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14 伊賀の乱
14-3 やんごとなき草履
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南北朝時代から広まった猿楽。畿内ではかつて近江猿楽や摂津猿楽、伊勢猿楽などといった多くの流派が存在していたが、戦国期にはそのほとんどが廃れ、今は大和猿楽が主流となっている。
近江猿楽の特徴は、大和猿楽にはない風情ある優美な舞事が組み入れられていることだ。特に天女舞と呼ばれる舞は、三代将軍義満に高く評価された。
日野城下にある一座はこの近江猿楽の流れを組むが、その中の大夫の一人が大和結崎にある結崎座と縁があるという。
「これがやんごとなき草履とは」
持たされた件の草履は鯖尾の草履と呼ばれている草履で、かかと部分に尻尾が生えたような形をしている。
「妙な形の草履じゃ」
「この草履の効能はどのようなもので?護符でありましょうか。もしや、呪術が施されておるとか」
滝川助九郎が珍しそうに草履を覗き込む。
「なんじゃろうか。護符であれば、身につけておいたほうがよいのか」
どんなご利益があるかまで聞いていない。
「履いてみるか」
と足を乗せようとすると、助九郎があわてて留める。
「義太夫殿!やんごとなき草履になんたることを!神罰がくだりまするぞ」
義太夫がエッと驚き、草履に乗せようとした足を引っ込める。
「履いて歩くと神罰がくだる草履とは…。なんとも恐ろしい。罠を仕掛けているようなものではないか。足の親指の先がすこーし、触れてしまったわい。では、懐にしまっておくか」
と大事そうに草履を懐中に納めたので、助九郎が眉をへの字にして眼をしばたたせる。
「草履を懐に入れるのでござりまするか?」
「そうじゃ。上様お気に入りのあの猿顔の男がおるじゃろ。その昔は草履取りであったが、草履を懐に入れてご利益に預かり、大出世したというではないか。これはやんごとなき草履じゃ。懐で温めておけば、わしも一国一城の主になるやもしれぬ」
猿顔の男とは羽柴秀吉のことだろう。秀吉が出世したのは草履のご利益ではなく、懐に入れたのが信長の草履だったからではなかったか。
(何かが違うておるような…)
助九郎は首を傾げながら義太夫の後に続く。
大和の国にある結崎一座にたどり着いた義太夫は、通された広間で噂の大夫を待ちながら、暇を持て余して首を左右に動かし、きょろきょろと周りを見回す。壁には多様な能面が飾ってあり、みな、こちらを睨んでいるように見える。
「あやつらは目つきが悪いのう」
どうにも落ち着かない空間だ。
「あやつら?結崎一座の者のことで?」
助九郎が、誰のことかと首を傾げると、義太夫はいやいや、とかぶりを振って
「壁に潜む者どもよ。これは護符がなければ呪い殺されるところであったわ。まこと有難き草履じゃ」
ブルルと身震いして、懐の草履を胸に押し当てる。
「壁に潜む者?」
ますます分からなくなった助九郎が怪訝な顔をして壁を見ていると、大倉五郎次と思しき老人がいそいそと広間に入って来た。
「滝川殿の使者と仰せられたな」
老人とは思えないような張りのある声が広間に響く。流石は猿楽大夫、と感心した。
「いかにも。それがしは滝川左近の家の滝川義太夫と申す者。大倉殿に頼みたき儀がありまかり越した次第でござる」
こうも容易く大倉五郎次に会わせてもらえるとは。これはやんごとなき草履のご利益かと内心驚きながら、
「此度の戦さも早、城ひとつ残すのみとなり申した。伊賀衆は皆、死を覚悟しておるが、我らはもはや、伊賀衆と戦さを続けたいとは思うておらぬ。伊賀と和睦致したく、大倉殿から伊賀の海野十郎に話をつけていただけぬであろうか」
「伊賀と和睦したいと?」
大倉五郎次は小柄ながら威圧感がある。ただの大夫とも思えない。素破なのだろうか。
「いかにも。伊賀衆が城を明け渡し、伊賀から立ち退くのであれば、右府様(信長)もお許しくださるじゃろう」
「それはまた、なんとも身勝手な仰せ。そのような条件では伊賀衆も納得すまい」
大倉五郎次は幾分立腹して咳払いする。その様子に不自然なものを感じて、何気なく周りを見ると、どこかで見たような霞がかった白い煙がたちこめてきた。
(香でもなし…なにやら見覚えがあるような…)
目の前の大倉五郎次の姿が二重に見える。同じようなことが前にもあった。大和の寺で幻術にかけられたときだ。義太夫はハタと気づいて立ち上がろうとするが、すでに足が痺れて力が入らず、思わず前に手をついた。
「これは…幻術…。和睦の使者に対して術をかけるとは、何と無法な仕打ちをなさるのか」
後ろに控える助九郎がどうなったか不安になり、振り返って見ると、こちらは早くも刃を突き付けられて武器を奪われている。
「これまで無法な仕打ちをしてきたは織田家じゃ。伊賀に害をなし、多くの罪なき民を殺めておきながら、身勝手な条件で和睦したいと言い出して無事で済むと思うておるのか」
大倉五郎次が叱りつけるように言う。すんなりと出てきたと思っていたが、最初から条件次第で幻術にかけて義太夫を始末するつもりだったようだ。
「またもや幻術にかかるとは、口惜しや…」
前に屈んだ義太夫の懐から、草履が床に落ちた。
(やんごとなき草履のご利益はどこへいったのじゃ)
義太夫は草履の尻尾をうらめしげに見つめる。鯖尾の草履の尻尾がゆらゆらと揺らめいて見えた。
義太夫を見下ろしていた大倉五郎次は、胸元から飛び出した草履に目をやり、
「それは鯖尾の草履。なんじゃ、その方、蒲生殿の使者か」
と驚いて声をあげる。
「そうじゃ、これ、この通り」
義太夫が震える手で草履を掲げると、大倉五郎次が慌てて手を叩き、締め切った広間の襖を開けさせた。
「草履を懐に入れるとは、なんとも奇妙な真似をなさる」
義太夫が、エッ?と驚き、大倉五郎次を見上げる。五郎次は奇妙なものを見るような目で義太夫を見て、
「蒲生殿の使者なら、初めから申されい。蒲生殿には我ら一同、大変世話になっておる」
態度が急変し、五郎次から殺気が消えた。
「ほぉ?蒲生忠三郎に?」
外気が広間に入ってくると徐々に白い煙が薄れ、体の痺れが治まってきた。
「いかにも。日野で天女舞を舞う近江猿楽の大夫は、我が家の縁戚の娘でござる」
「なんと、日野の大夫が女子とは…」
「忠三郎殿が大夫の天女舞をお気に召し、毎年城に呼んでくだされておるゆえ、行く行くは側室にとお勧めしておりまする」
「猿楽大夫を側室に?」
義太夫は大倉五郎次の話に内心驚きつつも、なるべく平静を装う。
(鶴のやつ、北の方に隠れてなんたることを…。待てよ。さては、あやつめ。やんごとなき草履などと申して、その実は)
『やんごとなき草履』ではなく、『やんごとなき女子が持ってくる草履』と、忠三郎はそういう意を含んで言ったのではないだろうか。つまり草履は蒲生家の使者であることの証。草履そのものにご利益があるわけではない。
だとすると、草履を懐に入れるなどと、なんと間の抜けたことをしていたのか。
「これから親類となる蒲生殿の頼みとあらば無下にするわけにもいくまい。和睦の件は承知したとお伝えあれ」
大倉五郎次が先ほどとは打って変わって、にこやかにそう言う。義太夫は丁寧に頭を下げ、もう一度、やんごとなき鯖尾の草履を見る。道中、大切に懐にしまっていた草履の尻尾が、義太夫を小馬鹿にしたようにピンと上を向いていた。
大倉五郎次は約束通り、柏原城の城主、滝野十郎のもとへ行って和睦を勧めてくれた。その勧めを受けて伊賀衆が城を明け渡したのは九月十七日。滝野十郎は桜町中将城へ行って北畠信雄に拝謁し、伊賀の乱はようやく終わりを迎えた。
「流石、義太夫。見事に役目を果たしたのう」
陣払いの命を出した忠三郎が、滝川陣営に現れる。
「のう、鶴。あの草履は、履くものではないのか?」
ただの草履とは思っているが、念のため確認すると、忠三郎が目を丸くする。
「滝川家では…草履を履かずに何とする?頭に乗せるとでも?」
恍けたことを言われ、義太夫はいやいやと首を横に振る。口が裂けても懐に入れていたなどと言いたくはない。
「献上された草履は、父上が祭りのときに履いておる」
「わしが持たされた草履も?」
「いかにも…。それが何か?」
忠三郎に不思議そうに尋ねられ、義太夫は内心、臍を噛んだ。
(あの親父が履いた草履を、懐に入れて歩いていたとは…)
最初から草履の謂れを聞いておけば、呪術にかけられることもなかったのだが。
そんな義太夫の心の内を知らない忠三郎は、常のごとく明るく笑って、
「此度は義太夫の手柄。あの草履がそこまで気に入っておるのであれば、おぬしが持って帰れ。珍しい草履じゃ。北の方に見せるがよい」
「あの忌々しい草履を持ち帰る?」
人を小ばかにしたように尻尾を上に向ける草履が思い起こされ、つい口を付いてしまった。
「忌々しい草履?とは?」
忠三郎は何のことかと首を傾げる。義太夫は慌てて手を振り、
「い、いや、忌々…今今しがた、世話になったと思い返していた有難き草履、と言いたかったのじゃ。それは忝い。では大切に伊勢に持ち帰ろう」
親切めいた忠三郎の余計な気遣いに、義太夫は顔を引きつらせた。
「時に、あの猿楽大夫の縁者とか申す女子。側室にするのか?」
大倉五郎次の話を思い出して訊ねると、忠三郎がハテと首を傾げる。
「側室?わしが?」
「なんじゃ、違うのか。大倉は、早、蒲生家の親類のつもりでおるようじゃが」
なにやら双方に認識の違いがあるようだ。
そもそも側室を持つには正室の承認が必要になるが、吹雪が猿楽師の娘を側室にするなどと許すはずもない。案の定、忠三郎は軽く笑い飛ばした。
「されど、天女舞は一見の価値がある。次に城で能興行を催すときには義太夫も呼んでやろう。」
蒲生家が親類になると思っていたからこそ、大倉五郎次はひと肌脱いでくれたのではないか。そんな猿楽一座の思いにも気づかず、人を食ったその言い様はまるで、義太夫を笑っていた、やんごとなき草履のようだ。すると、見慣れた忠三郎の顔が、あの不届きな草履に見えてきて、だんだん腹が立ってきた。
近江猿楽の特徴は、大和猿楽にはない風情ある優美な舞事が組み入れられていることだ。特に天女舞と呼ばれる舞は、三代将軍義満に高く評価された。
日野城下にある一座はこの近江猿楽の流れを組むが、その中の大夫の一人が大和結崎にある結崎座と縁があるという。
「これがやんごとなき草履とは」
持たされた件の草履は鯖尾の草履と呼ばれている草履で、かかと部分に尻尾が生えたような形をしている。
「妙な形の草履じゃ」
「この草履の効能はどのようなもので?護符でありましょうか。もしや、呪術が施されておるとか」
滝川助九郎が珍しそうに草履を覗き込む。
「なんじゃろうか。護符であれば、身につけておいたほうがよいのか」
どんなご利益があるかまで聞いていない。
「履いてみるか」
と足を乗せようとすると、助九郎があわてて留める。
「義太夫殿!やんごとなき草履になんたることを!神罰がくだりまするぞ」
義太夫がエッと驚き、草履に乗せようとした足を引っ込める。
「履いて歩くと神罰がくだる草履とは…。なんとも恐ろしい。罠を仕掛けているようなものではないか。足の親指の先がすこーし、触れてしまったわい。では、懐にしまっておくか」
と大事そうに草履を懐中に納めたので、助九郎が眉をへの字にして眼をしばたたせる。
「草履を懐に入れるのでござりまするか?」
「そうじゃ。上様お気に入りのあの猿顔の男がおるじゃろ。その昔は草履取りであったが、草履を懐に入れてご利益に預かり、大出世したというではないか。これはやんごとなき草履じゃ。懐で温めておけば、わしも一国一城の主になるやもしれぬ」
猿顔の男とは羽柴秀吉のことだろう。秀吉が出世したのは草履のご利益ではなく、懐に入れたのが信長の草履だったからではなかったか。
(何かが違うておるような…)
助九郎は首を傾げながら義太夫の後に続く。
大和の国にある結崎一座にたどり着いた義太夫は、通された広間で噂の大夫を待ちながら、暇を持て余して首を左右に動かし、きょろきょろと周りを見回す。壁には多様な能面が飾ってあり、みな、こちらを睨んでいるように見える。
「あやつらは目つきが悪いのう」
どうにも落ち着かない空間だ。
「あやつら?結崎一座の者のことで?」
助九郎が、誰のことかと首を傾げると、義太夫はいやいや、とかぶりを振って
「壁に潜む者どもよ。これは護符がなければ呪い殺されるところであったわ。まこと有難き草履じゃ」
ブルルと身震いして、懐の草履を胸に押し当てる。
「壁に潜む者?」
ますます分からなくなった助九郎が怪訝な顔をして壁を見ていると、大倉五郎次と思しき老人がいそいそと広間に入って来た。
「滝川殿の使者と仰せられたな」
老人とは思えないような張りのある声が広間に響く。流石は猿楽大夫、と感心した。
「いかにも。それがしは滝川左近の家の滝川義太夫と申す者。大倉殿に頼みたき儀がありまかり越した次第でござる」
こうも容易く大倉五郎次に会わせてもらえるとは。これはやんごとなき草履のご利益かと内心驚きながら、
「此度の戦さも早、城ひとつ残すのみとなり申した。伊賀衆は皆、死を覚悟しておるが、我らはもはや、伊賀衆と戦さを続けたいとは思うておらぬ。伊賀と和睦致したく、大倉殿から伊賀の海野十郎に話をつけていただけぬであろうか」
「伊賀と和睦したいと?」
大倉五郎次は小柄ながら威圧感がある。ただの大夫とも思えない。素破なのだろうか。
「いかにも。伊賀衆が城を明け渡し、伊賀から立ち退くのであれば、右府様(信長)もお許しくださるじゃろう」
「それはまた、なんとも身勝手な仰せ。そのような条件では伊賀衆も納得すまい」
大倉五郎次は幾分立腹して咳払いする。その様子に不自然なものを感じて、何気なく周りを見ると、どこかで見たような霞がかった白い煙がたちこめてきた。
(香でもなし…なにやら見覚えがあるような…)
目の前の大倉五郎次の姿が二重に見える。同じようなことが前にもあった。大和の寺で幻術にかけられたときだ。義太夫はハタと気づいて立ち上がろうとするが、すでに足が痺れて力が入らず、思わず前に手をついた。
「これは…幻術…。和睦の使者に対して術をかけるとは、何と無法な仕打ちをなさるのか」
後ろに控える助九郎がどうなったか不安になり、振り返って見ると、こちらは早くも刃を突き付けられて武器を奪われている。
「これまで無法な仕打ちをしてきたは織田家じゃ。伊賀に害をなし、多くの罪なき民を殺めておきながら、身勝手な条件で和睦したいと言い出して無事で済むと思うておるのか」
大倉五郎次が叱りつけるように言う。すんなりと出てきたと思っていたが、最初から条件次第で幻術にかけて義太夫を始末するつもりだったようだ。
「またもや幻術にかかるとは、口惜しや…」
前に屈んだ義太夫の懐から、草履が床に落ちた。
(やんごとなき草履のご利益はどこへいったのじゃ)
義太夫は草履の尻尾をうらめしげに見つめる。鯖尾の草履の尻尾がゆらゆらと揺らめいて見えた。
義太夫を見下ろしていた大倉五郎次は、胸元から飛び出した草履に目をやり、
「それは鯖尾の草履。なんじゃ、その方、蒲生殿の使者か」
と驚いて声をあげる。
「そうじゃ、これ、この通り」
義太夫が震える手で草履を掲げると、大倉五郎次が慌てて手を叩き、締め切った広間の襖を開けさせた。
「草履を懐に入れるとは、なんとも奇妙な真似をなさる」
義太夫が、エッ?と驚き、大倉五郎次を見上げる。五郎次は奇妙なものを見るような目で義太夫を見て、
「蒲生殿の使者なら、初めから申されい。蒲生殿には我ら一同、大変世話になっておる」
態度が急変し、五郎次から殺気が消えた。
「ほぉ?蒲生忠三郎に?」
外気が広間に入ってくると徐々に白い煙が薄れ、体の痺れが治まってきた。
「いかにも。日野で天女舞を舞う近江猿楽の大夫は、我が家の縁戚の娘でござる」
「なんと、日野の大夫が女子とは…」
「忠三郎殿が大夫の天女舞をお気に召し、毎年城に呼んでくだされておるゆえ、行く行くは側室にとお勧めしておりまする」
「猿楽大夫を側室に?」
義太夫は大倉五郎次の話に内心驚きつつも、なるべく平静を装う。
(鶴のやつ、北の方に隠れてなんたることを…。待てよ。さては、あやつめ。やんごとなき草履などと申して、その実は)
『やんごとなき草履』ではなく、『やんごとなき女子が持ってくる草履』と、忠三郎はそういう意を含んで言ったのではないだろうか。つまり草履は蒲生家の使者であることの証。草履そのものにご利益があるわけではない。
だとすると、草履を懐に入れるなどと、なんと間の抜けたことをしていたのか。
「これから親類となる蒲生殿の頼みとあらば無下にするわけにもいくまい。和睦の件は承知したとお伝えあれ」
大倉五郎次が先ほどとは打って変わって、にこやかにそう言う。義太夫は丁寧に頭を下げ、もう一度、やんごとなき鯖尾の草履を見る。道中、大切に懐にしまっていた草履の尻尾が、義太夫を小馬鹿にしたようにピンと上を向いていた。
大倉五郎次は約束通り、柏原城の城主、滝野十郎のもとへ行って和睦を勧めてくれた。その勧めを受けて伊賀衆が城を明け渡したのは九月十七日。滝野十郎は桜町中将城へ行って北畠信雄に拝謁し、伊賀の乱はようやく終わりを迎えた。
「流石、義太夫。見事に役目を果たしたのう」
陣払いの命を出した忠三郎が、滝川陣営に現れる。
「のう、鶴。あの草履は、履くものではないのか?」
ただの草履とは思っているが、念のため確認すると、忠三郎が目を丸くする。
「滝川家では…草履を履かずに何とする?頭に乗せるとでも?」
恍けたことを言われ、義太夫はいやいやと首を横に振る。口が裂けても懐に入れていたなどと言いたくはない。
「献上された草履は、父上が祭りのときに履いておる」
「わしが持たされた草履も?」
「いかにも…。それが何か?」
忠三郎に不思議そうに尋ねられ、義太夫は内心、臍を噛んだ。
(あの親父が履いた草履を、懐に入れて歩いていたとは…)
最初から草履の謂れを聞いておけば、呪術にかけられることもなかったのだが。
そんな義太夫の心の内を知らない忠三郎は、常のごとく明るく笑って、
「此度は義太夫の手柄。あの草履がそこまで気に入っておるのであれば、おぬしが持って帰れ。珍しい草履じゃ。北の方に見せるがよい」
「あの忌々しい草履を持ち帰る?」
人を小ばかにしたように尻尾を上に向ける草履が思い起こされ、つい口を付いてしまった。
「忌々しい草履?とは?」
忠三郎は何のことかと首を傾げる。義太夫は慌てて手を振り、
「い、いや、忌々…今今しがた、世話になったと思い返していた有難き草履、と言いたかったのじゃ。それは忝い。では大切に伊勢に持ち帰ろう」
親切めいた忠三郎の余計な気遣いに、義太夫は顔を引きつらせた。
「時に、あの猿楽大夫の縁者とか申す女子。側室にするのか?」
大倉五郎次の話を思い出して訊ねると、忠三郎がハテと首を傾げる。
「側室?わしが?」
「なんじゃ、違うのか。大倉は、早、蒲生家の親類のつもりでおるようじゃが」
なにやら双方に認識の違いがあるようだ。
そもそも側室を持つには正室の承認が必要になるが、吹雪が猿楽師の娘を側室にするなどと許すはずもない。案の定、忠三郎は軽く笑い飛ばした。
「されど、天女舞は一見の価値がある。次に城で能興行を催すときには義太夫も呼んでやろう。」
蒲生家が親類になると思っていたからこそ、大倉五郎次はひと肌脱いでくれたのではないか。そんな猿楽一座の思いにも気づかず、人を食ったその言い様はまるで、義太夫を笑っていた、やんごとなき草履のようだ。すると、見慣れた忠三郎の顔が、あの不届きな草履に見えてきて、だんだん腹が立ってきた。
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