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7 涙の袖
7-2 無念腹
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摂津の国は都の向こうに位置する海に面した豊かな国だ。摂津一国を治めるのは伊丹城主の荒木村重。
この月、信長の元に、中国の毛利が本願寺に兵糧・弾薬を送っているという知らせが入った。
本願寺からもそう遠くない距離にある摂津の荒木村重と配下の与力である高山右近と中川清秀の他、明智光秀、佐久間信盛、原田直政に出陣命令が下り、忠三郎は信長の命を受けて伊丹城に向かった。
「急ぎ兵をそろえて本願寺へ向かい、周辺ことごとく苅田せよとのご命令にございます」
苅田とは苅田狼藉とも呼ばれ、味方の兵糧を調達すると同時に敵の収穫を減らす目的をもって行われる。
荒木村重は脇息にもたれかかって、折り目正しく使者の口上を伝える忠三郎の顔をジッと見ていたが、
「本願寺には早五万の兵が集められておると聞く。この程度の兵で攻めかかられたらひとたまりもないのではないか」
鼻先で笑ってそう言う。
「無論、いざとなれば上様直々に御出馬されるものかと…」
忠三郎がにこやかにそう言うと、村重はまぁよいわ、と片手を振り、
「よう参ったな。ゆるりして行くがよい。酒はどうじゃ。好きじゃろう」
「それは…はい」
使者にきておいていいのだろうかと一瞬躊躇ったが、断るのもはばかられた。
(一杯だけなら、大事なかろう)
村重は笑って酒宴の準備を命じた。
まもなく都から呼んできたと思われるような華やかな白拍子たちが現れて踊り始めると、重臣の荒木久左衛門が恭しく盃を渡してくる。
「忠三郎、戦場での働きをよう耳にしておる。並ぶ者なき勇猛果敢な働きという評判ではないか。この摂津守の盃を受けてくれ」
荒木久左衛門が盃に並々と酒を注ぐ。
「荒木殿ほどのお方に言われると、なんともお恥ずかしき次第にて…」
これはしっかり飲み干さねばと、有難く押し頂くと、空腹の腹に酒を流し込む。
一気にぐっときた。
「さすがは上様の娘婿どの。もう一杯、どうじゃ」
勧められて断るに断れず、また盃を傾ける。
「聞いたぞ、安土での一件。万見仙千代と一騒動あったというではないか」
忠三郎がおや、と顔をあげる。
「そなたが口惜しい思いをしておるのに、上様も左近も何も言わぬか」
「それは…」
何も言わなかったわけではない。一益は何と言っていたか。
「義兄上は…勝ちたければ、正心を得よと…」
それを聞くと村重は軽く笑い飛ばした。
「いかにも左近が言いそうなことよ。左近であれば人ひとり、葬り去ることなど容易い筈ではないか?」
言われてみると確かにそうだ。これまでの伊勢攻略で、謀略によって闇に葬り去られた者は一人二人ではないだろう。
「左近は動いてはくれぬか?義弟が面目を潰され、刀を抜いて追うほどのものを、義兄上は黙したままか。何もしてくれぬのか」
村重が嘲笑うように言うと、忠三郎は返事に窮して黙り込む。
「であれば、己の手で仙千代ごとき、討ち果たせばよいではないか」
「討ち果たす?仙千代を?」
「然様。常ならばいざ知れず、戦さ場で隙を伺えば、あるいは葬り去ることもできよう」
何を言い出すのかと戸惑ったが、頭の中が霞がかったようになってくる。
ぼんやりと目を見開くと、舞を舞う白拍子の姿が目に入ってきた。
「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
俗に室町小唄と呼ばれる五十年ほど前にできた閑吟集だ。
ちらちらと白い単衣と真っ赤な袴が交差し、眺めているとだんだんと頭がぼんやりとしてくる。
そのまま酔いつぶれた忠三郎はいつのまにか寝入ってしまい、伊丹城に逗留する羽目になった。
気づいた時には明け方で、隣には昨夜の白拍子が寝息をたてている。忠三郎は慌てて起き上がり、村重が出陣の準備を整えているのを横目で見ながら、都に戻っていった。
一方、伊勢では信長からの密書が届けられ、それを見た一益は早々に長島城に家臣たちを集めた。
長島からほど近い金井城の城主、種付秀信とその縁者で大木城主の大木信盛に謀心があるので、すみやかに討ち果たせ、という命であり、長島城の広間には三九郎、義太夫、津田秀重、佐治新介、道家彦八郎らの重臣たちが居並ぶ。
一度は臣従したかに見えた北勢四十八家であったが、時折、織田家に従うことをよしとしない諸家の情報が入ってくる。一年前も浜田城の田原元網を討ったばかりだ。
「もともとは種付の父は甲賀の出。早々に裏切るとも思えませぬが…」
種付秀信の父、種付秀政を調略したのは新介だ。
「裏で動いているのは…」
一益がパチパチと扇子の音をたてていると、津田秀重が気難しい顔をして言う。
「北畠のお館様では」
かつてこの伊勢の国司として君臨していた北畠具教。大河内城に籠った北畠勢と一戦構えてから七年になる。魔虫谷の手痛い敗戦、初陣を飾った忠三郎の抜け駆けなど、紆余曲折を経て北畠と和睦し、信長の次男、三介を北畠の養子にした。
ところが昨年、信長が強引に隠居させ、北畠家を三介に継がせて以来、北勢四十八家が不穏な動向を見せ始めた。
「隠居しているとはいえ、伊勢衆に対する力は侮れませぬ。いま、事を構えるのは得策とも思えませぬが」
道家彦八郎が言うと、佐治新介も大きく頷く。
「いやいや、下手な手を打てば、伊勢はまた騒乱となり、戦場と化しましょう」
「秀重は?存念を申せ」
一益が秀重を促すと、津田秀重は眉を寄せて、
「兵を差し向けるのは愚策かと…」
居並ぶ家臣たちは皆、北畠具教とことを構えるのに気乗りしていないようだ。
「戦さを避けるのであれば、謀をもって静める以外に手立てがないのでは…」
三九郎が控えめに言う。
義太夫は皆の顔をみながら、一人、頷き、せわしなく体を揺さぶっている。
「義太夫、おったか。あまりに静かゆえ、おらぬかと思うたわ」
佐治新介にそう言われ、義太夫は一益の顔色を窺う。
「殿…そろそろ口を開いてもよろしゅうござりますか」
義太夫が喋りだすと場が混乱するので、皆の意見が出揃うまでは口を開くなと命じていたのだ。
一益は苦笑して、
「よかろう。但し、そなたの余計な語りはいらぬ。見聞きしたことを手短に、話せ」
「ハハッ、さすれば…」
義太夫が嬉しそうに身を乗り出す。
「皆々、お聞きくだされ。これが語るも涙、聞くも涙の、酷い話で」
一益の言ったことを全く聞いていなかったようだ。家臣たちはまたいつもの義太夫節がはじまった、と顔を見合わせる。
昨年、信長が唐突に、北畠具教を隠居させると書状を送ってきた。
(なにやら妙な話よ…)
強引に隠居させれば波風立つのは目に見えている。時期的にもいささか性急すぎる。
おかしいと思って義太夫に調べさせたところ、事の発端は具教ではなく、織田家、つまりは三介にあった。
「すべては鳥のせいでござる」
「鳥?」
義太夫が苦虫をかみつぶしたような顔でそう言うと、皆がきつねにつままれたような顔になる。
「三介どのの小姓が、飼っていた鷹の餌にと鳥を籠から出したところ、この鳥がひらりひらりと舞い上がり、人の屋敷に飛んで行ったのでござります」
「…して?」
「小姓がその屋敷にどかどかと押し入り、家の中をどたばたと踏み荒らして、ようやく鳥をつかまえたところ、驚いて出てきた屋敷の家人が小姓をしたたかに打擲したと」
突然、人の屋敷に入って踏み荒らされたのであれば、家人はさぞ驚いただろう。
「面目を潰された三介どのが上様に告げ口したことで、家人の主の北畠の大御所様をムリヤリ隠居させ申した。織田家に家を乗っ取られたと、憤懣やるかたない大御所様は武田と手を結び、北畠家を取り戻すため、北勢四十八家に号令をかけ、旧主の危機を聞いた北勢四十八家は次々に大御所様に呼応し、反旗を掲げた次第にて」
「では、我らは…ひいては伊勢の者どもはみな、もとを辿れば鳥一羽のために、命をかけて戦さをせねばならなくなったのか。かような阿呆な話のどこが、聞くも涙じゃ」
道家彦八郎が呆れてそう言う。義太夫はいやいやと首を振り
「さにあらず。北勢四十八家は、長島願証寺との戦さの折も、先陣をつとめ、我らのために戦ってくれた。それが急にひるがえって此度の旗揚げじゃ。これまでも北勢のものどもは上様に臣従していたのではなく、あくまで旧主に従うていたまでのこと」
義太夫の言うとおりだ。
無論、織田家の勢いに負け、膝を屈していた者も少なくはない。しかしそれもすべては北畠具教が織田家と縁を結び、信長に従っていたことが大きな要因だ。
家臣たちが顔を見合わせ、一益が何か言うのを待っている。
義太夫は更に続ける。
「織田家の横暴な振る舞いに憤り、旧主への恩に報いるため、時勢の波に逆らい、あえて兵をあげたのじゃ、これぞまことの武士の鑑ではないか」
黙って聞いていた佐治新介が、
「待て、待て。その武士の鑑は我らの敵ではないか」
「各々、我らの仁義忠信を忘れたか。我ら、私欲のために術を用いず、無道の君主のために謀るなかれ。無道の君主を補佐して謀を行うとき、いかなる謀を巡らしたとしてもその謀は必ずや露見すべし。露見せず一旦利潤がありとも、ついには己に害が及ぶは必然のことわりなり」
それはまさに、素破として一番最初に教えられる正心の理だ。
「もののふは 常に信心致すべし 天に背かば いかでよからん」
義太夫が勢いづいて素破唄まで吟じだしたので、一益は扇子を閉じて軽く制する。
「義太夫、もうよい」
「ハハッ」
義太夫の言う通りで、気乗りしないのは一益も同じだ。しかし北畠具教が武田と通じて事を荒立てようとしているのであれば、しかるべき手を打たねばならない。本願寺との戦の前に、足元の火種は消しておきたい。
一益が目を閉じて思案していると、三九郎が促すように声をかける。
「父上…」
皆、この寡黙な主が口を開くのを待っている。
一益は目を開き、持っていた扇子で脇息を叩くと、居並ぶ家臣たちを見回した。
「義太夫の言うこと尤もじゃ。されど皆の君主は北畠中将でもなければ三瀬大御所でもない。皆、北畠の家臣にあらず、この滝川左近の家の者である。わしが無道の君主と言うのであれば従わざること、これもまた致し方なし。正道を知らざる愚将には初めより事をなさざるべきこと可なり。これすなわち、もののふの法なり。ただこの身の不徳の致すところである」
自分が正しき君主でないというのであれば、従う必要はない、と話し始めると、一座、しんと静まり返る。
「聖人君主の智慧なくば間者を用いることは叶わず。さりながら、わしにそなたら家人あるは、これまさに、猶魚の水あるがごとし」
家臣たちは自分にとっては魚に水があるのと同様に、欠くことができない、と静かに語りかける。
「我に聖智あり、まことの君主と思うのであれば、この乱世に臨みて主が国を治むるを助け、大功をあげよ」
一益がそう言うと、義太夫が、いの一番に両手をつき
「元より我ら、殿をまことの君主と崇め、お従いするのみ」
「皆は?」
一益がひとりひとりの顔を見ると、
「申し上げるまでもなきこと。皆、殿に従うと心に決め、これまでお仕えして参りました。恐れながらこの地の安寧のため力を尽くしてご奉公いたしまする」
この中では一番年長の津田秀重がそう言うと、新介と彦八郎が深く頷く。
「元は新介が種付の父に働きかけ、我が方に引き入れたのであったが、異存はないか」
一益が佐治新介を顧みて言うと、新介が首を横に振り、
「上意とあらばもはや我らには如何ともしがたく…」
「では決まった。金井城主、種付秀信と大木城主の大木信盛をここへ呼び寄せ、二名が城を出たのを見届けたのち、彦八郎は金井城を、新介は大木城を落とせ」
「殿、その義なれば、しばしお待ちを」
義太夫が慌てて進み出る。
「その種付なるものの縁者が蒲生家におりまする」
「それはまた厄介じゃな。誰じゃ」
いよいよ面倒な話になってきたな、と佐治新介が問う。
伊勢と蒲生家の繋がりも頭の痛い問題のひとつだ。親類縁者が多いために、一益がひとつ駒を動かすごとに、忠三郎が問いただしてくる。
「常より戦場で、鶴に置いて行かれて必死で追いかけていく者がおろう。あれは種村なにがしと申し、種付の本家筋にあたるものじゃ」
「種村伝左衛門か」
「確か、そのような名であったかと」
見覚えがある。あれは確か、蒲生家につけられた六角家の旧臣だ。近江の種村が本家、伊勢の種付が分家にあたる。
「後々遺恨を残すことになるやもしれませぬ。討ち果たすのは致し方なきことといえど、忠三郎どのに知らせておいては…」
津田秀重が案じてそう言う。
「それがよろしいかと。あやつは己の家のことに口を挟むなという割には、いちいち伊勢の仕置きに難癖つけて騒がしいことこの上なく」
義太夫がさも面倒だと言わんばかりにいうと、
「では義太夫、三九郎。二人で行って、鶴に話をつけておけ」
「ハハッ」
返事はしたものの、三九郎には忠三郎が納得いくように話をつける自信がない。義太夫がうまく話してくれるのだろうか、と不安を感じている。
「しかし、殿。恐れながら、義太夫から話を聞く限りでは、此度の騒ぎは織田家にも非があるものかと存じ上げまする。まして種付千代次に謀心あるという上様の仰せも、確たる証拠がありませぬ」
「彦八郎は種付を見逃してやれと?わしはそのようなことを申しておらぬぞ」
義太夫が咎めるように言うと、道家彦八郎が首を横に振る。
「さにあらず。したが、伊勢の者どもの怒りも尤もかと。誇り高い勢州の武士を、これまでのように呼び出して斬り捨てるのではあまりに非情な沙汰かと…」
彦八郎の言うとおりだ。種付秀信の父は、長島願証寺との合戦で先陣を務め、討死しているのだ。
「わかった。そなたの言うこと尤もじゃ」
一益は短く返事をして、また目を閉じる。
(この騒ぎは、容易く収まりそうにない)
一人二人を始末したところでは終わらない。また伊勢に騒乱が巻き起こる前に、何か手をうたなければならない。
翌日。
金井城の種付秀信のもとへ長島からの使者が現れ、上意により伊勢長島城に伺候せよとの命がくだった。種付秀信は一抹の不安を感じ、同じ知らせを受けた大木城主の大木信盛に相談した。
「従わねば、攻め滅ぼされよう」
信長の命に逆らえば兵を差し向けられる。種付秀信は致し方なく長島へと足を向ける。
種付家は近江の種村家とは縁戚にあたる。さらに大木信盛とは父親同士が兄弟、つまり従弟であり、佐治新介と蒲生忠三郎の説得により二人で織田家に寝返った。
信長の間者が取り押さえた密書の内容は、取りようによっては謀心を疑われても仕方のない内容ではあった。しかし金井城は長島城から近い。兵をあげれば真っ先に討たれるのは火を見るよりも明らかだ。旧主の北畠具教から旗揚げを求められたときも、種付秀信には織田家に盾突くつもりはなく、旧主を憚って当たり障りない返事をしただけのつもりだ。
長島城で秀信を出迎えた滝川家の家臣たちは、常と変わらない様子で挨拶を交わし、労をねぎらう。不自然なほどに平穏なその様子が逆に不安をさそったが、共に来る筈だった大木信盛の姿がない。秀信は仕方がなく一人で長島城の門をくぐり、控えの間で小姓に刀を預け、落ち着かない面持ちで広間に通される。
「滝川様にはご機嫌うるわしく…」
形式通りの挨拶が終わったのを待ち、一益が口を開いた。
「千代次(秀信)。何故に呼び出されたか、わかるか」
「は…それは…」
秀信には見当もつかず、恐る恐る一益を見上げる。
一益は目を閉じ、
「上意というは余の儀にあらず。そなたに謀反の疑いがある旨、斬り捨てよとの命がくだった」
驚いた秀信が前に片手をつき、
「決して織田家に弓引こうなどという大それた考えはありませぬ」
身の潔白を訴える。しかし信長からの命がくだった以上、もはや詮議にかけることもできない。
秀信は一益が何か言うのを待っている。その秀信の前に、三方に乗せた脇差が置かれる。
「これは…詰腹切れと、そう仰せか!」
理不尽だと言わんばかりにそう叫ぶ。
「尋常に切腹せよ。さもなくばこの場で討ち果たす。…小平次、介錯してやれ」
「ハハッ」
一益の冷徹な態度を見た秀信が諦めて肌脱ぎすると、
「津田小平次、介錯仕りまする」
と小平次が名を名乗り、会釈してすらりと刀を抜く。
秀信は小平次を睨みつつも黙礼し、脇差を掴むと、左腹に突き立て、そのまま一文字に右へ切る。そこへ小平次が斜めに刀を振り下ろすと、驚いたことに秀信は右手で振り下ろされた刃を抑え、真正面に座る一益を睨んで叫んだ。
「おのれ、非道な織田の行い!必ずや因果の応報を受けようぞ!」
小平次が慌てて刀を振り上げるが、手元が狂い、振り下ろした刀は肩にあたる。秀信は激痛でのけ反りながら、憎々しげに腹の臓物を掴み取り、一益向かって投げつけた。
一益は秀信を凝視したまま、それをよける。
小平次は二度も失敗したことで完全に冷静さを失い、慌てて三の太刀を振り下ろすが、秀信が前かがみになったために頭に当たってしまう。こうなると刃こぼれしてしまい、切ることはできなくなる。
「取り乱すな、小平次」
動揺する小平次に声をかけると刀掛から長刀を掴み取り、うめき声をあげる秀信の傍に進み出た。
「まこと天晴な勢州武士の最期。しかと見届けた」
秀信に声をかけると、鞘から抜くと同時に一気に振り下ろし、一太刀で首を落とした。
極度の重圧からの解放とあまりの凄惨な光景に、津田小平次はしばし呆然と立ち尽くしている。
「小平次、大事ないか」
「ハハッ、面目次第もござりませぬ」
切腹の介錯は斬り捨てるよりもはるかに難しい。小平次は一刀目を遮られた時点で動揺していた。二刀目、三刀目をしくじったのは無理からぬことだ。
「し、しかし、かような無念腹は…」
躊躇いがちに一益を見てそういう小平次に、一益は頷き、
「その先を申すな。手厚く葬ってやろう」
血のりを拭って鞘におさめる。
大木城主、大木信盛はまだ姿を現さない。長島城の不穏な空気を察知して、逃げたのかもしれない。二人を討ち果たすようにと命じられたのであれば、二人の首を信長に送り届けなければならない。取り逃がしたといえば、信長は怒るだろう。
しかし大木信盛一人を逃したとしても今の織田家を揺るがすことにはならない。何よりも、今回ばかりは追手を差し向ける気がしなかった。
種付秀信謀殺の知らせは早々に南近江の日野にもたらされた。義太夫が案じていた通り、伊勢の種付城から知らせを受けた蒲生家の与力、種村伝左衛門はこの青天の霹靂に驚き、怒り心頭で忠三郎の前に出た。
「突然に呼び出して二心ありと捕り込め、何の申し開きの場も与えず、詰腹切らせたとの知らせがあり申した。若殿も存じておいででござりましょう」
「詰腹切らせた?」
そもそも北勢平定の際、佐治新介と忠三郎の二人で種付秀信の父、秀政を説得して織田家に引き入れた経緯がある。
(二心ありとは…そのようなことになっているのであれば、義兄上からなにがしかの知らせがあってもよさそうなもの)
一益ならば事前に知らせてくれるはずだ。
「何も聞いておらぬ。何故、かような仕儀になったのか」
驚いて尋ねると、謀反の証拠となるようなものは一つも抑えていない筈という。
「種付には二心など最初からござりませぬ。謀反の証拠など、あるわけもなく。ゆえに介錯を遮り、織田家を呪って滝川様に己が臓物を投げつけたところ、首を切りおとされたと」
「無念腹だったというか…」
無念腹にはなにがしかの意味があることが多い。理不尽なことに対して抗議する意味で行われると言われている。
「口惜しきことこの上なく…。知らせを受けた一族郎党は城に火をつけて他国へ落ち延び、従弟の大木信盛は城も国も捨てて逃げだした由にて」
罪なき者を罰したと聞いては穏やかではいられない。
(何故に義兄上はかように拙速に事を起こされたのか)
一歩間違えば国が乱れるような乱暴な仕置きだ。一益は家臣を処分したことがない。自分に従う者に対して不条理なことは決して行わない。
それを知っているだけに今回の話は腑に落ちないことが多い。
「まずは義兄上に事と次第を問うてみよう」
一益の元へ使者を送ろうと支度しているところに、義太夫と三九郎が峠を越えてやってきた。
「義兄上はなにゆえに罪なき者に腹を切らせた?」
もう知らせがきていたのかと三九郎が驚き、義太夫の顔を見る。義太夫は笑いながら、
「罪なき、とは?何をもってそう申す?」
「何の確証も得ぬままに捕り込めたと聞き及んだ」
真面目な顔をしてそう言う忠三郎に、義太夫は常のごとく恍けた顔をして、
「わしはよう知らぬが、密書を抑えたという話であったぞ」
「如何なる密書か。まことに二心があったとは思えぬ。申し開きの場さえも与えられなかったと聞く。咎め立てするところがない故の無念腹ではないのか」
義太夫は、はて、と更に恍けてみせる。伊勢を出るときに、信長からの上意であることを伏せておくようにと言われている。
しかし忠三郎がそこまで知っているのであれば、簡単に引き下がるとは思えない。そもそも切腹の場に居合わせていない義太夫自身、話は全てまた聞きだ。
義太夫は多少面倒になって軽く笑いながら手を振り、
「何故の無念腹であったかなど、地獄へ行ってあやつに聞かねば分かるまい」
「大概にせい。地獄へ行かずともわかっておる。己の潔白を訴えるための無念腹。義太夫もそれくらいのことは分かって言うておるのじゃろう」
曖昧な話ばかりで納得いかないようだ。
「種付秀政を説いて織田家に臣従させたのは新介とわしじゃ。そのわしに何の断りもなく詰腹切らせるなど、常の義兄上であればかような仕置きはなさるまい。いささか合点のいかぬ話。包み隠さず、全てを話せ」
だんだん面倒な話になってきたな、と義太夫が苦笑する。適当な誤魔化しが効くような相手でもない。
「義太夫…」
黙って二人のやりとりを聞いていた三九郎がもの言いたげに義太夫を見る。義太夫はいやいや、と首を振る。
「何じゃ、何を隠して居るのか」
忠三郎が三九郎を問い質すと、義太夫が遮り、
「余計な詮索をするな。種付だとて、まことに謀心ないと言うのであれば、いらぬ密書など出さねば、かような仕儀にはなるまいて」
「それはそなたの存念か。義兄上がそう申しておるのか」
到底、そうとは思えない。三九郎が溜まりかねて口を開く。
「それは違う。忠三郎、そなた、父上をそのような暴君と思うておるのか」
忠三郎がその言葉をとらえて、
「思う筈もなく。それ故、おかしいな話と申しておる。何故隠す?最初から上様の命であろう。何ゆえにそう申さぬ」
と問いただすと、義太夫がやれやれ、とため息をつく。
「そなたが上様に詰め寄り騒ぎ立てることのなきように、上意であることは伏せておけと、殿がそう仰せられたのじゃ」
「義兄上は常日ごろから、わしに全てを打ち明けてはくださらぬ。いつまでも童のような扱いじゃ」
忠三郎が不満げにそう言うと、義太夫が呆れたように
「童ではないか。万見仙千代に斬りかかったは童の証」
嫌な話をもちだされて忠三郎がむきになり、
「国と民を守るのが君主の務め。それのどこが童と申すか」
「いかにも国と民を守るは君主の務めじゃ。であれば、まず、仙千代ごときに侮られるような真似はするな」
「おぬしにだけは言われとうないわ」
二人が常のごとく言い争いをはじめそうになったので、三九郎が慌てて、
「義太夫、この際、万見殿は関係がない。父上は忠三郎を案じておられるのじゃ」
「然様。此度もそなたが飯を食っているかどうか案じて、魚を仰山持たされてきたわ。好きじゃろ?」
「それは…」
こういう一益の気遣いが、普段から童扱いされているように思える要因だ。三九郎が苦笑している。
「上様からの命が下ったということは、上様は三瀬御所と事を構えるということではないか」
「そのことよ。したが些か時期尚早と殿はお考えじゃ。本願寺の背後で毛利が動いておる」
忠三郎はそうか、と頷く。
主家の六角と蒲生により約百年に渡り度々伊勢に介入してきた。
(戦国を終わらせるためにも伊勢を沈静化させねば)
信長や一益が次にどんな手を打とうとしているかは分からない。いずれにしても平穏無事に済むことはないだろう。
この月、信長の元に、中国の毛利が本願寺に兵糧・弾薬を送っているという知らせが入った。
本願寺からもそう遠くない距離にある摂津の荒木村重と配下の与力である高山右近と中川清秀の他、明智光秀、佐久間信盛、原田直政に出陣命令が下り、忠三郎は信長の命を受けて伊丹城に向かった。
「急ぎ兵をそろえて本願寺へ向かい、周辺ことごとく苅田せよとのご命令にございます」
苅田とは苅田狼藉とも呼ばれ、味方の兵糧を調達すると同時に敵の収穫を減らす目的をもって行われる。
荒木村重は脇息にもたれかかって、折り目正しく使者の口上を伝える忠三郎の顔をジッと見ていたが、
「本願寺には早五万の兵が集められておると聞く。この程度の兵で攻めかかられたらひとたまりもないのではないか」
鼻先で笑ってそう言う。
「無論、いざとなれば上様直々に御出馬されるものかと…」
忠三郎がにこやかにそう言うと、村重はまぁよいわ、と片手を振り、
「よう参ったな。ゆるりして行くがよい。酒はどうじゃ。好きじゃろう」
「それは…はい」
使者にきておいていいのだろうかと一瞬躊躇ったが、断るのもはばかられた。
(一杯だけなら、大事なかろう)
村重は笑って酒宴の準備を命じた。
まもなく都から呼んできたと思われるような華やかな白拍子たちが現れて踊り始めると、重臣の荒木久左衛門が恭しく盃を渡してくる。
「忠三郎、戦場での働きをよう耳にしておる。並ぶ者なき勇猛果敢な働きという評判ではないか。この摂津守の盃を受けてくれ」
荒木久左衛門が盃に並々と酒を注ぐ。
「荒木殿ほどのお方に言われると、なんともお恥ずかしき次第にて…」
これはしっかり飲み干さねばと、有難く押し頂くと、空腹の腹に酒を流し込む。
一気にぐっときた。
「さすがは上様の娘婿どの。もう一杯、どうじゃ」
勧められて断るに断れず、また盃を傾ける。
「聞いたぞ、安土での一件。万見仙千代と一騒動あったというではないか」
忠三郎がおや、と顔をあげる。
「そなたが口惜しい思いをしておるのに、上様も左近も何も言わぬか」
「それは…」
何も言わなかったわけではない。一益は何と言っていたか。
「義兄上は…勝ちたければ、正心を得よと…」
それを聞くと村重は軽く笑い飛ばした。
「いかにも左近が言いそうなことよ。左近であれば人ひとり、葬り去ることなど容易い筈ではないか?」
言われてみると確かにそうだ。これまでの伊勢攻略で、謀略によって闇に葬り去られた者は一人二人ではないだろう。
「左近は動いてはくれぬか?義弟が面目を潰され、刀を抜いて追うほどのものを、義兄上は黙したままか。何もしてくれぬのか」
村重が嘲笑うように言うと、忠三郎は返事に窮して黙り込む。
「であれば、己の手で仙千代ごとき、討ち果たせばよいではないか」
「討ち果たす?仙千代を?」
「然様。常ならばいざ知れず、戦さ場で隙を伺えば、あるいは葬り去ることもできよう」
何を言い出すのかと戸惑ったが、頭の中が霞がかったようになってくる。
ぼんやりと目を見開くと、舞を舞う白拍子の姿が目に入ってきた。
「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
俗に室町小唄と呼ばれる五十年ほど前にできた閑吟集だ。
ちらちらと白い単衣と真っ赤な袴が交差し、眺めているとだんだんと頭がぼんやりとしてくる。
そのまま酔いつぶれた忠三郎はいつのまにか寝入ってしまい、伊丹城に逗留する羽目になった。
気づいた時には明け方で、隣には昨夜の白拍子が寝息をたてている。忠三郎は慌てて起き上がり、村重が出陣の準備を整えているのを横目で見ながら、都に戻っていった。
一方、伊勢では信長からの密書が届けられ、それを見た一益は早々に長島城に家臣たちを集めた。
長島からほど近い金井城の城主、種付秀信とその縁者で大木城主の大木信盛に謀心があるので、すみやかに討ち果たせ、という命であり、長島城の広間には三九郎、義太夫、津田秀重、佐治新介、道家彦八郎らの重臣たちが居並ぶ。
一度は臣従したかに見えた北勢四十八家であったが、時折、織田家に従うことをよしとしない諸家の情報が入ってくる。一年前も浜田城の田原元網を討ったばかりだ。
「もともとは種付の父は甲賀の出。早々に裏切るとも思えませぬが…」
種付秀信の父、種付秀政を調略したのは新介だ。
「裏で動いているのは…」
一益がパチパチと扇子の音をたてていると、津田秀重が気難しい顔をして言う。
「北畠のお館様では」
かつてこの伊勢の国司として君臨していた北畠具教。大河内城に籠った北畠勢と一戦構えてから七年になる。魔虫谷の手痛い敗戦、初陣を飾った忠三郎の抜け駆けなど、紆余曲折を経て北畠と和睦し、信長の次男、三介を北畠の養子にした。
ところが昨年、信長が強引に隠居させ、北畠家を三介に継がせて以来、北勢四十八家が不穏な動向を見せ始めた。
「隠居しているとはいえ、伊勢衆に対する力は侮れませぬ。いま、事を構えるのは得策とも思えませぬが」
道家彦八郎が言うと、佐治新介も大きく頷く。
「いやいや、下手な手を打てば、伊勢はまた騒乱となり、戦場と化しましょう」
「秀重は?存念を申せ」
一益が秀重を促すと、津田秀重は眉を寄せて、
「兵を差し向けるのは愚策かと…」
居並ぶ家臣たちは皆、北畠具教とことを構えるのに気乗りしていないようだ。
「戦さを避けるのであれば、謀をもって静める以外に手立てがないのでは…」
三九郎が控えめに言う。
義太夫は皆の顔をみながら、一人、頷き、せわしなく体を揺さぶっている。
「義太夫、おったか。あまりに静かゆえ、おらぬかと思うたわ」
佐治新介にそう言われ、義太夫は一益の顔色を窺う。
「殿…そろそろ口を開いてもよろしゅうござりますか」
義太夫が喋りだすと場が混乱するので、皆の意見が出揃うまでは口を開くなと命じていたのだ。
一益は苦笑して、
「よかろう。但し、そなたの余計な語りはいらぬ。見聞きしたことを手短に、話せ」
「ハハッ、さすれば…」
義太夫が嬉しそうに身を乗り出す。
「皆々、お聞きくだされ。これが語るも涙、聞くも涙の、酷い話で」
一益の言ったことを全く聞いていなかったようだ。家臣たちはまたいつもの義太夫節がはじまった、と顔を見合わせる。
昨年、信長が唐突に、北畠具教を隠居させると書状を送ってきた。
(なにやら妙な話よ…)
強引に隠居させれば波風立つのは目に見えている。時期的にもいささか性急すぎる。
おかしいと思って義太夫に調べさせたところ、事の発端は具教ではなく、織田家、つまりは三介にあった。
「すべては鳥のせいでござる」
「鳥?」
義太夫が苦虫をかみつぶしたような顔でそう言うと、皆がきつねにつままれたような顔になる。
「三介どのの小姓が、飼っていた鷹の餌にと鳥を籠から出したところ、この鳥がひらりひらりと舞い上がり、人の屋敷に飛んで行ったのでござります」
「…して?」
「小姓がその屋敷にどかどかと押し入り、家の中をどたばたと踏み荒らして、ようやく鳥をつかまえたところ、驚いて出てきた屋敷の家人が小姓をしたたかに打擲したと」
突然、人の屋敷に入って踏み荒らされたのであれば、家人はさぞ驚いただろう。
「面目を潰された三介どのが上様に告げ口したことで、家人の主の北畠の大御所様をムリヤリ隠居させ申した。織田家に家を乗っ取られたと、憤懣やるかたない大御所様は武田と手を結び、北畠家を取り戻すため、北勢四十八家に号令をかけ、旧主の危機を聞いた北勢四十八家は次々に大御所様に呼応し、反旗を掲げた次第にて」
「では、我らは…ひいては伊勢の者どもはみな、もとを辿れば鳥一羽のために、命をかけて戦さをせねばならなくなったのか。かような阿呆な話のどこが、聞くも涙じゃ」
道家彦八郎が呆れてそう言う。義太夫はいやいやと首を振り
「さにあらず。北勢四十八家は、長島願証寺との戦さの折も、先陣をつとめ、我らのために戦ってくれた。それが急にひるがえって此度の旗揚げじゃ。これまでも北勢のものどもは上様に臣従していたのではなく、あくまで旧主に従うていたまでのこと」
義太夫の言うとおりだ。
無論、織田家の勢いに負け、膝を屈していた者も少なくはない。しかしそれもすべては北畠具教が織田家と縁を結び、信長に従っていたことが大きな要因だ。
家臣たちが顔を見合わせ、一益が何か言うのを待っている。
義太夫は更に続ける。
「織田家の横暴な振る舞いに憤り、旧主への恩に報いるため、時勢の波に逆らい、あえて兵をあげたのじゃ、これぞまことの武士の鑑ではないか」
黙って聞いていた佐治新介が、
「待て、待て。その武士の鑑は我らの敵ではないか」
「各々、我らの仁義忠信を忘れたか。我ら、私欲のために術を用いず、無道の君主のために謀るなかれ。無道の君主を補佐して謀を行うとき、いかなる謀を巡らしたとしてもその謀は必ずや露見すべし。露見せず一旦利潤がありとも、ついには己に害が及ぶは必然のことわりなり」
それはまさに、素破として一番最初に教えられる正心の理だ。
「もののふは 常に信心致すべし 天に背かば いかでよからん」
義太夫が勢いづいて素破唄まで吟じだしたので、一益は扇子を閉じて軽く制する。
「義太夫、もうよい」
「ハハッ」
義太夫の言う通りで、気乗りしないのは一益も同じだ。しかし北畠具教が武田と通じて事を荒立てようとしているのであれば、しかるべき手を打たねばならない。本願寺との戦の前に、足元の火種は消しておきたい。
一益が目を閉じて思案していると、三九郎が促すように声をかける。
「父上…」
皆、この寡黙な主が口を開くのを待っている。
一益は目を開き、持っていた扇子で脇息を叩くと、居並ぶ家臣たちを見回した。
「義太夫の言うこと尤もじゃ。されど皆の君主は北畠中将でもなければ三瀬大御所でもない。皆、北畠の家臣にあらず、この滝川左近の家の者である。わしが無道の君主と言うのであれば従わざること、これもまた致し方なし。正道を知らざる愚将には初めより事をなさざるべきこと可なり。これすなわち、もののふの法なり。ただこの身の不徳の致すところである」
自分が正しき君主でないというのであれば、従う必要はない、と話し始めると、一座、しんと静まり返る。
「聖人君主の智慧なくば間者を用いることは叶わず。さりながら、わしにそなたら家人あるは、これまさに、猶魚の水あるがごとし」
家臣たちは自分にとっては魚に水があるのと同様に、欠くことができない、と静かに語りかける。
「我に聖智あり、まことの君主と思うのであれば、この乱世に臨みて主が国を治むるを助け、大功をあげよ」
一益がそう言うと、義太夫が、いの一番に両手をつき
「元より我ら、殿をまことの君主と崇め、お従いするのみ」
「皆は?」
一益がひとりひとりの顔を見ると、
「申し上げるまでもなきこと。皆、殿に従うと心に決め、これまでお仕えして参りました。恐れながらこの地の安寧のため力を尽くしてご奉公いたしまする」
この中では一番年長の津田秀重がそう言うと、新介と彦八郎が深く頷く。
「元は新介が種付の父に働きかけ、我が方に引き入れたのであったが、異存はないか」
一益が佐治新介を顧みて言うと、新介が首を横に振り、
「上意とあらばもはや我らには如何ともしがたく…」
「では決まった。金井城主、種付秀信と大木城主の大木信盛をここへ呼び寄せ、二名が城を出たのを見届けたのち、彦八郎は金井城を、新介は大木城を落とせ」
「殿、その義なれば、しばしお待ちを」
義太夫が慌てて進み出る。
「その種付なるものの縁者が蒲生家におりまする」
「それはまた厄介じゃな。誰じゃ」
いよいよ面倒な話になってきたな、と佐治新介が問う。
伊勢と蒲生家の繋がりも頭の痛い問題のひとつだ。親類縁者が多いために、一益がひとつ駒を動かすごとに、忠三郎が問いただしてくる。
「常より戦場で、鶴に置いて行かれて必死で追いかけていく者がおろう。あれは種村なにがしと申し、種付の本家筋にあたるものじゃ」
「種村伝左衛門か」
「確か、そのような名であったかと」
見覚えがある。あれは確か、蒲生家につけられた六角家の旧臣だ。近江の種村が本家、伊勢の種付が分家にあたる。
「後々遺恨を残すことになるやもしれませぬ。討ち果たすのは致し方なきことといえど、忠三郎どのに知らせておいては…」
津田秀重が案じてそう言う。
「それがよろしいかと。あやつは己の家のことに口を挟むなという割には、いちいち伊勢の仕置きに難癖つけて騒がしいことこの上なく」
義太夫がさも面倒だと言わんばかりにいうと、
「では義太夫、三九郎。二人で行って、鶴に話をつけておけ」
「ハハッ」
返事はしたものの、三九郎には忠三郎が納得いくように話をつける自信がない。義太夫がうまく話してくれるのだろうか、と不安を感じている。
「しかし、殿。恐れながら、義太夫から話を聞く限りでは、此度の騒ぎは織田家にも非があるものかと存じ上げまする。まして種付千代次に謀心あるという上様の仰せも、確たる証拠がありませぬ」
「彦八郎は種付を見逃してやれと?わしはそのようなことを申しておらぬぞ」
義太夫が咎めるように言うと、道家彦八郎が首を横に振る。
「さにあらず。したが、伊勢の者どもの怒りも尤もかと。誇り高い勢州の武士を、これまでのように呼び出して斬り捨てるのではあまりに非情な沙汰かと…」
彦八郎の言うとおりだ。種付秀信の父は、長島願証寺との合戦で先陣を務め、討死しているのだ。
「わかった。そなたの言うこと尤もじゃ」
一益は短く返事をして、また目を閉じる。
(この騒ぎは、容易く収まりそうにない)
一人二人を始末したところでは終わらない。また伊勢に騒乱が巻き起こる前に、何か手をうたなければならない。
翌日。
金井城の種付秀信のもとへ長島からの使者が現れ、上意により伊勢長島城に伺候せよとの命がくだった。種付秀信は一抹の不安を感じ、同じ知らせを受けた大木城主の大木信盛に相談した。
「従わねば、攻め滅ぼされよう」
信長の命に逆らえば兵を差し向けられる。種付秀信は致し方なく長島へと足を向ける。
種付家は近江の種村家とは縁戚にあたる。さらに大木信盛とは父親同士が兄弟、つまり従弟であり、佐治新介と蒲生忠三郎の説得により二人で織田家に寝返った。
信長の間者が取り押さえた密書の内容は、取りようによっては謀心を疑われても仕方のない内容ではあった。しかし金井城は長島城から近い。兵をあげれば真っ先に討たれるのは火を見るよりも明らかだ。旧主の北畠具教から旗揚げを求められたときも、種付秀信には織田家に盾突くつもりはなく、旧主を憚って当たり障りない返事をしただけのつもりだ。
長島城で秀信を出迎えた滝川家の家臣たちは、常と変わらない様子で挨拶を交わし、労をねぎらう。不自然なほどに平穏なその様子が逆に不安をさそったが、共に来る筈だった大木信盛の姿がない。秀信は仕方がなく一人で長島城の門をくぐり、控えの間で小姓に刀を預け、落ち着かない面持ちで広間に通される。
「滝川様にはご機嫌うるわしく…」
形式通りの挨拶が終わったのを待ち、一益が口を開いた。
「千代次(秀信)。何故に呼び出されたか、わかるか」
「は…それは…」
秀信には見当もつかず、恐る恐る一益を見上げる。
一益は目を閉じ、
「上意というは余の儀にあらず。そなたに謀反の疑いがある旨、斬り捨てよとの命がくだった」
驚いた秀信が前に片手をつき、
「決して織田家に弓引こうなどという大それた考えはありませぬ」
身の潔白を訴える。しかし信長からの命がくだった以上、もはや詮議にかけることもできない。
秀信は一益が何か言うのを待っている。その秀信の前に、三方に乗せた脇差が置かれる。
「これは…詰腹切れと、そう仰せか!」
理不尽だと言わんばかりにそう叫ぶ。
「尋常に切腹せよ。さもなくばこの場で討ち果たす。…小平次、介錯してやれ」
「ハハッ」
一益の冷徹な態度を見た秀信が諦めて肌脱ぎすると、
「津田小平次、介錯仕りまする」
と小平次が名を名乗り、会釈してすらりと刀を抜く。
秀信は小平次を睨みつつも黙礼し、脇差を掴むと、左腹に突き立て、そのまま一文字に右へ切る。そこへ小平次が斜めに刀を振り下ろすと、驚いたことに秀信は右手で振り下ろされた刃を抑え、真正面に座る一益を睨んで叫んだ。
「おのれ、非道な織田の行い!必ずや因果の応報を受けようぞ!」
小平次が慌てて刀を振り上げるが、手元が狂い、振り下ろした刀は肩にあたる。秀信は激痛でのけ反りながら、憎々しげに腹の臓物を掴み取り、一益向かって投げつけた。
一益は秀信を凝視したまま、それをよける。
小平次は二度も失敗したことで完全に冷静さを失い、慌てて三の太刀を振り下ろすが、秀信が前かがみになったために頭に当たってしまう。こうなると刃こぼれしてしまい、切ることはできなくなる。
「取り乱すな、小平次」
動揺する小平次に声をかけると刀掛から長刀を掴み取り、うめき声をあげる秀信の傍に進み出た。
「まこと天晴な勢州武士の最期。しかと見届けた」
秀信に声をかけると、鞘から抜くと同時に一気に振り下ろし、一太刀で首を落とした。
極度の重圧からの解放とあまりの凄惨な光景に、津田小平次はしばし呆然と立ち尽くしている。
「小平次、大事ないか」
「ハハッ、面目次第もござりませぬ」
切腹の介錯は斬り捨てるよりもはるかに難しい。小平次は一刀目を遮られた時点で動揺していた。二刀目、三刀目をしくじったのは無理からぬことだ。
「し、しかし、かような無念腹は…」
躊躇いがちに一益を見てそういう小平次に、一益は頷き、
「その先を申すな。手厚く葬ってやろう」
血のりを拭って鞘におさめる。
大木城主、大木信盛はまだ姿を現さない。長島城の不穏な空気を察知して、逃げたのかもしれない。二人を討ち果たすようにと命じられたのであれば、二人の首を信長に送り届けなければならない。取り逃がしたといえば、信長は怒るだろう。
しかし大木信盛一人を逃したとしても今の織田家を揺るがすことにはならない。何よりも、今回ばかりは追手を差し向ける気がしなかった。
種付秀信謀殺の知らせは早々に南近江の日野にもたらされた。義太夫が案じていた通り、伊勢の種付城から知らせを受けた蒲生家の与力、種村伝左衛門はこの青天の霹靂に驚き、怒り心頭で忠三郎の前に出た。
「突然に呼び出して二心ありと捕り込め、何の申し開きの場も与えず、詰腹切らせたとの知らせがあり申した。若殿も存じておいででござりましょう」
「詰腹切らせた?」
そもそも北勢平定の際、佐治新介と忠三郎の二人で種付秀信の父、秀政を説得して織田家に引き入れた経緯がある。
(二心ありとは…そのようなことになっているのであれば、義兄上からなにがしかの知らせがあってもよさそうなもの)
一益ならば事前に知らせてくれるはずだ。
「何も聞いておらぬ。何故、かような仕儀になったのか」
驚いて尋ねると、謀反の証拠となるようなものは一つも抑えていない筈という。
「種付には二心など最初からござりませぬ。謀反の証拠など、あるわけもなく。ゆえに介錯を遮り、織田家を呪って滝川様に己が臓物を投げつけたところ、首を切りおとされたと」
「無念腹だったというか…」
無念腹にはなにがしかの意味があることが多い。理不尽なことに対して抗議する意味で行われると言われている。
「口惜しきことこの上なく…。知らせを受けた一族郎党は城に火をつけて他国へ落ち延び、従弟の大木信盛は城も国も捨てて逃げだした由にて」
罪なき者を罰したと聞いては穏やかではいられない。
(何故に義兄上はかように拙速に事を起こされたのか)
一歩間違えば国が乱れるような乱暴な仕置きだ。一益は家臣を処分したことがない。自分に従う者に対して不条理なことは決して行わない。
それを知っているだけに今回の話は腑に落ちないことが多い。
「まずは義兄上に事と次第を問うてみよう」
一益の元へ使者を送ろうと支度しているところに、義太夫と三九郎が峠を越えてやってきた。
「義兄上はなにゆえに罪なき者に腹を切らせた?」
もう知らせがきていたのかと三九郎が驚き、義太夫の顔を見る。義太夫は笑いながら、
「罪なき、とは?何をもってそう申す?」
「何の確証も得ぬままに捕り込めたと聞き及んだ」
真面目な顔をしてそう言う忠三郎に、義太夫は常のごとく恍けた顔をして、
「わしはよう知らぬが、密書を抑えたという話であったぞ」
「如何なる密書か。まことに二心があったとは思えぬ。申し開きの場さえも与えられなかったと聞く。咎め立てするところがない故の無念腹ではないのか」
義太夫は、はて、と更に恍けてみせる。伊勢を出るときに、信長からの上意であることを伏せておくようにと言われている。
しかし忠三郎がそこまで知っているのであれば、簡単に引き下がるとは思えない。そもそも切腹の場に居合わせていない義太夫自身、話は全てまた聞きだ。
義太夫は多少面倒になって軽く笑いながら手を振り、
「何故の無念腹であったかなど、地獄へ行ってあやつに聞かねば分かるまい」
「大概にせい。地獄へ行かずともわかっておる。己の潔白を訴えるための無念腹。義太夫もそれくらいのことは分かって言うておるのじゃろう」
曖昧な話ばかりで納得いかないようだ。
「種付秀政を説いて織田家に臣従させたのは新介とわしじゃ。そのわしに何の断りもなく詰腹切らせるなど、常の義兄上であればかような仕置きはなさるまい。いささか合点のいかぬ話。包み隠さず、全てを話せ」
だんだん面倒な話になってきたな、と義太夫が苦笑する。適当な誤魔化しが効くような相手でもない。
「義太夫…」
黙って二人のやりとりを聞いていた三九郎がもの言いたげに義太夫を見る。義太夫はいやいや、と首を振る。
「何じゃ、何を隠して居るのか」
忠三郎が三九郎を問い質すと、義太夫が遮り、
「余計な詮索をするな。種付だとて、まことに謀心ないと言うのであれば、いらぬ密書など出さねば、かような仕儀にはなるまいて」
「それはそなたの存念か。義兄上がそう申しておるのか」
到底、そうとは思えない。三九郎が溜まりかねて口を開く。
「それは違う。忠三郎、そなた、父上をそのような暴君と思うておるのか」
忠三郎がその言葉をとらえて、
「思う筈もなく。それ故、おかしいな話と申しておる。何故隠す?最初から上様の命であろう。何ゆえにそう申さぬ」
と問いただすと、義太夫がやれやれ、とため息をつく。
「そなたが上様に詰め寄り騒ぎ立てることのなきように、上意であることは伏せておけと、殿がそう仰せられたのじゃ」
「義兄上は常日ごろから、わしに全てを打ち明けてはくださらぬ。いつまでも童のような扱いじゃ」
忠三郎が不満げにそう言うと、義太夫が呆れたように
「童ではないか。万見仙千代に斬りかかったは童の証」
嫌な話をもちだされて忠三郎がむきになり、
「国と民を守るのが君主の務め。それのどこが童と申すか」
「いかにも国と民を守るは君主の務めじゃ。であれば、まず、仙千代ごときに侮られるような真似はするな」
「おぬしにだけは言われとうないわ」
二人が常のごとく言い争いをはじめそうになったので、三九郎が慌てて、
「義太夫、この際、万見殿は関係がない。父上は忠三郎を案じておられるのじゃ」
「然様。此度もそなたが飯を食っているかどうか案じて、魚を仰山持たされてきたわ。好きじゃろ?」
「それは…」
こういう一益の気遣いが、普段から童扱いされているように思える要因だ。三九郎が苦笑している。
「上様からの命が下ったということは、上様は三瀬御所と事を構えるということではないか」
「そのことよ。したが些か時期尚早と殿はお考えじゃ。本願寺の背後で毛利が動いておる」
忠三郎はそうか、と頷く。
主家の六角と蒲生により約百年に渡り度々伊勢に介入してきた。
(戦国を終わらせるためにも伊勢を沈静化させねば)
信長や一益が次にどんな手を打とうとしているかは分からない。いずれにしても平穏無事に済むことはないだろう。
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