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9 不足の美
9-5 謀反
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九月、一益は光秀や与力の細川藤孝、総大将の津田信澄とともに大山城を攻め落とし、波多野長治の籠る八上城へ兵を向けようとしていた。そこへ急使が現れる。使者は蒲生家の儀峨忠兵衛。
「殿、鶴めは何を急に仰々しく知らせてきたので?」
只ならぬ空気に義太夫が恍けた顔をして訊ねる。忠三郎からの書状に目を通した一益は、何度か読み返し、
「都では荒木摂津守、逆心の噂あり…そのように書き綴っておる」
「それはまことで?安土にもそのような知らせが?」
都で噂されているのであれば、その日のうちに安土の信長にも知らされるだろう。
「その噂がまことであれば、我らは退路を断たれたことになりまする」
それは播磨の秀吉も同じだ。摂津一国が毛利に寝返ったとなると前後に敵を抱えることになる。
「羽柴筑前とともに三木城を攻めていたが、無断で引き上げ、居城の有岡城に籠ったとある」
これは大ごとになるかもしれない。事の真偽を確かめようと思っていると、明智光秀から呼び出しがあり、本陣へと赴いた。
「左近殿、荒木殿が何故か突如として有岡城に戻られたよしにて。これより我らは荒木殿の元へ行き、存念をお聞きして参りまする」
明智光秀が早々に支度して陣を離れると、一益は義太夫を呼んだ。
「荒木の与力につけられている高山右近や中川も同心しておるやもしれず、毛利海賊どもも呼応して動きだす恐れもある。ロレンソら宣教師どもの動向もあわせて探って参れ」
「ハハッ、この義太夫にお任せあれ」
このまま丹波にはいられない。義太夫を送り出すと、一益も退陣の支度をはじめた。
光秀が万見仙千代、松井有閑とともに摂津の有岡城へ行き、荒木村重と対面した。村重は謀反を否定し、申し開きのために安土まで行くと約束して光秀たちを返したが、村重が有岡城を出て安土に向かうことはなかった。
その知らせを聞いた信長が再度、明智光秀や羽柴秀吉を使者に立てて有岡城へ向かわせたのを見て、一益は丹波から引き上げ、京へ戻った。
「これは天下を揺るがす一大事。摂津守殿は本願寺攻めのために築いた九つの城を抑え、我らと対峙するおつもりで兵糧を入れ、兵を集めておられる由」
籠城して毛利の援軍を待つようだ。義太夫の報告を聞くと、村重の本気度が伝わってくる。
「毛利の海賊衆に動きがござります。恐らくは荒木殿と示し合わせておるものかと」
三九郎からも再三知らせが届いている。大坂湾を抑えて本願寺を包囲する大阿武船を排除しようとしている。
「手際がよい。よくよく考え、前もって備えた上での謀反であろう。打つ手を間違えれば、我らが危なくなる」
こうなることを予想していなかったわけではない。一益は手勢を引き連れて三九郎の待つ大阿武船に向かった。
「殿じゃ、殿が参られたぞ!」
一益の姿を見て津田秀重がそう叫ぶと、船内が一気に沸き立った。それを聞いて三九郎が姿を現す。
「父上、来てくだされたか」
不安を隠せない三九郎を見て、一益は厳しい顔をする。
「毛利海賊がすぐそばまで迫っておる。油断するな」
「はい…されど毛利海賊は何百と言う小船で襲ってくると聞き及びました。果たして我らの装甲で持ちこたえるかどうか…」
「兵とは詭道なり。利にしてこれを誘い、乱にして此れを取る。よいか、まずは敵を誘い出せ。船を前に出して敵をおびき出し、その上で大筒で敵の小船を吹き飛ばせ」
一益がそう言うと、三九郎は驚愕し、
「敵をおびき出すとは…そのようなことをすれば、敵の焙烙火矢の餌食になり、船は燃え上がりましょう」
真っ青になって反対する。
「三九郎。大将であるそなたが臆すれば、兵は皆、敵を恐れる。少しでも敵を恐れる心あれば、勝つことなどはできぬ」
なおも不安そうな顔をする三九郎を見て、津田秀重がもの言いたげに一益を見る。三九郎は実戦経験の少なさから、自信を持つことができないでいるようだ。
(なんの根拠もなく、常に自信満々に敵中に飛び込むのもどうかと思うが…)
蒲生忠三郎の笑顔が目に浮かぶ。軽き大将と陰口を叩かれてはいるが、あの自信はどこからくるものなのか。織田家の中でも、その勇猛果敢で豪胆な姿は若輩ながら高く評価され、さすがは上様が見込んだ娘婿よと称えられている。その半面、父親の蒲生賢秀は逆に合戦と聞くと病を発する臆病者と笑われている。
(あれはあれで、父と子で丁度、つり合いが取れているようにも見える)
十一月に入ってから寒さが一層厳しい。大坂湾から瀬戸内海に抜ける風は肌に突き刺さりながら、海の上を西から東に吹いている。
「伊勢の海とはまるで異なる…まことに大事ないであろうか」
三九郎が振り返って津田秀重に尋ねる。一益はそれを横目で見つつ、九鬼嘉隆のいる鉄甲船へと乗り移った。
「これは左近殿。いよいよ毛利の海賊どもに一矢報いるときが近づいて参りましたぞ」
三九郎とは打って変わって余裕を見せる九鬼嘉隆に、一益も安堵の表情を浮かべる。
「雑賀海賊との一戦もお聞きであろう。この大阿武船に近づく小船は皆、捻り潰し、行く手を阻む船は大筒で吹き飛ばした次第でござる」
狙い通りだ。これまでの海戦といえば、焙烙火矢で敵の船を焼き払うか、敵の船に飛び乗って斬り合うといった源平さながらの戦さだった。戦国最強と言われる村上海賊が得意とする戦法だ。
(されど、かような古きやり方は、もはや通用しない)
一益が目を付けたのは九鬼家の阿武船の造船技術だ。阿武船を造るためにはそれだけの資金が必要になるが、堺、桑名、津島、大湊を抑えている織田家の資金力をもってすれば問題ではない。大阿武船であれば敵が乗り込むことなどはできない。焙烙火矢さえ防げば、あとは火力をもって敵を制することができる。
一益は津田秀重を呼んで、今後のことを言い含めると堺港を後にした。
三九郎を任された傅役の津田秀重は、どうしたものかと考えあぐねている。
「若殿。この秀重に若殿の存念をお聞かせくだされ。若殿が恐れているのは敵にあらずと、殿はそう仰せでした」
三九郎は秀重を振り返り、浮かない顔を見せる。
「父上は…わしに失望しておるのではないか」
我ながら不甲斐ない態度だったことは分かっている。一益は顔色一つ変えず、叱咤することもなかったが、三九郎に家督を譲ると決めたことを後悔しているのではないだろうか。
「殿は我らに何の相談もなく、若殿を滝川家の跡取りにとお決めになりました。その殿の御心の内はわかりませぬ。されど、若殿が何をかように恐れておいでなのか、それも我らにはわからぬ次第にて…。我らは先日、雑賀の海賊どもにも勝利したばかりではありませぬか」
三九郎は押し黙り、じっと海を見つめる。
「わしは…上様が恐ろしい」
思いつめた顔でそう言う。
本願寺よりも、毛利よりも、信長が恐ろしい。鉄船は一益が考案した。滝川家の阿武船を白船にしたのも一益の考えだ。その阿武船に大筒、大鉄砲を積み込み、敵船に対抗するという戦略も一益が考えた。
「万が一にも毛利海賊に打ち負かされたときに…織田家を取り巻く情勢はいよいよ厳しくなろう。そうなれば上様は怒られ、父上に詰腹切らせると仰せになるのではないか」
三九郎には信長が神も仏も恐れぬ冷酷非道な魔王にしか見えない。一益に限って、多少苦戦しても敵の手にかかるようなことはない。滝川家を脅かすのは敵ではない。信長ではないだろうか。
「若殿はそのようにお考えで…」
「源二位、片瀬河まで迎《むかひ》におはしけり。それより色の姿になりて、泣く泣く鎌倉へ入り給ふ。聖《ひじり》をば大床《おほゆか》にたて、我身は庭に立って、父の頭をうけとり給ふぞ哀れなる…」
昔読んだ平家物語の一節。源頼朝が父、義朝のしゃれこうべを受け取るために片瀬川まで出向く。そこで喪に服し、服を着替えて泣きながら鎌倉へ入る。しゃれこうべを持ってきた聖を大床に立たせ、頼朝は庭に立ち、父のしゃれこうべを受け取る。その有様を思い浮かべるだけで、気持ちが沈んでいく。
(このお方は心根がお優しすぎる)
一益の進退を憂慮する三九郎の横顔を見て、津田秀重は気づいた。
幼い頃から武家の跡取りとして育てられていない三九郎には、武士としての覚悟もなく、厳しさも分からない。三九郎は忠三郎や他の織田家中の若者とは違う。武家の跡取りというよりは、一人の、父を慕い、家族を想う素朴な青年なのだ。
「かようにお考えとは…この秀重の考えが足りませなんだ。若殿は、若殿らしく、今のままの若殿でいてくだされ。殿もそのようにお望みと、この秀重はかように考えまする」
いささか頼りなく見えるかもしれないが、織田家に連なる怜悧な奉行衆のようにはなってほしくない。一益は三九郎に対して何も言わないが、すべて承知の上で、三九郎を跡取りにしたのではないだろうか。
「然様か…父上は…わしに、忠三郎のようになってほしいと、そう思うておるのではないのか」
「いえ。我が殿はそのようなお方ではござりませぬ。それこそ短慮というもの。年若い方々にはお分かりにはなりませぬが、若殿にしかできぬことがあるゆえに、殿は若殿に家督を譲ると仰せになられました。当家では一番年長のそれがしを共につけられたことが何よりの証拠。それは若殿にも、いずれはお分かりになりましょう」
「わしにしかできぬこと…」
それは何なのか。一益の考えの半分も理解できずにいる。
「我ら重臣一同、若殿をお支えしておりまする。海戦は九鬼殿が指揮をなされますゆえ、なにもご案じめさるな」
そうは言われてもやはり不安は払しょくできない。だが、毛利海賊は日々近づいてきている。あと数日もすれば、これまでにない大掛かりな海戦の火ぶたが切って落とされるだろう。
二日後の十一月六日。堺港で多くの見物人が見守る中、毛利海賊と織田の大阿武船との海戦がはじまった。毛利の旗を掲げる小早船、関船は次々に現れ、織田家の大阿武船を取り囲み、その数は五百艘はあるかと思われた。
「まだまだじゃ!よーく敵を引き付けよ!」
九鬼嘉隆はなかなか動こうとしなかった。堺で見守る人々は見たこともない数の戦船の出現に驚き、声をあげる。
「これは大船では太刀打ちできまいて」
「流石は毛利海賊。かような数を揃えるとは」
小船からおびただしい数の焙烙火矢が放たれるが、大阿武船はそれを跳ね返し、微動だにしなかった。
「火がつかぬ…このまま防げるか」
三九郎は不安になり、火矢が放たれるたびにその行方を見守るが、阿武船の装甲は保たれたままだ。
やがて大きな音が辺りに轟いた。九鬼嘉隆が大筒を放ったようだ。それを合図に次々に大筒が放たれ、敵の小船が粉砕されていく。足元まで響くような大きな音が、人々を恐怖に陥れる。。
「この距離であれば打ち損じることはない。皆、一斉に大鉄砲を撃ち込め!」
津田秀重の声がして、大鉄砲が火を噴き、毛利海賊の船は見る影もなく海に沈んでいく。近づく船は皆、大筒の的となって海に沈み、距離をとっている船は後ろに回り込み、なんとか近づこうとするが大鉄砲の集中砲火を浴びて、これもまた沈んでいく。
九鬼嘉隆は大将船と思しき船を見定めると、大筒を放って船に損害を与えた。やがて歯が立たないと悟った敵船の群れが距離を取り出す。複数の大阿武船でそれを追い、木津河口まで追い込むと、大阿武船に取り付けられた大筒を狙い定め、一斉に弾を撃ち込み、粉々に打ち砕いた。
それを見た他の船が警戒しながら、退却していくのが見える。
「敵が逃げる。勝ったのか…我らが…あの毛利の大軍に…」
まるで幻を見ているようだった。三九郎は一人、打ち震え、傍らに控える津田秀重に尋ねる。
「はい!お味方の大勝利にござりまする!殿の仰せの通りに…我らは一艘も失うことなく、あの毛利を退けたのでござります」
三九郎は体中から力が抜け、船の柱にもたれかかった。終わってみると、あっけなく敵は退却し、あっという間に戦さは終わった。互いに名乗り合うこともなければ、一騎打ちもない。
(これが…父上の言う、新しい戦さか)
冬の空に、鉄甲船から聞こえる勝鬨が響く。大阿武船には全く損害がない。前回の敗戦からわずか二年後の海戦は、織田家の大勝利だった。
大阿武船の勝利は、その日のうちに京にいる一益の元にもたらされた。
(この勝利の勢いで、摂津守を切り崩す)
もはや一刻の猶予もならないと上洛してきた信長の元に伺候した。
「如何に説こうとも摂津守の心は変わりませぬ。あやつの元にある城、これを策をもって落とし、手足を削いだ上で本城の有岡城を取り囲むのが得策かと存じ上げまする」
信長としては村重を失うのは避けたかっただろう。しばらく不機嫌そうに黙り込んでいたが、
「ひとつずつ、とな。策があるか」
「まずは茨木城の中川清秀と高槻城の高山右近。中川は金でいかようにもなりましょう。して、高山右近は…」
ロレンソをはじめとしたキリシタンが使える。
「上様直々の御出馬ともなれば、謀反人どもは皆、震え上がること間違いありませぬ。二名の城の間に砦を築いて陣城とし、その上で使者を送り我が方へ寝返りを促し、摂津守を追い込むのでござります」
「よかろう。左近、茨木城、高槻城の前に砦を築き、使者を送れ」
一益は信長の元から下がると、屋敷に戻り、義太夫、新介を呼びに行かせた。そこへ信長と共に上洛している忠三郎が姿を現した。
「義兄上、海戦での大勝利、聞き及びました。今、都はその話でもちきりでござります」
織田家にとっては一大事となる危機的状況においても、忠三郎だけは常と変わらない。果たして希代の大器なのか、一部の者がいうように鈍重なだけなのか。
「ロレンソは何処におる?」
「今は洛外に住むキリシタン門徒の家を回っておる時間か、よもや安土に参れらたかと…。ロレンソ殿に何か?」
一益や信長の考えに、薄々気づいているようだ。涼しい顔を返してきても、その瞳が不安げに揺らいでいる。
「高山右近を説くため、伴天連どもを右近の元へ送ることとなった。これで右近の心が変わらなければ…」
「義兄上、ちとお待ちを。摂津守殿のもとには、人質として送り込んだ右近殿のお子や妹御がおられる筈。易々とこちらへ寝返ると仰せになるとは思えませぬが、そうなったときに上様は如何なされると?」
平然と尋ねるが心の内は穏やかではいられないのだろう。忠三郎の視線が落ち着かない。
「鶴、あの第六天魔王様がお怒りになられたときの怖さを存じておろう?切支丹どもを根こそぎ成敗されるのではないか?」
広間に入って来た義太夫が、笑ってそう言う。そこまではないだろうが、畿内追放は免れないだろう。
「これは異なことを。ロレンソ殿もフロイス殿も上様のお気に入り。手づから膳を運び、もてなされた程ではないか」
忠三郎が色を失って言うと、義太夫が軽く笑い飛ばす。
「それは南蛮との貿易のためじゃ。そのようなこと、はじめから分かっておったじゃろう」
驚いた忠三郎が、一益に向き直り、
「義兄上は…義兄上はそれでよろしいので?」
非難するように言うので、義太夫が手を振り、
「鶴、大概にいたせ。殿に詰め寄ったところで…」
「黙れ、義太夫。わしは義兄上に聞いておるのじゃ。義兄上、お答えくだされ」
だんだん面倒なことになってきた。老成している反面、妙に子供じみたところがあるので、こういうときは常に手を焼いてきている。この状態になると、忠三郎は簡単には引き下がらない。
「我らが戦国に生き、ひとつの国を治める者である以上、何を信心しようが、いざと言う時それは利用され、時として足かせとなる。皆、置かれている状況が異なる以上、その答えもまた千差万別。各々、何が最も望ましい選択か、静まって己の心に問うしかない。右近やロレンソだけではない。そなたやこのわしも、皆、同じである」
淡々とそう話すと、忠三郎がぴたりと押し黙った。その場はしんと静まり返る。
「何が最も望ましい選択か…」
「然様。右近は国を捨てる覚悟もあろう。したが己の身内を捕らわれている以上、迂闊な選択もできまい。兎も角、つまらぬことはするな。伴天連どもが如何いたすか、そして右近が如何なる選択をするか、我らはそれを見守ろうではないか」
いずれを取るにせよ、高山右近にとっては苦渋の選択になるだろう。ロレンソたちはどんな助言をするのだろうか。
(それにしても…)
忠三郎に、それでいいのかと聞かれて答えられなかった。ロレンソをはじめとする伴天連たちとの付き合いは、南蛮貿易のためだった筈だ。それでも、迷わず答えることができなかった。
しかし妙な迷いは命取りになる。
「義太夫、新介。ロレンソたちを上様の前に伺候させよ。高槻城を落とさねばならぬ」
「ハハッ。すぐにでも見つけ出しまする」
義太夫と新介が足早に去る。
忠三郎はうつむいて何かを考えていたが、ふと口を開く。
「右近殿であれば、わざわいも幸いも、甘んじて受けられましょう。それらはすべて、まことの神から出たもの。人はただ、己の罪深さゆえに不平不満を言うだけのもの」
高山右近の選択は忠三郎にとって、何より織田家にとっても、重要な選択になる。果たして右近はどのような選択をするのだろうか。
義太夫、新介の二人は洛外へ向かい、ロレンソを探し回った。キリシタンの家から家を訪ね、虱潰しに探したが、どこへ行っても見つからない。忠三郎の言うように、安土に向かったかもしれない。
「まさか、あやつ。雲行きが怪しくなってきたのを見て取り、取るものも取らずに逃げ出したか」
「生臭坊主であればさもあらん」
しかし逃げたとなると右近の説得が難しくなる、と心配しつつ二人が安土に向かおうとすると、意外にもロレンソは南蛮寺にいるという情報が入った。
どうやら呼び出されることを想定して、使者が現れるのを待っていたようだ。
「灯台下暗しとはこのこと。全く手古摺らせてくれるのう」
義太夫が悔しそうに言うと、新介はエッと振り返り、
「義太夫が南蛮寺にはおらぬというから、探し回ったのではないか」
「…さては鶴のやつ、我らをたばかったか」
キリシタン贔屓の忠三郎は、追手を差し向けられることを想定して、洛外にいると出鱈目を言ったようだ。
「したが、逃げる時間を稼いだとも言い難い…何故にいつまでも南蛮寺におったかのう…。あやつらは上様を恐れて逃げることもできぬのか」
「わしならば、さっさと逃げるがのう」
新介がからからと笑う。
義太夫は南蛮寺まで行くと、ロレンソと、都のイエズス会の責任者であるオルガンティノの二人に事情を話した。
「蒲生忠三郎から知らせが来たのであろう。何故に逃げなかった?」
道すがら義太夫が訊ねると、ロレンソは平然としたもので、
「我らには逃げる理由がない」
「そうかのう…。生臭坊主も年貢の納め時ではないか。上様の前で何と申し開きいたす所存か」
「わしはイルマンじゃ。坊主でもなければ百姓でもない。年貢も納めぬし、これといって申し開きするようなこともない」
変わらぬ毒舌振りに、義太夫は苦笑する。
「少ししおらしい態度をとってみい。皆、そなたらのことを案じておるのじゃぞ」
ああは言っても、一益は古い付き合いのロレンソのことを心配しているだろう。そう思って言っているのだが、
「何も案ずることなどない。この地上において、天の父が知らぬことなどは何もない。すべては御手の中。人はそれに手を加えることなどできぬわ」
一向に言葉数の減らないロレンソに舌を巻きつつ、信長の元に連れていく。村重に裏切られた信長の怒りは相当なものだ。信長の怒りを知れば、ロレンソも少しは大人しくなるだろう。
ところが、信長に謁見して戻って来たロレンソの様子はひとつも変わることがなかった。
「上様は何と仰せであった?」
「高山右近殿が上様に歯向かうのであれば、切支丹を根絶すると仰せじゃ」
他人事のように言う。
「…で?その方は如何いたす?」
「これより羽柴殿らとともに高槻に参る。中将によろしゅう伝えてくれ」
共にいたオルガンティノは浮かない顔をしていたが、ロレンソは常と変わらぬ様子で去っていった。
「なんじゃ、あやつは。己の立場が分かっておるのか」
新介が呆れてそう言う。
「昔から変わらぬが…。やはり何やらようわからぬ奴じゃ。まぁ、我らの役目は終わった。高槻城包囲の命が下っておる。我らも戦さ支度をせねばな」
ロレンソたちの説得が失敗した暁には、毛利に付け入る隙を与えず、すぐさま高槻城に攻めかかる手筈になっている。
「摂津守をそう簡単に倒せるとも思えぬ。長い戦さにならねばよいが」
天下のことが治まりつつある中の荒木村重の謀反。本願寺、毛利、そして荒木村重。倒せども倒せども敵が増えるばかり。この状況を打破していけるのだろうか。
「殿、鶴めは何を急に仰々しく知らせてきたので?」
只ならぬ空気に義太夫が恍けた顔をして訊ねる。忠三郎からの書状に目を通した一益は、何度か読み返し、
「都では荒木摂津守、逆心の噂あり…そのように書き綴っておる」
「それはまことで?安土にもそのような知らせが?」
都で噂されているのであれば、その日のうちに安土の信長にも知らされるだろう。
「その噂がまことであれば、我らは退路を断たれたことになりまする」
それは播磨の秀吉も同じだ。摂津一国が毛利に寝返ったとなると前後に敵を抱えることになる。
「羽柴筑前とともに三木城を攻めていたが、無断で引き上げ、居城の有岡城に籠ったとある」
これは大ごとになるかもしれない。事の真偽を確かめようと思っていると、明智光秀から呼び出しがあり、本陣へと赴いた。
「左近殿、荒木殿が何故か突如として有岡城に戻られたよしにて。これより我らは荒木殿の元へ行き、存念をお聞きして参りまする」
明智光秀が早々に支度して陣を離れると、一益は義太夫を呼んだ。
「荒木の与力につけられている高山右近や中川も同心しておるやもしれず、毛利海賊どもも呼応して動きだす恐れもある。ロレンソら宣教師どもの動向もあわせて探って参れ」
「ハハッ、この義太夫にお任せあれ」
このまま丹波にはいられない。義太夫を送り出すと、一益も退陣の支度をはじめた。
光秀が万見仙千代、松井有閑とともに摂津の有岡城へ行き、荒木村重と対面した。村重は謀反を否定し、申し開きのために安土まで行くと約束して光秀たちを返したが、村重が有岡城を出て安土に向かうことはなかった。
その知らせを聞いた信長が再度、明智光秀や羽柴秀吉を使者に立てて有岡城へ向かわせたのを見て、一益は丹波から引き上げ、京へ戻った。
「これは天下を揺るがす一大事。摂津守殿は本願寺攻めのために築いた九つの城を抑え、我らと対峙するおつもりで兵糧を入れ、兵を集めておられる由」
籠城して毛利の援軍を待つようだ。義太夫の報告を聞くと、村重の本気度が伝わってくる。
「毛利の海賊衆に動きがござります。恐らくは荒木殿と示し合わせておるものかと」
三九郎からも再三知らせが届いている。大坂湾を抑えて本願寺を包囲する大阿武船を排除しようとしている。
「手際がよい。よくよく考え、前もって備えた上での謀反であろう。打つ手を間違えれば、我らが危なくなる」
こうなることを予想していなかったわけではない。一益は手勢を引き連れて三九郎の待つ大阿武船に向かった。
「殿じゃ、殿が参られたぞ!」
一益の姿を見て津田秀重がそう叫ぶと、船内が一気に沸き立った。それを聞いて三九郎が姿を現す。
「父上、来てくだされたか」
不安を隠せない三九郎を見て、一益は厳しい顔をする。
「毛利海賊がすぐそばまで迫っておる。油断するな」
「はい…されど毛利海賊は何百と言う小船で襲ってくると聞き及びました。果たして我らの装甲で持ちこたえるかどうか…」
「兵とは詭道なり。利にしてこれを誘い、乱にして此れを取る。よいか、まずは敵を誘い出せ。船を前に出して敵をおびき出し、その上で大筒で敵の小船を吹き飛ばせ」
一益がそう言うと、三九郎は驚愕し、
「敵をおびき出すとは…そのようなことをすれば、敵の焙烙火矢の餌食になり、船は燃え上がりましょう」
真っ青になって反対する。
「三九郎。大将であるそなたが臆すれば、兵は皆、敵を恐れる。少しでも敵を恐れる心あれば、勝つことなどはできぬ」
なおも不安そうな顔をする三九郎を見て、津田秀重がもの言いたげに一益を見る。三九郎は実戦経験の少なさから、自信を持つことができないでいるようだ。
(なんの根拠もなく、常に自信満々に敵中に飛び込むのもどうかと思うが…)
蒲生忠三郎の笑顔が目に浮かぶ。軽き大将と陰口を叩かれてはいるが、あの自信はどこからくるものなのか。織田家の中でも、その勇猛果敢で豪胆な姿は若輩ながら高く評価され、さすがは上様が見込んだ娘婿よと称えられている。その半面、父親の蒲生賢秀は逆に合戦と聞くと病を発する臆病者と笑われている。
(あれはあれで、父と子で丁度、つり合いが取れているようにも見える)
十一月に入ってから寒さが一層厳しい。大坂湾から瀬戸内海に抜ける風は肌に突き刺さりながら、海の上を西から東に吹いている。
「伊勢の海とはまるで異なる…まことに大事ないであろうか」
三九郎が振り返って津田秀重に尋ねる。一益はそれを横目で見つつ、九鬼嘉隆のいる鉄甲船へと乗り移った。
「これは左近殿。いよいよ毛利の海賊どもに一矢報いるときが近づいて参りましたぞ」
三九郎とは打って変わって余裕を見せる九鬼嘉隆に、一益も安堵の表情を浮かべる。
「雑賀海賊との一戦もお聞きであろう。この大阿武船に近づく小船は皆、捻り潰し、行く手を阻む船は大筒で吹き飛ばした次第でござる」
狙い通りだ。これまでの海戦といえば、焙烙火矢で敵の船を焼き払うか、敵の船に飛び乗って斬り合うといった源平さながらの戦さだった。戦国最強と言われる村上海賊が得意とする戦法だ。
(されど、かような古きやり方は、もはや通用しない)
一益が目を付けたのは九鬼家の阿武船の造船技術だ。阿武船を造るためにはそれだけの資金が必要になるが、堺、桑名、津島、大湊を抑えている織田家の資金力をもってすれば問題ではない。大阿武船であれば敵が乗り込むことなどはできない。焙烙火矢さえ防げば、あとは火力をもって敵を制することができる。
一益は津田秀重を呼んで、今後のことを言い含めると堺港を後にした。
三九郎を任された傅役の津田秀重は、どうしたものかと考えあぐねている。
「若殿。この秀重に若殿の存念をお聞かせくだされ。若殿が恐れているのは敵にあらずと、殿はそう仰せでした」
三九郎は秀重を振り返り、浮かない顔を見せる。
「父上は…わしに失望しておるのではないか」
我ながら不甲斐ない態度だったことは分かっている。一益は顔色一つ変えず、叱咤することもなかったが、三九郎に家督を譲ると決めたことを後悔しているのではないだろうか。
「殿は我らに何の相談もなく、若殿を滝川家の跡取りにとお決めになりました。その殿の御心の内はわかりませぬ。されど、若殿が何をかように恐れておいでなのか、それも我らにはわからぬ次第にて…。我らは先日、雑賀の海賊どもにも勝利したばかりではありませぬか」
三九郎は押し黙り、じっと海を見つめる。
「わしは…上様が恐ろしい」
思いつめた顔でそう言う。
本願寺よりも、毛利よりも、信長が恐ろしい。鉄船は一益が考案した。滝川家の阿武船を白船にしたのも一益の考えだ。その阿武船に大筒、大鉄砲を積み込み、敵船に対抗するという戦略も一益が考えた。
「万が一にも毛利海賊に打ち負かされたときに…織田家を取り巻く情勢はいよいよ厳しくなろう。そうなれば上様は怒られ、父上に詰腹切らせると仰せになるのではないか」
三九郎には信長が神も仏も恐れぬ冷酷非道な魔王にしか見えない。一益に限って、多少苦戦しても敵の手にかかるようなことはない。滝川家を脅かすのは敵ではない。信長ではないだろうか。
「若殿はそのようにお考えで…」
「源二位、片瀬河まで迎《むかひ》におはしけり。それより色の姿になりて、泣く泣く鎌倉へ入り給ふ。聖《ひじり》をば大床《おほゆか》にたて、我身は庭に立って、父の頭をうけとり給ふぞ哀れなる…」
昔読んだ平家物語の一節。源頼朝が父、義朝のしゃれこうべを受け取るために片瀬川まで出向く。そこで喪に服し、服を着替えて泣きながら鎌倉へ入る。しゃれこうべを持ってきた聖を大床に立たせ、頼朝は庭に立ち、父のしゃれこうべを受け取る。その有様を思い浮かべるだけで、気持ちが沈んでいく。
(このお方は心根がお優しすぎる)
一益の進退を憂慮する三九郎の横顔を見て、津田秀重は気づいた。
幼い頃から武家の跡取りとして育てられていない三九郎には、武士としての覚悟もなく、厳しさも分からない。三九郎は忠三郎や他の織田家中の若者とは違う。武家の跡取りというよりは、一人の、父を慕い、家族を想う素朴な青年なのだ。
「かようにお考えとは…この秀重の考えが足りませなんだ。若殿は、若殿らしく、今のままの若殿でいてくだされ。殿もそのようにお望みと、この秀重はかように考えまする」
いささか頼りなく見えるかもしれないが、織田家に連なる怜悧な奉行衆のようにはなってほしくない。一益は三九郎に対して何も言わないが、すべて承知の上で、三九郎を跡取りにしたのではないだろうか。
「然様か…父上は…わしに、忠三郎のようになってほしいと、そう思うておるのではないのか」
「いえ。我が殿はそのようなお方ではござりませぬ。それこそ短慮というもの。年若い方々にはお分かりにはなりませぬが、若殿にしかできぬことがあるゆえに、殿は若殿に家督を譲ると仰せになられました。当家では一番年長のそれがしを共につけられたことが何よりの証拠。それは若殿にも、いずれはお分かりになりましょう」
「わしにしかできぬこと…」
それは何なのか。一益の考えの半分も理解できずにいる。
「我ら重臣一同、若殿をお支えしておりまする。海戦は九鬼殿が指揮をなされますゆえ、なにもご案じめさるな」
そうは言われてもやはり不安は払しょくできない。だが、毛利海賊は日々近づいてきている。あと数日もすれば、これまでにない大掛かりな海戦の火ぶたが切って落とされるだろう。
二日後の十一月六日。堺港で多くの見物人が見守る中、毛利海賊と織田の大阿武船との海戦がはじまった。毛利の旗を掲げる小早船、関船は次々に現れ、織田家の大阿武船を取り囲み、その数は五百艘はあるかと思われた。
「まだまだじゃ!よーく敵を引き付けよ!」
九鬼嘉隆はなかなか動こうとしなかった。堺で見守る人々は見たこともない数の戦船の出現に驚き、声をあげる。
「これは大船では太刀打ちできまいて」
「流石は毛利海賊。かような数を揃えるとは」
小船からおびただしい数の焙烙火矢が放たれるが、大阿武船はそれを跳ね返し、微動だにしなかった。
「火がつかぬ…このまま防げるか」
三九郎は不安になり、火矢が放たれるたびにその行方を見守るが、阿武船の装甲は保たれたままだ。
やがて大きな音が辺りに轟いた。九鬼嘉隆が大筒を放ったようだ。それを合図に次々に大筒が放たれ、敵の小船が粉砕されていく。足元まで響くような大きな音が、人々を恐怖に陥れる。。
「この距離であれば打ち損じることはない。皆、一斉に大鉄砲を撃ち込め!」
津田秀重の声がして、大鉄砲が火を噴き、毛利海賊の船は見る影もなく海に沈んでいく。近づく船は皆、大筒の的となって海に沈み、距離をとっている船は後ろに回り込み、なんとか近づこうとするが大鉄砲の集中砲火を浴びて、これもまた沈んでいく。
九鬼嘉隆は大将船と思しき船を見定めると、大筒を放って船に損害を与えた。やがて歯が立たないと悟った敵船の群れが距離を取り出す。複数の大阿武船でそれを追い、木津河口まで追い込むと、大阿武船に取り付けられた大筒を狙い定め、一斉に弾を撃ち込み、粉々に打ち砕いた。
それを見た他の船が警戒しながら、退却していくのが見える。
「敵が逃げる。勝ったのか…我らが…あの毛利の大軍に…」
まるで幻を見ているようだった。三九郎は一人、打ち震え、傍らに控える津田秀重に尋ねる。
「はい!お味方の大勝利にござりまする!殿の仰せの通りに…我らは一艘も失うことなく、あの毛利を退けたのでござります」
三九郎は体中から力が抜け、船の柱にもたれかかった。終わってみると、あっけなく敵は退却し、あっという間に戦さは終わった。互いに名乗り合うこともなければ、一騎打ちもない。
(これが…父上の言う、新しい戦さか)
冬の空に、鉄甲船から聞こえる勝鬨が響く。大阿武船には全く損害がない。前回の敗戦からわずか二年後の海戦は、織田家の大勝利だった。
大阿武船の勝利は、その日のうちに京にいる一益の元にもたらされた。
(この勝利の勢いで、摂津守を切り崩す)
もはや一刻の猶予もならないと上洛してきた信長の元に伺候した。
「如何に説こうとも摂津守の心は変わりませぬ。あやつの元にある城、これを策をもって落とし、手足を削いだ上で本城の有岡城を取り囲むのが得策かと存じ上げまする」
信長としては村重を失うのは避けたかっただろう。しばらく不機嫌そうに黙り込んでいたが、
「ひとつずつ、とな。策があるか」
「まずは茨木城の中川清秀と高槻城の高山右近。中川は金でいかようにもなりましょう。して、高山右近は…」
ロレンソをはじめとしたキリシタンが使える。
「上様直々の御出馬ともなれば、謀反人どもは皆、震え上がること間違いありませぬ。二名の城の間に砦を築いて陣城とし、その上で使者を送り我が方へ寝返りを促し、摂津守を追い込むのでござります」
「よかろう。左近、茨木城、高槻城の前に砦を築き、使者を送れ」
一益は信長の元から下がると、屋敷に戻り、義太夫、新介を呼びに行かせた。そこへ信長と共に上洛している忠三郎が姿を現した。
「義兄上、海戦での大勝利、聞き及びました。今、都はその話でもちきりでござります」
織田家にとっては一大事となる危機的状況においても、忠三郎だけは常と変わらない。果たして希代の大器なのか、一部の者がいうように鈍重なだけなのか。
「ロレンソは何処におる?」
「今は洛外に住むキリシタン門徒の家を回っておる時間か、よもや安土に参れらたかと…。ロレンソ殿に何か?」
一益や信長の考えに、薄々気づいているようだ。涼しい顔を返してきても、その瞳が不安げに揺らいでいる。
「高山右近を説くため、伴天連どもを右近の元へ送ることとなった。これで右近の心が変わらなければ…」
「義兄上、ちとお待ちを。摂津守殿のもとには、人質として送り込んだ右近殿のお子や妹御がおられる筈。易々とこちらへ寝返ると仰せになるとは思えませぬが、そうなったときに上様は如何なされると?」
平然と尋ねるが心の内は穏やかではいられないのだろう。忠三郎の視線が落ち着かない。
「鶴、あの第六天魔王様がお怒りになられたときの怖さを存じておろう?切支丹どもを根こそぎ成敗されるのではないか?」
広間に入って来た義太夫が、笑ってそう言う。そこまではないだろうが、畿内追放は免れないだろう。
「これは異なことを。ロレンソ殿もフロイス殿も上様のお気に入り。手づから膳を運び、もてなされた程ではないか」
忠三郎が色を失って言うと、義太夫が軽く笑い飛ばす。
「それは南蛮との貿易のためじゃ。そのようなこと、はじめから分かっておったじゃろう」
驚いた忠三郎が、一益に向き直り、
「義兄上は…義兄上はそれでよろしいので?」
非難するように言うので、義太夫が手を振り、
「鶴、大概にいたせ。殿に詰め寄ったところで…」
「黙れ、義太夫。わしは義兄上に聞いておるのじゃ。義兄上、お答えくだされ」
だんだん面倒なことになってきた。老成している反面、妙に子供じみたところがあるので、こういうときは常に手を焼いてきている。この状態になると、忠三郎は簡単には引き下がらない。
「我らが戦国に生き、ひとつの国を治める者である以上、何を信心しようが、いざと言う時それは利用され、時として足かせとなる。皆、置かれている状況が異なる以上、その答えもまた千差万別。各々、何が最も望ましい選択か、静まって己の心に問うしかない。右近やロレンソだけではない。そなたやこのわしも、皆、同じである」
淡々とそう話すと、忠三郎がぴたりと押し黙った。その場はしんと静まり返る。
「何が最も望ましい選択か…」
「然様。右近は国を捨てる覚悟もあろう。したが己の身内を捕らわれている以上、迂闊な選択もできまい。兎も角、つまらぬことはするな。伴天連どもが如何いたすか、そして右近が如何なる選択をするか、我らはそれを見守ろうではないか」
いずれを取るにせよ、高山右近にとっては苦渋の選択になるだろう。ロレンソたちはどんな助言をするのだろうか。
(それにしても…)
忠三郎に、それでいいのかと聞かれて答えられなかった。ロレンソをはじめとする伴天連たちとの付き合いは、南蛮貿易のためだった筈だ。それでも、迷わず答えることができなかった。
しかし妙な迷いは命取りになる。
「義太夫、新介。ロレンソたちを上様の前に伺候させよ。高槻城を落とさねばならぬ」
「ハハッ。すぐにでも見つけ出しまする」
義太夫と新介が足早に去る。
忠三郎はうつむいて何かを考えていたが、ふと口を開く。
「右近殿であれば、わざわいも幸いも、甘んじて受けられましょう。それらはすべて、まことの神から出たもの。人はただ、己の罪深さゆえに不平不満を言うだけのもの」
高山右近の選択は忠三郎にとって、何より織田家にとっても、重要な選択になる。果たして右近はどのような選択をするのだろうか。
義太夫、新介の二人は洛外へ向かい、ロレンソを探し回った。キリシタンの家から家を訪ね、虱潰しに探したが、どこへ行っても見つからない。忠三郎の言うように、安土に向かったかもしれない。
「まさか、あやつ。雲行きが怪しくなってきたのを見て取り、取るものも取らずに逃げ出したか」
「生臭坊主であればさもあらん」
しかし逃げたとなると右近の説得が難しくなる、と心配しつつ二人が安土に向かおうとすると、意外にもロレンソは南蛮寺にいるという情報が入った。
どうやら呼び出されることを想定して、使者が現れるのを待っていたようだ。
「灯台下暗しとはこのこと。全く手古摺らせてくれるのう」
義太夫が悔しそうに言うと、新介はエッと振り返り、
「義太夫が南蛮寺にはおらぬというから、探し回ったのではないか」
「…さては鶴のやつ、我らをたばかったか」
キリシタン贔屓の忠三郎は、追手を差し向けられることを想定して、洛外にいると出鱈目を言ったようだ。
「したが、逃げる時間を稼いだとも言い難い…何故にいつまでも南蛮寺におったかのう…。あやつらは上様を恐れて逃げることもできぬのか」
「わしならば、さっさと逃げるがのう」
新介がからからと笑う。
義太夫は南蛮寺まで行くと、ロレンソと、都のイエズス会の責任者であるオルガンティノの二人に事情を話した。
「蒲生忠三郎から知らせが来たのであろう。何故に逃げなかった?」
道すがら義太夫が訊ねると、ロレンソは平然としたもので、
「我らには逃げる理由がない」
「そうかのう…。生臭坊主も年貢の納め時ではないか。上様の前で何と申し開きいたす所存か」
「わしはイルマンじゃ。坊主でもなければ百姓でもない。年貢も納めぬし、これといって申し開きするようなこともない」
変わらぬ毒舌振りに、義太夫は苦笑する。
「少ししおらしい態度をとってみい。皆、そなたらのことを案じておるのじゃぞ」
ああは言っても、一益は古い付き合いのロレンソのことを心配しているだろう。そう思って言っているのだが、
「何も案ずることなどない。この地上において、天の父が知らぬことなどは何もない。すべては御手の中。人はそれに手を加えることなどできぬわ」
一向に言葉数の減らないロレンソに舌を巻きつつ、信長の元に連れていく。村重に裏切られた信長の怒りは相当なものだ。信長の怒りを知れば、ロレンソも少しは大人しくなるだろう。
ところが、信長に謁見して戻って来たロレンソの様子はひとつも変わることがなかった。
「上様は何と仰せであった?」
「高山右近殿が上様に歯向かうのであれば、切支丹を根絶すると仰せじゃ」
他人事のように言う。
「…で?その方は如何いたす?」
「これより羽柴殿らとともに高槻に参る。中将によろしゅう伝えてくれ」
共にいたオルガンティノは浮かない顔をしていたが、ロレンソは常と変わらぬ様子で去っていった。
「なんじゃ、あやつは。己の立場が分かっておるのか」
新介が呆れてそう言う。
「昔から変わらぬが…。やはり何やらようわからぬ奴じゃ。まぁ、我らの役目は終わった。高槻城包囲の命が下っておる。我らも戦さ支度をせねばな」
ロレンソたちの説得が失敗した暁には、毛利に付け入る隙を与えず、すぐさま高槻城に攻めかかる手筈になっている。
「摂津守をそう簡単に倒せるとも思えぬ。長い戦さにならねばよいが」
天下のことが治まりつつある中の荒木村重の謀反。本願寺、毛利、そして荒木村重。倒せども倒せども敵が増えるばかり。この状況を打破していけるのだろうか。
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