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9 不足の美
9-4 無道の主君
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その頃、大阿武船に乗る三九郎と滝川家家老の津田秀重は堺港に寄港して兵糧を積み込んでいた。港は未曽有の大船を人目見ようと見物人が大勢押しかけ、祭りのような騒ぎになっている。
「堺の豪商はもちろん大坂本願寺の門徒どもも、この船を見て恐れおののいておるとか」
集まる人々が口々に誉めそやすのを聞き愛想笑いを返しているが、三九郎の胸中は複雑だ。
海賊の指揮は九鬼嘉隆に一任されており、三九郎はまともに軍の指揮を取ったことがない。海賊衆を任され、船に乗っているので陸戦にも参加していない。阿武船では敵船に乗り込んで戦うこともなく、身に危険が及ぶことがない代わりに、武士として華々しい戦いができるとは思えない。しかし最も気になっているのは
(村上海賊は、九鬼衆にはるかに勝る)
村上海賊と対峙した将たちの話を聞く限り、一益が、ひいては織田家が頼りとする九鬼の海賊としての戦闘力に不安がある。
毛利に属する村上海賊。戦国最強の海賊集団を率いる村上武吉は、先年、織田家が一族まるごと粛清した北畠の流れを組むとも言われ、瀬戸内きっての海賊の大将だ。前回の木津川口海戦では雑賀衆率いる海賊との連携で織田家の船はすべて沈められ、兵糧は滞りなく本願寺に送られている。
「若殿、忠三郎殿が参られました」
津田秀重がそう告げる。忠三郎は町野長門守、滝川助太郎を伴い、いつにも増して派手ないでたちで大阿武船に乗り込んできた。
「敵の海賊衆を打ち負かし、ついに織田家も無敵の海賊を味方に海でも天下を治めた。本願寺を抑えたら、次は瀬戸内海に討って出るのか」
巷ではそのように言われているのか。実力と、町中の評判の乖離に戸惑い、三九郎が首を横に振る。
「瀬戸内海など途方もない。実のところ、この船は本願寺を海上封鎖するためだけにある、いうなれば海上の付城。もう少し操舵を考えて改良しなければ自在に操ることも難しい」
一益の意見で火力に特化し、大筒と大鉄砲を大量に並べている。焙烙玉での攻撃を防ぎ、浮力を得る目的で船自体を大きく作って船体を高くした。このために船は殊更重くなり、機動力にかけ、安定性がない。伊勢からここまで持ってこられたのは九鬼嘉隆が天気を読み、潮の流れに熟知していたからで、海が荒れて波が高くなれば転覆の危険がある。瀬戸内海での海戦でもちこたえる自信がない。
「なんと。阿武船の阿武とは『あたける』、暴れるという意味と聞いたが、それでは反対ではないか」
「したが、父上のご指示で射程の長い大鉄砲、大筒を備えておる。敵の主力は関船、小早船などの小船で敵船を取り囲み、火を射掛けるという昔ながらの戦法。この船であれば火攻めを防ぎ、鉄砲の弾も防ぐ。反対にこちらから火力をもって小船を制圧することもできると、父上はそのようにお考えじゃ」
忠三郎がフムと頷き、側面に配備されている大鉄砲を観察する。
「この船だけ、何故に白いのじゃ」
九鬼嘉隆の阿武船は鉄の板が張られているので黒く見えるが、三九郎の乗る阿武船だけは白く輝いている。
「船体の重い船ばかり揃えては危ないと。万一のことを考え、我らの船だけは鉄を張らず、漆喰塗りをして火攻めを防げと、父上がそう仰せになったのじゃ」
「流石は義兄上、そこまで考えて。…で、このまま海路を封鎖していれば、直に敵の海賊どもが押し寄せよう。毛利海賊に村上海賊が加わるとして、勝てるのか」
忠三郎が鋭いところを付いてきたので、三九郎は返事に詰まる。淡輪沖で勝ったのは相手が雑賀衆だったからで、毛利、村上海賊の何百と言う小船に取り囲まれて、どこまで持ちこたえるのかは未知数だ。
「それは…なんとも言えぬ。敵は我らと違い、小回りのきく小船で攻め寄せてこよう」
三九郎が不安そうに言うと、忠三郎が苦笑いする。一益は三九郎を滝川家の跡取りにしたようだが、一軍の将にしては何とも頼りない。
「三九郎、将たる者は、そのようなことを迂闊に口に出して言うものではない。将軍の事は、静かにして以て幽く 、正しくして以て治まるというではないか。義兄上を見よ。常より平然として、内では熟慮されておる。世に進むも滝川、退くも滝川と詠われる所以よ」
孫子だろう。忠三郎は和歌ばかりと思っていたが、それなりに兵法書も読んでいるようだ。これではどちらが滝川家の者かわからない。いかにも一益が言いそうなことを言われ、三九郎は忠三郎を上目遣いに見る。
「だんだん父上に似てきたな。忠三郎、わしよりもそなたのほうが父上の子のようじゃ」
三九郎がそう言うと、忠三郎は照れたように笑う。
「上様直々に検分にお越しになる。その際は、万に一つも負けることなどはあり得ないと、そう申し上げよ」
あの信長の前でそんな大見得をきることなどはできそうにない。
(やはり父上をお呼びしよう)
滝川家を代表して信長を迎え入れるなど、荷が重すぎる。幸い、今なら播磨の戦が一段落して丹波に戻ろうとしているので呼び寄せることもできるだろうと考えた。津田秀重に命じて、一益に知らせを送ると、一益はその翌日、船に姿を現した。
「父上、思いのほか、早い御着きで…」
「丁度、上様から呼び出しがあり、こちらへ向かっていたところじゃ」
信長は九鬼嘉隆に命じて大船検分のため、大船を御座船として迎えるようにと知らせを送っていた。検分後は堺の豪商の家で茶会を開くと言われ、一益も呼び出しを受けている。
「都の公家どもや上様の側近ら、二十名ほどを連れてくると仰せになっておる。大船、関船はのぼり、旗指物を立て、甲冑を並べ、できる限り絢爛豪華に飾り立てておけ」
「は、はい…」
予想外の祭り騒ぎのようだ。九鬼嘉隆の鉄船には、事前に信長から東山殿御物と呼ばれる高価な唐物茶碗も運び込まれている。
「父上…我らも九鬼殿の船へ行き、その唐物茶碗なるものを見聞させていただいてもよろしいでしょうか」
明の皇帝も驚いたという、宋時代の天目、青磁といった高級茶碗がどのようなものなのか、興味が湧いた。
「よい機会じゃ。見て参れ。鉄船には鶴と九鬼嘉隆がおる」
一益は快く許してくれた。
九鬼嘉隆の鉄甲船にいくと、人だかりが出来、滅多に目にすることのできない御物なるものを見ようと、天主の入り口で海の男たちがひしめき合っている。
とても近づけそうにないので、津田秀重が見張りの兵に話しかけて、天主に案内してもらうことにした。
「おぉ、三九郎」
天主に入ると、忠三郎が気づいて声をかけてきた。隣には海賊衆を率いる九鬼嘉隆もいる。
「滝川の御曹司も蔵品を見に参ったか」
「は…いや、それがしは御曹司などというものでは…」
恐縮しつつ、並べられている唐物の数々に目をやる。香合・燭・香炉・花瓶・茶碗・茶壺・茶入のほか、唐の名画と思しき掛け物もかけられていた。
「これなる品々が一国に相当するとも言われる逸品の数々…」
歴代の将軍により集められたという名物の数々が、今、目の前にある。
「そのように恐々と見ずとも、手に取ってみればよいではないか」
九鬼嘉隆が笑ってそう言う。
「いえ…恐れ多いことにて…」
万が一にも落として壊したりしては大変なことになる。そんな三九郎を尻目に、忠三郎がいとも容易く茶碗を手に取る。
「見よ、このゆかしき色合い。まことに名物中の名物と言われる価値ある品ではないか」
忠三郎が無造作に茶碗を扱うので、三九郎はハラハラして会話もままならない。
「三九郎、上様の意図されていることが分かるか」
「意図されていること、とは?」
早くその茶碗を置いてくれ、と思いつつ三九郎が問うと、忠三郎が笑って
「唐、南蛮との貿易を通して国を豊かにすることよ」
並べられている希少な名物を政治的な武器として公家や商人を従え、経済の活性化により国を建て上げるという。
「戦さが武士を従えることであれば、茶器は公家や商人を従えることにつながる。さらに貿易は唐、南蛮を従えることとなろう。こうして国は豊かになり、民は安穏に暮らすことができる」
忠三郎いわく、それが信長の目指す天下だという。
「なるほど、そのために此度の大船の検分があると…」
知らず知らずのうちに、九鬼嘉隆も、三九郎も、信長の政治の一端を担っていたということか。
(それにしても…)
ある時は戦場、ある時は公家の相手、そしてまたある時は商人との茶会。日々忙しくしている一益のことが気がかりだ。
「父上は…お疲れではないだろうか」
ふと、つぶやくと、忠三郎が不思議そうに三九郎を見る。
「何じゃ、急に。義兄上であれば…、アッ…」
茶碗を置こうとした忠三郎の手が滑り、茶器が手から落ちそうになる。居並ぶ者は皆、腰を抜かさんばかりに驚き、顔面蒼白になって息を呑む。忠三郎だけは平然としたもので、ひょいと反対の手で茶器を掴んだので、一同、呆けたように脱力した。
「おお、危うく落とすところであった」
忠三郎が明るく笑うが、周りはとても笑う余裕などない。
「小童、もう触るな」
流石の九鬼嘉隆も顔色を変えてそう言うが、忠三郎は気にもとめていない様子だ。
「いやはや、これはご無礼いたしました」
「もう十分であろう。そろそろお引上げ願おうか」
忠三郎には叶わないと思ったようだ。九鬼嘉隆に全員追い出され、鉄甲船を後にした。
翌日、堺に住む人々が大船を見ようと港に集まる中、信長が大勢引き連れて検分にやってきた。信長は、金の陣羽織に金の縁を飾った真っ赤な南蛮のマントなるものを身に着け、ひと際上機嫌だ。一益が九鬼嘉隆とともに船を案内し、装備されている大筒、大鉄砲の説明をして歩く。
「この船の装甲であれば、毛利海賊どもの火矢も寄せ付けず、大筒にて一網打尽にすることも可能。次なる合戦はお味方の勝利間違いなしと存じ上げまする」
一益がそう言うと、
「…であるか」
信長が短くそう言い、後ろに並ぶ近習たちも感心して頷く。九鬼嘉隆が荒くれ武者らしく豪快に笑う。
「天下に比類なき大船でござりまする。何というても使うておる鉄がとてもつもない量で。それもこれも一重に右大臣様の金の力で…」
九鬼嘉隆が余計なことを言い出したので、一益が小脇を突いて黙らせる。上機嫌の信長はフフンと笑い、
「戦さは金じゃ。のう、左近」
「ハハッ。まことに…。では次は、あちらの大船に上様の名物茶器を並べておりますゆえ、案内仕りまする」
神妙な顔をして信長一行を連れていく。近くに控えている三九郎は、ずっとハラハラしっぱなしだ。
(あんなことはとても言えない…)
万一にも毛利海賊に負けたときのことを思えば、信長の前であそこまでの堰を切るような勇気はない。
信長はそのまま堺の商人、今井宗久の屋敷に向かい、一益も後に続いていった。このあと、何軒かの屋敷に行ったあと、茶会があるという。
「父上のご苦労、いかばかりか」
「まことに…明日には丹波に戻られるとか。殿のお体が案じられまする」
皆の前では疲れた顔ひとつ見せない一益ではあるが、あの信長とずっと一緒にいるのでは神経をすり減らしているのではないだろうか。
(かといって、父上に変わってお役目を果たすこともできない)
どうしていいのか途方に暮れる。我ながら無力で不甲斐ないとは思っているが、自分に何ができるのか、見当もつかず、ただ、信長の乗った船が小さくなっていくのを見送ることしかできなかった。
堺港で大船の検分を終え、津田宗及宅での茶会を済ませて、丹波に戻った一益。光秀が丹波攻略の拠点として築いた亀山城に入った。
この丹波という国は、都の北西に位置し、そのため古代より度々戦火に見舞われてきた。国衆たちはそれぞれに力をもち、団結して一揆を起こし、丹波を支配しようとする権力者に対抗してきている。
できたばかりの丹波亀山城は小高い丘の上にある。天主をもち、城下を抱えた総構えの城で、城内には焼き討ちした寺にあった毘沙門天像まで鎮守されている。いくつもの櫓が立ち並んでいるが、土塁や堀の工事はまだ途中だった。
「明智様はまことに信心深いお方で」
義太夫があちこち観察して来て言う。明智光秀は義太夫たち陪臣に対しても細やかな気遣いをする。遊軍を迎えるときは尚のこと、多少兵糧が足りなくなると、遊軍部隊に優先してまわしてくれるので、滝川家中の者たちの評判もいい。
医術の心得もあるという光秀は、播磨で怪我をした木全彦次郎の心配して、わざわざ様子を見に来た。
「大事に至らぬとは思うが、念のため、薬師を呼びましょう」
そう言って薬師を手配してくれた。そのおかげで彦次郎の傷もだいぶ回復してきている。
「城下でもよきご領主様じゃともっぱらの噂にて」
善政をしいているのだろう。焼き討ちした比叡山延暦寺に対しても、手厚く保護していると聞いている。その一方で、切支丹嫌いは有名で、宣教師たちからは悪魔の友と呼ばれているらしい。
(日向守といると楽ではある)
生真面目すぎて疲れることもあるが、こちらが言う前から気をまわして必要なものは何でも備えてくれるので、亀山城に入ってからも特に不足なく、快適に過ごしている。
「夜は毎晩三膳が出され、うまい酒もふるまわれ、あとは女子がいれば…」
「義太夫、然様なことを大声で申すな。あの御仁の耳に入れば、まことに女子が出てきてしまうわい」
新介に叱責され、義太夫が頭を掻く。
丹波から播磨、そしてまた丹波に戻り、長陣で家臣たちの間に厭戦気分が広がっていた。光秀はそれを察していたのだろう。丹波に入った滝川勢を亀山城に呼び、手厚くもてなしてくれた。おかげで皆、愚痴も少なくなり、活気を取り戻しつつある。
「日向守に呼ばれておる。二人ともついて参れ」
刀を掴んで広間へ向かうと、先にきていた光秀が一人、座っている。
「八上城の波多野秀治は何故の謀心か、存じておられるのか」
疑問に思っていたことを聞いてみた。
「突然のことで、我らにも分からず、調べさせたところ、どうやら最初から寝返るつもりで織田方についたものと思われまする」
光秀が最初に丹波に攻め入ったとき、丹波の国衆の半数はすでに織田家に従属すると誓紙を出していた。八上城の波多野一族も例外ではなく、喜んだ信長は波多野秀治に馬、刀を下賜した。それがこの一月、突然叛旗を翻した。
「我らが丹波入りする前から、同じ国衆で黒井城にいる赤井直正と通じて寝返るつもりだったのではないかと…」
黒井城にいる赤井直正が叛旗を翻したのは六年前だ。その頃から波多野秀治は隙を伺っていたのだろう。
「波多野と赤井がそこまで通じているのであれば…まずは両者を分断した上で、本腰を入れて八上城を攻略していくのがよかろう」
八上城と黒井城の間に陣城を築き、傍にある大山城を落とした上で、八上城を取り囲み兵糧攻めする。
「やはり兵糧攻めがよろしゅうござりますな。数日中には総大将の津田信澄様、与力の荒木殿、細川殿も参られましょうほどに、大山城程度の城であれば、時を掛けずに攻め取れましょう」
光秀が深く頷き、手を打って近習を呼び酒の用意をさせる。その様子からは怪しげな思惑は感じ取れない。
(毛利の使者が来ているのは荒木村重の元だけということか)
当然、明智光秀の元にも現れていると思っていたが、思った以上に隙がなく、義太夫に調べさせても分からなかった。
「時に左近殿、まだお聞きしておりませなんだ」
思い出したように光秀が言う。一益は何のことか、という顔をして光秀を見た。
「自ら茶杓を作るほどの数寄者とは、どなたのことでありましょうな」
茶会の時のことを覚えていたらしい。
「それは蒲生忠三郎でござるよ」
「おお、上様の近侍の」
もう近侍ではないが、光秀から見れば忠三郎は小豪族の倅にすぎないようだ。
「蒲生殿が小姓であったころ、我が家の斎藤利三が諫言したと申しておりました」
「諫言?」
「和歌にばかり興じておられるご様子にて、武士の子らしく武芸に励むようにと」
同じ話を忠三郎から聞いたことがある。忠三郎は何度となく、周りから筆を取り上げられている。それでも、時間がたつと和歌にのめり込む。諫言が響いているとも思えない。
(あやつらしい…)
一益はフッと笑い、何気なく床の間の掛け物に目をやり、おや、と首を傾げる。
(今の話は…)
何か違和感を感じた。
(今、何と言った…忠三郎が小姓であったころ…我が家の…斎藤利三が…)
忠三郎は昔、何と言っていたか。
(岐阜城で和歌の本を積み上げて読んでいた時に…稲葉一鉄の家臣に声をかけられ、諫言されたと…)
稲葉一鉄は織田家の家臣で西美濃三人衆の一人だ。忠三郎は他家の家臣に諫言され、織田家中で軟弱者であると評判が立つのを恐れた。そこで、ある夜、稲葉一鉄が信長の前で武功話を語って聞かせているときに、眠気に耐えて目を大きく見開き、いちいち頷き、感心しているそぶりを見せた。それを見た稲葉一鉄は、夜遅くまで目を輝かせて戦さの話に耳を傾けるとは、天晴な小童なり、と誉めたのだ。
一益の前では酔って話しながらでも平気で寝る忠三郎が、片やそんな涙ぐましい努力をしていたのかと、半ば呆れ、半ば感心したのでよく覚えている。
「日向守。いま、我が家の斎藤利三、と申されたな。その者は稲葉一鉄の家臣では?」
一益が訊ねると、光秀の表情が曇ったように見えた。
「以前は稲葉殿の元で禄をはんでおりましたが…。今はゆえあって、我が家の家人でござります」
光秀は少し迷ったように視線を泳がせていたが、左近殿であれば、と前置きしてから話はじめた。
「利三が稲葉殿の戦功報酬に偏りがあると諫言したところ、稲葉殿が激しく怒られたために稲葉家を去り、我が家へ参りました。稲葉家におる那波直治なるものも、同じように稲葉殿の元を去り浪人しておりまする。この者も我が家に来たいと申しておりまするが…」
「待たれよ。それは稲葉が怒るのではないか。争い事になりかねぬ」
「すでに激しくお怒りになられ、上様に訴え出ると申されておる次第にて」
「…で、上様に訴え出られたら、何とする所存か」
光秀には分が悪い話だ。信長が二人を稲葉家に返せと言うのは誰の目にも明らかだ。
「二人を返せば、二人とも切腹させられることは明白。。そうなればこの日向守の命に従う者などいなくなり申す。それを分かっていながら返すわけには参りませぬ」
光秀がきっぱりとそう言ったので、内心驚いた。信長の顔色ばかり窺っていると思っていたのだが。
(上様相手に一歩も譲る気がないとは…意外に肝の据わったところがある)
信長は激怒するかもしれない。しかし光秀は忠実で有能な家臣だ。陪臣の一人や二人のことで処罰するとも思えない。逆に家臣たちは感じ入って光秀に忠義を尽くそうと思うだろう。
「士は己を知る者のために死すと言うが…」
善政をしき、領民に慕われ、体を張って家臣を守る。いかにも理想的な君主像だ。光秀は正心を実践している。君主は天命に従い、人心に対応し、領民を憐み、罪を刈る…しかし、正心のその続きは、
(無道の主君のために働くべからず。私利私欲や無道の主君のために術を使うならば、いかなる高度な陰謀でも、必ずや発覚する。もし露顕せず、一時的に利したとしても、何時かは己に害がはねかえる。道理を外れた主君のために討死するのは、義に以て義ではない。軍法、剣術、その他殺法は勢力ある非道の者を打ち滅ぼす術であり、非道の人を助けるためのものではない。忠とは中心と書くように、非道非理である者に心底まで尽くすのは忠義ではない)
光秀が素破の心得を知っているとも思えない。しかし、もし、その答えに行き着いてしまったら、どうするだろうか。
ふとそんな考えが頭に浮かんで消えなくなった。一益が一点を見つめて考えていると、光秀は思い出したように
「…左近殿。その忠三郎殿の共筒には何と書いてあったか、教えてくだされ」
なんのことかと一瞬考え、茶杓を入れる器に掘った文字のことだと思い当たった。
「共筒には…あはれてふ、そう書いておりました」
「あはれてふ…。忠三郎殿は何を憐れと思われたのでありましょうや」
「はて、それは…。あやつに会うたときに、尋ねてみてくだされ」
忠三郎は驚くだろうが、常と変わらぬ、屈託ない笑顔で答えてくれるだろう。忠三郎は忠三郎で、この戦国という果てしなく続く暗闇の中を、光を探してさまよい歩いているのだから。
「堺の豪商はもちろん大坂本願寺の門徒どもも、この船を見て恐れおののいておるとか」
集まる人々が口々に誉めそやすのを聞き愛想笑いを返しているが、三九郎の胸中は複雑だ。
海賊の指揮は九鬼嘉隆に一任されており、三九郎はまともに軍の指揮を取ったことがない。海賊衆を任され、船に乗っているので陸戦にも参加していない。阿武船では敵船に乗り込んで戦うこともなく、身に危険が及ぶことがない代わりに、武士として華々しい戦いができるとは思えない。しかし最も気になっているのは
(村上海賊は、九鬼衆にはるかに勝る)
村上海賊と対峙した将たちの話を聞く限り、一益が、ひいては織田家が頼りとする九鬼の海賊としての戦闘力に不安がある。
毛利に属する村上海賊。戦国最強の海賊集団を率いる村上武吉は、先年、織田家が一族まるごと粛清した北畠の流れを組むとも言われ、瀬戸内きっての海賊の大将だ。前回の木津川口海戦では雑賀衆率いる海賊との連携で織田家の船はすべて沈められ、兵糧は滞りなく本願寺に送られている。
「若殿、忠三郎殿が参られました」
津田秀重がそう告げる。忠三郎は町野長門守、滝川助太郎を伴い、いつにも増して派手ないでたちで大阿武船に乗り込んできた。
「敵の海賊衆を打ち負かし、ついに織田家も無敵の海賊を味方に海でも天下を治めた。本願寺を抑えたら、次は瀬戸内海に討って出るのか」
巷ではそのように言われているのか。実力と、町中の評判の乖離に戸惑い、三九郎が首を横に振る。
「瀬戸内海など途方もない。実のところ、この船は本願寺を海上封鎖するためだけにある、いうなれば海上の付城。もう少し操舵を考えて改良しなければ自在に操ることも難しい」
一益の意見で火力に特化し、大筒と大鉄砲を大量に並べている。焙烙玉での攻撃を防ぎ、浮力を得る目的で船自体を大きく作って船体を高くした。このために船は殊更重くなり、機動力にかけ、安定性がない。伊勢からここまで持ってこられたのは九鬼嘉隆が天気を読み、潮の流れに熟知していたからで、海が荒れて波が高くなれば転覆の危険がある。瀬戸内海での海戦でもちこたえる自信がない。
「なんと。阿武船の阿武とは『あたける』、暴れるという意味と聞いたが、それでは反対ではないか」
「したが、父上のご指示で射程の長い大鉄砲、大筒を備えておる。敵の主力は関船、小早船などの小船で敵船を取り囲み、火を射掛けるという昔ながらの戦法。この船であれば火攻めを防ぎ、鉄砲の弾も防ぐ。反対にこちらから火力をもって小船を制圧することもできると、父上はそのようにお考えじゃ」
忠三郎がフムと頷き、側面に配備されている大鉄砲を観察する。
「この船だけ、何故に白いのじゃ」
九鬼嘉隆の阿武船は鉄の板が張られているので黒く見えるが、三九郎の乗る阿武船だけは白く輝いている。
「船体の重い船ばかり揃えては危ないと。万一のことを考え、我らの船だけは鉄を張らず、漆喰塗りをして火攻めを防げと、父上がそう仰せになったのじゃ」
「流石は義兄上、そこまで考えて。…で、このまま海路を封鎖していれば、直に敵の海賊どもが押し寄せよう。毛利海賊に村上海賊が加わるとして、勝てるのか」
忠三郎が鋭いところを付いてきたので、三九郎は返事に詰まる。淡輪沖で勝ったのは相手が雑賀衆だったからで、毛利、村上海賊の何百と言う小船に取り囲まれて、どこまで持ちこたえるのかは未知数だ。
「それは…なんとも言えぬ。敵は我らと違い、小回りのきく小船で攻め寄せてこよう」
三九郎が不安そうに言うと、忠三郎が苦笑いする。一益は三九郎を滝川家の跡取りにしたようだが、一軍の将にしては何とも頼りない。
「三九郎、将たる者は、そのようなことを迂闊に口に出して言うものではない。将軍の事は、静かにして以て幽く 、正しくして以て治まるというではないか。義兄上を見よ。常より平然として、内では熟慮されておる。世に進むも滝川、退くも滝川と詠われる所以よ」
孫子だろう。忠三郎は和歌ばかりと思っていたが、それなりに兵法書も読んでいるようだ。これではどちらが滝川家の者かわからない。いかにも一益が言いそうなことを言われ、三九郎は忠三郎を上目遣いに見る。
「だんだん父上に似てきたな。忠三郎、わしよりもそなたのほうが父上の子のようじゃ」
三九郎がそう言うと、忠三郎は照れたように笑う。
「上様直々に検分にお越しになる。その際は、万に一つも負けることなどはあり得ないと、そう申し上げよ」
あの信長の前でそんな大見得をきることなどはできそうにない。
(やはり父上をお呼びしよう)
滝川家を代表して信長を迎え入れるなど、荷が重すぎる。幸い、今なら播磨の戦が一段落して丹波に戻ろうとしているので呼び寄せることもできるだろうと考えた。津田秀重に命じて、一益に知らせを送ると、一益はその翌日、船に姿を現した。
「父上、思いのほか、早い御着きで…」
「丁度、上様から呼び出しがあり、こちらへ向かっていたところじゃ」
信長は九鬼嘉隆に命じて大船検分のため、大船を御座船として迎えるようにと知らせを送っていた。検分後は堺の豪商の家で茶会を開くと言われ、一益も呼び出しを受けている。
「都の公家どもや上様の側近ら、二十名ほどを連れてくると仰せになっておる。大船、関船はのぼり、旗指物を立て、甲冑を並べ、できる限り絢爛豪華に飾り立てておけ」
「は、はい…」
予想外の祭り騒ぎのようだ。九鬼嘉隆の鉄船には、事前に信長から東山殿御物と呼ばれる高価な唐物茶碗も運び込まれている。
「父上…我らも九鬼殿の船へ行き、その唐物茶碗なるものを見聞させていただいてもよろしいでしょうか」
明の皇帝も驚いたという、宋時代の天目、青磁といった高級茶碗がどのようなものなのか、興味が湧いた。
「よい機会じゃ。見て参れ。鉄船には鶴と九鬼嘉隆がおる」
一益は快く許してくれた。
九鬼嘉隆の鉄甲船にいくと、人だかりが出来、滅多に目にすることのできない御物なるものを見ようと、天主の入り口で海の男たちがひしめき合っている。
とても近づけそうにないので、津田秀重が見張りの兵に話しかけて、天主に案内してもらうことにした。
「おぉ、三九郎」
天主に入ると、忠三郎が気づいて声をかけてきた。隣には海賊衆を率いる九鬼嘉隆もいる。
「滝川の御曹司も蔵品を見に参ったか」
「は…いや、それがしは御曹司などというものでは…」
恐縮しつつ、並べられている唐物の数々に目をやる。香合・燭・香炉・花瓶・茶碗・茶壺・茶入のほか、唐の名画と思しき掛け物もかけられていた。
「これなる品々が一国に相当するとも言われる逸品の数々…」
歴代の将軍により集められたという名物の数々が、今、目の前にある。
「そのように恐々と見ずとも、手に取ってみればよいではないか」
九鬼嘉隆が笑ってそう言う。
「いえ…恐れ多いことにて…」
万が一にも落として壊したりしては大変なことになる。そんな三九郎を尻目に、忠三郎がいとも容易く茶碗を手に取る。
「見よ、このゆかしき色合い。まことに名物中の名物と言われる価値ある品ではないか」
忠三郎が無造作に茶碗を扱うので、三九郎はハラハラして会話もままならない。
「三九郎、上様の意図されていることが分かるか」
「意図されていること、とは?」
早くその茶碗を置いてくれ、と思いつつ三九郎が問うと、忠三郎が笑って
「唐、南蛮との貿易を通して国を豊かにすることよ」
並べられている希少な名物を政治的な武器として公家や商人を従え、経済の活性化により国を建て上げるという。
「戦さが武士を従えることであれば、茶器は公家や商人を従えることにつながる。さらに貿易は唐、南蛮を従えることとなろう。こうして国は豊かになり、民は安穏に暮らすことができる」
忠三郎いわく、それが信長の目指す天下だという。
「なるほど、そのために此度の大船の検分があると…」
知らず知らずのうちに、九鬼嘉隆も、三九郎も、信長の政治の一端を担っていたということか。
(それにしても…)
ある時は戦場、ある時は公家の相手、そしてまたある時は商人との茶会。日々忙しくしている一益のことが気がかりだ。
「父上は…お疲れではないだろうか」
ふと、つぶやくと、忠三郎が不思議そうに三九郎を見る。
「何じゃ、急に。義兄上であれば…、アッ…」
茶碗を置こうとした忠三郎の手が滑り、茶器が手から落ちそうになる。居並ぶ者は皆、腰を抜かさんばかりに驚き、顔面蒼白になって息を呑む。忠三郎だけは平然としたもので、ひょいと反対の手で茶器を掴んだので、一同、呆けたように脱力した。
「おお、危うく落とすところであった」
忠三郎が明るく笑うが、周りはとても笑う余裕などない。
「小童、もう触るな」
流石の九鬼嘉隆も顔色を変えてそう言うが、忠三郎は気にもとめていない様子だ。
「いやはや、これはご無礼いたしました」
「もう十分であろう。そろそろお引上げ願おうか」
忠三郎には叶わないと思ったようだ。九鬼嘉隆に全員追い出され、鉄甲船を後にした。
翌日、堺に住む人々が大船を見ようと港に集まる中、信長が大勢引き連れて検分にやってきた。信長は、金の陣羽織に金の縁を飾った真っ赤な南蛮のマントなるものを身に着け、ひと際上機嫌だ。一益が九鬼嘉隆とともに船を案内し、装備されている大筒、大鉄砲の説明をして歩く。
「この船の装甲であれば、毛利海賊どもの火矢も寄せ付けず、大筒にて一網打尽にすることも可能。次なる合戦はお味方の勝利間違いなしと存じ上げまする」
一益がそう言うと、
「…であるか」
信長が短くそう言い、後ろに並ぶ近習たちも感心して頷く。九鬼嘉隆が荒くれ武者らしく豪快に笑う。
「天下に比類なき大船でござりまする。何というても使うておる鉄がとてもつもない量で。それもこれも一重に右大臣様の金の力で…」
九鬼嘉隆が余計なことを言い出したので、一益が小脇を突いて黙らせる。上機嫌の信長はフフンと笑い、
「戦さは金じゃ。のう、左近」
「ハハッ。まことに…。では次は、あちらの大船に上様の名物茶器を並べておりますゆえ、案内仕りまする」
神妙な顔をして信長一行を連れていく。近くに控えている三九郎は、ずっとハラハラしっぱなしだ。
(あんなことはとても言えない…)
万一にも毛利海賊に負けたときのことを思えば、信長の前であそこまでの堰を切るような勇気はない。
信長はそのまま堺の商人、今井宗久の屋敷に向かい、一益も後に続いていった。このあと、何軒かの屋敷に行ったあと、茶会があるという。
「父上のご苦労、いかばかりか」
「まことに…明日には丹波に戻られるとか。殿のお体が案じられまする」
皆の前では疲れた顔ひとつ見せない一益ではあるが、あの信長とずっと一緒にいるのでは神経をすり減らしているのではないだろうか。
(かといって、父上に変わってお役目を果たすこともできない)
どうしていいのか途方に暮れる。我ながら無力で不甲斐ないとは思っているが、自分に何ができるのか、見当もつかず、ただ、信長の乗った船が小さくなっていくのを見送ることしかできなかった。
堺港で大船の検分を終え、津田宗及宅での茶会を済ませて、丹波に戻った一益。光秀が丹波攻略の拠点として築いた亀山城に入った。
この丹波という国は、都の北西に位置し、そのため古代より度々戦火に見舞われてきた。国衆たちはそれぞれに力をもち、団結して一揆を起こし、丹波を支配しようとする権力者に対抗してきている。
できたばかりの丹波亀山城は小高い丘の上にある。天主をもち、城下を抱えた総構えの城で、城内には焼き討ちした寺にあった毘沙門天像まで鎮守されている。いくつもの櫓が立ち並んでいるが、土塁や堀の工事はまだ途中だった。
「明智様はまことに信心深いお方で」
義太夫があちこち観察して来て言う。明智光秀は義太夫たち陪臣に対しても細やかな気遣いをする。遊軍を迎えるときは尚のこと、多少兵糧が足りなくなると、遊軍部隊に優先してまわしてくれるので、滝川家中の者たちの評判もいい。
医術の心得もあるという光秀は、播磨で怪我をした木全彦次郎の心配して、わざわざ様子を見に来た。
「大事に至らぬとは思うが、念のため、薬師を呼びましょう」
そう言って薬師を手配してくれた。そのおかげで彦次郎の傷もだいぶ回復してきている。
「城下でもよきご領主様じゃともっぱらの噂にて」
善政をしいているのだろう。焼き討ちした比叡山延暦寺に対しても、手厚く保護していると聞いている。その一方で、切支丹嫌いは有名で、宣教師たちからは悪魔の友と呼ばれているらしい。
(日向守といると楽ではある)
生真面目すぎて疲れることもあるが、こちらが言う前から気をまわして必要なものは何でも備えてくれるので、亀山城に入ってからも特に不足なく、快適に過ごしている。
「夜は毎晩三膳が出され、うまい酒もふるまわれ、あとは女子がいれば…」
「義太夫、然様なことを大声で申すな。あの御仁の耳に入れば、まことに女子が出てきてしまうわい」
新介に叱責され、義太夫が頭を掻く。
丹波から播磨、そしてまた丹波に戻り、長陣で家臣たちの間に厭戦気分が広がっていた。光秀はそれを察していたのだろう。丹波に入った滝川勢を亀山城に呼び、手厚くもてなしてくれた。おかげで皆、愚痴も少なくなり、活気を取り戻しつつある。
「日向守に呼ばれておる。二人ともついて参れ」
刀を掴んで広間へ向かうと、先にきていた光秀が一人、座っている。
「八上城の波多野秀治は何故の謀心か、存じておられるのか」
疑問に思っていたことを聞いてみた。
「突然のことで、我らにも分からず、調べさせたところ、どうやら最初から寝返るつもりで織田方についたものと思われまする」
光秀が最初に丹波に攻め入ったとき、丹波の国衆の半数はすでに織田家に従属すると誓紙を出していた。八上城の波多野一族も例外ではなく、喜んだ信長は波多野秀治に馬、刀を下賜した。それがこの一月、突然叛旗を翻した。
「我らが丹波入りする前から、同じ国衆で黒井城にいる赤井直正と通じて寝返るつもりだったのではないかと…」
黒井城にいる赤井直正が叛旗を翻したのは六年前だ。その頃から波多野秀治は隙を伺っていたのだろう。
「波多野と赤井がそこまで通じているのであれば…まずは両者を分断した上で、本腰を入れて八上城を攻略していくのがよかろう」
八上城と黒井城の間に陣城を築き、傍にある大山城を落とした上で、八上城を取り囲み兵糧攻めする。
「やはり兵糧攻めがよろしゅうござりますな。数日中には総大将の津田信澄様、与力の荒木殿、細川殿も参られましょうほどに、大山城程度の城であれば、時を掛けずに攻め取れましょう」
光秀が深く頷き、手を打って近習を呼び酒の用意をさせる。その様子からは怪しげな思惑は感じ取れない。
(毛利の使者が来ているのは荒木村重の元だけということか)
当然、明智光秀の元にも現れていると思っていたが、思った以上に隙がなく、義太夫に調べさせても分からなかった。
「時に左近殿、まだお聞きしておりませなんだ」
思い出したように光秀が言う。一益は何のことか、という顔をして光秀を見た。
「自ら茶杓を作るほどの数寄者とは、どなたのことでありましょうな」
茶会の時のことを覚えていたらしい。
「それは蒲生忠三郎でござるよ」
「おお、上様の近侍の」
もう近侍ではないが、光秀から見れば忠三郎は小豪族の倅にすぎないようだ。
「蒲生殿が小姓であったころ、我が家の斎藤利三が諫言したと申しておりました」
「諫言?」
「和歌にばかり興じておられるご様子にて、武士の子らしく武芸に励むようにと」
同じ話を忠三郎から聞いたことがある。忠三郎は何度となく、周りから筆を取り上げられている。それでも、時間がたつと和歌にのめり込む。諫言が響いているとも思えない。
(あやつらしい…)
一益はフッと笑い、何気なく床の間の掛け物に目をやり、おや、と首を傾げる。
(今の話は…)
何か違和感を感じた。
(今、何と言った…忠三郎が小姓であったころ…我が家の…斎藤利三が…)
忠三郎は昔、何と言っていたか。
(岐阜城で和歌の本を積み上げて読んでいた時に…稲葉一鉄の家臣に声をかけられ、諫言されたと…)
稲葉一鉄は織田家の家臣で西美濃三人衆の一人だ。忠三郎は他家の家臣に諫言され、織田家中で軟弱者であると評判が立つのを恐れた。そこで、ある夜、稲葉一鉄が信長の前で武功話を語って聞かせているときに、眠気に耐えて目を大きく見開き、いちいち頷き、感心しているそぶりを見せた。それを見た稲葉一鉄は、夜遅くまで目を輝かせて戦さの話に耳を傾けるとは、天晴な小童なり、と誉めたのだ。
一益の前では酔って話しながらでも平気で寝る忠三郎が、片やそんな涙ぐましい努力をしていたのかと、半ば呆れ、半ば感心したのでよく覚えている。
「日向守。いま、我が家の斎藤利三、と申されたな。その者は稲葉一鉄の家臣では?」
一益が訊ねると、光秀の表情が曇ったように見えた。
「以前は稲葉殿の元で禄をはんでおりましたが…。今はゆえあって、我が家の家人でござります」
光秀は少し迷ったように視線を泳がせていたが、左近殿であれば、と前置きしてから話はじめた。
「利三が稲葉殿の戦功報酬に偏りがあると諫言したところ、稲葉殿が激しく怒られたために稲葉家を去り、我が家へ参りました。稲葉家におる那波直治なるものも、同じように稲葉殿の元を去り浪人しておりまする。この者も我が家に来たいと申しておりまするが…」
「待たれよ。それは稲葉が怒るのではないか。争い事になりかねぬ」
「すでに激しくお怒りになられ、上様に訴え出ると申されておる次第にて」
「…で、上様に訴え出られたら、何とする所存か」
光秀には分が悪い話だ。信長が二人を稲葉家に返せと言うのは誰の目にも明らかだ。
「二人を返せば、二人とも切腹させられることは明白。。そうなればこの日向守の命に従う者などいなくなり申す。それを分かっていながら返すわけには参りませぬ」
光秀がきっぱりとそう言ったので、内心驚いた。信長の顔色ばかり窺っていると思っていたのだが。
(上様相手に一歩も譲る気がないとは…意外に肝の据わったところがある)
信長は激怒するかもしれない。しかし光秀は忠実で有能な家臣だ。陪臣の一人や二人のことで処罰するとも思えない。逆に家臣たちは感じ入って光秀に忠義を尽くそうと思うだろう。
「士は己を知る者のために死すと言うが…」
善政をしき、領民に慕われ、体を張って家臣を守る。いかにも理想的な君主像だ。光秀は正心を実践している。君主は天命に従い、人心に対応し、領民を憐み、罪を刈る…しかし、正心のその続きは、
(無道の主君のために働くべからず。私利私欲や無道の主君のために術を使うならば、いかなる高度な陰謀でも、必ずや発覚する。もし露顕せず、一時的に利したとしても、何時かは己に害がはねかえる。道理を外れた主君のために討死するのは、義に以て義ではない。軍法、剣術、その他殺法は勢力ある非道の者を打ち滅ぼす術であり、非道の人を助けるためのものではない。忠とは中心と書くように、非道非理である者に心底まで尽くすのは忠義ではない)
光秀が素破の心得を知っているとも思えない。しかし、もし、その答えに行き着いてしまったら、どうするだろうか。
ふとそんな考えが頭に浮かんで消えなくなった。一益が一点を見つめて考えていると、光秀は思い出したように
「…左近殿。その忠三郎殿の共筒には何と書いてあったか、教えてくだされ」
なんのことかと一瞬考え、茶杓を入れる器に掘った文字のことだと思い当たった。
「共筒には…あはれてふ、そう書いておりました」
「あはれてふ…。忠三郎殿は何を憐れと思われたのでありましょうや」
「はて、それは…。あやつに会うたときに、尋ねてみてくだされ」
忠三郎は驚くだろうが、常と変わらぬ、屈託ない笑顔で答えてくれるだろう。忠三郎は忠三郎で、この戦国という果てしなく続く暗闇の中を、光を探してさまよい歩いているのだから。
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