滝川家の人びと

卯花月影

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14 伊賀の乱

14-1 何方より来たりて、何方へか去る

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天つ正しき九の年。九月になり近江、伊勢、大和の諸将が安土城大広間に集められた。
信長は居並ぶ諸将を見渡し、命を下す。
「かねて伊賀の凶徒共は余の天下布武の大志を妨げたるばかりか、常々より驕奢を極め無道の沙汰を改めぬ振舞は誠に奇怪至極である。よってその方らに伊賀征伐の命を下す」
 皆がハハッと平伏すると、信長は伝家の名刀「藤四郎」の短剣を手に取り、総大将、北畠信雄に授けた。
 伊賀勢はどう集めても五千程度と思われた。対して寄せ手は総勢五万。六ケ所から伊賀へ向けて攻め入る。
 評定を終え、広間を出た忠三郎は、従兄の美濃部茂盛に声を掛けられた。
「鶴」
「おぉ、木猿。そうか、その方も出陣命令が下っておったか」
 広間での席次は家格で決まる。織田家の親戚である忠三郎は宿老の滝川一益、丹羽長秀のすぐ後ろに座っている。このため、広間の後方にいた美濃部茂盛には気づかなかったようだ。美濃部茂盛は苦笑して
「そなたと違い、我らは同じ広間に同席しているというても、後ろの後ろにおるからのう。気づかなくても無理はないか。千代寿と孫四郎にも気づかなかったか」
 気づいていなかったようだ。忠三郎が少し驚いている。
「相変わらず、ほけぇとしておるのう。その方も玉滝口から伊賀入りであろう」
「木猿もか」
 蒲生勢の行軍上に木猿こと美濃部茂盛が治める領地があったことを思い出した。
「では、供に参ろう。戦場を共にするのは初めてじゃな」
「そうじゃ。千代寿と孫四郎は堀殿と同じ多羅尾口じゃ」
 多羅尾口からは忠三郎の天敵、堀久太郎と従弟の青地四郎左、池田孫四郎が伊賀に攻め入る。
「では負けられぬな」
「蒲生忠三郎は、戦場では常に先駆けと聞き及んだ。此度も先駆けいたすのであろう?」
 美濃部茂盛が興味深そうに尋ねると忠三郎は嬉しそうに笑う。
「無論、先駆けじゃ。見ておれ、此度もわしが一番手柄をいただく」
 自信満々にそう答えると、信長近臣の矢部家定に呼ばれて、ふらふらと行ってしまった。その後ろ姿を見守っていると、青地四郎左、池田孫四郎の二人が美濃部茂盛に近づいてきた。
「鶴のやつ、また一人で敵中に走っていくつもりじゃろう」
「己一人は勇猛果敢と思うておるが、皆、陰では軽き大将とささやいておる」
 二人がひそひそと話すと、美濃部茂盛は嗜めるように言う。
「そう申すな。あれでも我らの従弟。上様の娘婿じゃ」
「運が良いだけではないか」
 池田孫四郎が吐き捨てるようにそう言う。
「同じ広間に我らがいたことにさえ気づかぬ様子であったな」
 忠三郎のそういうところが嫌いだ。忠三郎自身にそのつもりはなくとも、織田家の縁者であることを鼻にかけた態度に見える。
「運だけで生き延びられる程、この戦国の世は甘くない。此度の戦でそのことがよう分かるじゃろうて」
 青地四郎左が言うと、池田孫四郎も深く頷いた。
 
 安土城下の屋敷に帰った一益は、出陣の準備をするため、義太夫を伴って伊勢に戻ろうとしていた。そこへ蒲生忠三郎が現れる。
「義兄上、いよいよでござりますな」
 久方ぶりの大掛かりな戦さになる。忠三郎の肩には必要以上に力が入っているようだった。
「鶴。そなたは玉滝口から伊賀入りする手筈。我らは中勢の峯城から柘植口を目指して伊賀入りする。よいか。伊賀者を決して侮るな。わしが行くまで比自山城には手出しをせずに待て」
 物見の報告では、伊賀勢の主力は比自山城に三千五百、その先の平楽寺に千五百が立てこもっている。甲伊一国と呼ばれ、山一つ隔てて向こう側にある甲賀の一部の者たちも、比自山城にいると思われた。
「委細承知。決して手出しは致しませぬ」
 忠三郎は理解しているのか、していないのか、よくわからない笑顔で答える。
(まことに承知しておるだろうか)
 しかも久太郎と同じ多羅尾口から攻め入る軍勢の中には、忠三郎の従弟たちも含まれている。久太郎は忠三郎と違って分別があるので、本隊の到着を待たずに攻めかかるようなことはしないとは思うが、若い二人が功を競い合うような場面になると話は変わってくる。傍にいる町野長門守と滝川助太郎では忠三郎を止めることはできないだろう。
「鶴、これまでと同じと思うておると、痛い目を見よう。ひとりで飛び出していくような阿呆な真似をせぬことじゃ」
 義太夫に言われ、忠三郎は笑って、
「阿呆とは如何に。どのような戦場であれ、敵を恐れ、臆病者のそしりを受けるわけにはいかぬ」
 胸を張ってそう言う姿を見ていると、どうも、分かっているようには思えない。義太夫がやれやれと苦笑いして一益を見る。忠三郎はそんな義太夫をちらりと垣間見て、
「伊賀で懸念されることとは?他の土地での戦さとの違いを教えてくだされ」
「妙な呪術と、夜討ち朝駆け。木の上、木の裏、木の葉の下まで用心せい。数の上では我らは敵の十倍。正攻法で勝つことができぬことは伊賀者どももよう存じておろう。それゆえ、必ず奇襲を仕掛けてくる。決して油断するな。心して参れ」
 忠三郎が幾分緊張した面持ちで頷く。
「多羅尾殿はぎりぎりまで和睦交渉していたとか」
 多羅尾作兵衛は以前から交流のあった伊賀衆に何度となく織田家との和睦を勧めていた。しかし伊賀の強硬派は作兵衛の心配をよそに、織田家の柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀といった面々がそれぞれ敵を抱えている中で、信長が攻め寄せるはずがないと一笑して退けたらしい。作兵衛と和睦派がなんとか歩み寄る道はないかと模索している裏で、戦準備を進めていたようだ。
「全ては徒労に終わった。もはや伊賀一国を焦土とする以外に道はない」
「伊賀一国を焦土に…」
 一益は最初から焼き尽くすつもりなのだろうか。
「義兄上は火をかけて進むおつもりで?」
「伊賀衆を甘く見るな。他に方法はない」
 戸惑う忠三郎を尻目に、一益が足早に姿を消す。一益の去ったあとも、どういうことかと考えている忠三郎に、義太夫が声をかける。
「伊賀ではのう、女子供まで隠れた場所から弓・鉄砲で襲ってくる。相手が百姓だろうが鹿だろうが、ともかく動くものは全て討ち果たせ。つまらぬ手心を加えれば、こちらが首を捕られることとなろう」
 非戦闘員まで倒せと言われ、忠三郎は戸惑いを隠せない。
「かようなことは…」
「そなたは甘いのう。心して掛からねば、味方の損害が増えよう。まぁ、よいわ。伊賀に入ればわかること。比自山城で待っておれ」
 義太夫が笑うと、忠三郎はなおも腑に落ちぬ様子で頷いた。
 
 長島に戻った一益は、家臣たちを集めて陣触れを出し、日永興正寺で兵が集まるのを待った。
「我らはまた三千騎で」
 最近の一益はどこにいくにも三千騎しか連れて行かない。
「あとの兵は後方へ回しておる」
 この三千騎は精鋭部隊で、日ごろから訓練している。訓練していない兵をどれほど集めても、意味がないと考えているようだ。包囲殲滅は戦術の基本であるが、三千騎では敵の包囲殲滅はできない。陣容に密集性が薄くなるのが包囲戦の弱点で、どこかが手薄になり、一点でも突破されれば、いつ側面や背後から攻撃されて挟み撃ちになるかわからない危険性をはらんでいる。このため一益は長期戦以外では包囲戦は行わず、動きが緩慢になる大軍勢は好まない。
「山に入れば隊列が伸びる。多少開けた場所へ着くまでは油断するな」
「ハッ、すでに準備万端整っておりまする」
 敵の刀を奪う手甲鉤、吹き矢、分銅形のつぶて、石垣を登るための手鉤、万能鎖、手裏剣、そして鉄砲、大鉄砲、飛火炬。
「火付の準備も万端にて」
 一益は頷き、兵が集まって来たのを見て出陣した。
 中勢の峯城で丹羽長秀の軍勢が来るのを待ち、伊賀へ向かう。道案内は福地宗隆だ。
「佐治殿はご無事でしたか」
 佐治新介奪還のために骨折りしてくれた福地宗隆が馬を寄せてきて尋ねる。
「福地殿には大変世話になった。新介は北伊勢へ戻り、養生しておる」
 佐治新介は丹中毒で手足が震え、思うままに動かすことができず、馬に乗ることもできなかった。仕方がなく、丹生鉱山から長島まで、皆で代わる代わるおぶって連れ帰った。今は桑名で処方された薬を飲みながら療養している。
「それはようござりました。この先は伊賀者が多く現れましょう。どうかお気をつけて」
 柘植口から伊賀入りすると福地宗隆の居城、福地城へ入った。隊列を整えた後、さらに先へ進むと段々と山が深くなり、道が狭く、一騎ずつしか進めなくなった。
「殿!」
 助九郎の声が響いて、目の前を矢がかすめる。危うく避けると怪し気な煙がたなびいてきた。
「あの木の影じゃ!銃弾の雨を降らせよ!」
 辺りに銃声が響き、数人が倒れるのが見えた瞬間、土の中から新手が飛び上がり、襲い掛かって来た。一益は手にした槍で、馬の目の前まで迫った素破を突き崩す。
「砦が近いと見た。敵が沸いてくる方角じゃ」
 義太夫が大鉄砲で群がる敵を吹き飛ばす。
「殿!あの向こうに砦が」
 小さな丘の上に立っているのは伊賀、柏野城。上柘植、下柘植から地侍たちが集まっている。前回の伊賀攻めでは落とすことができなかった。
「あの愚か者どもは此度も城を守り切れると思うておる。砦の風下から火を放ち、滝川勢の恐ろしさを見せてやれ」
 何人かが城内に乗り込み、櫓に火を放ち、城の外からも飛火炬で火を射掛けると、またたくまに城のあちこちで炎上をはじめた。城内は混乱に陥り、兵が落ち延びていく様子が見える。
「殿、追いまするか」
「いや、ひとところに集めたほうが早い。今は追うな」
 城が落ちるのを見届け、伊賀衆の評定所と言われている土橋の長橋寺まできた。ここは福地氏の祈願寺で、伊賀の鉄砲演習所らしい。
「柏野城では余すところなく火がかけられておりましたな。孫子にも火を以て攻を佐くる者は明なりとあり申す。まこと見事な火攻め。左近殿にしかなせぬ業にて」
 丹羽長秀が現れてそう言う。火攻めは火をつける時と場所を選ばなければ効果はない。孫子は明晰な頭脳や智恵がなければなしえないと説いている。
「五郎左。これなる長橋寺はこの軍勢をもってすれば難なく落とせるはずじゃ」
「では早速、攻めかかると致しましょう」
 丹羽長秀の軍勢とあわせて約一万二千。大鉄砲を撃ち込んで壁を打ち壊し、飛び出してきた兵を鉄砲隊で次々に倒す。半日あまりで勝敗は喫した。
「いまだ寺にこもっている兵がおりまする」
「降伏を促し、寺から出て来ぬ場合は焼き払え」
「ハハッ」
 ここまで徹底した火攻めは長島以来となる。本来、戦さは手段であって目的ではない。孫子は戦果を生かせない戦さを戒めている。しかし今回の目的はわずか十万石程度の、耕作地の少ない伊賀の国ではなく、そこにいる伊賀衆の殲滅だ。先年の合戦で織田家の顔に泥を塗ったこともあるが、信長に刺客を送ったことで伊賀の命運は決まったといってもいい。今回は最初からなで斬りを命じられている。
(味方の損害を最小限に抑えるためには火攻めしかない)
 伽藍から火の手があがったのを確認すると、次の目的地、霊山に向かい、山頂にある霊山寺に火をかけて次へと進んだ。
 馬を歩ませていると、左右に広がる林の中に、土地の者と思われる死体が散見する。よくよく見ると、老人であったり、年端も行かぬ子どもであったり、およそ戦さとは無関係な者もいるようだ。
「老人、子供であっても武器を手にする者が多いと、これもまた避けられぬものでござりますな」
 義太夫が手を合わせながら前を進む。
 更に山深くまで行くと、丹羽勢とともに伊賀の猛者と呼ばれる将たちが籠る壬生野城まで来た。激戦が予想されたため、丹羽勢を正面に置き、滝川勢は敵の側面に回り込んで陣を張る。
「少し時をかけねば落ちぬじゃろう。玉滝口からきている鶴に使いを出し、比自山城を遠巻きにして少し待てと伝えよ」
 大人しく待っているかどうか、懸念されたが伝令を出して蒲生勢を待たせることにした。
 
 玉滝口から伊賀入りした蒲生勢は玉滝寺に陣を張り、集まった諸将と軍議を開いた後、雨乞山の山頂にある雨請山城に向かった。この雨乞山は伊賀の民が日照りの時に集まり、雨乞をしている山だという。
「伊賀勢は大勢集まっておるのじゃろうか」
 蒲生勢の前を行くのは従兄の美濃部茂盛。その先を見ても城は見えない。
 用心しながら進むと、にわかに前の軍勢が浮足立つのが見えた。
「何事!」
 馬を走らせ、美濃部茂盛に追いつく。
「木猿、如何いたした」
 美濃部茂盛は兵を迂回させようとしていた。
「いやはや、城主の山内左衛門尉率いる伊賀勢が坂に竹皮を敷き、その上に油を流しておる。兵が足をとられて転び、前に進むこともできぬゆえ、少し脇道を行くしかあるまい」
「竹皮に油とは…」
 そんな策を講じてくるとは。なるほどこれは他の合戦とは違うようだ、と忠三郎が感心してながら後方に戻って少しすると、また前が騒がしくなった。
「今度は何じゃ」
 また美濃部勢のほうへ向かっていくと、味方と思われる足軽が幾人か、倒されている。
「伊賀者どもが途方もない戦術を用いてきおった」
「何が起きた?」
 美濃部茂盛は苦笑いして、
「突如、木の上から裸の女子が飛び降りてきた」
「な、なんと」
 兵たちが皆、あっけにとられていると俄かに矢が射掛けられ、数名が倒されたという。
「すでに敵は討ち取っておる。案ずるな」
 どうにもいつもの合戦とは勝手が違う。忠三郎は伊賀者の奇策に舌を巻きつつ後方へ戻る。
 城が見える場所まで到着すると、忠三郎は自慢の鉄砲隊で弾の雨を降らせた後、矢を放ち、我先にと飛び出して攻めかかり、城を落として付近の村々に火を放った。
「なんのことはない。多勢に無勢。恐るるに足らず」
 傍らに陣を張る従弟の後藤喜三郎に余裕の笑顔を見せると、喜三郎が眉をひそめて忠三郎を見る。
「村にまで火を放ったのか」
「敵が逃げ込んでおる。一軒一軒調べ上げるよりも、火をかけたほうが早い。あとは逃げてくるものを討つのみ」
 情け容赦ない仕打ちは、まさに天魔と恐れられ、忌み嫌われる信長を彷彿とさせられる。
(悪行まで真似て、何者になろうというのか)
 外縁とはいえ、親戚風をふかせて馴れ馴れしく振る舞われるのも腹立たしい。
 
 一方、美濃部茂盛は今回の城攻めでいち早く城門を突破して敵の将を討ち取っている。そのおかげで予定よりも早く先へ進むことができそうだ。
 続けて兵が逃げ込んだ田屋の砦を美濃部茂盛に任せ、忠三郎は燃え盛る村の近辺に伏兵を置き、逃げてくる女子供を待ち伏せして斬り伏せた。
「累々たる死体の山じゃ」
 後藤喜三郎が呆然と辺りを見渡す。野も山も死体で埋まり、側溝に血の川が流れる。いくつもの村が焼かれ、後ろを振り返れば、草一本生えぬ焼け野原が広がっている。
「地獄絵図とはこのことよ」
 涼しい顔で兵に指示を出す忠三郎とは裏腹に、後藤喜三郎はあまりの惨劇に寒気がしてきた。
「鶴」
 二人が振り返ると、美濃部茂盛が数名の兵を連れてやってくるのが見えた。
「手際がよいな、木猿。もう砦を落としたか」
「いや、降伏を願い出ておる。家宝の壺と言うておるぞ」
 兵の一人に持たせた壺を見せる。
「家宝?」
 忠三郎が壺を手に取ってみる。釉薬のかかった大きな茶壷は家宝と呼ばれているに相応しく、深みのある秀逸な色合いを見せている。これを手土産に助命嘆願しているのだろう。
「山桜の壺とか言うておった」
「山桜…」
 
 あしひきの 山桜花日並べて
             かく咲きたらば いと恋ひめやも
             
 万葉和歌 巻八(一四二五)。山部赤人の一首で、桜花を見た喜びと、すぐ散ってしまう名残惜しさを詠っている。万葉の時代、貴人は梅を愛し、民は桜花を好んで歌に詠んだと伝わる。 手にした壺は、万葉和歌を思って作られた花壺と思われた。
「降伏を許す。壺は預かりおく」
「然様か。では…」
 茂盛が心得て行こうとするのを忠三郎が留める。
「まて、木猿。城将が出てきたら、迷わずその場で討ち果たせ」
 冷淡にそう言うので、茂盛は驚き、
「降伏を許すと言うて、城から出たところで討てと?」
「ここで逃がせば戦さは長引く。早々に討ち果たして次へ参ろう」
 忠三郎は笑顔でそう言うと、壺を町野長門守に渡し、その場を後にした。
 
 忠三郎は佐奈具と呼ばれるところまで兵を進め、陣を張った。そこで一益の命を受けて蒲生勢を探していた滝川助九郎が追いついた。
「忠三郎様!」
「助九郎ではないか。義兄上は向かっておられるのか」
「いえ。丹羽殿と供に春日山に籠る敵と戦っている最中にござりまする。少し時がかかるゆえ、比自山城を遠巻きにして待てと」
 忠三郎はフム、と頷き、傍に控える町野長門守を顧みる。
「長門、義兄上たちはまだ来られぬ。今宵は皆の労を労い、酒宴にいたそう」
 常の調子でそう言うので、助太郎がエッと驚き、
「お待ちを。伊賀衆を侮ってはなりませぬ。ここで気を緩めては…」
「堅いことばかり申すな。こうなることを考え、酒の支度を整えて参ったのじゃ。長門、酒樽をこれへ」
「ハハッ」
 長門守が助太郎の顔色をうかがいながら、いそいそと奥へ走っていく。
「秋の伊賀は寒いのう。かようなときは酒で体を温めねば、皆も疲れが癒えぬ。そうじゃ、木猿や喜三郎も呼んで、積もる話に花を咲かせよう」
 飄々とそう言う。相変わらずの態度に助太郎も呆れ、苦言を呈するのをやめた。
 
 九月二十八日の夜半。縁戚の後藤喜三郎、美濃部茂盛の二人を呼んで祝杯をあげていた忠三郎。夜も更けたころ、後藤喜三郎が早々に自陣に戻り、美濃部茂盛と二人になった。
「随分と変わったのう」
 美濃部茂盛がポツリとそう言うと、忠三郎は何のことかと顔をあげる。
「鶴、その方のことじゃ。家来の手を借りなければ馬にも乗れなかった鶴が、今や織田家でも名だたる一軍の将。伊賀の者どもは向かい鶴の旗を見ただけでも震え上がっておる」
 忠三郎は明るく笑い、
「皆で集まり、戯れていた折より二十年はたつ。もはや童ではない」
 茂盛は、そうかと笑う。
「和歌にばかり興じていた鶴が、今では平然と敵をだまし、女子供にも容赦がない。火攻めも手慣れたものではないか」
 妙に含んだ言い方が気になり、忠三郎は笑って顔をあげる。
「奥歯にものを挟んだような言い方じゃ。何がいいたい?」
「戦で勝ち負けを争うのと、戦と無縁な者を殺めるのは同じではない。もしやそれをはき違えておるわけではありまい。おぬしが上様に陶酔しているのはよくわかる。岐阜に行ってからのおぬしはまるで別人じゃ。されど、所詮、鶴は鶴。上様ではない。無理をして真似をしているのではないか」
 幼い頃をよく知っている従兄は心底、忠三郎を心配してくれているようだった。
「木猿。つまらぬことを言うてくれるな。何をもってそのようなことを…」
「その酒の飲み方は尋常ではない。ここは戦場。油断すれば命とりとなる。そんなことをわしに言われずともよう分かっておろう。それがどうじゃ。その為体では立つこともままならぬ。奇襲を受けたらなんとする」
 忠三郎は少しムッとして立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らず、よろめいて床几から落ち、前に膝をついた。
「ちと酒が過ぎたがさしたることはない。夫れ塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の本と漢書にあるではないか」
 新朝の皇帝、王莽《おうもう》のことばだ。忠三郎が悔し紛れにそう言うと、茂盛は苦笑いして
「したが兼好法師は、百薬の長とはいえど、よろづの病は酒よりこそおれ、というておる」
「あれは恋文の代筆などする偽隠者、わしは嫌いじゃ」
 徒然草を書いた卜部兼好は粋法師と渾名されたほど恋の道に手慣れた者であったという。
「わかっておらぬな。酒を飲めば、嫌なことを忘れるどころか、益々思い出させる。もう深酒はやめにせい」
 木猿が心配そうにそう言うが、酔っていたのもあり、忠三郎は笑い飛ばした。
「嫌なことを忘れるとは?さも、わしが酒に逃げているかのような言い様ではないか。とんだ取り越し苦労。何も案ずることなどない」
 なんとか立ち上がって、床几に座りなおし、胸を張った。虚勢を張ったようなその姿に、茂盛がやれやれと苦笑する。
「鶴。おぬしが我が一族の頼みの綱じゃ。頼りにしておるぞ」
 茂盛はそう言うと、心配そうな顔をして戻っていった。

 忠三郎は美濃部茂盛が陣営に戻った後も、町野長門守相手に飲みなおしていた。
「木猿のやつ、わしよりも少しく早う生まれたからというて、つまらぬ心配ばかりしておるな」
「いえ。若殿の酒は皆が案じておりまする。美濃部様とて同じこと。皆々、若殿を頼りにしておるのでござりまする。どうか、これを機に少し酒を控えていただきたく…」
 忠三郎は普段から何かというと酒を控えろと言われ、つまらない思いをしている。
「さほど飲んではおらぬ」
「いえ、もう十分すぎるほどで」
「長門。その方、和歌も駄目、女子も駄目、この上、わしから酒まで取り上げようというのか」
「滅相もない。酒を飲むなというのではなく若殿の酒の量に問題が。皆は若殿のお身体を案じて申し上げている次第にござりまする。若殿は若年の頃より酒がお好きで、毎晩のように…おや…若殿?」
 気づくと忠三郎が床几に腰かけたまま、寝息をたてて眠りこけている。長門守は仕方がなく、戸板を運んできて、助太郎を呼び、二人で忠三郎を戸板の上に寝かせた。
 
 それからどれほど眠ったか、定かではない。にわかに鬨の声が辺りに響き、慌てて飛び起きたときはまだ真っ暗だった。
「長門!」
「夜襲にござりまする!」
 具足をつけ、帷幕を飛び出すと、寝込みを襲われた味方の兵が取るものも取らずに次々に逃げ惑っていた。
「誰か、馬を」
 雑兵が一人、気づいて馬を引いてきた。忠三郎は急いで飛び乗る。見るともう、敵がすぐそばまで迫っていた。
「若殿、ここは引いて陣を立て直さねば、もう手の施しようもなく…」
 長門守が近づき、忠三郎にそう告げる。
「承知した…いや、待て。あれは…」
 かがり火の向こうはもう敵味方入り乱れ混戦状態だ。その只中で迫りくる敵を食い止め、戦っている一軍が見えた。
「あの旗指物は美濃部…木猿ではないか。長門!続け!」
 忠三郎は馬を走らせ、懸命に敵を食い止める美濃部勢に近づこうとするが、次々に矢を射かけられてなかなか近づくことができない。
「早くお引きくだされ!ここは危のうござりまする」
 助太郎が追いついてきて叫ぶ声が聞こえる。
「若殿!早う引き上げを!」
 町野長門守が敵の足軽を突き倒しながら撤退を促す。
「何を申す。木猿を置いて逃げよと言うか」
「美濃部様は忠三郎様を逃がすために、戦うておるのでござりまする。早う引き上げを」
 助太郎は忠三郎の乗る馬の手綱を掴み、強引に引いて向きをかえさせると、勢いよく馬の尻を叩いた。馬は大きくいななき、林の向こうめがけて走り始めた。それを見た町野長門守も忠三郎の後に続いて馬を走らせる。
「全く、だからいうたに…」
 滝川助太郎は誰にともなくそう吐き捨てると、逃げ惑う味方を追いかけ、走り去った。
 
 一旦引き、ようやく陣容を立て直した忠三郎は、昨夜陣を張ったところまで敵を押し戻した。
 この付近にあるという平楽寺城に立てこもっている者たちの大半が城を出て、夜襲をしかけてきている。忠三郎は鉄砲隊に乱射させると猛然と敵中へと斬りこみ、次々に敵を討ち果たした。
 蒲生勢の勢いに押された敵が背中を見せて山に向かって逃げていく。気づくと空は明るくなっており、どこを見ても敵の姿はすでになく、死臭が漂い、血の海の中に屍が積み重なっているだけだった。
「木猿は…美濃部勢はどこへ行った?姿は見えぬか」
 周りにいるものたちに訊ねるが、皆、首を横に振る。
「忠三郎様」
 助太郎が何かを見つけたらしく、遠くで声をあげる。急いで馬を走らせると、助太郎が首なし死体を確認している。
「それは…」
 昨夜、目の前で酒を飲んでいた美濃部茂盛が身に着けていた甲冑の装飾に酷似していた。忠三郎は驚愕し、馬を飛び降りた。その手にある筈の刀はすでにない。首と一緒に持ち去られた後だろう。
 足を見ると臑当(すねあて)に見覚えのある傷があった。
「誰か見た者がおる筈。足軽でも誰でもよい。探して話を聞いて参れ」
 助太郎が頷き、姿を消すと、町野長門守が慌てて走ってくる。
「それはまさか、美濃部様で?」
 忠三郎は力なく頷いた。背後で何かを察したらしい足軽たちがざわざわとざわめいているのが聞こえてくる。
「なぜ兵を退かなかったのじゃ、木猿…」
 こんな山中で命を落とすようなものではなかった筈。忠三郎が美濃部茂盛を躯を抱え、呆然と頭をたれていると、やがて助太郎が戻って来た。
「美濃部様の最期を見た者から話しを聞いて参りました」
「して、どのような最期であった?」
「思わぬ夜襲に足軽どもが逃げ惑う中、美濃部様は毅然として敵に立ちはだかったと。近臣が何度も引き上げをと促したようでござりますが、向かい鶴の旗印が見えているうちは引き上げることはできぬと、そう仰せになって槍を構えたそうにござりまする」
「向かい鶴の旗印が見えているうちは引き上げぬと…」
 なんとか忠三郎を無事に逃がそうと奮闘していた様子がうかがい知れる。忠三郎は湧き出る涙をこらえて俯く。
「押し寄せる敵を突き崩していると、敵の放った矢が馬に突き刺さり、馬が二本立ちになって美濃部様が振り落とされたのでござります。そこを数名の敵が群がり、抑えつけて首をとったとのことにござりました」
 最後の最後まで戦い抜いた美濃部茂盛の姿が目に浮かぶようだ。
(かようなところで…無念であったろう)
 幼い頃から一番だった木猿。体が大きく、喧嘩が強く、そして優しかった。従兄弟たちが見守る中、毎年柿の木に登っては柿を取ってきて皆に分けてくれた。
(そうか…あれ以来か…)
 孫四郎や千代寿にせがまれ、柿を取ろうとした忠三郎は、足を滑らせて池に落ちた。思い返せば、その時からだ。木猿が誰に言われるでもなく、従兄弟たちが揃うと自ら柿の木に登り、柿を取ってくるようになったのは。
(そうだったのか)
 そんなさりげない木猿の気遣いに、今の今まで気づかなかった自分の迂闊さが口惜しい。木猿はあのときから、いつも忠三郎を守ってくれていたような気がする。昨夜もそうだ。そして力尽きた。
(許してくれ)
 忠三郎は口惜しさに唇をかみしめ、何度も目を拭う。傍に生える草が木猿の血で濡れ、朝露を思わせた。
「知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。そのあるじすみかと無常を争うさま、いわば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといえども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なお消えず。消えずといえども夕を待つ事なし」
 わからない、生まれ死ぬ人は、どこからこの世に来てどこへ去っていくのか。また、分からないのが、一時の仮の宿に過ぎない家を、誰のために苦労してつくり、何のために目先を楽しませて飾るのか。その主人と住まいとが、無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花と、その花につく露との関係と変わらない。ある時は露が落ちても花は咲き残る。残っていても、朝日のころには枯れてしまう。ある時は花が先に萎んで露はなお消えないでいる。消えないといっても夕方を待つことはない。
 方丈記の作者、鴨長明は人が無常の運命を背負って生き、そして死んでいく理由は、人には理解しがたいものだと、そう言っている。
(世において、常なるものはない。命あるもの全てこれ無常の運命を負って生きねばならぬ)
 何故なのか。何度となく問うてきた言葉が、またどこからともなく湧いてくるのを胸に感じた。
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