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16 巨星墜つ
16-1 兆し
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三月二十日。一益は上諏訪の法華寺で陣を張っている信長の軍と合流した。この寺は諏訪大社の神宮寺で、先日の上社焼き討ちの際に一部を焼失していたが、本堂や五重塔は焼き討ちを免れている。
信長は堀久太郎、丹羽長秀など、お気に入りの将をぞろぞろと引き連れ諏訪に入り、論功行賞を行うとともに、目通りを願う国衆の挨拶を受けていた。
「義兄上、武田四郎親子を討ち取られたとのこと。まことに恐悦至極に存じまする」
信長に付き従ってきた忠三郎が、武田攻めの褒美として下賜された鎌倉時代の刀工、藤四郎吉光の脇差、信長秘蔵の名馬『一の日影』、金子五百両を持って滝川陣営に現れた。馬を操るのは、未だ十代と思しき少年武将だ。帷幕内は俄かに賑やかになった。
「義太夫、これなるお方がどなたか、わかるか?」
未だ幼さが残る若衆が幾分、緊張した面持ちで義太夫を見る。義太夫は、おや、と気づいて
「もしや、助十郎殿か」
武藤宗右衛門の一子、助十郎康秀。信長側近の一人として武田攻めに同行していた。
「幼き者が大きゅうなるのは早いのう。言われなければ気づかぬところじゃ
義太夫の言うとおりだ。宗右衛門が陣没してから、もう三年も経っている。
「此度は左近殿にお声かけいただき、上様に従って初陣を飾ることができましたること、誠に有難き幸せにござりまする」
その礼儀正しい姿がなんとも初々しく、義太夫が目を細めて、
「これは玉姫殿にも見せたかったのう。助十郎殿、そう堅くならんでもよい。殿は一見、堅苦しそうに見えるが堅苦しいお方ではない。肩の力を抜いてくだされ。ほれ、この蒲生の鶴をご覧あれ。我が殿の前でも常より厚かましい態度じゃ」
義太夫が横目で忠三郎を見ると、忠三郎が軽く笑う。
「何を申すか。義兄上を侮っておるのは義太夫、その方ではないか」
「侮るなどとは、とんでもない。わしは甲賀を出て以来、常より殿の第一の家来として…」
一益が何度も助十郎に声をかけようとするが、騒がしい二人の会話がなかなか終わらない。一益はたまりかねて、
「義太夫、少し黙っておれ」
と制して助十郎に向きなおった。
「助十郎、息災か」
武藤助十郎がハハッと短く返事をする。その目元には亡き戦友、宗右衛門の面影がある。
(あやつが生きておれば…)
供に祝い、供に関東に向かっていたかもしれない。しかし、宗右衛門亡き今となっては、この上、戦さを続けていく気力も湧いてこない。
「助十郎。そなたの父、宗右衛門は智勇比類なき働きで織田家を…わしを支えてくれた。そなたも父に倣い、織田家のために働いてくれ」
助十郎が生真面目な顔をして頷く。三九郎が助十郎に声をかけ、供に去っていくと、後に残された忠三郎は一益の想いを見抜いた様子で
「義兄上、今日は上様の前にはお出でにならぬほうがよいでしょう」
常の笑顔を称えてそう言う。
「何かあったか?」
戦勝祝いで沸き立っているかと思ってここまで来たが、ついた時から、全体に不穏な空気を感じていた。
「義兄上がここへ到達される前のことなれど…」
一益たちの到着を待つ間、信長が、供にきていた明智光秀に、兵の士気を高めるために二手に分かれて模擬戦をしようと声をかけたという。
それを聞いた義太夫が頷き、
「上様は吉法師と呼ばれていた昔、那古野城周辺の子らを集めて毎日のように戦さごっこしていたとか。帰するところ、信濃まで来てみたら戦さが終わっていたので、退屈した上様が童のころのように戦さごっこがしとうなって明智殿にお声をかけられたのでは?」
そんなところだろう。
「…で、日向守が勝ったと」
「はい。見事な采配でござりました」
それで面目を失った信長が機嫌を損ねたと、そう言いたいようだ。
信長の機嫌が悪いとしても、会わないわけにもいかない。まもなく木曾義昌が来て、信長に引き合わせることになっている。
「鶴、つまらぬことばかり気にするな。武田も滅び、甲斐、信濃、駿河、上野が織田家のものとなったのじゃ。童でもあるまいし、上様だとて、そのようなつまらぬことでいつまでも機嫌を悪うしておるわけではありまいて」
義太夫が笑い飛ばすと、忠三郎が困ったような笑顔を見せた。気がかりなことがあるようだ。
「何か心にかかることが…」
そう言いかけた時、
「木曾伊予守様、御着到にござりまする」
帷幕の外から声がした。木曾義昌が着陣したようだ。
「伊予を上様に引き合わせねばならぬ」
「それがしが注進いたしましょう」
忠三郎がいち早く立ち上がり、帷幕を去る。
(日向守か…)
忠三郎が懸念していることが何なのか、妙に気になった。
「新介、平右衛門」
一益は佐治新介、篠岡平右衛門を呼び、調べさせることにした。
義太夫が出迎えに出ると、奥美濃の遠山家の家人、八木老人に案内された木曾義昌が到着したところだった。これから初めて信長に目通りするとあり、木曾義昌は堅い表情で陣営を見回していた。
「やぁやぁ、木曾殿。お越しくだされたか。先だってお渡しした饅頭は、お気に召していただけたかな」
義太夫がひときわ大きな声をあげると、義太夫を見定めた木曾義昌の表情が変わった。
「饅頭…とは、あの木曾までお持ちいただいた包の…」
「然様。あれなるは畿内でも名高い饅頭屋、大和の饅頭屋宗二の本饅頭じゃ」
義太夫が誇らしげに言うと、その饅頭で腹を下し、厠送りにされた木曾義昌が頬を引きつらせる。
「いやはや…まことに勿体ないお心遣い。痛み入りました」
かろうじて言うと、義太夫が笑って、
「かような進物は造作もないことにて。御所望であれば、また送らせましょう」
今は三月だ。これから益々暖かい季節になっていく。大和で作られた饅頭が、木曾につくころにはまた、厠送りになる饅頭に変貌することは容易に想像できる。
それに気づいた木曾義昌が思わずウッと声をもらし、
「いやいや、これ以上のお気遣いは無用にて…」
「遠慮深いお方じゃ。お、そうじゃ!確かまだ、腰につけた巾着に一つ、二つは忍ばせておいたような…」
義太夫が腰に下げた巾着の中をごそごそと探りだしたので、木曾義昌が血相変えて留めようとする。そこへ帷幕の中から一益が姿を現した。
「そこもとが木曾殿か」
木曾義昌が義太夫に足止めされ、いつまでも帷幕の中に現れないので、待ちかねて出てきたのだ。
「これは…滝川左近殿か」
助かった、と危うく声に出しそうになって、おっと、と口を閉じる。一益はそんな木曾義昌の不可解な行動に怪訝な顔をしながら、
「上様が貴殿の到着をお待ちじゃ。案内いたす故、供に参られよ」
と、促すと、木曾義昌がふぅと安堵の息を吐いた。二人は連れ立って信長本陣へと向かった。
木曾義昌から馬二頭が進上された。信長から木曾義昌へは本領安堵、及び信濃二郡が加増され、黄金百枚が下賜された。
翌日には北条家の使者が大樽を持って戦勝祝いに現れた。北条家から贈られた酒は、北条早雲が命名したという伊豆の銘酒、江川の酒だ。
下戸の信長は贈られた酒には手を付けず、皆に下げ渡したので、その夜は大宴会になった。
一益は、忠三郎が昼間、いいかけたことが気になり、助太郎に命じて忠三郎を呼び寄せた。
「義兄上は飲んでおられぬのか」
上機嫌で現れた忠三郎は幾分、不満げにそう言った。
(呼ぶのがちと遅かったか)
すっかり出来上がっていて、まともな話ができるとも思えない。
「これから上様は諏訪を出て富士の山裾を見物したいと仰せじゃ」 信長下行のため、甲斐、大ヶ原宿へ御座所を作り、賄いの手配をしなければならない。武田勝頼を討ち取ったといっても、一益には酒を飲む暇もない。
「三九郎も付き合いの悪い男じゃが、義兄上も同じとは」
人の話を聞いているのか、と言おうと思ったがやめた。この状態では意味がない。うまく調子を合わせて話を聞きだすしかなさそうだ。
「坂東の酒はうまいか」
「義兄上も飲まれるがよい」
忠三郎が嬉しそうに後ろを振り返って町野長門守に酒肴の用意をさせる。致し方なく、一益も盃に口をつける。
「何を懸念しておる。わしが来る前に何があった?」
さりげなく聞くと、忠三郎がうーん、と下を向く。
「そなたが案じておることを聞かせてみよ」
一益が促すと、忠三郎が考え考え話し出す。
「上様は武田攻めが一段落したのちに、中国、四国を掌握すると仰せになり、羽柴筑前にその旨伝えておりまする」
それは知っている。関東を一益に、北陸を柴田勝家、森長可に任せ、信長は次の敵を中国の毛利、四国の長曾我部と見定めている。
「どうも、四国の情勢に不安が…」
四国征伐の総大将は信長の三男、神戸信孝。副将に丹羽長秀が打診されていた。
「五郎左がなにか?」
「いえ。丹羽殿ではなく…」
と言い淀んだ。丹羽長秀でないとすれば、
(日向守か)
元々、四国、長曾我部の取次は明智光秀だった。長曾我部元親が信長に叛旗を翻したことで、光秀は取次役から降ろされるのではないかという風聞がたっていた。
「咎があるとすれば、長曾我部ではなく、上様でござりまする」
酔った勢いもあり、ずばり本音を漏らした。
忠三郎は、長曾我部元親が同盟を破棄した理由が信長にあると、そういいたいのだろう。
「どうも、同盟当初、上様は長曾我部に対し、切り取り次第と、そう仰せになっていたような節があり…」
切り取り次第。つまり、四国の内、長曾我部元親が攻め取った領地は全て認めると、そう約束していた。ところが、敵対していた阿波の三好康長が羽柴秀吉を介して従属したことで方針を変え、元親が奪った阿波を三好康長に返すように求めた。
「それで約定を違えたと怒って手切れか」
「明智殿は約定通り、四国の領有をお認めいただくよう、上様に何度も嘆願されたのでござります」
ところが信長はそれを認めず、長曾我部の肩をもつ光秀に立腹して取次役から降ろし、長曾我部征伐を決定した。
(日向守は何故、そこまで長曾我部に肩入れしたのであろうか)
約定を違えるなどということは、さして珍しいことでもない。本願寺、武田を滅ぼした今、もはや織田家の脅威となるものが存在しない以上、過去の約定にこだわる必要もない。
この時期、織田家では天下統一の先を見越した変革が勧められている。
今回の武田攻め。家康は穴山梅雪に対して、甲斐一国と引き換えに内応を促したが、信長が武田の旧臣に一国を与えるはずがない。当然、一部を残して甲斐の国は河尻秀隆に与えられ、徳川家康に駿河を与えることで、これまで同盟者とみなされていた徳川家を、家臣と同列として扱うようになった。その一方で織田家内部は大きく変わろうとしている。五畿内、すなわち大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国全てを信長の旗本と連枝で治めるため、旗本、連枝以外の家臣たちは領地替えの打診が届いていた。
(妙だな)
忠三郎は何を知って、何を心配しているのだろう。ここまで聞いた限りでは、それを読み取ることができない。忠三郎が気に留めるとしたら
(祖父、快幹絡みか、親類縁者が絡んだこと。もしくはその両方か)
伊賀攻めに至る過程で南近江の土豪、後藤喜三郎、池田孫次郎、青地四郎左の三人が不穏な動きを見せていた。伊賀が沈静化したことで表沙汰にはならなかったが、織田家に二心がないとは思えない。
そして、素破を使わない忠三郎の情報源があるとしたら、信長の傍で直接見聞きしたことと、
(快幹の残した密書。まだ秘密があるとすると…)
常より義太夫と二人で軽口をたたいているが、家中のこと、親類縁者のこととなると途端に口が重くなる。
(後藤は日向守の与力。青地、池田は上様の直参旗本か)
何かがまだ足りない。
明智光秀、蒲生快幹、忠三郎の従弟たち、そして四国攻め。
(そうか、日向守と長曾我部を結ぶのものか。両者を結ぶものは一体、何であろうか)
すでに故人である蒲生快幹が絡んでいたとは思えないが、忠三郎は光秀の謀心を疑っているのではないだろうか。
(もしも、その懸念が懸念でないとすると)
佐久間信盛がいなくなったことで、その与力だった南近江、河内の土豪の多くが明智光秀の与力に組み込まれている。今、畿内を掌握しているのは光秀ということだ。
「義兄上はかような大事に隠居するなどと、たわけたことを申される」
「大事と言うのであれば、何を懸念しているのか、いい加減に話せ」
なかなか話そうとしない忠三郎を再度促すと、
「明日、お話いたしまする」
曖昧な返事を返すと常の笑顔を称えて、場を後にした。
法華寺の信長本陣には連日、国衆が進物を携えて挨拶に来ている。忠三郎たち側近の者は奉行衆とともに、その進物の受け取りやら、次の陣所となる大ヶ原への荷の手配等、上諏訪に入ってからは特に忙しい。
「甲斐の大ヶ原なる宿場からは名山、富士の山が見えるとか。これを是非とも上様のお目にかけようと、滝川左近殿が眺望のよき場所に御座所を用意されているとのことにござりまする」
奉行衆筆頭の菅屋九右衛門が感心してそう言うと、信長はフムと頷き、
「で、あるか」
と短く相槌を打ち、傍らに控える忠三郎に、
「何じゃ、鶴」
にわかに声をかけた。
突然、名を呼ばれ、忠三郎が驚いて顔をあげる。
「は、いえ、それがしは何も…」
「ここ数日、浮かぬ顔じゃ。何を懸念しておる」
言ってみろ、と顎をしゃくる。
「懸念…というは…」
常日頃より心にあるものを態度に現さないよう気をつけているつもりだが、信長に見抜かれていたようだ。信長は進物の一つを手に取り、眺めている。
「左近のことか」
一益の名がでたときに、忠三郎の表情が一瞬曇ったのを見逃さなかったのだろう。
「は、仰せの通り。左近殿は…隠居したいとお考えのようにて…」
隠し通すのが難しいと考え、ついつい内密の話を口にしてしまった。
「左近が隠居?鶴、それはまことか」
信長が手にした進物を近侍に渡すと、ギロリと忠三郎を見た。
東国の全権を一益に委ね、自らは西国へ向かおうとしている信長にしてみれば、寝耳に水だ。
「あ…は、はい」
忠三郎が焦って何か言おうとすると、菅屋九右衛門が見かねて助け舟を出した。
「上様。恐れながら合戦に次ぐ合戦で、疲れておるは左近殿だけではありますまい。此度、御供仕った者の中にも目に見えて疲労の色濃きお方は少なからず。遠征とあって兵にも疲れが見えておりまする」
菅屋九右衛門は尾張以来の家臣で、信長側近の中では最も信頼されている。実際、雨続きで気温が下がり、兵の中で凍死者がでていた。
信長は菅屋九右衛門の話を聞いて、尤もである、と言い、
「予は諏訪を出、富士の山裾を見物したのちに駿河へと参る。供は将のみでかまわぬ。足軽どもは各々の国へ帰せ」
駿河まで行けば徳川家康が出迎える手筈となっている。この先は大軍勢を引き連れていく必要もない。
「ハッ。では早々に全軍へ通達いたしまする」
菅屋九右衛門が下がっていくと、忠三郎はホッと胸をなでおろしたが、
「鶴、他にもまだあろう」
信長がなおも追及してくる。忠三郎は冷や汗をかきながら、言おうかどうしようかと思案する。まごまごしていれば信長の叱責が飛んでくる。考える余裕もなく、
「乾徳山恵林寺のことにござりまする」
致し方なく口を割った。
室町期に建てられた甲州にある乾徳山恵林寺。武田信玄により再興された寺で、武田家から多額の寄進があり、七堂伽藍が再建された。美濃、土岐家にゆかりのある快川紹喜を住職として迎えてから武田家の菩提寺となった。
「快川紹喜がおる寺か」
「仰せの通り」
妙心寺四十三世の快川紹喜は朝廷から国師の諡号《しごう》を賜るほどの高名な高僧だ。
一益の子、九郎を開基として寺を興す際は快川の口利きで九郎を妙心寺五十六世とし、妙心寺の一派という形をとって暘谷庵を興した経緯がある。忠三郎が人質時代を過ごした岐阜で、信長に命じられて通った岐阜瑞竜寺の禅僧、南化玄興も快川紹喜の弟子のひとりであり、織田家とも所縁の深い僧だった。
「快川国師はただの僧ではありませぬ。美濃、近江にも知古があり、諸国に散らばる織田家に仇なす者たちと武田との取次を務めておりました。そして今も恵林寺には六角次郎をはじめとする六角の残党が隠れ潜んでおりまする。快川国師は城介様に断りもなく、武田四郎父子の亡骸を引き取り、供養したと聞き及びました。されど六角は我が家の旧主、そして快川国師はわが師、南化禅師の師にござりますれば、これをいかようにすべきかと思いあぐねておりました」
忠三郎が祖父快幹の手文庫から見つけた密書は、旧主の六角義治の弟、六角次郎からの文だった。六角次郎は何年も前から織田家の残党狩りから逃れ、甲斐の恵林寺に身を潜めて、叛旗を翻すときを窺っていた。
一益に話せば、見逃してやれと言うだろう。しかし、それで何事もなく済むとは思えない重要な秘密が、密書の中にはあった。問題は六角と武田の繋がりだけではない。六角と呼応して織田家に弓引く者の名が記されていたことだ。しかし、さすがにそこまでは信長に話すことができなかった。
「鶴」
「ハッ」
信長は取り立てて驚く様子もない。
「その方が思い悩むようなことではない」
「ハッ、しかし…」
「甲斐は予の領国、そのような寺はもはや、我が領内には不要じゃ」
「…と言うと…」
信長の言っていることが分からず、小首を傾げて訊ねると、信長は手を振り、
「城介を呼べ」
「ハハッ」
信長は恵林寺をどうするつもりなのだろうか。不安になったが、それ以上、聞くことができなかった。
信忠が呼び出しを受けたとの情報が一益の耳に入ってきたのは、その二日後。
「恵林寺に奉行衆を差し向けるという話があがっておる。あの寺に武田の残党がおったか」
一益が訊ねると、義太夫がいやいやと首を横にふる。
「武田の残党などおりませぬ。おったのは六角の残党とかいう話で」
「六角の残党?」
初耳だ。どこから得た情報なのか、すぐに思い当たった。
(さては鶴…)
情報の出所はさしずめ快幹の密書といったところか。忠三郎が明言を避けていたのはこのことのようだと気づいた。
そこへ忠三郎が現れた。
「義兄上、上様がお召しに…」
「鶴、恵林寺の件を上様に話したのはその方か」
開口一番に問いただされ、忠三郎はばつ悪そうな顔をして頷く。
「上様に話すということが、どのようなことになるのか、分かって話しておるのか」
全山焼き討ちは免れない。快川紹喜をはじめとする多くの高僧たちはどうなるだろうか。
「義兄上、これは上様がお決めになること。我らがとやかく申すまでもなきことかと」
涼しい顔をしてそういう。開き直りにも見えるが。
(百済寺焼き討ちの折は、激しく動揺していたと聞いたが…)
恵林寺が他国にあるためか、あるいは百済寺焼き討ちから時を経て忠三郎自身が変わったのか。
(いや…そうではない。こやつが妙な笑顔を称えて話すときは…)
何かを隠している時だ。快幹の密書だろう。人目をはばかる内容のものは全て処分している筈だ。知っているのは忠三郎だけ。にも拘らず、何かを恐れ、思い悩んでいるのは、快幹の密書以外にも秘密を知るものがいるからではないだろうか。
(恵林寺にいる快川和尚か)
恵林寺に六角の残党がいるのであれば、快川の口から六角の残党へ秘密が洩れる恐れがある。最初から計算尽くで信長に話したとも思えないが、結果として、秘密を知る快川を葬ることができるのであれば、それは忠三郎にとって一石二鳥だ。
「義兄上、上様がお待ちでござりまする」
不自然な程、何食わぬ顔をしている。明らかに何かを隠していると分かる。
「もうよい。上様の元へ参ろう」
まだすべてが明らかにされていない。忠三郎は何を秘しているのだろうか。
信長は堀久太郎、丹羽長秀など、お気に入りの将をぞろぞろと引き連れ諏訪に入り、論功行賞を行うとともに、目通りを願う国衆の挨拶を受けていた。
「義兄上、武田四郎親子を討ち取られたとのこと。まことに恐悦至極に存じまする」
信長に付き従ってきた忠三郎が、武田攻めの褒美として下賜された鎌倉時代の刀工、藤四郎吉光の脇差、信長秘蔵の名馬『一の日影』、金子五百両を持って滝川陣営に現れた。馬を操るのは、未だ十代と思しき少年武将だ。帷幕内は俄かに賑やかになった。
「義太夫、これなるお方がどなたか、わかるか?」
未だ幼さが残る若衆が幾分、緊張した面持ちで義太夫を見る。義太夫は、おや、と気づいて
「もしや、助十郎殿か」
武藤宗右衛門の一子、助十郎康秀。信長側近の一人として武田攻めに同行していた。
「幼き者が大きゅうなるのは早いのう。言われなければ気づかぬところじゃ
義太夫の言うとおりだ。宗右衛門が陣没してから、もう三年も経っている。
「此度は左近殿にお声かけいただき、上様に従って初陣を飾ることができましたること、誠に有難き幸せにござりまする」
その礼儀正しい姿がなんとも初々しく、義太夫が目を細めて、
「これは玉姫殿にも見せたかったのう。助十郎殿、そう堅くならんでもよい。殿は一見、堅苦しそうに見えるが堅苦しいお方ではない。肩の力を抜いてくだされ。ほれ、この蒲生の鶴をご覧あれ。我が殿の前でも常より厚かましい態度じゃ」
義太夫が横目で忠三郎を見ると、忠三郎が軽く笑う。
「何を申すか。義兄上を侮っておるのは義太夫、その方ではないか」
「侮るなどとは、とんでもない。わしは甲賀を出て以来、常より殿の第一の家来として…」
一益が何度も助十郎に声をかけようとするが、騒がしい二人の会話がなかなか終わらない。一益はたまりかねて、
「義太夫、少し黙っておれ」
と制して助十郎に向きなおった。
「助十郎、息災か」
武藤助十郎がハハッと短く返事をする。その目元には亡き戦友、宗右衛門の面影がある。
(あやつが生きておれば…)
供に祝い、供に関東に向かっていたかもしれない。しかし、宗右衛門亡き今となっては、この上、戦さを続けていく気力も湧いてこない。
「助十郎。そなたの父、宗右衛門は智勇比類なき働きで織田家を…わしを支えてくれた。そなたも父に倣い、織田家のために働いてくれ」
助十郎が生真面目な顔をして頷く。三九郎が助十郎に声をかけ、供に去っていくと、後に残された忠三郎は一益の想いを見抜いた様子で
「義兄上、今日は上様の前にはお出でにならぬほうがよいでしょう」
常の笑顔を称えてそう言う。
「何かあったか?」
戦勝祝いで沸き立っているかと思ってここまで来たが、ついた時から、全体に不穏な空気を感じていた。
「義兄上がここへ到達される前のことなれど…」
一益たちの到着を待つ間、信長が、供にきていた明智光秀に、兵の士気を高めるために二手に分かれて模擬戦をしようと声をかけたという。
それを聞いた義太夫が頷き、
「上様は吉法師と呼ばれていた昔、那古野城周辺の子らを集めて毎日のように戦さごっこしていたとか。帰するところ、信濃まで来てみたら戦さが終わっていたので、退屈した上様が童のころのように戦さごっこがしとうなって明智殿にお声をかけられたのでは?」
そんなところだろう。
「…で、日向守が勝ったと」
「はい。見事な采配でござりました」
それで面目を失った信長が機嫌を損ねたと、そう言いたいようだ。
信長の機嫌が悪いとしても、会わないわけにもいかない。まもなく木曾義昌が来て、信長に引き合わせることになっている。
「鶴、つまらぬことばかり気にするな。武田も滅び、甲斐、信濃、駿河、上野が織田家のものとなったのじゃ。童でもあるまいし、上様だとて、そのようなつまらぬことでいつまでも機嫌を悪うしておるわけではありまいて」
義太夫が笑い飛ばすと、忠三郎が困ったような笑顔を見せた。気がかりなことがあるようだ。
「何か心にかかることが…」
そう言いかけた時、
「木曾伊予守様、御着到にござりまする」
帷幕の外から声がした。木曾義昌が着陣したようだ。
「伊予を上様に引き合わせねばならぬ」
「それがしが注進いたしましょう」
忠三郎がいち早く立ち上がり、帷幕を去る。
(日向守か…)
忠三郎が懸念していることが何なのか、妙に気になった。
「新介、平右衛門」
一益は佐治新介、篠岡平右衛門を呼び、調べさせることにした。
義太夫が出迎えに出ると、奥美濃の遠山家の家人、八木老人に案内された木曾義昌が到着したところだった。これから初めて信長に目通りするとあり、木曾義昌は堅い表情で陣営を見回していた。
「やぁやぁ、木曾殿。お越しくだされたか。先だってお渡しした饅頭は、お気に召していただけたかな」
義太夫がひときわ大きな声をあげると、義太夫を見定めた木曾義昌の表情が変わった。
「饅頭…とは、あの木曾までお持ちいただいた包の…」
「然様。あれなるは畿内でも名高い饅頭屋、大和の饅頭屋宗二の本饅頭じゃ」
義太夫が誇らしげに言うと、その饅頭で腹を下し、厠送りにされた木曾義昌が頬を引きつらせる。
「いやはや…まことに勿体ないお心遣い。痛み入りました」
かろうじて言うと、義太夫が笑って、
「かような進物は造作もないことにて。御所望であれば、また送らせましょう」
今は三月だ。これから益々暖かい季節になっていく。大和で作られた饅頭が、木曾につくころにはまた、厠送りになる饅頭に変貌することは容易に想像できる。
それに気づいた木曾義昌が思わずウッと声をもらし、
「いやいや、これ以上のお気遣いは無用にて…」
「遠慮深いお方じゃ。お、そうじゃ!確かまだ、腰につけた巾着に一つ、二つは忍ばせておいたような…」
義太夫が腰に下げた巾着の中をごそごそと探りだしたので、木曾義昌が血相変えて留めようとする。そこへ帷幕の中から一益が姿を現した。
「そこもとが木曾殿か」
木曾義昌が義太夫に足止めされ、いつまでも帷幕の中に現れないので、待ちかねて出てきたのだ。
「これは…滝川左近殿か」
助かった、と危うく声に出しそうになって、おっと、と口を閉じる。一益はそんな木曾義昌の不可解な行動に怪訝な顔をしながら、
「上様が貴殿の到着をお待ちじゃ。案内いたす故、供に参られよ」
と、促すと、木曾義昌がふぅと安堵の息を吐いた。二人は連れ立って信長本陣へと向かった。
木曾義昌から馬二頭が進上された。信長から木曾義昌へは本領安堵、及び信濃二郡が加増され、黄金百枚が下賜された。
翌日には北条家の使者が大樽を持って戦勝祝いに現れた。北条家から贈られた酒は、北条早雲が命名したという伊豆の銘酒、江川の酒だ。
下戸の信長は贈られた酒には手を付けず、皆に下げ渡したので、その夜は大宴会になった。
一益は、忠三郎が昼間、いいかけたことが気になり、助太郎に命じて忠三郎を呼び寄せた。
「義兄上は飲んでおられぬのか」
上機嫌で現れた忠三郎は幾分、不満げにそう言った。
(呼ぶのがちと遅かったか)
すっかり出来上がっていて、まともな話ができるとも思えない。
「これから上様は諏訪を出て富士の山裾を見物したいと仰せじゃ」 信長下行のため、甲斐、大ヶ原宿へ御座所を作り、賄いの手配をしなければならない。武田勝頼を討ち取ったといっても、一益には酒を飲む暇もない。
「三九郎も付き合いの悪い男じゃが、義兄上も同じとは」
人の話を聞いているのか、と言おうと思ったがやめた。この状態では意味がない。うまく調子を合わせて話を聞きだすしかなさそうだ。
「坂東の酒はうまいか」
「義兄上も飲まれるがよい」
忠三郎が嬉しそうに後ろを振り返って町野長門守に酒肴の用意をさせる。致し方なく、一益も盃に口をつける。
「何を懸念しておる。わしが来る前に何があった?」
さりげなく聞くと、忠三郎がうーん、と下を向く。
「そなたが案じておることを聞かせてみよ」
一益が促すと、忠三郎が考え考え話し出す。
「上様は武田攻めが一段落したのちに、中国、四国を掌握すると仰せになり、羽柴筑前にその旨伝えておりまする」
それは知っている。関東を一益に、北陸を柴田勝家、森長可に任せ、信長は次の敵を中国の毛利、四国の長曾我部と見定めている。
「どうも、四国の情勢に不安が…」
四国征伐の総大将は信長の三男、神戸信孝。副将に丹羽長秀が打診されていた。
「五郎左がなにか?」
「いえ。丹羽殿ではなく…」
と言い淀んだ。丹羽長秀でないとすれば、
(日向守か)
元々、四国、長曾我部の取次は明智光秀だった。長曾我部元親が信長に叛旗を翻したことで、光秀は取次役から降ろされるのではないかという風聞がたっていた。
「咎があるとすれば、長曾我部ではなく、上様でござりまする」
酔った勢いもあり、ずばり本音を漏らした。
忠三郎は、長曾我部元親が同盟を破棄した理由が信長にあると、そういいたいのだろう。
「どうも、同盟当初、上様は長曾我部に対し、切り取り次第と、そう仰せになっていたような節があり…」
切り取り次第。つまり、四国の内、長曾我部元親が攻め取った領地は全て認めると、そう約束していた。ところが、敵対していた阿波の三好康長が羽柴秀吉を介して従属したことで方針を変え、元親が奪った阿波を三好康長に返すように求めた。
「それで約定を違えたと怒って手切れか」
「明智殿は約定通り、四国の領有をお認めいただくよう、上様に何度も嘆願されたのでござります」
ところが信長はそれを認めず、長曾我部の肩をもつ光秀に立腹して取次役から降ろし、長曾我部征伐を決定した。
(日向守は何故、そこまで長曾我部に肩入れしたのであろうか)
約定を違えるなどということは、さして珍しいことでもない。本願寺、武田を滅ぼした今、もはや織田家の脅威となるものが存在しない以上、過去の約定にこだわる必要もない。
この時期、織田家では天下統一の先を見越した変革が勧められている。
今回の武田攻め。家康は穴山梅雪に対して、甲斐一国と引き換えに内応を促したが、信長が武田の旧臣に一国を与えるはずがない。当然、一部を残して甲斐の国は河尻秀隆に与えられ、徳川家康に駿河を与えることで、これまで同盟者とみなされていた徳川家を、家臣と同列として扱うようになった。その一方で織田家内部は大きく変わろうとしている。五畿内、すなわち大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国全てを信長の旗本と連枝で治めるため、旗本、連枝以外の家臣たちは領地替えの打診が届いていた。
(妙だな)
忠三郎は何を知って、何を心配しているのだろう。ここまで聞いた限りでは、それを読み取ることができない。忠三郎が気に留めるとしたら
(祖父、快幹絡みか、親類縁者が絡んだこと。もしくはその両方か)
伊賀攻めに至る過程で南近江の土豪、後藤喜三郎、池田孫次郎、青地四郎左の三人が不穏な動きを見せていた。伊賀が沈静化したことで表沙汰にはならなかったが、織田家に二心がないとは思えない。
そして、素破を使わない忠三郎の情報源があるとしたら、信長の傍で直接見聞きしたことと、
(快幹の残した密書。まだ秘密があるとすると…)
常より義太夫と二人で軽口をたたいているが、家中のこと、親類縁者のこととなると途端に口が重くなる。
(後藤は日向守の与力。青地、池田は上様の直参旗本か)
何かがまだ足りない。
明智光秀、蒲生快幹、忠三郎の従弟たち、そして四国攻め。
(そうか、日向守と長曾我部を結ぶのものか。両者を結ぶものは一体、何であろうか)
すでに故人である蒲生快幹が絡んでいたとは思えないが、忠三郎は光秀の謀心を疑っているのではないだろうか。
(もしも、その懸念が懸念でないとすると)
佐久間信盛がいなくなったことで、その与力だった南近江、河内の土豪の多くが明智光秀の与力に組み込まれている。今、畿内を掌握しているのは光秀ということだ。
「義兄上はかような大事に隠居するなどと、たわけたことを申される」
「大事と言うのであれば、何を懸念しているのか、いい加減に話せ」
なかなか話そうとしない忠三郎を再度促すと、
「明日、お話いたしまする」
曖昧な返事を返すと常の笑顔を称えて、場を後にした。
法華寺の信長本陣には連日、国衆が進物を携えて挨拶に来ている。忠三郎たち側近の者は奉行衆とともに、その進物の受け取りやら、次の陣所となる大ヶ原への荷の手配等、上諏訪に入ってからは特に忙しい。
「甲斐の大ヶ原なる宿場からは名山、富士の山が見えるとか。これを是非とも上様のお目にかけようと、滝川左近殿が眺望のよき場所に御座所を用意されているとのことにござりまする」
奉行衆筆頭の菅屋九右衛門が感心してそう言うと、信長はフムと頷き、
「で、あるか」
と短く相槌を打ち、傍らに控える忠三郎に、
「何じゃ、鶴」
にわかに声をかけた。
突然、名を呼ばれ、忠三郎が驚いて顔をあげる。
「は、いえ、それがしは何も…」
「ここ数日、浮かぬ顔じゃ。何を懸念しておる」
言ってみろ、と顎をしゃくる。
「懸念…というは…」
常日頃より心にあるものを態度に現さないよう気をつけているつもりだが、信長に見抜かれていたようだ。信長は進物の一つを手に取り、眺めている。
「左近のことか」
一益の名がでたときに、忠三郎の表情が一瞬曇ったのを見逃さなかったのだろう。
「は、仰せの通り。左近殿は…隠居したいとお考えのようにて…」
隠し通すのが難しいと考え、ついつい内密の話を口にしてしまった。
「左近が隠居?鶴、それはまことか」
信長が手にした進物を近侍に渡すと、ギロリと忠三郎を見た。
東国の全権を一益に委ね、自らは西国へ向かおうとしている信長にしてみれば、寝耳に水だ。
「あ…は、はい」
忠三郎が焦って何か言おうとすると、菅屋九右衛門が見かねて助け舟を出した。
「上様。恐れながら合戦に次ぐ合戦で、疲れておるは左近殿だけではありますまい。此度、御供仕った者の中にも目に見えて疲労の色濃きお方は少なからず。遠征とあって兵にも疲れが見えておりまする」
菅屋九右衛門は尾張以来の家臣で、信長側近の中では最も信頼されている。実際、雨続きで気温が下がり、兵の中で凍死者がでていた。
信長は菅屋九右衛門の話を聞いて、尤もである、と言い、
「予は諏訪を出、富士の山裾を見物したのちに駿河へと参る。供は将のみでかまわぬ。足軽どもは各々の国へ帰せ」
駿河まで行けば徳川家康が出迎える手筈となっている。この先は大軍勢を引き連れていく必要もない。
「ハッ。では早々に全軍へ通達いたしまする」
菅屋九右衛門が下がっていくと、忠三郎はホッと胸をなでおろしたが、
「鶴、他にもまだあろう」
信長がなおも追及してくる。忠三郎は冷や汗をかきながら、言おうかどうしようかと思案する。まごまごしていれば信長の叱責が飛んでくる。考える余裕もなく、
「乾徳山恵林寺のことにござりまする」
致し方なく口を割った。
室町期に建てられた甲州にある乾徳山恵林寺。武田信玄により再興された寺で、武田家から多額の寄進があり、七堂伽藍が再建された。美濃、土岐家にゆかりのある快川紹喜を住職として迎えてから武田家の菩提寺となった。
「快川紹喜がおる寺か」
「仰せの通り」
妙心寺四十三世の快川紹喜は朝廷から国師の諡号《しごう》を賜るほどの高名な高僧だ。
一益の子、九郎を開基として寺を興す際は快川の口利きで九郎を妙心寺五十六世とし、妙心寺の一派という形をとって暘谷庵を興した経緯がある。忠三郎が人質時代を過ごした岐阜で、信長に命じられて通った岐阜瑞竜寺の禅僧、南化玄興も快川紹喜の弟子のひとりであり、織田家とも所縁の深い僧だった。
「快川国師はただの僧ではありませぬ。美濃、近江にも知古があり、諸国に散らばる織田家に仇なす者たちと武田との取次を務めておりました。そして今も恵林寺には六角次郎をはじめとする六角の残党が隠れ潜んでおりまする。快川国師は城介様に断りもなく、武田四郎父子の亡骸を引き取り、供養したと聞き及びました。されど六角は我が家の旧主、そして快川国師はわが師、南化禅師の師にござりますれば、これをいかようにすべきかと思いあぐねておりました」
忠三郎が祖父快幹の手文庫から見つけた密書は、旧主の六角義治の弟、六角次郎からの文だった。六角次郎は何年も前から織田家の残党狩りから逃れ、甲斐の恵林寺に身を潜めて、叛旗を翻すときを窺っていた。
一益に話せば、見逃してやれと言うだろう。しかし、それで何事もなく済むとは思えない重要な秘密が、密書の中にはあった。問題は六角と武田の繋がりだけではない。六角と呼応して織田家に弓引く者の名が記されていたことだ。しかし、さすがにそこまでは信長に話すことができなかった。
「鶴」
「ハッ」
信長は取り立てて驚く様子もない。
「その方が思い悩むようなことではない」
「ハッ、しかし…」
「甲斐は予の領国、そのような寺はもはや、我が領内には不要じゃ」
「…と言うと…」
信長の言っていることが分からず、小首を傾げて訊ねると、信長は手を振り、
「城介を呼べ」
「ハハッ」
信長は恵林寺をどうするつもりなのだろうか。不安になったが、それ以上、聞くことができなかった。
信忠が呼び出しを受けたとの情報が一益の耳に入ってきたのは、その二日後。
「恵林寺に奉行衆を差し向けるという話があがっておる。あの寺に武田の残党がおったか」
一益が訊ねると、義太夫がいやいやと首を横にふる。
「武田の残党などおりませぬ。おったのは六角の残党とかいう話で」
「六角の残党?」
初耳だ。どこから得た情報なのか、すぐに思い当たった。
(さては鶴…)
情報の出所はさしずめ快幹の密書といったところか。忠三郎が明言を避けていたのはこのことのようだと気づいた。
そこへ忠三郎が現れた。
「義兄上、上様がお召しに…」
「鶴、恵林寺の件を上様に話したのはその方か」
開口一番に問いただされ、忠三郎はばつ悪そうな顔をして頷く。
「上様に話すということが、どのようなことになるのか、分かって話しておるのか」
全山焼き討ちは免れない。快川紹喜をはじめとする多くの高僧たちはどうなるだろうか。
「義兄上、これは上様がお決めになること。我らがとやかく申すまでもなきことかと」
涼しい顔をしてそういう。開き直りにも見えるが。
(百済寺焼き討ちの折は、激しく動揺していたと聞いたが…)
恵林寺が他国にあるためか、あるいは百済寺焼き討ちから時を経て忠三郎自身が変わったのか。
(いや…そうではない。こやつが妙な笑顔を称えて話すときは…)
何かを隠している時だ。快幹の密書だろう。人目をはばかる内容のものは全て処分している筈だ。知っているのは忠三郎だけ。にも拘らず、何かを恐れ、思い悩んでいるのは、快幹の密書以外にも秘密を知るものがいるからではないだろうか。
(恵林寺にいる快川和尚か)
恵林寺に六角の残党がいるのであれば、快川の口から六角の残党へ秘密が洩れる恐れがある。最初から計算尽くで信長に話したとも思えないが、結果として、秘密を知る快川を葬ることができるのであれば、それは忠三郎にとって一石二鳥だ。
「義兄上、上様がお待ちでござりまする」
不自然な程、何食わぬ顔をしている。明らかに何かを隠していると分かる。
「もうよい。上様の元へ参ろう」
まだすべてが明らかにされていない。忠三郎は何を秘しているのだろうか。
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