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15 武田滅亡
15-2 木曽谷と饅頭
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恐ろしや~渡り難きは信濃なる
木曽路の隅の絶間見えたり
旅人泣かせの険しいことで知られる木曽路の難所、石積の壁面をようやく渡り終えた義太夫と助九郎。一心地つき、西行法師の歌と思しき和歌を真似て一句詠みあげ、兵糧丸を頬張った。
「うまい!地の果てで食う恋女房の作る飯はまた、格別じゃなぁ」
黙って聞いていた助九郎も、兵糧丸を頬張り、
「む、これは確かにうまい。これまで食べた兵糧丸の中でも一・二を争う美味さにござりまする」
「そうであろう。ほれ、ほれ、ここに、わしの好きな松の実が入っておる。さすがは玉姫殿じゃ~」
木曾の谷間に義太夫の声が響き渡る。いつもながらに隠密行動の割には義太夫の声が大きい。助九郎は苦笑いして兵糧丸を食べながら、ふと気づいて顔をあげる。
「義太夫殿…祝言をあげて日もたつというに、未だ、奥方を玉姫殿と、そう呼んでおられるのか」
「そうじゃ。我が義太夫家は玉姫殿で保っておるゆえのう。祝言をあげて以来、わしの男振りが上がったと、桑名の町でも評判じゃ」
義太夫の男振りが上がったなどという評判はついぞ耳にしたことがないが、玉姫で保っているのは誰もが認めるところだ。
「…で、奥方は義太夫殿をなんと呼んでおられるので?」
義太夫はちらりと助九郎を見て、
「義太夫殿と、呼ばれておる」
神妙な顔でそう言ったので、助九郎が腹をかかえて笑い出した。
「なにを笑うておる。可笑しいか」
「いやいや、何とも似合いの夫婦。したが、そろそろ、おまえ様とか、旦那様とか、そう呼んでいただいた方がよろしいのでは」
それを聞くと、義太夫はウッとつまり、口に含んだ兵糧丸を無理やり飲み込むと、激しくむせた。
「ゴホッゴホッ!気恥ずかしいことを申すゆえ、妙なところに飯が…水、水…」
音を立てて竹筒の水を飲み込む。
「ふぇー。苦しかったわい…おや、あれは…」
一息つくと、崖の向こうに馬に乗っている武者の姿が見えた。どうやら先ほどから、こちらの様子を窺っていたようだ。
「そこもとは滝川殿のご家来衆か」
擦れた声が響く。
「そうじゃ!そういうお手前は遠山殿の使者と見えるが」
旅装束姿の侍が近寄って来た。奥美濃の苗木城主、遠山友忠が今回の調略に一役かっている。今回も遠山家の家臣に道案内を頼み、木曽福島城へ向かうことになっていた。
見ると、遠山家の家来と思しき人物は、思いのほか年を取り、ひょろひょろとした体つきの、いかにも頼りなさげな痩せ侍だ。
「なんじゃ、年寄な上に風が吹けば折れそうな体つきではないか」
「義太夫殿、シッ!聞こえまするぞ!」
助九郎が慌てて義太夫を制する。
聞こえていたようで、相手は馬を下りると笑って頭をさげた。
「遠山家の八木喜三郎にござる」
「わしは滝川義太夫。こっちは家人の助九郎じゃ」
両者は軽く挨拶を交わした。義太夫と助九郎は八木喜三郎と名乗った老人の後に続いて、木曽福島を目指す。
「滝川殿というは、これまでも数多の敵を懐柔し、味方に引き入れてきた謀将。此度はどのような秘策で、木曾を織田家に寝返らせるおつもりか、お聞かせいただきたく」
八木老人が興味深そうに言うと、義太夫はフンと笑って
「聞きたいか。わしの取って置きの秘策を」
「はい。是非」
「よかろう。冥土の土産に聞かせてやる」
義太夫がエヘンと咳払いする。
「わしはのう、わざわざ大和まで行き、こいつを仕入れてきたのじゃ」
義太夫は懐から懐紙に包まれた何かを取り出す。
「それは…もしや金子…?」
木曾をはじめ、武田の領内では皆、重い税に苦しみ、民の生活は脅かされている。それを知った一益が金子を送ってきたのかと思ったが、義太夫は首を横に振る。
「これは饅頭じゃ」
「饅頭?」
八木老人と助九郎が同時に声をあげた。
「いかにも。されど、これはただの饅頭ではない。大和の饅頭屋、饅頭屋宗二が拵えた、特別な饅頭、本饅頭じゃ」
大和の林宗二。通称、饅頭屋宗二。かつては松永久秀の庇護のもとに商いをしていた商人で、茶人でもあった久秀の求めに応じて饅頭を作っていた。饅頭屋としては初代の宗二は昨年、他界し、今は二代目宗二が跡を継いでいる。
「本饅頭とは?何か、まじないでもかけてあるので?」
「さにあらず。この本饅頭はとびっっきり美味い饅頭じゃ。中のこし餡は蜜づけされた大納言入り。包んでいる皮も、うすーーい皮で、一口食べただけで、口のこのあたりに、ほんわかと染み込み、五臓六腑に染みわたる。かようなものは早々口にできるものではない。ましてや相手は木曾の山猿。かような饅頭は食べたことがなかろう。これを食べれば、織田家には到底叶う筈もないと、舌を巻き、織田家に臣従するという算段じゃ」
「は…な、なるほど…それは確かに…」
とてもそうは思えなかったが、八木老人は義太夫の顔色を伺いながら、感慨深げに頷く。
そうこうしているうちに、木曽福島城に到着した。
「織田家重臣、滝川左近の家人の滝川義太夫でござる。まずは、木曾殿にこれを…」
城の広間に通された義太夫と八木老人は、木曾義昌に目通りが叶うと、恭しく懐紙に包んだ饅頭を指し出した。
「こ、これは…流石は滝川殿。我が家の懐事情をよう存じておられるようじゃ」
木曾義昌が差し出された包の大きさに言葉を失う。
懐紙に包まれたものが小判であれば、その大きさから相当な額になる。木曾義昌は、わざわざ一益が饅頭を送ってきたとは思っていない。明らかに勘違いしている様子だったが、義太夫はそれには気づかず、
「我が主人の心をお分かりいただけたか。これは織田の殿が、大手を振って木曾殿をお迎えしたいという気持ちの表れでござる。何卒、織田家にお味方いただきたく」
一息に述べると、木曾義昌が大きく頷く。
「返す返すも忝い。まっこと、丁度良いところに参られた。お心遣いいただいたように、戦さ続きの上に城の普請が重なり、民は餓え、城の兵糧も心もとなく、もはや我が領国は立ち行かぬ程にて。我が家から織田殿に使者を立てようかと思うていたところじゃ」
「話が早い。では、恭順の証として、どなたか御身内から人質を指しだされよ。その上で遠山殿と呼応して挙兵していただきますれば、こちらからも兵を送り込む手筈となっておりまする。岐阜の中将様はもとより、安土より右府様直々の御出馬もあるかと」
「承知した。では我が弟の上松蔵人を織田殿の元へ送りましょう」
木曾義昌は先ほどから、ちらちらと義太夫が前に置いたその包の膨らみを気にしている。遠目にも、相当な額の金子と思われた。
「にしても過分な手土産。まことに恐れ入りました。滝川殿にくれぐれもよしなにお伝えあれ」
これから始まる武田攻めに供えた軍資金だと思い込んでいる。
丁寧に礼を言われ、義太夫も上機嫌で、いやいや、これしき造作もない、と言葉を返す。
(これはわしが買い求めた饅頭じゃが、ここは殿に花をもたせるのも家人の役目じゃ)
話は思った以上にすんなりと進み、義太夫たちは一刻余りの滞在で木曽福島城をあとにした。
「さしものわしも、まさか饅頭を見ただけで臣従してくるとは思わなんだ。やはり大和の饅頭は違うのう」
「あれは…我らが行く前から内応を決めていたようにも見受けましたが…饅頭と気づいておらなんだような…」
その八木老人の声は小さすぎて義太夫には聞こえていない。
(饅頭はあれだけではない。持ち帰る分もちゃんと取っておるのじゃ。さて、これを誰と食べようか…)
懐紙の中から、ちゃっかり持ち帰る饅頭を抜いておいた。大和の饅頭屋宗二の貴重な饅頭。誰とともに食べるか、思案のしどころだ。
安土に戻った義太夫は、事の次第を信長に伝え、屋敷に戻った。屋敷には三九郎、津田秀重の他には姿が見えない。
「父上からの命により、皆、戦供えのために伊勢に戻った。わしももう間もなく伊勢へ戻るゆえ、義太夫は先に戻れ」
「ハハッ。では早々に…」
木曾義昌内通の知らせがいち早く届いていたようだ。仕方がなく、日野の忠三郎の元に向かった。
忠三郎は義太夫を見ると、なんだ義太夫か、と言いたげな顔をして迎えた。
「遠路、木曾から戻って来たというに、辛気臭い顔をしおってからに」
「然様か。それはすまなんだ。お役目ご苦労」
気のない返事をする。義太夫は少し詰まらなそうに口をへの字に曲げて
「腹具合でも悪いか?尤も、この取って置きの土産を見れば、立ちどころに機嫌もようなるわ」
ごそごそと懐から包みを出した。
「何じゃ。それは」
「大和の饅頭屋宗二の本饅頭じゃ」
「おぉ、林宗二の。饅頭屋の筆の抄物(参考書)が御爺様の書蔵に納めてある」
「饅頭の作り方か?」
義太夫が懐紙に包んだ饅頭を取り出し、忠三郎に渡す。忠三郎はそれを受け取ると、クスッと笑って
「源氏物語の抄物じゃ」
初代の林宗二は商人としては異例ながら古今伝授された歌人でもある。
忠三郎は手にした饅頭をぱくりと食べる。
「………これは…」
「美味いじゃろう」
義太夫が美味そうにむしゃむしゃ食べると、忠三郎は目をしばたたかせて
「饅頭屋から、この饅頭を買い求めたのは何時のことじゃ?」
「十日ほど前かのう」
皮が乾燥し、微妙な異臭がしたのは、そうした訳かと納得した。しかし義太夫は違和感なく食べ、平然としている。
「どこかに入れておいたものか?」
「おお。ずっと大切に、わしの懐に入れておいた」
木曾への行き帰り、ずっと義太夫の懐にあったという。
「大切に懐に…。然様か…」
忠三郎は覚悟を決め、残りの饅頭を一気に口に放り込み、ゴクリと飲み込む。
「刎頸の友であるおぬしと食すことにしたのじゃ。有難く思え」
早くも腹に違和感を覚えるのは、気のせいだろうか。忠三郎は義太夫の心遣いに笑顔を返しながらも、傍らに控える町野長門守に水を用意させて、ゴクリと飲み込み、胸につかえる饅頭を流し込む。
「古式ゆかしい蒲生忠三郎にしては、随分と豪快に食うのう」
「然様。わしも武人ゆえ…」
これは薬が必要だと思いつつ、かろうじて笑う。
「安土の屋敷には誰もおらぬ。章姫様すらおられず、留守を守っているのは、若殿とおぬしの妹の虎殿だけじゃ」
「章姫殿は京の暘谷庵に向かわれた」
忠三郎が町野長門守に差し出された薬を飲み込みながら言うと、義太夫は首を傾げて
「暘谷庵に?さては、鶴。振られたか」
「何を言うか。我らが武田攻めに向かい、安土を留守にすると聞いて、六郎殿がいる都に行きたいと、そう仰せられたのじゃ」
それも不思議ない話だ。まずは信忠が、続いて信長が出陣することになるが、信長が兵をあげるとなると、安土は留守部隊以外は誰もいなくなる。
「留守居はおぬしの父御か」
ここ数年、蒲生賢秀はほとんど合戦にでることがない。もっぱら安土の留守居を務めている。体の弱い賢秀の面目をたてるために、信長が留守を命じているようだ。
「上様御出馬ともなれば、わしも御供仕ることとなろう。それよりも松姫殿の件は如何なった?」
「新介が動いておる。あの狂人が邪魔立てしなければ、首尾よういくであろう」
あの狂人こと、森武蔵守長可、それと同じ程度の破壊力をもつ団平八郎忠正。先鋒を務めるであろうこの二人が暴走しなければ、松姫救出も問題ないと思われた。
「ではわしも伊勢に戻らねばならぬ。先に信濃へ行って待っておるぞ」
終始浮かない顔をしている忠三郎に軽く声をかけると、長島へ向けて出立した。
木曽路の隅の絶間見えたり
旅人泣かせの険しいことで知られる木曽路の難所、石積の壁面をようやく渡り終えた義太夫と助九郎。一心地つき、西行法師の歌と思しき和歌を真似て一句詠みあげ、兵糧丸を頬張った。
「うまい!地の果てで食う恋女房の作る飯はまた、格別じゃなぁ」
黙って聞いていた助九郎も、兵糧丸を頬張り、
「む、これは確かにうまい。これまで食べた兵糧丸の中でも一・二を争う美味さにござりまする」
「そうであろう。ほれ、ほれ、ここに、わしの好きな松の実が入っておる。さすがは玉姫殿じゃ~」
木曾の谷間に義太夫の声が響き渡る。いつもながらに隠密行動の割には義太夫の声が大きい。助九郎は苦笑いして兵糧丸を食べながら、ふと気づいて顔をあげる。
「義太夫殿…祝言をあげて日もたつというに、未だ、奥方を玉姫殿と、そう呼んでおられるのか」
「そうじゃ。我が義太夫家は玉姫殿で保っておるゆえのう。祝言をあげて以来、わしの男振りが上がったと、桑名の町でも評判じゃ」
義太夫の男振りが上がったなどという評判はついぞ耳にしたことがないが、玉姫で保っているのは誰もが認めるところだ。
「…で、奥方は義太夫殿をなんと呼んでおられるので?」
義太夫はちらりと助九郎を見て、
「義太夫殿と、呼ばれておる」
神妙な顔でそう言ったので、助九郎が腹をかかえて笑い出した。
「なにを笑うておる。可笑しいか」
「いやいや、何とも似合いの夫婦。したが、そろそろ、おまえ様とか、旦那様とか、そう呼んでいただいた方がよろしいのでは」
それを聞くと、義太夫はウッとつまり、口に含んだ兵糧丸を無理やり飲み込むと、激しくむせた。
「ゴホッゴホッ!気恥ずかしいことを申すゆえ、妙なところに飯が…水、水…」
音を立てて竹筒の水を飲み込む。
「ふぇー。苦しかったわい…おや、あれは…」
一息つくと、崖の向こうに馬に乗っている武者の姿が見えた。どうやら先ほどから、こちらの様子を窺っていたようだ。
「そこもとは滝川殿のご家来衆か」
擦れた声が響く。
「そうじゃ!そういうお手前は遠山殿の使者と見えるが」
旅装束姿の侍が近寄って来た。奥美濃の苗木城主、遠山友忠が今回の調略に一役かっている。今回も遠山家の家臣に道案内を頼み、木曽福島城へ向かうことになっていた。
見ると、遠山家の家来と思しき人物は、思いのほか年を取り、ひょろひょろとした体つきの、いかにも頼りなさげな痩せ侍だ。
「なんじゃ、年寄な上に風が吹けば折れそうな体つきではないか」
「義太夫殿、シッ!聞こえまするぞ!」
助九郎が慌てて義太夫を制する。
聞こえていたようで、相手は馬を下りると笑って頭をさげた。
「遠山家の八木喜三郎にござる」
「わしは滝川義太夫。こっちは家人の助九郎じゃ」
両者は軽く挨拶を交わした。義太夫と助九郎は八木喜三郎と名乗った老人の後に続いて、木曽福島を目指す。
「滝川殿というは、これまでも数多の敵を懐柔し、味方に引き入れてきた謀将。此度はどのような秘策で、木曾を織田家に寝返らせるおつもりか、お聞かせいただきたく」
八木老人が興味深そうに言うと、義太夫はフンと笑って
「聞きたいか。わしの取って置きの秘策を」
「はい。是非」
「よかろう。冥土の土産に聞かせてやる」
義太夫がエヘンと咳払いする。
「わしはのう、わざわざ大和まで行き、こいつを仕入れてきたのじゃ」
義太夫は懐から懐紙に包まれた何かを取り出す。
「それは…もしや金子…?」
木曾をはじめ、武田の領内では皆、重い税に苦しみ、民の生活は脅かされている。それを知った一益が金子を送ってきたのかと思ったが、義太夫は首を横に振る。
「これは饅頭じゃ」
「饅頭?」
八木老人と助九郎が同時に声をあげた。
「いかにも。されど、これはただの饅頭ではない。大和の饅頭屋、饅頭屋宗二が拵えた、特別な饅頭、本饅頭じゃ」
大和の林宗二。通称、饅頭屋宗二。かつては松永久秀の庇護のもとに商いをしていた商人で、茶人でもあった久秀の求めに応じて饅頭を作っていた。饅頭屋としては初代の宗二は昨年、他界し、今は二代目宗二が跡を継いでいる。
「本饅頭とは?何か、まじないでもかけてあるので?」
「さにあらず。この本饅頭はとびっっきり美味い饅頭じゃ。中のこし餡は蜜づけされた大納言入り。包んでいる皮も、うすーーい皮で、一口食べただけで、口のこのあたりに、ほんわかと染み込み、五臓六腑に染みわたる。かようなものは早々口にできるものではない。ましてや相手は木曾の山猿。かような饅頭は食べたことがなかろう。これを食べれば、織田家には到底叶う筈もないと、舌を巻き、織田家に臣従するという算段じゃ」
「は…な、なるほど…それは確かに…」
とてもそうは思えなかったが、八木老人は義太夫の顔色を伺いながら、感慨深げに頷く。
そうこうしているうちに、木曽福島城に到着した。
「織田家重臣、滝川左近の家人の滝川義太夫でござる。まずは、木曾殿にこれを…」
城の広間に通された義太夫と八木老人は、木曾義昌に目通りが叶うと、恭しく懐紙に包んだ饅頭を指し出した。
「こ、これは…流石は滝川殿。我が家の懐事情をよう存じておられるようじゃ」
木曾義昌が差し出された包の大きさに言葉を失う。
懐紙に包まれたものが小判であれば、その大きさから相当な額になる。木曾義昌は、わざわざ一益が饅頭を送ってきたとは思っていない。明らかに勘違いしている様子だったが、義太夫はそれには気づかず、
「我が主人の心をお分かりいただけたか。これは織田の殿が、大手を振って木曾殿をお迎えしたいという気持ちの表れでござる。何卒、織田家にお味方いただきたく」
一息に述べると、木曾義昌が大きく頷く。
「返す返すも忝い。まっこと、丁度良いところに参られた。お心遣いいただいたように、戦さ続きの上に城の普請が重なり、民は餓え、城の兵糧も心もとなく、もはや我が領国は立ち行かぬ程にて。我が家から織田殿に使者を立てようかと思うていたところじゃ」
「話が早い。では、恭順の証として、どなたか御身内から人質を指しだされよ。その上で遠山殿と呼応して挙兵していただきますれば、こちらからも兵を送り込む手筈となっておりまする。岐阜の中将様はもとより、安土より右府様直々の御出馬もあるかと」
「承知した。では我が弟の上松蔵人を織田殿の元へ送りましょう」
木曾義昌は先ほどから、ちらちらと義太夫が前に置いたその包の膨らみを気にしている。遠目にも、相当な額の金子と思われた。
「にしても過分な手土産。まことに恐れ入りました。滝川殿にくれぐれもよしなにお伝えあれ」
これから始まる武田攻めに供えた軍資金だと思い込んでいる。
丁寧に礼を言われ、義太夫も上機嫌で、いやいや、これしき造作もない、と言葉を返す。
(これはわしが買い求めた饅頭じゃが、ここは殿に花をもたせるのも家人の役目じゃ)
話は思った以上にすんなりと進み、義太夫たちは一刻余りの滞在で木曽福島城をあとにした。
「さしものわしも、まさか饅頭を見ただけで臣従してくるとは思わなんだ。やはり大和の饅頭は違うのう」
「あれは…我らが行く前から内応を決めていたようにも見受けましたが…饅頭と気づいておらなんだような…」
その八木老人の声は小さすぎて義太夫には聞こえていない。
(饅頭はあれだけではない。持ち帰る分もちゃんと取っておるのじゃ。さて、これを誰と食べようか…)
懐紙の中から、ちゃっかり持ち帰る饅頭を抜いておいた。大和の饅頭屋宗二の貴重な饅頭。誰とともに食べるか、思案のしどころだ。
安土に戻った義太夫は、事の次第を信長に伝え、屋敷に戻った。屋敷には三九郎、津田秀重の他には姿が見えない。
「父上からの命により、皆、戦供えのために伊勢に戻った。わしももう間もなく伊勢へ戻るゆえ、義太夫は先に戻れ」
「ハハッ。では早々に…」
木曾義昌内通の知らせがいち早く届いていたようだ。仕方がなく、日野の忠三郎の元に向かった。
忠三郎は義太夫を見ると、なんだ義太夫か、と言いたげな顔をして迎えた。
「遠路、木曾から戻って来たというに、辛気臭い顔をしおってからに」
「然様か。それはすまなんだ。お役目ご苦労」
気のない返事をする。義太夫は少し詰まらなそうに口をへの字に曲げて
「腹具合でも悪いか?尤も、この取って置きの土産を見れば、立ちどころに機嫌もようなるわ」
ごそごそと懐から包みを出した。
「何じゃ。それは」
「大和の饅頭屋宗二の本饅頭じゃ」
「おぉ、林宗二の。饅頭屋の筆の抄物(参考書)が御爺様の書蔵に納めてある」
「饅頭の作り方か?」
義太夫が懐紙に包んだ饅頭を取り出し、忠三郎に渡す。忠三郎はそれを受け取ると、クスッと笑って
「源氏物語の抄物じゃ」
初代の林宗二は商人としては異例ながら古今伝授された歌人でもある。
忠三郎は手にした饅頭をぱくりと食べる。
「………これは…」
「美味いじゃろう」
義太夫が美味そうにむしゃむしゃ食べると、忠三郎は目をしばたたかせて
「饅頭屋から、この饅頭を買い求めたのは何時のことじゃ?」
「十日ほど前かのう」
皮が乾燥し、微妙な異臭がしたのは、そうした訳かと納得した。しかし義太夫は違和感なく食べ、平然としている。
「どこかに入れておいたものか?」
「おお。ずっと大切に、わしの懐に入れておいた」
木曾への行き帰り、ずっと義太夫の懐にあったという。
「大切に懐に…。然様か…」
忠三郎は覚悟を決め、残りの饅頭を一気に口に放り込み、ゴクリと飲み込む。
「刎頸の友であるおぬしと食すことにしたのじゃ。有難く思え」
早くも腹に違和感を覚えるのは、気のせいだろうか。忠三郎は義太夫の心遣いに笑顔を返しながらも、傍らに控える町野長門守に水を用意させて、ゴクリと飲み込み、胸につかえる饅頭を流し込む。
「古式ゆかしい蒲生忠三郎にしては、随分と豪快に食うのう」
「然様。わしも武人ゆえ…」
これは薬が必要だと思いつつ、かろうじて笑う。
「安土の屋敷には誰もおらぬ。章姫様すらおられず、留守を守っているのは、若殿とおぬしの妹の虎殿だけじゃ」
「章姫殿は京の暘谷庵に向かわれた」
忠三郎が町野長門守に差し出された薬を飲み込みながら言うと、義太夫は首を傾げて
「暘谷庵に?さては、鶴。振られたか」
「何を言うか。我らが武田攻めに向かい、安土を留守にすると聞いて、六郎殿がいる都に行きたいと、そう仰せられたのじゃ」
それも不思議ない話だ。まずは信忠が、続いて信長が出陣することになるが、信長が兵をあげるとなると、安土は留守部隊以外は誰もいなくなる。
「留守居はおぬしの父御か」
ここ数年、蒲生賢秀はほとんど合戦にでることがない。もっぱら安土の留守居を務めている。体の弱い賢秀の面目をたてるために、信長が留守を命じているようだ。
「上様御出馬ともなれば、わしも御供仕ることとなろう。それよりも松姫殿の件は如何なった?」
「新介が動いておる。あの狂人が邪魔立てしなければ、首尾よういくであろう」
あの狂人こと、森武蔵守長可、それと同じ程度の破壊力をもつ団平八郎忠正。先鋒を務めるであろうこの二人が暴走しなければ、松姫救出も問題ないと思われた。
「ではわしも伊勢に戻らねばならぬ。先に信濃へ行って待っておるぞ」
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