滝川家の人びと

卯花月影

文字の大きさ
上 下
74 / 128
14 伊賀の乱

14-3 やんごとなき草履

しおりを挟む
 南北朝時代から広まった猿楽。畿内ではかつて近江猿楽や摂津猿楽、伊勢猿楽などといった多くの流派が存在していたが、戦国期にはそのほとんどが廃れ、今は大和猿楽が主流となっている。
 近江猿楽の特徴は、大和猿楽にはない風情ある優美な舞事が組み入れられていることだ。特に天女舞と呼ばれる舞は、三代将軍義満に高く評価された。
  日野城下にある一座はこの近江猿楽の流れを組むが、その中の大夫の一人が大和結崎にある結崎座と縁があるという。
「これがやんごとなき草履とは」
 持たされた件の草履は鯖尾の草履と呼ばれている草履で、かかと部分に尻尾が生えたような形をしている。
「妙な形の草履じゃ」
「この草履の効能はどのようなもので?護符でありましょうか。もしや、呪術が施されておるとか」
 滝川助九郎が珍しそうに草履を覗き込む。
「なんじゃろうか。護符であれば、身につけておいたほうがよいのか」
 どんなご利益があるかまで聞いていない。
「履いてみるか」
 と足を乗せようとすると、助九郎があわてて留める。
「義太夫殿!やんごとなき草履になんたることを!神罰がくだりまするぞ」
 義太夫がエッと驚き、草履に乗せようとした足を引っ込める。
「履いて歩くと神罰がくだる草履とは…。なんとも恐ろしい。罠を仕掛けているようなものではないか。足の親指の先がすこーし、触れてしまったわい。では、懐にしまっておくか」
 と大事そうに草履を懐中に納めたので、助九郎が眉をへの字にして眼をしばたたせる。
「草履を懐に入れるのでござりまするか?」
「そうじゃ。上様お気に入りのあの猿顔の男がおるじゃろ。その昔は草履取りであったが、草履を懐に入れてご利益に預かり、大出世したというではないか。これはやんごとなき草履じゃ。懐で温めておけば、わしも一国一城の主になるやもしれぬ」
 猿顔の男とは羽柴秀吉のことだろう。秀吉が出世したのは草履のご利益ではなく、懐に入れたのが信長の草履だったからではなかったか。
(何かが違うておるような…)
 助九郎は首を傾げながら義太夫の後に続く。
 大和の国にある結崎一座にたどり着いた義太夫は、通された広間で噂の大夫を待ちながら、暇を持て余して首を左右に動かし、きょろきょろと周りを見回す。壁には多様な能面が飾ってあり、みな、こちらを睨んでいるように見える。
「あやつらは目つきが悪いのう」
 どうにも落ち着かない空間だ。
「あやつら?結崎一座の者のことで?」
 助九郎が、誰のことかと首を傾げると、義太夫はいやいや、とかぶりを振って
「壁に潜む者どもよ。これは護符がなければ呪い殺されるところであったわ。まこと有難き草履じゃ」
 ブルルと身震いして、懐の草履を胸に押し当てる。
「壁に潜む者?」
 ますます分からなくなった助九郎が怪訝な顔をして壁を見ていると、大倉五郎次と思しき老人がいそいそと広間に入って来た。
「滝川殿の使者と仰せられたな」
 老人とは思えないような張りのある声が広間に響く。流石は猿楽大夫、と感心した。
「いかにも。それがしは滝川左近の家の滝川義太夫と申す者。大倉殿に頼みたき儀がありまかり越した次第でござる」
 こうも容易く大倉五郎次に会わせてもらえるとは。これはやんごとなき草履のご利益かと内心驚きながら、
「此度の戦さも早、城ひとつ残すのみとなり申した。伊賀衆は皆、死を覚悟しておるが、我らはもはや、伊賀衆と戦さを続けたいとは思うておらぬ。伊賀と和睦致したく、大倉殿から伊賀の海野十郎に話をつけていただけぬであろうか」
「伊賀と和睦したいと?」
 大倉五郎次は小柄ながら威圧感がある。ただの大夫とも思えない。素破なのだろうか。
「いかにも。伊賀衆が城を明け渡し、伊賀から立ち退くのであれば、右府様(信長)もお許しくださるじゃろう」
「それはまた、なんとも身勝手な仰せ。そのような条件では伊賀衆も納得すまい」
 大倉五郎次は幾分立腹して咳払いする。その様子に不自然なものを感じて、何気なく周りを見ると、どこかで見たような霞がかった白い煙がたちこめてきた。
(香でもなし…なにやら見覚えがあるような…)
 目の前の大倉五郎次の姿が二重に見える。同じようなことが前にもあった。大和の寺で幻術にかけられたときだ。義太夫はハタと気づいて立ち上がろうとするが、すでに足が痺れて力が入らず、思わず前に手をついた。
「これは…幻術…。和睦の使者に対して術をかけるとは、何と無法な仕打ちをなさるのか」
 後ろに控える助九郎がどうなったか不安になり、振り返って見ると、こちらは早くも刃を突き付けられて武器を奪われている。
「これまで無法な仕打ちをしてきたは織田家じゃ。伊賀に害をなし、多くの罪なき民を殺めておきながら、身勝手な条件で和睦したいと言い出して無事で済むと思うておるのか」
 大倉五郎次が叱りつけるように言う。すんなりと出てきたと思っていたが、最初から条件次第で幻術にかけて義太夫を始末するつもりだったようだ。
「またもや幻術にかかるとは、口惜しや…」
 前に屈んだ義太夫の懐から、草履が床に落ちた。
(やんごとなき草履のご利益はどこへいったのじゃ)
 義太夫は草履の尻尾をうらめしげに見つめる。鯖尾の草履の尻尾がゆらゆらと揺らめいて見えた。
 義太夫を見下ろしていた大倉五郎次は、胸元から飛び出した草履に目をやり、
「それは鯖尾の草履。なんじゃ、その方、蒲生殿の使者か」
 と驚いて声をあげる。
「そうじゃ、これ、この通り」
 義太夫が震える手で草履を掲げると、大倉五郎次が慌てて手を叩き、締め切った広間の襖を開けさせた。
「草履を懐に入れるとは、なんとも奇妙な真似をなさる」
 義太夫が、エッ?と驚き、大倉五郎次を見上げる。五郎次は奇妙なものを見るような目で義太夫を見て、
「蒲生殿の使者なら、初めから申されい。蒲生殿には我ら一同、大変世話になっておる」
 態度が急変し、五郎次から殺気が消えた。
「ほぉ?蒲生忠三郎に?」
 外気が広間に入ってくると徐々に白い煙が薄れ、体の痺れが治まってきた。
「いかにも。日野で天女舞を舞う近江猿楽の大夫は、我が家の縁戚の娘でござる」
「なんと、日野の大夫が女子とは…」
「忠三郎殿が大夫の天女舞をお気に召し、毎年城に呼んでくだされておるゆえ、行く行くは側室にとお勧めしておりまする」
「猿楽大夫を側室に?」
 義太夫は大倉五郎次の話に内心驚きつつも、なるべく平静を装う。
(鶴のやつ、北の方に隠れてなんたることを…。待てよ。さては、あやつめ。やんごとなき草履などと申して、その実は)
『やんごとなき草履』ではなく、『やんごとなき女子が持ってくる草履』と、忠三郎はそういう意を含んで言ったのではないだろうか。つまり草履は蒲生家の使者であることの証。草履そのものにご利益があるわけではない。
 だとすると、草履を懐に入れるなどと、なんと間の抜けたことをしていたのか。
「これから親類となる蒲生殿の頼みとあらば無下にするわけにもいくまい。和睦の件は承知したとお伝えあれ」
 大倉五郎次が先ほどとは打って変わって、にこやかにそう言う。義太夫は丁寧に頭を下げ、もう一度、やんごとなき鯖尾の草履を見る。道中、大切に懐にしまっていた草履の尻尾が、義太夫を小馬鹿にしたようにピンと上を向いていた。
 
 大倉五郎次は約束通り、柏原城の城主、滝野十郎のもとへ行って和睦を勧めてくれた。その勧めを受けて伊賀衆が城を明け渡したのは九月十七日。滝野十郎は桜町中将城へ行って北畠信雄に拝謁し、伊賀の乱はようやく終わりを迎えた。
「流石、義太夫。見事に役目を果たしたのう」
 陣払いの命を出した忠三郎が、滝川陣営に現れる。
「のう、鶴。あの草履は、履くものではないのか?」
 ただの草履とは思っているが、念のため確認すると、忠三郎が目を丸くする。
「滝川家では…草履を履かずに何とする?頭に乗せるとでも?」
 恍けたことを言われ、義太夫はいやいやと首を横に振る。口が裂けても懐に入れていたなどと言いたくはない。
「献上された草履は、父上が祭りのときに履いておる」
「わしが持たされた草履も?」
「いかにも…。それが何か?」
 忠三郎に不思議そうに尋ねられ、義太夫は内心、臍を噛んだ。
(あの親父が履いた草履を、懐に入れて歩いていたとは…)
 最初から草履の謂れを聞いておけば、呪術にかけられることもなかったのだが。
 そんな義太夫の心の内を知らない忠三郎は、常のごとく明るく笑って、
「此度は義太夫の手柄。あの草履がそこまで気に入っておるのであれば、おぬしが持って帰れ。珍しい草履じゃ。北の方に見せるがよい」
「あの忌々しい草履を持ち帰る?」
 人を小ばかにしたように尻尾を上に向ける草履が思い起こされ、つい口を付いてしまった。
「忌々しい草履?とは?」
 忠三郎は何のことかと首を傾げる。義太夫は慌てて手を振り、
「い、いや、忌々…今今しがた、世話になったと思い返していた有難き草履、と言いたかったのじゃ。それは忝い。では大切に伊勢に持ち帰ろう」
 親切めいた忠三郎の余計な気遣いに、義太夫は顔を引きつらせた。
「時に、あの猿楽大夫の縁者とか申す女子。側室にするのか?」
 大倉五郎次の話を思い出して訊ねると、忠三郎がハテと首を傾げる。
「側室?わしが?」
「なんじゃ、違うのか。大倉は、早、蒲生家の親類のつもりでおるようじゃが」
 なにやら双方に認識の違いがあるようだ。
 そもそも側室を持つには正室の承認が必要になるが、吹雪が猿楽師の娘を側室にするなどと許すはずもない。案の定、忠三郎は軽く笑い飛ばした。
「されど、天女舞は一見の価値がある。次に城で能興行を催すときには義太夫も呼んでやろう。」
 蒲生家が親類になると思っていたからこそ、大倉五郎次はひと肌脱いでくれたのではないか。そんな猿楽一座の思いにも気づかず、人を食ったその言い様はまるで、義太夫を笑っていた、やんごとなき草履のようだ。すると、見慣れた忠三郎の顔が、あの不届きな草履に見えてきて、だんだん腹が立ってきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

大航海時代 日本語版

藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった――― 関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった ―――鎖国前夜の1631年 坂本龍馬に先駆けること200年以上前 東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン 『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

淡き河、流るるままに

糸冬
歴史・時代
天正八年(一五八〇年)、播磨国三木城において、二年近くに及んだ羽柴秀吉率いる織田勢の厳重な包囲の末、別所家は当主・別所長治の自刃により滅んだ。 その家臣と家族の多くが居場所を失い、他国へと流浪した。 時は流れて慶長五年(一六〇〇年)。 徳川家康が会津の上杉征伐に乗り出す不穏な情勢の中、淡河次郎は、讃岐国坂出にて、小さな寺の食客として逼塞していた。 彼の父は、淡河定範。かつて別所の重臣として、淡河城にて織田の軍勢を雌馬をけしかける奇策で退けて一矢報いた武勇の士である。 肩身の狭い暮らしを余儀なくされている次郎のもとに、「別所長治の遺児」を称する僧形の若者・別所源兵衛が姿を見せる。 福島正則の元に馳せ参じるという源兵衛に説かれ、次郎は武士として世に出る覚悟を固める。 別所家、そして淡河家の再興を賭けた、世に知られざる男たちの物語が動き出す。

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

処理中です...