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11 君に引く弓
11-3 祖父の遺産
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翌日未明、日野を出て千草峠を越え長島に戻った。
「殿!お待ち申し上げておりました!」
「お家の一大事でござりまする」
佐治新介、道家彦八郎、木全彦一郎、木全彦次郎が真っ青になって出迎える。ただ事ではない空気を感じ取り、一益は広間に家臣たちを集める。
「留守の間に何があった?」
「安濃津より長野三十郎殿の使者が二名、参りました」
信長の弟、長野三十郎信包。その信包の元から使者がきたということは、
「細野に謀反の嫌疑がかかっておるのか」
「はい。それだけではありませぬ。謀反人を誅するという話を耳に挟んだ侍女が御台様に知らせてしまい…」
「風に知られたのか。…して、風は?」
「八郎様はもう戻らぬと号泣され、それを聞いていたお子たちが…」
佐治新介と道家彦八郎が顔を見合わせる。
「お子たち?六郎、九郎、葉月か」
子供たちに何かがあったようだ。一益が問うと、木全彦次郎が進み出て、いえ、と口を開く。
「お許しくださりませ。六郎様、九郎様に咎はありませぬ。すべてはこの彦次郎の不徳に致すところ」
子供たちの世話は木全彦一郎、彦次郎がしていた。特に頻繁に顔を出していたのは息子の彦次郎だ。
「何があった?」
「六郎様、九郎様は未だ五歳。ものの道理を知るには幼すぎるお年にて…三十郎様の使者が八郎様を亡きものにしようとしていると誤解され、使者に山犬をけしかけたのでござります」
山犬とは六郎が可愛がっている犬のことだろう。獣を操る術を得意とする木全彦次郎が目の不自由な六郎の身を案じて犬のことを六郎に教えた。それが五・六匹ほどいる。今では六郎には護衛の兵をつける必要もないほどだ。
「それで使者は如何相なった?」
「一瞬の出来事にて。山犬たちは一斉に使者に向かって飛び上がり、首を一噛み。使者が叫び声をあげて倒れ、命を落としたのでござりまする。それがしが腹切ってお詫びいたしまするゆえ、どうかお子たちをお許しくだされ」
生き残った方も、大けがをして安濃津に逃げ帰っている。
「落ち着け、彦次郎。そなたが腹を斬れば済むというものではない。勝手に腹を切るなど許さぬ。生きて、己の責務を全うせよ」
一益が静かに諭すと、彦次郎は肩を震わせてひれ伏した。
(子らのことは、風と、木全彦一郎、彦次郎に任せきりだった)
子供たちとは年に数回、顔を合わせる程度だ。彦次郎から山犬を飼っている話は聞いていたが、人を襲う話は聞いたことがなかった。何もかも木全親子にまかせっきりだった以上、事が起きたからといって咎を負わせるのはあまりに身勝手というものだ。それに、
(六郎には乳母をつけていない)
乳母をつけなければ、母子のきずなは堅くなり、戦場に出しにくくなる。このため、武将の子は乳母に育てさせるのが慣例だ。しかし六郎に限っては風花が手放すのを頑なに拒んだために、敢えて引き離すことができなかった。六郎は普段は気丈な風花が泣いているのを見て、激しく動揺し、不安になったのだろう。
「いつのことじゃ?」
「一昨日でござります」
道家彦八郎が答える。
(二日も経っているのであれば、安土にも知られている頃)
拙いことになっている。せめて信包の使者が到達する前に、信長に申し開きできていれば…。
「これはいささか拙いことになりましたな。このままでは三十郎様も、上様も、八郎様を養嗣子とした細野と滝川が、使者を殺めて叛旗を翻したと、そう勘違いなさるのでは?」
義太夫の言う通りだ。これでは荒木村重の二の舞になりかねない。
「殿。すでに上様は我らをお疑いかと。そうでなくとも、このまま三十郎様が挙兵すれば、八郎様のお命にも関わる大事。…であれば、いっそ誠に兵を挙げられては如何なものでは」
佐治新介がそう言い、道家彦八郎が頷く。
「その方らは…わしに謀反を起こせと、そう申すか」
そんなことを本気で言うとは。一益が驚き、二人を見ると、
「上様にとっては我ら素破などは所詮、人にあらず。使い捨ての駒同様。安土築城で我が家からどれほどの金がでていったのか、お忘れで?そのうえ、戦さにつぐ戦さで戦費は膨大。国元におられぬ殿は何もご存じありますまい。我が家の家人どもは皆々、貧しい暮らしを強いられておりまする。肝心の殿はといえば、上様は元より、三十郎様、柴田様、明智様までが壮大な天主を持つ城を建てておられるというに、何年たってもかような粗末な城にお住まいのまま。殿がこれでは家中の者は困窮しても耐えるしかありませぬ」
道家彦八郎が涙ながらに訴えるので、何も言うことができなくなった。
(そうであったか…)
彦八郎の隣に座る新介も同調するように頷き、下を向いている。新介はいつも煌びやかな忠三郎の暮らしぶりが羨ましいのだろう。だから忠三郎ばかり目の敵にして、事ある毎に文句ばかり言う。
連枝衆は兎も角、柴田勝家や明智光秀と差がでたのは、安土築城の出費が大きいが、それだけではない。一益が治める北伊勢五郡、尾張二郡は長引く戦乱と一揆のために、一面焼け野原で、焼け残った土地も百姓が田畑を捨てて逃げたために荒れ放題だった。
一益は人々を領内に戻すために、信長に願い出て税を軽くし、兵役に駆り出された者へは手厚く報いた。桑名という畿内有数の商業都市を抑えていなければ、とっくに破綻していた。こんな有様なので、どうしても家臣たちに十分に報いてやることができない。
「挙句は汚れ仕事ばかり押し付けられ、八郎様がいるとわかっていながら三十郎様は兵をあげると仰せになりました。もはや我慢の限界。細野と、大坂湾にいる三九郎様と共に挙兵し、伊賀衆と呼応すれば、上様は四方に敵を抱えることとなりましょう。叛旗を翻すのであれば、今がまさに好機かと」
皆、謀反を起こした先にあるものを、摂津で見てきたばかりだ。それでも兵をあげろというほど、追い詰められているのだろうか。
「城の金蔵は空か?」
「はい。ほぼ、何も残ってはおりませぬ」
「それでは戦さはできまい」
一益が自嘲するように笑うと、新介が怒って
「笑いごとではありませぬ」
「新介、許せ。皆も。彦八郎が言う通りじゃ。此度のことは、戦さのことばかり考え、領国をおろそかにし、皆の暮らしぶりを気に留めることができなかったわしに咎がある」
子供たちのことも、家来たちのことも、十分に把握できていなかった。供に時を過ごし、日々の営みを見ることができていたなら、こうはなっていなかった筈だ。
一益は黙り込み、誰も言葉を発することができず、広間は静まり返る。しばし沈黙が続いたあと、重苦しい空気に耐えられなくなった義太夫がきょろきょろと周りを見回し、コホンと咳払いした。
「皆…殿が大名となって贅沢に慣れたのう。この城が粗末な城とは。わしが行った敦賀の花城山城はかような襖は一枚もなく、全て板戸で覆われておったぞ」
新介が意外そうに顔をあげる。
「花城山とは、武藤殿の居城の?上様のお気に入りの武藤殿が粗末な城に住んでいたと、そう申すか」
「そうじゃ。使者を通す間にすら畳はなく、すべて板間で、襖も障子もなく、昼か夜かも分からぬ暗さ。出てくる飯は毎度、強飯。如何なる環境にも耐ええるだけの修業を積み、強靭な肉体・強靭な心を持つわしは、極寒の敦賀で、板に囲まれた部屋におっても寒さを感じず、ありがたく強飯をいただいておったが、助九郎などは、凍え死ぬの、炊いた飯が食いたい、魚が食いたい、肉が食いたいと泣き言ばかり言いおったわい」
義太夫が誇らしげに言うと、末席にいた助九郎がエッとなり、
「何を申される。義太夫殿は五枚も重ねた布団の間に藁を挟んで寒さをしのぎ、玉姫様が作った飯だから、なんでもうまいと、そう申されていたのでは」
「助九郎!心得違いも甚だしい。素破というものは、常より贅をつくした飯などは…」
義太夫節がはじまったので、新介が呆れて手を振る。
「もうよいわ。また女子の話か。どこへ行っても女子の話しかせぬな」
「そうではない。敦賀の強飯はうまいのじゃ。やはり水のせいかのう。清らかな水、清らかな女子と清らかな女子が作った飯」
「やはり女子ではないか」
新介が疲れたように言うと、場にいる者たちが笑いを堪える。一益も笑いを堪えながら、
(宗右衛門めが、そうであったか)
宗右衛門は他の軍目付と違い、領国から兵を率いてきていた。敦賀の港を抑えているとはいえ、軍費が嵩んでいたことは容易に想像できるが、にしても全てが板間板戸で、毎食強飯とは、いかにも宗右衛門らしい。
「義太夫は強飯がうまいか」
一益が笑って声をかけると、義太夫が胸を張り、
「ハッ、それがしは厳しい修行に慣れ親しんだ剛のもの。どこにいても、何を食うていても…」
長々と始まりそうだったので、一益が後ろに控える膳奉行の津田小平次を見て、
「小平次。義太夫は強飯がよいと申して居る。これより義太夫には炊いた飯ではなく、強飯をだしてやれ」
「えっ!ち、ちと…」
義太夫が慌てて訂正しようとすると、津田小平次が後ろから
「ハハッ。畏まりました。義太夫殿は今後は強飯しか召し上がらぬと」
「待て、待て、待て。小平次、早まるな!」
義太夫が血相変えて立ち上がったので、家臣たちは皆、こらえきれずに笑い出す。
場の空気が幾分和んだところで、一益が口を開いた。
「三十郎殿の動きを探った上で、安土に申し開きに行かねばなるまい。新介、助九郎が安濃津を、彦一郎、彦次郎は細野城の動向を探れ」
「ハハッ」
このまま穏便には終わりそうにない。それこそ、高山右近のように髻を切り、白装束でも纏って安土に行くしかないかもしれない。
その頃、安土では滝川左近が謀反を起こしたという話がそこここで噂されていた。
「如何いたした、助太郎。常より強面と思うていたが、今日はいつにも増して怒った顔をしておる。それでは幼子は泣き、女子は皆逃げてしまう」
忠三郎が笑ってそう言う。町野長門守は、助太郎の置かれた立場を考えると、同情を禁じ得ない。
「若殿。助太郎殿のお気持ちをお察しあれ。かように笑うておるような場合でもなく…」
「かような時こそ、心落ち着けるべきではないか。助太郎が案じておるのなら、城下の屋敷に行ってみよう」
忠三郎は足取りも軽く、安土城下にある滝川家の屋敷に向かう。助太郎も町野長門守も黙ってそれに従う。
(あのように浮き浮きと…わかりやすいお方じゃな)
町野長門守は助太郎の岩を掘ったような顔を横目で見ながら、内心落ち着かない。忠三郎は助太郎を気遣っているそぶりを見せるが、ようは章姫に会いたいだけだろう。
屋敷の門番も皆、分かっているので、忠三郎は我が屋敷のような顔をしてさっさと案内も請わずに屋敷に上がり、章姫の部屋に向かう。
「おや…」
遠目に、忠三郎の正室、吹雪が連れている侍女の姿が見えた。
「雪が来ておるのか」
「何を仰せで。若殿が、章姫様のお相手にと御台様に安土に行くよう仰せつけられたのでは」
言われるまで忘れていた。どうも間が悪いなと思いながら、二人が話しているところに歩いていく。
「若殿…摂津からお戻りとは」
「五日ほど前じゃ」
ぎこちなく会話していると、章姫が待ちかねたように口を開く。
「忠三郎殿、待っておったのじゃ」
忠三郎は嬉しさを隠しきれず、満面笑みを浮かべて
「姫がそれがしをお待ちとは。なんとも喜ばしいこと。なれば使いをお送りくだされれば、すぐにでも駆けつけ…」
「伊勢の話を聞き及びました。叔父上が謀反とはまことのことか」
不安そうに尋ねる章姫に、忠三郎は常の笑顔を見せる。
「謂れなき風聞。義兄上に限って、あり得ませぬ」
「では、子らの飼っている山犬が、三十郎殿の使者を殺めたとはまことか?」
それは本当らしいと聞いている。驚いた三十郎信包が使者を安土に送り、信長に事の次第を話している。
「八郎殿は如何なったのじゃ?叔父上は?風様は?」
章姫がずいずいと忠三郎に近づき、真剣なまなざしで聞いてくるので、忠三郎は苦笑いして、
「そう矢継ぎ早にお聞きくださるな。八郎殿は…」
「伊勢は大事ないか?父上は怒っておるのか?三九郎殿は如何なされておる?」
「姫。それがしにも姫にお話しできることとできぬことがあり、かように皆がいる場所ではちと…。そこまで案じておられるのであれば、どこか場所を移し二人だけで…」
忠三郎が微妙なことを言い出したので町野長門守も、助太郎もハラハラしながら忠三郎をみる。すると、それまで黙っていた吹雪が急に口を開いた。
「風が悪いのでござりましょう」
怒ったような口ぶりに、忠三郎と章姫が驚いて吹雪を見る。
「如何いたした、雪。唐突にそのような…」
「生母が赤子を自ら育てるなど、下賤な者の真似事などしているから、かようなことになるのです」
それは恰好な噂話の種とされていたので、忠三郎も小耳にはさんだことがある。言い出した風花も風花で、それを許した一益も一益だ。
「そう冷たい物言いをするな。それは六郎殿が…」
「風は意固地になってやりたい放題。左近殿は子らや風に甘すぎ、皆が助長し、かような騒ぎになっているだけのこと。赤子に乳をやるなど汚らわしい。織田家の名折れじゃ。章もよう心得ておきなされ」
忠三郎は普段の吹雪との落差に驚き、しばらく黙って吹雪を見ていたが、
「何故の立腹か?」
と不思議そうに尋ねるので、町野長門守が焦って袖を引く。
「若殿…それはあまりに若殿が…」
「町野殿!いらぬことを申されるな!」
「ハハッ。これはご無礼を…」
吹雪に怒られて小さくなる町野長門守を見て、忠三郎が怪訝な顔をする。
(二人はかように仲が悪かったのか)
気位の高い吹雪の目の前で、その妹に妙なことを言い出したのだから怒るのは当たり前と、町野長門守は気づいているが、忠三郎にはそうした吹雪の気持ちは全く理解できていない。
吹雪が日野から桜漬を送ったり、長島の風花から餅が届いたりと、それなりに仲良くしているのかと思っていたが、知らないうちに何があったのだろうかと思いあぐねる。
「わしは…むしろ羨ましいと思うたが」
忠三郎が笑ってそう言う。
「羨ましい、とは?」
吹雪が怒り冷めやらぬ目をして忠三郎を見る。
「生母に育てられるとは、如何なるものか。風花殿は毎晩、六郎殿、九郎殿を傍に寝かせ、ロレンソ殿から聞いたキリシタンの話を語って聞かせておるとか。思い浮かべれば何とも微笑ましい姿ではないか」
忠三郎に笑顔を向けられ、吹雪が呆れて目を反らす。
「若殿の風変わりなお考えは、わらわにはとんと分かりかねまする。かような良い大人になって、母恋しなどと仰せになるのであれば、今からでも会いにいけばよいではありませぬか」
忠三郎は吹雪に何も話していない。母、お桐の非業の死も誰からも聞かされていない吹雪は、未だに存命中と思ってそう言っている。
「あの…御台様。若殿の御母君は…」
「長門。余計なことを申すな」
忠三郎にたしなめられ、町野長門守はまた小さくなる。
「然様…では行ってみようか」
「は?若殿?それは一体…」
目を丸くする長門守に、忠三郎が笑いかける。
「まずは上様にお会いするのが先じゃ。長門、助太郎、参るぞ」
「上様?そ、それはまた何故に…」
忠三郎が何事もなかったかのように立ち上がり、町野長門守がいそいそと後に続く。
(我が家が未曽有の危機を迎えておるというのに、人を食ったあの態度…)
助太郎は二人の後姿を見ながら、重い足取りで屋敷を後にした。
忠三郎は登城し、信長への謁見が許されると、いつもの笑顔で伺候する。
「左近のことで参ったか」
「はい。巷の根も葉もなき風聞に、上様も心を痛めておられるものと案じておりまする」
信長は一笑して、片膝立てる。
「摂津から兵を退いたのは、謀心あってのことと言う者がおる」
「ゆめゆめ、かようなことは…。そうであれば、大坂湾の三九郎も兵を退いておりましょう」
三九郎は未だ、生真面目に大阪湾の海上封鎖を続けている。
「左近に送った使者が始末され、三十郎が腹をたてて、細野を懲罰すると申して居る」
「その義は…八郎殿の命に関わると思うた子らの仕業と聞き及びました」
子供たちの仕業とはいえ、連枝衆の家人が命を落としている以上、何もしないわけにはいかないだろう。
「不問に付す訳にはいかぬ」
「それは重々、承知しておりまする」
信長はしばらく、忠三郎の顔をじっと見ていたが、
「鶴、伊勢に行きたいか?」
「はい。お許しをいただけましたら、すぐにでも」
信長は頷いて
「己の力で八郎を救おうと、そう考えたか」
信長に言い当てられ、忠三郎は少し眉を上げたが、はい、と微笑む。
「できるか、その方に。八郎を救うことが」
忠三郎は、意外な問いにオヤと思った。
(忘れていた…八郎殿は上様にとっても孫であった)
多少なりとも、八郎に対する情があるのかもしれない。
「これにはいくらかの勝算がござりまする」
「許す。伊勢へ行け。したが、これ以上、騒ぎになると面倒じゃ。兵を大勢連れて行くな。左近にも一兵も動かすなと伝えよ」
「ハハッ、有難き幸せ」
信長はにわかに立ち上がり、平伏する忠三郎の隣に片膝つく。
「ただし、事を収めるためには左近が二心なき旨を示す必要がある」
騒ぎが大きくなっている。収束させるにはそれなりのことをしなければならない。
「二心なき旨を示す…とは、いかように?」
忠三郎は平伏したまま、信長の話を聞いていた。
信長に謁見し、上機嫌で日野に戻った忠三郎は、日野中野城には戻らず、音羽城の方へ足を向ける。
「若殿、どちらへおいでで?」
長門守が訊ねると、忠三郎は笑顔を見せて、
「長門。お爺様が残されたもので、最もよいものは何じゃと思う?」
「それはやはり、この日野では」
忠三郎はうんうんと頷き、
「確かに、そうじゃ。助太郎、他には何があると思う?
「それは…鉄砲鍛冶村では?」
蒲生家の鉄砲隊の多さは滝川家に並び、織田家中では一・二を争う。
「いかにもその方らしい。他には?」
快幹がこの日野に残したものを上げ連ねれば枚挙にいとまがない。町は豊富な物資であふれ、保護した多くの寺、築いた城、詩歌をはじめとする数々の文化、揃い集めた唐物、主家六角を凌いだ巨万の富。
「わからぬか?それは人の縁じゃ」
「人の縁…でござりまするか」
「そうじゃ、これは金では買えぬ。お爺様のお陰で、この江南はもとより、北勢、中勢、南勢、伊勢中に我が家の名は轟いておる。それゆえ…それを大切に使わせてもらおうと思うておる」
「はぁ…では向かう先は関様の御屋敷で」
町野長門守の察した通り、向かった先は中野城と音羽城の中間、西大路にある関盛信の屋敷。
かつて中勢の亀山、峯、国府、鹿伏兎(かぶと)で影響力を持っていた関安芸守盛信は忠三郎の叔父にあたる。織田家に恭順後、謀反の嫌疑をかけられて同族の神戸友盛とともに伊勢を追われ、日野に幽閉の身となった。快幹は二人のためにそれぞれこの西大路に新たに屋敷を造り、そこに住まわせている。
「祖父快幹はまことに人の縁を大切に思うておりました。それがしも祖父に倣い、叔父上と親交を深めたいと願うておりまする」
関盛信はかつて能興行を装って、一益と共に自分を幽閉したこの甥を、全く信用していない。
「今更、何用か。わざわざ来たからには、何か用向きあってのことじゃろう」
「はい。中勢の細野藤敦の元に滝川左近の一子がおるのは、すでにお聞き及びのことかと思うておりまする。叔父上が中勢の土豪衆に声をかけてくだされば、子を救い出すことも可能かと考えました」
「なんと厚かましい。わしに、左近の手助けせよと、そう申すか!」
図々しくも平然と言ってのけた忠三郎に、関盛信が呆れかえる。しかし忠三郎は動じない。常の笑顔を向けたままだ。
「叔父上ならば、喜んでお助けくださるかと思うて参りました」
「何をどう考え違いすると、そうなるのじゃ」
「御爺様の手文庫を整理いたしました」
忠三郎がにっこり笑ってそう言うと、関盛信の顔色が変わる。
快幹の手文庫から出てきた密書の数々は、そのほとんどが南江・甲賀・伊勢からのもので、時折、伊賀や北江のものも交じっていたが、いずれも甲賀の素破たちが持ち込んだものだ。忠三郎は百を超える文書に一つ一つ目を通し、織田家の家臣の名が出てきたときには笑いが止まらなくなった。
(流石はお爺様。これぞ、我が家にお爺様が残された最大の遺産)
これがあれば、祖父快幹亡きあと、忠三郎が密かに江南、伊勢を牛耳ることも可能だ。
「御爺様は人の縁を大切になされるお方。叔父上からの文も、とても大切に保管されておりました」
大切に保管していたのは人の縁を思ってのことではなく、身の保身のためと思われたが、そこは何事につけ古式ゆかしい蒲生家。
「引うべし松の下はに世をへれば 千とせの後の人もたつねむ」
「これは我が家の高祖父、蒲生貞秀公が詠まれた歌。貞秀公の血脈は関殿の家にも脈々と流れておりましょう。千歳の後まで、親戚一同共に、手を携えて参ろうではありませぬか」
舌を巻く叔父の前で、穏やかにほほ笑み、ぬけぬけとそう言った。
足取りも軽く、関盛信の屋敷から出てきた忠三郎を、町野長門守と助太郎が迎える。
「次はどちらへ?」
「千草峠を越え、千種の叔父上の元へ参ろう」
千種城には北勢四十八家の一人、千種三郎左衛門がいる。千種三郎左衛門は、先年、城を取り囲んで半ば強引に恭順させた経緯があった。
こちらは忠三郎の母方の叔父、つまりお桐の弟にあたる。
忠三郎は千種城につくと、立てていた計画を話し、叔父の協力を仰いだ。
三郎左衛門は黙って話を聞いていたが、
「そちが来ると知らせを受けたゆえに、これを用意しておいた」
と、忠三郎の前に短冊を置いた。
袖ひちてむすびし水のこほれるを
春立つけふの風やとくらむ
古今集にある紀貫之の歌だ。袖を濡らしてすくった水が冬になって凍っていたが、今日の立春の風が溶かしている、と詠う。
(これは…)
驚いて短冊を持つ忠三郎を見て、三郎左衛門が
「わかるじゃろう?」
和歌、特に古今集には言葉では表現されていない意味が含まれていることが多い。「袖ひちて」つまり袖が濡れ。和歌では涙で袖を濡らすことの表現として使われる。「結びし水の凍れる」は「結びしみずのこ」手を結んでいる三歳の子、「凍れる」は凍ったような亡骸。三歳の子を亡くし、悲嘆にくれる紀貫之が、春の風に向かい、この心を解きほぐしてほしいと、そう願った歌だ。
「これはどなたが?」
「そちの母、お桐じゃ」
母、お桐が子を亡くしていたという。
(何も知らなかった)
周りの者は誰も、お桐のことを教えてくれない。
「これまで幾人も、そちから筆を取り上げようとしたはず。したがそちは母からもらった象牙の筆を大事に持ち歩き、相も変わらず和歌に没頭しておると聞いた。お桐はいつか、鶴が歌のこころが分かるときがくると思い、短冊を残したのじゃ」
「亡くした子とは?」
「そなたの弟。それももう二十年以上も前のことになる」
弟がいたことさえ知らなかった。父、賢秀はお桐にまつわることは何も話さない。
「誰も母上のことを教えてはくれぬであろう。謀反人の家のものとはそのようなもの」
「叔父上は、何故に今これをそれがしに?滝川左近が謀反を起こすとでも?」
三郎左衛門の言わんとしていることが分からず、忠三郎は何度も短冊を読み返す。
「そうではない。したが、これからそちがやろうとしていることは、一歩過てばその危険も十分、はらんでおる。その覚悟があるならば、力を貸そうではないか」
「叔父上、まことに忝い。お礼申し上げまする」
なんとか叔父の承諾をとりつけ、恭しく頭を下げるが、その胸中は複雑だ。
(父上は…幼き我が子を亡くしても、弔いひとつしない。いかに乱世とはいえ、嫡男以外の命は、それほど軽きものなのか)
冷酷にも兄、重丸を闇に葬ろうとした父。何につけ祖父の顔色を窺いつつも、反目し、重丸を犠牲にし、二人の争いによって母お桐までも命を落とした。そのことも含め、賢秀は多くを語らず、何事もなかったかのようにふるまう。そんな父を長年、不信感を持ってみてきているだけに、父に対する疑念ばかりが募った。
「殿!お待ち申し上げておりました!」
「お家の一大事でござりまする」
佐治新介、道家彦八郎、木全彦一郎、木全彦次郎が真っ青になって出迎える。ただ事ではない空気を感じ取り、一益は広間に家臣たちを集める。
「留守の間に何があった?」
「安濃津より長野三十郎殿の使者が二名、参りました」
信長の弟、長野三十郎信包。その信包の元から使者がきたということは、
「細野に謀反の嫌疑がかかっておるのか」
「はい。それだけではありませぬ。謀反人を誅するという話を耳に挟んだ侍女が御台様に知らせてしまい…」
「風に知られたのか。…して、風は?」
「八郎様はもう戻らぬと号泣され、それを聞いていたお子たちが…」
佐治新介と道家彦八郎が顔を見合わせる。
「お子たち?六郎、九郎、葉月か」
子供たちに何かがあったようだ。一益が問うと、木全彦次郎が進み出て、いえ、と口を開く。
「お許しくださりませ。六郎様、九郎様に咎はありませぬ。すべてはこの彦次郎の不徳に致すところ」
子供たちの世話は木全彦一郎、彦次郎がしていた。特に頻繁に顔を出していたのは息子の彦次郎だ。
「何があった?」
「六郎様、九郎様は未だ五歳。ものの道理を知るには幼すぎるお年にて…三十郎様の使者が八郎様を亡きものにしようとしていると誤解され、使者に山犬をけしかけたのでござります」
山犬とは六郎が可愛がっている犬のことだろう。獣を操る術を得意とする木全彦次郎が目の不自由な六郎の身を案じて犬のことを六郎に教えた。それが五・六匹ほどいる。今では六郎には護衛の兵をつける必要もないほどだ。
「それで使者は如何相なった?」
「一瞬の出来事にて。山犬たちは一斉に使者に向かって飛び上がり、首を一噛み。使者が叫び声をあげて倒れ、命を落としたのでござりまする。それがしが腹切ってお詫びいたしまするゆえ、どうかお子たちをお許しくだされ」
生き残った方も、大けがをして安濃津に逃げ帰っている。
「落ち着け、彦次郎。そなたが腹を斬れば済むというものではない。勝手に腹を切るなど許さぬ。生きて、己の責務を全うせよ」
一益が静かに諭すと、彦次郎は肩を震わせてひれ伏した。
(子らのことは、風と、木全彦一郎、彦次郎に任せきりだった)
子供たちとは年に数回、顔を合わせる程度だ。彦次郎から山犬を飼っている話は聞いていたが、人を襲う話は聞いたことがなかった。何もかも木全親子にまかせっきりだった以上、事が起きたからといって咎を負わせるのはあまりに身勝手というものだ。それに、
(六郎には乳母をつけていない)
乳母をつけなければ、母子のきずなは堅くなり、戦場に出しにくくなる。このため、武将の子は乳母に育てさせるのが慣例だ。しかし六郎に限っては風花が手放すのを頑なに拒んだために、敢えて引き離すことができなかった。六郎は普段は気丈な風花が泣いているのを見て、激しく動揺し、不安になったのだろう。
「いつのことじゃ?」
「一昨日でござります」
道家彦八郎が答える。
(二日も経っているのであれば、安土にも知られている頃)
拙いことになっている。せめて信包の使者が到達する前に、信長に申し開きできていれば…。
「これはいささか拙いことになりましたな。このままでは三十郎様も、上様も、八郎様を養嗣子とした細野と滝川が、使者を殺めて叛旗を翻したと、そう勘違いなさるのでは?」
義太夫の言う通りだ。これでは荒木村重の二の舞になりかねない。
「殿。すでに上様は我らをお疑いかと。そうでなくとも、このまま三十郎様が挙兵すれば、八郎様のお命にも関わる大事。…であれば、いっそ誠に兵を挙げられては如何なものでは」
佐治新介がそう言い、道家彦八郎が頷く。
「その方らは…わしに謀反を起こせと、そう申すか」
そんなことを本気で言うとは。一益が驚き、二人を見ると、
「上様にとっては我ら素破などは所詮、人にあらず。使い捨ての駒同様。安土築城で我が家からどれほどの金がでていったのか、お忘れで?そのうえ、戦さにつぐ戦さで戦費は膨大。国元におられぬ殿は何もご存じありますまい。我が家の家人どもは皆々、貧しい暮らしを強いられておりまする。肝心の殿はといえば、上様は元より、三十郎様、柴田様、明智様までが壮大な天主を持つ城を建てておられるというに、何年たってもかような粗末な城にお住まいのまま。殿がこれでは家中の者は困窮しても耐えるしかありませぬ」
道家彦八郎が涙ながらに訴えるので、何も言うことができなくなった。
(そうであったか…)
彦八郎の隣に座る新介も同調するように頷き、下を向いている。新介はいつも煌びやかな忠三郎の暮らしぶりが羨ましいのだろう。だから忠三郎ばかり目の敵にして、事ある毎に文句ばかり言う。
連枝衆は兎も角、柴田勝家や明智光秀と差がでたのは、安土築城の出費が大きいが、それだけではない。一益が治める北伊勢五郡、尾張二郡は長引く戦乱と一揆のために、一面焼け野原で、焼け残った土地も百姓が田畑を捨てて逃げたために荒れ放題だった。
一益は人々を領内に戻すために、信長に願い出て税を軽くし、兵役に駆り出された者へは手厚く報いた。桑名という畿内有数の商業都市を抑えていなければ、とっくに破綻していた。こんな有様なので、どうしても家臣たちに十分に報いてやることができない。
「挙句は汚れ仕事ばかり押し付けられ、八郎様がいるとわかっていながら三十郎様は兵をあげると仰せになりました。もはや我慢の限界。細野と、大坂湾にいる三九郎様と共に挙兵し、伊賀衆と呼応すれば、上様は四方に敵を抱えることとなりましょう。叛旗を翻すのであれば、今がまさに好機かと」
皆、謀反を起こした先にあるものを、摂津で見てきたばかりだ。それでも兵をあげろというほど、追い詰められているのだろうか。
「城の金蔵は空か?」
「はい。ほぼ、何も残ってはおりませぬ」
「それでは戦さはできまい」
一益が自嘲するように笑うと、新介が怒って
「笑いごとではありませぬ」
「新介、許せ。皆も。彦八郎が言う通りじゃ。此度のことは、戦さのことばかり考え、領国をおろそかにし、皆の暮らしぶりを気に留めることができなかったわしに咎がある」
子供たちのことも、家来たちのことも、十分に把握できていなかった。供に時を過ごし、日々の営みを見ることができていたなら、こうはなっていなかった筈だ。
一益は黙り込み、誰も言葉を発することができず、広間は静まり返る。しばし沈黙が続いたあと、重苦しい空気に耐えられなくなった義太夫がきょろきょろと周りを見回し、コホンと咳払いした。
「皆…殿が大名となって贅沢に慣れたのう。この城が粗末な城とは。わしが行った敦賀の花城山城はかような襖は一枚もなく、全て板戸で覆われておったぞ」
新介が意外そうに顔をあげる。
「花城山とは、武藤殿の居城の?上様のお気に入りの武藤殿が粗末な城に住んでいたと、そう申すか」
「そうじゃ。使者を通す間にすら畳はなく、すべて板間で、襖も障子もなく、昼か夜かも分からぬ暗さ。出てくる飯は毎度、強飯。如何なる環境にも耐ええるだけの修業を積み、強靭な肉体・強靭な心を持つわしは、極寒の敦賀で、板に囲まれた部屋におっても寒さを感じず、ありがたく強飯をいただいておったが、助九郎などは、凍え死ぬの、炊いた飯が食いたい、魚が食いたい、肉が食いたいと泣き言ばかり言いおったわい」
義太夫が誇らしげに言うと、末席にいた助九郎がエッとなり、
「何を申される。義太夫殿は五枚も重ねた布団の間に藁を挟んで寒さをしのぎ、玉姫様が作った飯だから、なんでもうまいと、そう申されていたのでは」
「助九郎!心得違いも甚だしい。素破というものは、常より贅をつくした飯などは…」
義太夫節がはじまったので、新介が呆れて手を振る。
「もうよいわ。また女子の話か。どこへ行っても女子の話しかせぬな」
「そうではない。敦賀の強飯はうまいのじゃ。やはり水のせいかのう。清らかな水、清らかな女子と清らかな女子が作った飯」
「やはり女子ではないか」
新介が疲れたように言うと、場にいる者たちが笑いを堪える。一益も笑いを堪えながら、
(宗右衛門めが、そうであったか)
宗右衛門は他の軍目付と違い、領国から兵を率いてきていた。敦賀の港を抑えているとはいえ、軍費が嵩んでいたことは容易に想像できるが、にしても全てが板間板戸で、毎食強飯とは、いかにも宗右衛門らしい。
「義太夫は強飯がうまいか」
一益が笑って声をかけると、義太夫が胸を張り、
「ハッ、それがしは厳しい修行に慣れ親しんだ剛のもの。どこにいても、何を食うていても…」
長々と始まりそうだったので、一益が後ろに控える膳奉行の津田小平次を見て、
「小平次。義太夫は強飯がよいと申して居る。これより義太夫には炊いた飯ではなく、強飯をだしてやれ」
「えっ!ち、ちと…」
義太夫が慌てて訂正しようとすると、津田小平次が後ろから
「ハハッ。畏まりました。義太夫殿は今後は強飯しか召し上がらぬと」
「待て、待て、待て。小平次、早まるな!」
義太夫が血相変えて立ち上がったので、家臣たちは皆、こらえきれずに笑い出す。
場の空気が幾分和んだところで、一益が口を開いた。
「三十郎殿の動きを探った上で、安土に申し開きに行かねばなるまい。新介、助九郎が安濃津を、彦一郎、彦次郎は細野城の動向を探れ」
「ハハッ」
このまま穏便には終わりそうにない。それこそ、高山右近のように髻を切り、白装束でも纏って安土に行くしかないかもしれない。
その頃、安土では滝川左近が謀反を起こしたという話がそこここで噂されていた。
「如何いたした、助太郎。常より強面と思うていたが、今日はいつにも増して怒った顔をしておる。それでは幼子は泣き、女子は皆逃げてしまう」
忠三郎が笑ってそう言う。町野長門守は、助太郎の置かれた立場を考えると、同情を禁じ得ない。
「若殿。助太郎殿のお気持ちをお察しあれ。かように笑うておるような場合でもなく…」
「かような時こそ、心落ち着けるべきではないか。助太郎が案じておるのなら、城下の屋敷に行ってみよう」
忠三郎は足取りも軽く、安土城下にある滝川家の屋敷に向かう。助太郎も町野長門守も黙ってそれに従う。
(あのように浮き浮きと…わかりやすいお方じゃな)
町野長門守は助太郎の岩を掘ったような顔を横目で見ながら、内心落ち着かない。忠三郎は助太郎を気遣っているそぶりを見せるが、ようは章姫に会いたいだけだろう。
屋敷の門番も皆、分かっているので、忠三郎は我が屋敷のような顔をしてさっさと案内も請わずに屋敷に上がり、章姫の部屋に向かう。
「おや…」
遠目に、忠三郎の正室、吹雪が連れている侍女の姿が見えた。
「雪が来ておるのか」
「何を仰せで。若殿が、章姫様のお相手にと御台様に安土に行くよう仰せつけられたのでは」
言われるまで忘れていた。どうも間が悪いなと思いながら、二人が話しているところに歩いていく。
「若殿…摂津からお戻りとは」
「五日ほど前じゃ」
ぎこちなく会話していると、章姫が待ちかねたように口を開く。
「忠三郎殿、待っておったのじゃ」
忠三郎は嬉しさを隠しきれず、満面笑みを浮かべて
「姫がそれがしをお待ちとは。なんとも喜ばしいこと。なれば使いをお送りくだされれば、すぐにでも駆けつけ…」
「伊勢の話を聞き及びました。叔父上が謀反とはまことのことか」
不安そうに尋ねる章姫に、忠三郎は常の笑顔を見せる。
「謂れなき風聞。義兄上に限って、あり得ませぬ」
「では、子らの飼っている山犬が、三十郎殿の使者を殺めたとはまことか?」
それは本当らしいと聞いている。驚いた三十郎信包が使者を安土に送り、信長に事の次第を話している。
「八郎殿は如何なったのじゃ?叔父上は?風様は?」
章姫がずいずいと忠三郎に近づき、真剣なまなざしで聞いてくるので、忠三郎は苦笑いして、
「そう矢継ぎ早にお聞きくださるな。八郎殿は…」
「伊勢は大事ないか?父上は怒っておるのか?三九郎殿は如何なされておる?」
「姫。それがしにも姫にお話しできることとできぬことがあり、かように皆がいる場所ではちと…。そこまで案じておられるのであれば、どこか場所を移し二人だけで…」
忠三郎が微妙なことを言い出したので町野長門守も、助太郎もハラハラしながら忠三郎をみる。すると、それまで黙っていた吹雪が急に口を開いた。
「風が悪いのでござりましょう」
怒ったような口ぶりに、忠三郎と章姫が驚いて吹雪を見る。
「如何いたした、雪。唐突にそのような…」
「生母が赤子を自ら育てるなど、下賤な者の真似事などしているから、かようなことになるのです」
それは恰好な噂話の種とされていたので、忠三郎も小耳にはさんだことがある。言い出した風花も風花で、それを許した一益も一益だ。
「そう冷たい物言いをするな。それは六郎殿が…」
「風は意固地になってやりたい放題。左近殿は子らや風に甘すぎ、皆が助長し、かような騒ぎになっているだけのこと。赤子に乳をやるなど汚らわしい。織田家の名折れじゃ。章もよう心得ておきなされ」
忠三郎は普段の吹雪との落差に驚き、しばらく黙って吹雪を見ていたが、
「何故の立腹か?」
と不思議そうに尋ねるので、町野長門守が焦って袖を引く。
「若殿…それはあまりに若殿が…」
「町野殿!いらぬことを申されるな!」
「ハハッ。これはご無礼を…」
吹雪に怒られて小さくなる町野長門守を見て、忠三郎が怪訝な顔をする。
(二人はかように仲が悪かったのか)
気位の高い吹雪の目の前で、その妹に妙なことを言い出したのだから怒るのは当たり前と、町野長門守は気づいているが、忠三郎にはそうした吹雪の気持ちは全く理解できていない。
吹雪が日野から桜漬を送ったり、長島の風花から餅が届いたりと、それなりに仲良くしているのかと思っていたが、知らないうちに何があったのだろうかと思いあぐねる。
「わしは…むしろ羨ましいと思うたが」
忠三郎が笑ってそう言う。
「羨ましい、とは?」
吹雪が怒り冷めやらぬ目をして忠三郎を見る。
「生母に育てられるとは、如何なるものか。風花殿は毎晩、六郎殿、九郎殿を傍に寝かせ、ロレンソ殿から聞いたキリシタンの話を語って聞かせておるとか。思い浮かべれば何とも微笑ましい姿ではないか」
忠三郎に笑顔を向けられ、吹雪が呆れて目を反らす。
「若殿の風変わりなお考えは、わらわにはとんと分かりかねまする。かような良い大人になって、母恋しなどと仰せになるのであれば、今からでも会いにいけばよいではありませぬか」
忠三郎は吹雪に何も話していない。母、お桐の非業の死も誰からも聞かされていない吹雪は、未だに存命中と思ってそう言っている。
「あの…御台様。若殿の御母君は…」
「長門。余計なことを申すな」
忠三郎にたしなめられ、町野長門守はまた小さくなる。
「然様…では行ってみようか」
「は?若殿?それは一体…」
目を丸くする長門守に、忠三郎が笑いかける。
「まずは上様にお会いするのが先じゃ。長門、助太郎、参るぞ」
「上様?そ、それはまた何故に…」
忠三郎が何事もなかったかのように立ち上がり、町野長門守がいそいそと後に続く。
(我が家が未曽有の危機を迎えておるというのに、人を食ったあの態度…)
助太郎は二人の後姿を見ながら、重い足取りで屋敷を後にした。
忠三郎は登城し、信長への謁見が許されると、いつもの笑顔で伺候する。
「左近のことで参ったか」
「はい。巷の根も葉もなき風聞に、上様も心を痛めておられるものと案じておりまする」
信長は一笑して、片膝立てる。
「摂津から兵を退いたのは、謀心あってのことと言う者がおる」
「ゆめゆめ、かようなことは…。そうであれば、大坂湾の三九郎も兵を退いておりましょう」
三九郎は未だ、生真面目に大阪湾の海上封鎖を続けている。
「左近に送った使者が始末され、三十郎が腹をたてて、細野を懲罰すると申して居る」
「その義は…八郎殿の命に関わると思うた子らの仕業と聞き及びました」
子供たちの仕業とはいえ、連枝衆の家人が命を落としている以上、何もしないわけにはいかないだろう。
「不問に付す訳にはいかぬ」
「それは重々、承知しておりまする」
信長はしばらく、忠三郎の顔をじっと見ていたが、
「鶴、伊勢に行きたいか?」
「はい。お許しをいただけましたら、すぐにでも」
信長は頷いて
「己の力で八郎を救おうと、そう考えたか」
信長に言い当てられ、忠三郎は少し眉を上げたが、はい、と微笑む。
「できるか、その方に。八郎を救うことが」
忠三郎は、意外な問いにオヤと思った。
(忘れていた…八郎殿は上様にとっても孫であった)
多少なりとも、八郎に対する情があるのかもしれない。
「これにはいくらかの勝算がござりまする」
「許す。伊勢へ行け。したが、これ以上、騒ぎになると面倒じゃ。兵を大勢連れて行くな。左近にも一兵も動かすなと伝えよ」
「ハハッ、有難き幸せ」
信長はにわかに立ち上がり、平伏する忠三郎の隣に片膝つく。
「ただし、事を収めるためには左近が二心なき旨を示す必要がある」
騒ぎが大きくなっている。収束させるにはそれなりのことをしなければならない。
「二心なき旨を示す…とは、いかように?」
忠三郎は平伏したまま、信長の話を聞いていた。
信長に謁見し、上機嫌で日野に戻った忠三郎は、日野中野城には戻らず、音羽城の方へ足を向ける。
「若殿、どちらへおいでで?」
長門守が訊ねると、忠三郎は笑顔を見せて、
「長門。お爺様が残されたもので、最もよいものは何じゃと思う?」
「それはやはり、この日野では」
忠三郎はうんうんと頷き、
「確かに、そうじゃ。助太郎、他には何があると思う?
「それは…鉄砲鍛冶村では?」
蒲生家の鉄砲隊の多さは滝川家に並び、織田家中では一・二を争う。
「いかにもその方らしい。他には?」
快幹がこの日野に残したものを上げ連ねれば枚挙にいとまがない。町は豊富な物資であふれ、保護した多くの寺、築いた城、詩歌をはじめとする数々の文化、揃い集めた唐物、主家六角を凌いだ巨万の富。
「わからぬか?それは人の縁じゃ」
「人の縁…でござりまするか」
「そうじゃ、これは金では買えぬ。お爺様のお陰で、この江南はもとより、北勢、中勢、南勢、伊勢中に我が家の名は轟いておる。それゆえ…それを大切に使わせてもらおうと思うておる」
「はぁ…では向かう先は関様の御屋敷で」
町野長門守の察した通り、向かった先は中野城と音羽城の中間、西大路にある関盛信の屋敷。
かつて中勢の亀山、峯、国府、鹿伏兎(かぶと)で影響力を持っていた関安芸守盛信は忠三郎の叔父にあたる。織田家に恭順後、謀反の嫌疑をかけられて同族の神戸友盛とともに伊勢を追われ、日野に幽閉の身となった。快幹は二人のためにそれぞれこの西大路に新たに屋敷を造り、そこに住まわせている。
「祖父快幹はまことに人の縁を大切に思うておりました。それがしも祖父に倣い、叔父上と親交を深めたいと願うておりまする」
関盛信はかつて能興行を装って、一益と共に自分を幽閉したこの甥を、全く信用していない。
「今更、何用か。わざわざ来たからには、何か用向きあってのことじゃろう」
「はい。中勢の細野藤敦の元に滝川左近の一子がおるのは、すでにお聞き及びのことかと思うておりまする。叔父上が中勢の土豪衆に声をかけてくだされば、子を救い出すことも可能かと考えました」
「なんと厚かましい。わしに、左近の手助けせよと、そう申すか!」
図々しくも平然と言ってのけた忠三郎に、関盛信が呆れかえる。しかし忠三郎は動じない。常の笑顔を向けたままだ。
「叔父上ならば、喜んでお助けくださるかと思うて参りました」
「何をどう考え違いすると、そうなるのじゃ」
「御爺様の手文庫を整理いたしました」
忠三郎がにっこり笑ってそう言うと、関盛信の顔色が変わる。
快幹の手文庫から出てきた密書の数々は、そのほとんどが南江・甲賀・伊勢からのもので、時折、伊賀や北江のものも交じっていたが、いずれも甲賀の素破たちが持ち込んだものだ。忠三郎は百を超える文書に一つ一つ目を通し、織田家の家臣の名が出てきたときには笑いが止まらなくなった。
(流石はお爺様。これぞ、我が家にお爺様が残された最大の遺産)
これがあれば、祖父快幹亡きあと、忠三郎が密かに江南、伊勢を牛耳ることも可能だ。
「御爺様は人の縁を大切になされるお方。叔父上からの文も、とても大切に保管されておりました」
大切に保管していたのは人の縁を思ってのことではなく、身の保身のためと思われたが、そこは何事につけ古式ゆかしい蒲生家。
「引うべし松の下はに世をへれば 千とせの後の人もたつねむ」
「これは我が家の高祖父、蒲生貞秀公が詠まれた歌。貞秀公の血脈は関殿の家にも脈々と流れておりましょう。千歳の後まで、親戚一同共に、手を携えて参ろうではありませぬか」
舌を巻く叔父の前で、穏やかにほほ笑み、ぬけぬけとそう言った。
足取りも軽く、関盛信の屋敷から出てきた忠三郎を、町野長門守と助太郎が迎える。
「次はどちらへ?」
「千草峠を越え、千種の叔父上の元へ参ろう」
千種城には北勢四十八家の一人、千種三郎左衛門がいる。千種三郎左衛門は、先年、城を取り囲んで半ば強引に恭順させた経緯があった。
こちらは忠三郎の母方の叔父、つまりお桐の弟にあたる。
忠三郎は千種城につくと、立てていた計画を話し、叔父の協力を仰いだ。
三郎左衛門は黙って話を聞いていたが、
「そちが来ると知らせを受けたゆえに、これを用意しておいた」
と、忠三郎の前に短冊を置いた。
袖ひちてむすびし水のこほれるを
春立つけふの風やとくらむ
古今集にある紀貫之の歌だ。袖を濡らしてすくった水が冬になって凍っていたが、今日の立春の風が溶かしている、と詠う。
(これは…)
驚いて短冊を持つ忠三郎を見て、三郎左衛門が
「わかるじゃろう?」
和歌、特に古今集には言葉では表現されていない意味が含まれていることが多い。「袖ひちて」つまり袖が濡れ。和歌では涙で袖を濡らすことの表現として使われる。「結びし水の凍れる」は「結びしみずのこ」手を結んでいる三歳の子、「凍れる」は凍ったような亡骸。三歳の子を亡くし、悲嘆にくれる紀貫之が、春の風に向かい、この心を解きほぐしてほしいと、そう願った歌だ。
「これはどなたが?」
「そちの母、お桐じゃ」
母、お桐が子を亡くしていたという。
(何も知らなかった)
周りの者は誰も、お桐のことを教えてくれない。
「これまで幾人も、そちから筆を取り上げようとしたはず。したがそちは母からもらった象牙の筆を大事に持ち歩き、相も変わらず和歌に没頭しておると聞いた。お桐はいつか、鶴が歌のこころが分かるときがくると思い、短冊を残したのじゃ」
「亡くした子とは?」
「そなたの弟。それももう二十年以上も前のことになる」
弟がいたことさえ知らなかった。父、賢秀はお桐にまつわることは何も話さない。
「誰も母上のことを教えてはくれぬであろう。謀反人の家のものとはそのようなもの」
「叔父上は、何故に今これをそれがしに?滝川左近が謀反を起こすとでも?」
三郎左衛門の言わんとしていることが分からず、忠三郎は何度も短冊を読み返す。
「そうではない。したが、これからそちがやろうとしていることは、一歩過てばその危険も十分、はらんでおる。その覚悟があるならば、力を貸そうではないか」
「叔父上、まことに忝い。お礼申し上げまする」
なんとか叔父の承諾をとりつけ、恭しく頭を下げるが、その胸中は複雑だ。
(父上は…幼き我が子を亡くしても、弔いひとつしない。いかに乱世とはいえ、嫡男以外の命は、それほど軽きものなのか)
冷酷にも兄、重丸を闇に葬ろうとした父。何につけ祖父の顔色を窺いつつも、反目し、重丸を犠牲にし、二人の争いによって母お桐までも命を落とした。そのことも含め、賢秀は多くを語らず、何事もなかったかのようにふるまう。そんな父を長年、不信感を持ってみてきているだけに、父に対する疑念ばかりが募った。
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