。
「姫、落ち着いてくだされ。なんとも人聞きの悪い。それは時期を見て追々…」
「卑怯なお方じゃ!」
「そうではない。少しお待ちあれ。そう、あと五・六年ほど…」
 と言い終わらないうちに、章姫が見事な唐絵の描かれた屏風の縁を掴んだので、忠三郎が慌てて立ち上がる。
「危のうござります、章姫殿」
「お腹の子は断じて忠三郎殿には渡さぬ」
 章姫が涙ながらにそう言うと、忠三郎はまぁまぁとなだめるように笑顔を向ける。
「そう仰せにならずとも。男子であれば、我が家の嫡男として育て、立派な武将に…」
「この子は忠三郎殿の子ではない。三九郎殿の子じゃ!」
 苦し紛れにそう言う章姫に、忠三郎がエッと驚き、
「姫…何を仰せになる。三九郎はこの二月からずっと武田攻めに…」
「黙れ、無礼者!この子は誰が何と言おうと、三九郎殿の子じゃ!」
 章姫が泣き叫ぶ。この声の大きさでは、外にまで筒抜けになってしまう。
「やれやれ、これは出直すしかなさそうじゃ」
 これ以上話を続けていても逆撫でするだけだろう。諦めた忠三郎が章姫の部屋を退散すると、どうなることかと心配していた町野長門守、谷崎忠右衛門、そして侍女が皆、一様に待ち構えていた。
「皆、案ずるな。章姫殿は…今日はお加減がよろしくないご様子。また折を見て参るゆえ、よしなにお伝えあれ」
 明るく笑ってそう言うと、何事もなかったかのように戸口へと向かっていった。
 
 厩橋で能興行の支度が進む中、滝川義太夫、佐治新介の二人は上野国内を巡り、諸将に厩橋の一益の元に伺候にするようにと勧めて歩いている。
 伊勢攻略の時と同じように、国人衆には本領安堵を約束したこともあり、上野国での一益の評判は上々で、沼田城を明け渡した真田昌幸のところでも二人は歓待を受けた。
「新府城の縄張りを見て、我が殿が大層、感服しておられました。縄張りしたのは真田殿と聞き及んでおりまする」
 義太夫がにこやかに言うと、真田昌幸は相好を崩し、
「滝川殿からお褒めの言葉を頂けるとは恐れ多きこと。されど、新府城は未完のまま焼き払った城にござる」
「いやはや、主家滅亡はご心痛のこととお察し申し上げる。されど、これも戦国の世のならい。これよりは我が殿にお力添えいただきたく存じあげる」
 上野国人衆の前では決して勝者の奢りを見せてはならないと厳しく言い渡されている。義太夫、新介の二人は一益の言いつけを守り、殊更に丁寧に言葉を返す。
「甲斐、信濃では森武蔵守の傍若無人な振る舞いで皆、辟易としていると聞き及びました。しかるに滝川殿はかような敗軍の将に身に余る丁重な扱い。まこと痛み入りまする」
 二人の態度に恐縮した真田昌幸が、おもむろに絵図を広げる。見ると甲斐から東の地図のようで、馴染みのない地名が散見していた。
「はて、これは?」
「お探しの武田家の姫、松姫殿の行方でござるが…」
 思いもかけず松姫の名前が飛び出したので、ふたりは食い入るように地図を見た。
「これなる甲州の海島寺なる尼寺。ここに…」
「松姫殿がおられるのか!」
 高遠城落城のときから松姫の行方が分からなくなっている。供についていった筈の木全彦一郎からの音信も途絶え、信忠が必死になって探していたが、全く足取りがつかめなかった。
「先月まではおられましたが…」
「今は?」
「海島寺から幼き者たちを連れて更に東に逃れ、峠を越え、武蔵国に入り、今は八王子の興慶寺金照庵に隠れておられると聞き及びました」
 義太夫と新介は手を取り合って喜んだ。幼い者たちを連れて逃げていたのであれば、木全彦一郎はそばを離れることができなかったのだろう。
「朗報じゃ!早々に城介殿にお知らせせねばなるまいて。真田殿、忝い。」
 二人が礼を言って去ろうとすると、真田昌幸が、しばし、と呼び止めた。
「能興行とはまた、滝川左近殿は風流なお方じゃ。して、演目は?」
「演目?」
 猿楽師はすでに厩橋まで到着しているが、演目までは聞いていない。新介は取り急ぎ、自分が知っている演目を思い浮かべる。
「金春禅竹の玉鬘にござります」
 室町期の猿楽師、金春禅竹作の玉鬘は源氏物語にある玉鬘を元にした作品だ。
「それはまた趣きのある。で、歌のほうは如何かな」
「和歌?…」
 なんと返事をしようか、と思案する。能興行は一益が武辺一辺倒ではなく、文武両道の知将であると上野の国衆に広めるために開かれるものだ。
(やはり、ここは、殿が武骨な猪武者ではないと、そう思わせるべきじゃな)
 瞬時にそう考えた義太夫が、
「此度の能も殿がシテを務めまする。我が殿は諸芸に達し、いにしえを偲ばせる雅な武将。日夜を分かたず歌詠みされており申す。のう、新介」
 と更に大法螺を吹いた挙句に新介に同意を求めたので、新介は一瞬、ウッと詰まりながらも義太夫の意図を組み、
「さ、然様。殿は諸国歴戦の合間も無常を歌い、織田家では漂泊の歌人と呼ばれるほどにて」
 義太夫に負けぬほどの大法螺を吹くと、真田昌幸が頷く。
「やはりそうか。それは丁度良い。では川田に住む、円珠殿をお尋ねくだされ」
「円珠?とは?」
 上野では評判の歌人、円珠こと小柳姫。
 義太夫が治める沼田の地を古くから治めていた沼田氏。その沼田氏の一族である川田城主、川田光清の娘が小柳姫だ。小柳は天性の歌詠みの才があり、その評判が都にまで届き、正親町天皇から歌を送られた。
 
 上野の 沼田の里に 円かなる 珠のありとは 誰か知らまし
 
 都から遠く離れた上野の地に歌人がいること自体、大きな驚きだったようだ。この歌を賜ってから小柳は円珠と名乗り、その評判は益々広まり、この辺りでは知らぬ者はいない高名な歌人となった。
 大法螺を吹いた手前、引くに引けなくなった二人は、真田昌幸に勧められるまま、川田へと赴いた。川田城は先年の合戦で真田昌幸によって攻め滅ぼされ、落城している。川田氏の生き残りは付近にある宮塚の薬師堂で仏門に入っていた。
「帝に歌を賜ったほどの才女というではないか。どのような女子かのう」
 義太夫が期待に胸を膨らませる。
「どのような女子でもよいが、そのような歌人に会うて、如何いたすのじゃ。忠三郎でもあるまいし。殿は和歌どころか…」
 二人がひそひそと話をしていると、噂の円珠と思しき尼僧が蝋燭を片手にして本堂に姿を現した。
「滝川様のご家来衆とは…」
 薄暗い本堂の中で、蝋燭の明かりが円珠の顔を照らしている。
 二人が同時に顔をあげると、いかにも才女にふさわしい、目鼻立ちがはっきりとしたその顔でこちらをじっと見ていた。
 寺に来ていながら尼僧が出てくるとは思っていなかった義太夫は、幾分落胆して新介を振り返った。
「これは些か思惑が外れたようじゃ…のう、新介。そのほうは…」
 と言いかけて、新介の目が円珠に釘づけになっているのに気づいた。
「新介、如何した?これこれ」
 新介は義太夫には目もくれず、尼僧の前に進み出る。
「滝川左近が家の者にて佐治新介と申す者。円珠殿のお噂を耳にして、まかり越しましてござりまする」
「この身は既に仏門に入りし者。天下に名高い滝川様のお目に留まるとも思えぬ身にて、どうかご容赦いただきたく存じあげる」
 警戒するような目で見ている。どうやら誤解されてしまったようだ。これは一益の評判を落としかねないと思った義太夫が、誤解を解こうと口を開く。
「いやいや、誤解じゃ、誤解じゃ。我らは決して…」
「円珠殿、突然まかり越しまして、大変ご無礼いたしました。どうかご容赦願いたい。我が殿は和歌に造詣が深い円珠殿を和歌の師として厩橋へお連れせよとの仰せでござります」
 新介が思いもかけぬことを言い出したので、義太夫が驚きを隠せなくなり、
「新介。その方、一体…」
「此度、我が殿が上野の諸将を集めて能を披露いたしまする。まずは円珠殿にも厩橋で能楽をご堪能いただきたく」
 能と聞いて円珠の心が動いたようだ。
「そこまで言われるのであれば、厩橋までお伺いいたしましょう」
 色よい返事が返され、新介が嬉しそうな顔を見せる。
「では、近日、迎えの輿をこちらへ向かわせましょうほどに、厩橋城でお待ち申し上げる」
 新介が打ち合わせにない話を勝手に進めてしまった。円珠を能楽に呼ぶなどという話は聞いていない。全く会話に入っていけない義太夫は、新介と円珠の顔を交互に見ながら、ふと気づいた。
(はて、これは…。殿が能を演じることになり、挙句の果ては和歌を学ぶことになっておるではないか)
 法螺話が大きくなりすぎて、笑いごとでは済まない事態になっている。厩橋にいる一益に、何と言って報告しようか。
 
 能舞台の設置が行われている厩橋では、城に戻って来た義太夫、新介の二人が広間に並び、申し訳なさげに事の次第を報告していた。
「帰するところ、父上が演じると、そう言うてしもうたのか」
 三九郎が驚いて二人を見ると、義太夫が
「は。その上、新介めが、玉鬘などと申しまして」
「玉鬘…」
 源氏の養女となった美しい女人がシテ(主役)の玉鬘。その場は一瞬、水を打ったように静まり返った。その沈黙を打ち破るように
「では父上が、『恋いわたる身は…』などと謡わねばならぬではないか」
 三九郎が真顔で言うので、うっかり吹き出しそうになった義太夫が膝をつねり、必死に笑いを堪える。
「せめて平家物語を題材にした修羅能と言うべきじゃ」
 津田秀重にそう言われ、二人は頭を垂れる。修羅能であればシテは武士になる。
「唐突に聞かれ、風雅な題目がよいかと思い至った次第にて」
 新介が言い訳をすると
「その上、和歌とは?何故、かような仕儀に相成ったのじゃ」
 何を間違えると和歌の師を迎える話になるのか、二人の要領を得ない説明では誰にも分からなかった。
「それは、その…新介が円珠なる尼僧に…」
 と義太夫が言いかけると、新介が慌てて遮る。
「そろそろ殿も時世の準備を始められる頃合いかと思い立ちまして」
 窮して思い付いた言い訳にしてもひどい言い訳だ。
「新介!無礼であろう。だいたいその方、殿を漂泊の歌人だなどと大法螺吹きおって」
 義太夫がそう言うと、新介が片膝立てて向き直り、
「おぬし、我が殿が舞を舞い、いにしえを偲ばせる雅なお方じゃなどと大法螺吹いておきながら、わしを法螺吹き呼ばわりするとは…」
 ふたりがとんでもない大法螺を吹いて歩いたことを自ら暴露しはじめたので、皆、唖然として聞いている。
「もうよい。わしが能の稽古をし、和歌を学べばよいのであろう」
 一益が疲れたように二人を制すると、義太夫と新介が揃って頭を下げる。
(いらぬ仕事ばかり増える)
 別な者を使者にたてていれば、こんなことにはならなかったのだが。一益が気鬱な面持ちで考え込んでいると、最後列にいた滝川助太郎が控えめに咳払いした。
「そうであった。助太郎が参っておるのじゃ」
 日野の蒲生忠三郎の傍につけている滝川助太郎が、安土の屋敷を守る谷崎忠右衛門からの文を持って遠路はるばる厩橋に来ていたことを思い出した。
「安土で何か異変でも?」
 三九郎が訊ねると、一益が助九郎を促す。
「実は…章姫様がご懐妊なされておいでで…」
「何、章が?」
 居並ぶ全員が助太郎を見る。
「上様にはそのことは…」
「姫様が傍に仕える者どもに堅く口留めしておられまする。このことは我らの他では町野長門殿と忠三郎様以外はどなたも存じてはおりますまい」
「忠三郎?やはりあやつの仕業か。一体、上様になんと申し上げるつもりか」
 佐治新介が怒って言うと、助太郎が、それが…と言いにくそうに
「姫様は、これは滝川の若殿のお子であると、そう仰せにて…」
 今度は皆、一斉に三九郎の顔を見た。当の三九郎は驚きを隠せない様子だ。
「待て、待て。若殿は二月から信濃出陣。いくらなんでも無理のある話では…」
 三九郎付の宿老、津田秀重が言葉を添える。それもそうだと一同、頷き合っていると、
「三九郎、如何じゃ」
 それまで黙って聞いていた一益が口を開いた。事態が呑み込めていない様子の三九郎は容易に言葉が出ず、しばらく思案していたが、
「章が…そう言うておるのか…」
 困惑して問うと、助太郎が心苦しそうに頷いた。
「忠三郎は何と?」
「子だけ貰い受けると。それを聞いた姫様が大変ご立腹され、断じて子は渡さぬと仰せで」
 その話で何が起きているのか、だいたいの想像がついた。章姫は生まれてくる子を取られたくない一心で、咄嗟に三九郎の名前を出したようだ。
「若殿、如何なされるので?」
 新介が心配そうに訊ねる。新介ばかりではない。義太夫も、津田秀重も、皆、三九郎がどうするつもりなのか、固唾を呑んで見守っている。
「章と話をせねば…」
「それがよろしいかと。ここで事を荒立てて姫様のご機嫌を損ねては我が家にとってもよろしからぬことになりまする」
 三九郎は、正室のお虎を大切にしており、また、章姫のことは妹のように可愛がっている。そう容易に判断を下すことはできないだろう。三九郎の気持ちを察した津田秀重が一益の顔色を伺いながら言うと、義太夫は義太夫で一益の思いを察して、
「然様。若殿はキリシタン。ここで章姫様を側室になどと言うては上様からもお咎めをうけましょう。関東仕置きがひと段落ついた秋ごろにそれがしが上洛し、鶴と話をつけて参りまする」
 しばらく一益は関東から動くことができない。今回は三九郎や家臣たちに任せるしかないようだ。
 
 主だった家臣たちが席を立ったあと、一益は義太夫だけをその場に残した。
「助太郎がもう一通、書状を持ち帰った」
「これは…鶴の手にござりまするな」
 見覚えのある筆跡で、忠三郎が直接書いたものと思われた。
「日向守が四国の取次から下ろされた。更に稲葉家から上様に訴状が発せられ、斎藤内蔵助は切腹させられるのではないかとの噂があると綴っておる」
「切腹?それはまた厳しいご沙汰」
 陪臣が仕える主を変えるときは、必ず前の主の承諾を得るのが暗黙の定めだ。前主、稲葉一鉄の許可を得ずに家を飛び出した斎藤利三や那波和泉守が咎められるのは仕方のないことだが、死罪は異例で厳しい沙汰といえる。
「長曾我部の件が絡んでおるやもしれぬ。もしや…」
 信長は斎藤利三が密かに長曾我部家に内通している情報を得ているのかもしれない。
「なんとも不穏な。上方も安泰とは言えませぬな」
「荒木摂津守のときのようなことが起こるとも限らぬ。上様はそれを懸念しておるのじゃろう」
 いずれにせよ、遠い上野にいる今となっては手の打ちようがない。
「まずは上杉征伐じゃ。能興行が終わり次第、三国峠に向けて兵をあげる。新介と二人で、街道を整備し、行軍の備えをせよ」
「ハハッ」
 能興行で諸将を厩橋に集めた際には上杉討伐の号令をかけ、義太夫、新介を先鋒として越後へ進軍しなければならない。
(武田の次は上杉か)
 これで名家の上杉も命運尽きて滅びるのも時間の問題だ。
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