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6 色即是空
6-3 五箇の神
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越前朝倉氏を滅ぼして後、信長は本願寺の力が強い越前の地を朝倉家の旧臣たちに任せた。それが裏目にでて、朝倉家旧臣同士のいざこざが起き、そこへ漬け込んだ一揆勢が越前を占拠。越前が一向衆の治める国となったのは、朝倉氏が滅んでわずか半年後のことだった。
八月、一益が岐阜まで兵を進めると、信長本隊は出陣した後だった。
屋敷に顔を出すと子供が増えたせいか、いつにも増して賑やかだ。一益の到着に気づいた風花は、いつもと変わらぬ様子で出迎えてくれた。
「入れ違いでござりましたな。忠三郎殿は朝、出立されました」
「鶴が参ったか」
妙だな、と思った。
日野から越前に向かうのであれば、岐阜に来る必要がない。岐阜からでは山越えになるため、一度北近江の小谷へ出てから越前に向かうのが通常の行程になる。
「九郎の顔を見にきたらしいので、追い返しました」
風花が澄ました顔でそう言うので、一益はおや、と風花を見る。
「屋敷に来るなとまでは申しませぬ。されど、奥への出入りはお断りいたしまする」
誰かに何かを聞いたらしい。何も事情を話さなかった一益にも、多少腹を立てているようだ。
「誰に何を聞いた?」
「三九郎殿が口を割りました。何を言われようと、九郎は殿とわらわの子でござります。忠三郎殿にも義太夫殿にも会わせるつもりはありませぬ」
三九郎は風花に弱い。問い詰められて、白状させられたのだろう。
一益は、然様か、と笑って屋敷を後にした。
美濃の垂井にある玉泉寺で忠三郎に追いついた。
垂井は西美濃に位置し、東山道と桑名に繋がる美濃街道の追分にある宿場町だ。古来から多くの人の往来があり、歌人たちが詩歌を残している。
今は羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛の領地になっていた。
「義兄上、存じておられるか。いにしえより、この木の根元より湧き出でたる水。この地の由来となった誉れ高い天下の名水」
というので噂の天下の名水を二人で飲んでみることにした。
「……確かに、美味じゃ」
なんとも柔らかいというか、のど越しよく、まろやかな飲み口だ。
忠三郎は嬉しそうな笑顔を見せる。
「されど我が故国、日野の湧き水には叶いますまい」
義太夫も来て、どれどれと水を飲む。忠三郎はその姿を見ながら、
「今よりはるか昔、はてしなき道を旅していたものが、水をみつけ、それを飲むと苦くて飲めなかった。ところが一人の男が祈り、示された一本の木を水に投げ込むとその苦い水が甘くなったと、そんな話を聞き及びました」
「苦い水とは、毒が入っておったか?」
義太夫がいつものようにとぼけてそう言うと、忠三郎は、いや、と笑って
「苦い水とは時に沸いてくる己の苦々しい思いを差し、投げ入れられた一本の木とはイエズスの十字架を指すと、ロレンソ殿はそう申された」
「あの生臭坊主のいうことは、ようわからん」
義太夫が竹筒に水を入れながらそう言う。
「ロレンソは、日野によう参るか?」
「時折思い出したように、おいでになります」
ロレンソが高山右近の領地、高槻を拠点に活動しているのであれば、たいして離れていない日野へ現れても不思議はないが、忠三郎は若いだけに純粋で影響を受けやすい。
少し気になりはしたが、いくら影響を受けたからといっても、キリシタンになると言い出すほど愚かではないだろう。
それよりも、わざわざ岐阜に来たのは九郎の顔を見るためではないようだった。忠三郎は岐阜まで来て、垂井で一益を待っていた。しかし忠三郎は何も言わない。一益が気づいて何か言い出すのを待っているかのような態度だ。
「ここでわしを待ったのは、共に水を飲むためではあるまい」
忠三郎は笑って、
「何ともなしに…ここにおりました」
飄々とそう答える。こういう掴みどころのなさが、三九郎をして『人ではないようなもの』と言わしめるのかもしれない。
「あれから二年か」
忠三郎の兄、重丸が死んだのは越前の入口。もう二年たつ。撃ったのは三九郎だ。忠三郎は薄々気づいているのだろうが、一言も、何も言わない。
「やはり義兄上は…覚えていてくだされた」
忠三郎が笑顔を見せる。
「むかし見し 垂井の水は かはらねど
うつれる影ぞ 年をへにける」
平安の昔、勅撰歌人であった藤原美濃守隆経がこの地で詠んだ和歌だ。昔見た垂井の水は変わってはいないが、水に映る己の姿は長い年月を思わせると詠っている。
若干二十歳の忠三郎の胸に去来する思いは何なのだろうか。
「上様は今日、小谷の羽柴筑前殿の元に到着。明日には敦賀に入られましょう。一揆衆が一枚岩ではないという噂もあり、お味方の士気は上がっているものと存じまする」
「此度の出陣は、それを好機と見た上様が下知なされたものじゃ」
越前の土豪と石山本願寺から送られた下間頼照らの大坊主が不仲であるという噂は聞いている。
「それがまことであれば、もはや恐るるに足らず」
兵を進め、小谷を抜けて、翌日には敦賀にいる信長に追いついた。
羽柴秀吉、丹羽長秀らはすでに到着しており、続いて摂津、若狭から柴田勝家と佐久間信盛の部隊も到着。南伊勢から北畠三介と神戸三七が着陣。総勢三万の兵を率いて越前入りした信長は、諸将が集まったところで軍議を開いた。
「此度の先陣は越前衆と、一向宗の内、我が方に寝返ったものたちじゃ。そのあとは…」
くじ引きで先陣を決める。先陣は功名をあげやすい。誰が先陣を務めるかで揉めるので、くじ引きをして決めるのが通例だ。結果、先陣は羽柴秀吉と明智光秀に決まった。
「若狭水軍が火をつけて回る。陸にいるものどもは混乱に乗じて攻めかかれ。一人も逃すな」
攻撃開始は明朝からとなり、諸将はそれぞれの陣に戻っていった。
夜になり、雨が降り始めた。
「火をつけるというても、これではどうにもなりますまい」
義太夫が雨をしのぎながら言う。
「明日は鉄砲が使えぬやもしれぬ」
「いつもなら、先陣をきると騒ぐ奴が現れませぬな」
忠三郎のことだろう。敦賀に入ってから姿を見ていない。
軍議のときのくじ引きにもいなかった。
「何か存じておるか」
義太夫はいやはや、と笑って
「わかりやすい奴でござりますな。百姓相手で気乗りせぬのでは?」
長島願証寺の門徒たちは甲冑を纏っているものがほとんどだった。手にしていたのも太刀、打刀など、戦さ慣れした者が多かった。それに比べ、ここ越前の農兵はまともに甲冑を身につけていない者が多い。鍬や鋤で向かってくる農民を斬るのは気が重いのだろう。
(迷いがあるのか…)
「義太夫、行って様子を見て参れ」
長島のことが尾を引いているのかもしれないが、いざ合戦というときにそれでは命取りになる。
義太夫が様子を見に行くと、帷幕の外で滝川助太郎と町野長門守が何やら話している。
「おぉ、二人とも。鶴は?」
「それが…やる気があるのかないのか…」
「皆を外に出して、一人で何をしておられるのやら」
困惑する二人を見ながら、義太夫は素知らぬ顔で中へ入っていく。
見ると、忠三郎は何をするでもなく、具足も脱いでぼんやりと一人、床几に座って考え込んでいた。
「義太夫…」
義太夫を見ると、常の笑顔を見せた。
「如何いたした。腹が減ったか」
義太夫が懐から握り飯を出すと、嬉しそうに受けとり、食べ始める。
「越前一国、丸ごと一向門徒の国とはのう。なにゆえにここは門徒ばかりおるのじゃ」
とぼけた顔をしてそう言うと、忠三郎はあぁ、と笑って
「今より百年ほど前、この地にきた本願寺八世、蓮如が吉崎御坊なる寺で教えを広めたのが事の始まりと言われておる」
「おぉ、五人の女房に二十人以上も子を産ませたという腐れ坊主か」
蓮如は寂れて衰退の一途をたどっていた本願寺を復興し、各地に広めた本願寺中興の祖と呼ばれている。
「流石、義太夫。そういったことだけはよう存じておるな」
忠三郎は笑って、握り飯を飲み込み、
「蓮如がその教えを民に分かりやすいように書き下し、朝晩唱える経文を短くしたことで、無学な者でも容易に門徒に加わることができるようになったという話じゃ。それゆえ、あの者らは六字名号、すなわち南無阿弥陀仏としか言わぬじゃろう?それと、」
「それと?」
「人は目に見えるものにすがる。蓮如は各寺や村に阿弥陀如来絵像を与えることで、民のこころを捉えた。それが、念仏を唱えて死ねば極楽に行けるという、疑わしき話をも信じさせることへと繋がったのであろう」
それが鋤や鍬で武士と戦うことになるのが、なんとも解せないところではある。
「それだけ、あの者どもも必死ということよ。あの中には年貢を納められず、身売りして門徒の奴隷となっているものもおるしのう」
「それゆえに、そのやる気のない態度か」
義太夫が笑うと、忠三郎は困ったような笑顔を見せる。
「やる気がないわけでは…」
「わかりやすい奴。昼間から酒まで飲んでおるではないか。殿が見たら、おぬしに従う兵が無駄死にするだけじゃと、お叱りになろう」
「されど、女子供を斬るのでは功名もなにもない」
忠三郎の態度に、さしもの義太夫もこれは拙いと気づき、
「あまり甘く見るな。おぬしが思うておるよりも手強い敵。弾よけ衆が先陣を切るとはいえ、油断していては命取りになる」
「弾よけ衆?越前衆のことを言うておるのか。それはまた酷い言いようじゃな」
忠三郎は声をあげて笑う。
「案ずるな。わしとて織田家の一軍の将。上様が根切せよと仰せならば、迷うことなく一揆衆を根絶やしにする覚悟じゃ」
と目が隠れるほどに笑う。この癖は昔から変わらない。己の心を隠すときは必ず、こんな笑い方をする。
(妙に意気込み、一人で敵陣に突っ込んでいくよりは、よいかもしれぬが)
長島以来、こんな調子で、何か考えるところがあるようだが、いざ戦さが始まれば血が騒ぐのか、常の忠三郎に戻る。
「長島の話は聞いている筈なのに、何ゆえにあの者どもは我等と戦うため、血眼になって戦さ支度を整えておるのであろうか」
まるで滅びるために戦っているように見える。
「進めば極楽。退けば地獄と教えられておる。地獄が怖いのじゃろ」
一向衆の門徒たちは、織田勢と戦って死ねば、極楽に行けると、そう教えられているらしい。
忠三郎はしばらく何か考えているようだったが、やがてため息をつき、
「分からぬのか」
「分からぬ?」
「然様。水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘っているようなものではないか。それが分からぬゆえに、かくも懸命に戦うつもりでおるのじゃろう」
わからないだろう。しかし人とは皆、そのようなものではないだろうか。自分が懸命に掘っている水溜が壊れていると気づくことがあるのだとしたら、それは精進ではない。
「これもまた天命か」
冷たい雨は降り止まない。風も強くなってきた。明日も雨は続くだろう。
(あの山深い、岩村城も雨であろうか)
おつやはどうしているだろう。岩村城は無事だろうか。義太夫の手を取った武者姿のおつやの顔が、思い起こされた。
翌日、降り続く雨の中で城攻めが開始された。
越前の入り口にある杉津砦、板取城を落とし、一揆勢が籠る城に次々に火を放って突き進む。
先陣を行く越前衆と羽柴秀吉、明智光秀が府中竜門寺に夜襲をかけ、逃げる敵二千を討ち取ると信長本隊の到着を待った。
この先は部隊をわけて、各所に散らばった一揆勢の殲滅に向かう。
一益は信長の次男北畠三介、三男神戸三七、蒲生忠三郎とともに一揆勢が集まっているという大滝に向かった。大滝には難攻不落と言われた山城、大滝城と大滝寺がある。
「我らは子守りということで」
佐治新介は不満そうだ。
「くれぐれも、怪我をさせることのなきよう致さねば」
義太夫も何か言いたげだ。
「手柄は御曹司のもの。不始末は我らの咎となる、はるばる越前まできて損な役回りにて」
「そう申すな。わしはあの方々の後見。致し方あるまい」
家臣たちの愚痴めいた話を聞きながら大滝城まで進んで城を取り囲むと、降り続いていた雨がやみ始めた。
陣を張り、北畠三介の陣へと赴く。
この六月に正五位下に叙された北畠三介は北畠中将と呼ばれている。
「左近、参ったか」
三介は一益の顔を見ると安心したように言う。見れば幔幕に血痕が飛び散っている。誰かを斬ったばかりのようだ。
「如何なさりました?」
「聞こえぬか?先刻より城から聞こえてくる声、なんとも不気味ではないか。あれは何と言うておるのじゃ」
城の中からは念仏以外の声が聞こえてきている。
「我ら王孫、主を持たじ、と申しておりまする」
帰するところ、自分たちは帝の血を引く者だから、武士による統治を認めない、とそう言っているらしい。
「何故にあの者どもが帝の子孫であるか」
「謂れもなき戯言。中将殿、かような戯言に耳を傾けていてはこの戦は終わりませぬ」
この頼りなさでは家中の取り纏めも難しいのではないかと心配になる。
「予めあれなる山に裏から登って伏兵を置き、城とこの一帯に火を放ちまする。さすれば門徒どもは皆、山裾に向かって逃げ惑いましょう。そこを待ち伏せしていた伏兵により一気に倒し、殲滅いたす所存」
一益がそう話すと、三介の顔にありありと恐れが現れる。
「したが、この一帯にある社とあれなる山は小白山大明神と呼ばれ、土地の者からは神が宿る山と恐れられていると聞いた。そのような神をも恐れぬ所業が許されるのか」
先ほどからの怯えた態度はその話を聞いたためか。誰がそんなつまらない話を耳に入れてしまったのかと内心舌打ちしながら、
「上様からは一人も余すところなく討ち取るようにと全軍に厳命が下っておりまするが…」
信長と聞いて、三介は困惑している。
「であれば、捕えた者どもは、わしの元に引き立ててくるには及ばぬ」
「は?」
「みな、父上の元へ送れ。捕った首も同様である」
自分は関わりたくないと、そう言っているのと同じだ。
(中将と呼ばれる者には、ろくなものがいない)
共にきていた滝川藤九郎の顔が引きつっている。
家臣たちに伝えにくい命令ではあったが、一益は頷いて三介の陣を後にした。
次に忠三郎の元に行くと、一人、ぼんやりと目の前の山を見上げている。
帷幕の外で一益を待っていたようだ。
「北畠中将殿は及び腰だったのでは?」
笑ってそう言う。
「何か聞いていたか?」
「先ほど、中将殿の家人に呼ばれ、陣屋に行きました。中には、この地に住むという農夫がおりました。その農夫が申すには、これより千年前、この地に天人が現れ、民に紙漉きの技を伝授したと伝わると言うて、これを…」
と見事な和紙を取り出して見せる。
写経用として製紙技術が大陸から伝来したのは九百年前と伝わるので、この地の紙作りはそれよりも古いことになる。
「その言い伝えが、この辺り一帯を神が宿る山とする所以でござりまする」
農夫の話を聞いて恐れた三介が対応に困り、忠三郎を呼んだのだろう。
「これが実に見事な職人技。この地の厳しい寒さ、凍るような水がかように美しい紙を生み出すもののようにて」
忠三郎が一益に和紙を一枚、取って渡す。
京の都にも持ち込まれているというその紙は、なめらかで破れにくく、真っ白で皺もない。
「それと言うのも、この五箇と呼ばれる地一帯には、三椏(みつまた)なる樹木がそこここにあり、その木の皮を紙の材料とし…」
忠三郎が延々と紙作りの話を続ける。忠三郎と三介は、農夫が語って聞かせる紙づくりの話を黙ってずっと聞いていたようだ。
従容というか、ぼんやりしているというか。
一益は、いつまでたっても終わらない話を続ける忠三郎を軽く制して、
「その農夫というは…」
偵察にきた間者ではないだろうか。
「そう思うたゆえ、斬り捨てました」
問答無用で斬ったようだ。
(その一言を言うがために、長々と紙づくりの話をしたのか)
不自然なほど平静を装う忠三郎の表情が何かを訴えている。門徒とただの農夫を見分ける術がなかったのだろう。
忠三郎は苦笑して、
「北畠中将殿は話を聞いてひどく狼狽し、神仏の祟りが恐ろしいと仰せになりました」
「…待て、五箇と申したな。村はここだけではないのか」
五か所ある、いやそれ以上の、もっと多くの村がこの奥に点在しているという意味ではないだろうか。
「はい。やはり義兄上も気づかれましたな。恐らくは、この奥にも村があるものと。兵を差し向けまするか」
語るに落ちたとはこのことだ。農夫は何も考えずに地名を口走ったのだろうか。
「うかつにも、そんなことを口にするとは…」
間者にしては無防備だ。軍勢を見て恐れた農夫が、村が無関係であると説明するために来た可能性が高い。
「鶴、そなた、間者ではないと分かっていて、斬ったか」
「それと気づいたときは、早、首が胴から離れた後」
そうだろう。長島がそうであったように、ここ越前でも、農夫であっても暴徒の可能性もある。
忠三郎は少しの沈黙のあと、
「無辜の民を斬ったそしりは、この身が負いまする」
平然と言うその瞳の奥が揺れていた。
「哀れ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき。情けなうも討ちたてまつるものかな」
平家物語だ。
幸若舞の『敦盛』で知られる一節で、源氏の将、熊谷次郎直実は十七歳の平大夫敦盛を見て、我が子を思い出して逃がそうとする。そこへ背後から味方の兵が押し迫る。熊谷次郎は泣く泣く敦盛を討ち取り、武士の家に生まれた我が身を嘆く。
信長が好んで謡うこの幸若舞は、越前発祥と言われている。
「山の奥に村があるということを中将殿は?」
「気づいてはおられぬ筈」
忠三郎はあえて黙っていたようだ。
「…それゆえに、かようなところで甲冑もつけず、わしを待っていたのか」
「中将殿はともかく、義兄上の目は胡麻化せぬと、そう考え、お待ちしておりました。城を含め、辺り一帯を焼き払えば、敵が奥の村へ逃げ込みましょう」
そうなれば山奥まで敵を追い、村々を焼き払うことになる。忠三郎はそう考えて、一人では決めかね、一益を待っていたのだろう。
「この山の手に伏兵を置き、城から逃げてきたところで一斉に撃て」
「して、撃ち漏らしたものは…如何いたしましょう」
忠三郎は躊躇いながら問う。逃げた者は、石山本願寺目指していくかもしれない。この先の本願寺との戦いを考えて、一人も逃すなと言われているのだ。
「この周辺だけでよい。奥深くまで追うな」
「義兄上…」
忠三郎が泣きだしそうな笑顔を見せる。
「そなたは考え違いをしている。この場の指揮を委ねられているのはこのわしじゃ。敵を逃した責めも、無辜の民を斬ったそしりも負うのはわしじゃ。そなたが負うべきではない。それゆえ、鶴、そなたは思い煩うことなく敵を撃ち滅ぼせ」
一益が諭すようにそう言うと、忠三郎は一益の目を見て何かを考え、そして常の笑顔を見せた。
「委細承知。では中将殿と三七殿にもそのようにお伝えしましょう」
少し安心したようだったが、笑顔に影がある。賢い忠三郎には、命じられたまま、何も考えずに従うことはできないだろう。
一益は自陣に戻ると、物見を出し、付近を調べさせた。
大滝城と辺りの社域の堂塔は四十八妨あると言われている。
城から銃声が聞こえてきているが、案の定、弾がこちらまで届いていない。
「あの体たらくで王孫気取りとは、笑止千万にて」
佐治新介が嘲笑うと、居並ぶ者がみな笑い出す。
「所詮、無知な下民どもが我らの怖さを知らずに、当たりもしない鉄砲を撃ってきているにすぎませぬ」
木全彦次郎が言う。
どんなに武器がよくとも、火薬の量ひとつ間違えただけで、弾は飛ばなくなる。兵が訓練されていなければなおのこと。
山裾から登って城の裏手に回り、一気に攻め落とすことにした。
「飛火炬で一斉に射掛け、城の者どもを焼きつくせ」
城に火をかけるとともに、四十八妨の堂塔すべてに兵を送り、火をかけると、山全体が燃えているかのように赤々と照らし出された。
火の勢いに逃げ惑う人の群れが城門に殺到し、門からでてきたところを鉄砲で撃ち、次々に倒すとわずかな時間で死体が山と積み上がる。
火は翌日も燃え続け、ようやく消えたのは二日後の朝だった。
一益は火が落ち着いたのを見て城に足を踏み入れた。
「よう燃えましたなぁ。火薬の量はほどよいようで」
義太夫が辺りを見回して言う。
小高い山の尾根伝いに燃え尽きた本丸館があり、そのすぐ近くで馬の脚を止めた。
「父上、如何なされました」
三九郎が後に続いて馬から降りる。
見渡す限り無惨な死体の山だった。城から逃げたものたちは山裾を目指して走り、後ろから撃たれたようだ。
「一面に横たわる門徒どもの亡骸を埋葬させよ」
そこへ義太夫と忠三郎も現れる。
一益は埋葬が終わったのを見届けると、馬から鐙を外して埋めた。
「殿、何をなされておいでで?」
義太夫が来て不思議そうに尋ねる。
「この者どもが冥土で使えるように、鐙を埋めたのじゃ」
忠三郎が、あぁと近づいてきて、
「この地が…再び戦さに巻き込まれるようなことがなきようにと願いを込めて…」
一益は頷き、
「この先は幾代にも渡って平和が守られ、この地に住む者たちが静かに紙を漉き、暮らしていくことを皆で祈ろう」
人は何故、湧き水の泉を捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ってしまうのだろう。それは、懸命に掘っている水ためが、壊れていることに気づけないからではないだろうか。しかし気づくことがなければ、また同じことを繰り返してしまう。
神でも仏でもなんでもいい。どうかもう無辜の民の血が流されることがないように。この悲しみの地が喜びの地と変わり、千代に渡り、この地の穏やかで静かな暮らしが守られるように、そう誰かに願わずにはいられなかった。
この戦さで討ち取られた一揆衆は三万とも四万とも言われている。
八月、一益が岐阜まで兵を進めると、信長本隊は出陣した後だった。
屋敷に顔を出すと子供が増えたせいか、いつにも増して賑やかだ。一益の到着に気づいた風花は、いつもと変わらぬ様子で出迎えてくれた。
「入れ違いでござりましたな。忠三郎殿は朝、出立されました」
「鶴が参ったか」
妙だな、と思った。
日野から越前に向かうのであれば、岐阜に来る必要がない。岐阜からでは山越えになるため、一度北近江の小谷へ出てから越前に向かうのが通常の行程になる。
「九郎の顔を見にきたらしいので、追い返しました」
風花が澄ました顔でそう言うので、一益はおや、と風花を見る。
「屋敷に来るなとまでは申しませぬ。されど、奥への出入りはお断りいたしまする」
誰かに何かを聞いたらしい。何も事情を話さなかった一益にも、多少腹を立てているようだ。
「誰に何を聞いた?」
「三九郎殿が口を割りました。何を言われようと、九郎は殿とわらわの子でござります。忠三郎殿にも義太夫殿にも会わせるつもりはありませぬ」
三九郎は風花に弱い。問い詰められて、白状させられたのだろう。
一益は、然様か、と笑って屋敷を後にした。
美濃の垂井にある玉泉寺で忠三郎に追いついた。
垂井は西美濃に位置し、東山道と桑名に繋がる美濃街道の追分にある宿場町だ。古来から多くの人の往来があり、歌人たちが詩歌を残している。
今は羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛の領地になっていた。
「義兄上、存じておられるか。いにしえより、この木の根元より湧き出でたる水。この地の由来となった誉れ高い天下の名水」
というので噂の天下の名水を二人で飲んでみることにした。
「……確かに、美味じゃ」
なんとも柔らかいというか、のど越しよく、まろやかな飲み口だ。
忠三郎は嬉しそうな笑顔を見せる。
「されど我が故国、日野の湧き水には叶いますまい」
義太夫も来て、どれどれと水を飲む。忠三郎はその姿を見ながら、
「今よりはるか昔、はてしなき道を旅していたものが、水をみつけ、それを飲むと苦くて飲めなかった。ところが一人の男が祈り、示された一本の木を水に投げ込むとその苦い水が甘くなったと、そんな話を聞き及びました」
「苦い水とは、毒が入っておったか?」
義太夫がいつものようにとぼけてそう言うと、忠三郎は、いや、と笑って
「苦い水とは時に沸いてくる己の苦々しい思いを差し、投げ入れられた一本の木とはイエズスの十字架を指すと、ロレンソ殿はそう申された」
「あの生臭坊主のいうことは、ようわからん」
義太夫が竹筒に水を入れながらそう言う。
「ロレンソは、日野によう参るか?」
「時折思い出したように、おいでになります」
ロレンソが高山右近の領地、高槻を拠点に活動しているのであれば、たいして離れていない日野へ現れても不思議はないが、忠三郎は若いだけに純粋で影響を受けやすい。
少し気になりはしたが、いくら影響を受けたからといっても、キリシタンになると言い出すほど愚かではないだろう。
それよりも、わざわざ岐阜に来たのは九郎の顔を見るためではないようだった。忠三郎は岐阜まで来て、垂井で一益を待っていた。しかし忠三郎は何も言わない。一益が気づいて何か言い出すのを待っているかのような態度だ。
「ここでわしを待ったのは、共に水を飲むためではあるまい」
忠三郎は笑って、
「何ともなしに…ここにおりました」
飄々とそう答える。こういう掴みどころのなさが、三九郎をして『人ではないようなもの』と言わしめるのかもしれない。
「あれから二年か」
忠三郎の兄、重丸が死んだのは越前の入口。もう二年たつ。撃ったのは三九郎だ。忠三郎は薄々気づいているのだろうが、一言も、何も言わない。
「やはり義兄上は…覚えていてくだされた」
忠三郎が笑顔を見せる。
「むかし見し 垂井の水は かはらねど
うつれる影ぞ 年をへにける」
平安の昔、勅撰歌人であった藤原美濃守隆経がこの地で詠んだ和歌だ。昔見た垂井の水は変わってはいないが、水に映る己の姿は長い年月を思わせると詠っている。
若干二十歳の忠三郎の胸に去来する思いは何なのだろうか。
「上様は今日、小谷の羽柴筑前殿の元に到着。明日には敦賀に入られましょう。一揆衆が一枚岩ではないという噂もあり、お味方の士気は上がっているものと存じまする」
「此度の出陣は、それを好機と見た上様が下知なされたものじゃ」
越前の土豪と石山本願寺から送られた下間頼照らの大坊主が不仲であるという噂は聞いている。
「それがまことであれば、もはや恐るるに足らず」
兵を進め、小谷を抜けて、翌日には敦賀にいる信長に追いついた。
羽柴秀吉、丹羽長秀らはすでに到着しており、続いて摂津、若狭から柴田勝家と佐久間信盛の部隊も到着。南伊勢から北畠三介と神戸三七が着陣。総勢三万の兵を率いて越前入りした信長は、諸将が集まったところで軍議を開いた。
「此度の先陣は越前衆と、一向宗の内、我が方に寝返ったものたちじゃ。そのあとは…」
くじ引きで先陣を決める。先陣は功名をあげやすい。誰が先陣を務めるかで揉めるので、くじ引きをして決めるのが通例だ。結果、先陣は羽柴秀吉と明智光秀に決まった。
「若狭水軍が火をつけて回る。陸にいるものどもは混乱に乗じて攻めかかれ。一人も逃すな」
攻撃開始は明朝からとなり、諸将はそれぞれの陣に戻っていった。
夜になり、雨が降り始めた。
「火をつけるというても、これではどうにもなりますまい」
義太夫が雨をしのぎながら言う。
「明日は鉄砲が使えぬやもしれぬ」
「いつもなら、先陣をきると騒ぐ奴が現れませぬな」
忠三郎のことだろう。敦賀に入ってから姿を見ていない。
軍議のときのくじ引きにもいなかった。
「何か存じておるか」
義太夫はいやはや、と笑って
「わかりやすい奴でござりますな。百姓相手で気乗りせぬのでは?」
長島願証寺の門徒たちは甲冑を纏っているものがほとんどだった。手にしていたのも太刀、打刀など、戦さ慣れした者が多かった。それに比べ、ここ越前の農兵はまともに甲冑を身につけていない者が多い。鍬や鋤で向かってくる農民を斬るのは気が重いのだろう。
(迷いがあるのか…)
「義太夫、行って様子を見て参れ」
長島のことが尾を引いているのかもしれないが、いざ合戦というときにそれでは命取りになる。
義太夫が様子を見に行くと、帷幕の外で滝川助太郎と町野長門守が何やら話している。
「おぉ、二人とも。鶴は?」
「それが…やる気があるのかないのか…」
「皆を外に出して、一人で何をしておられるのやら」
困惑する二人を見ながら、義太夫は素知らぬ顔で中へ入っていく。
見ると、忠三郎は何をするでもなく、具足も脱いでぼんやりと一人、床几に座って考え込んでいた。
「義太夫…」
義太夫を見ると、常の笑顔を見せた。
「如何いたした。腹が減ったか」
義太夫が懐から握り飯を出すと、嬉しそうに受けとり、食べ始める。
「越前一国、丸ごと一向門徒の国とはのう。なにゆえにここは門徒ばかりおるのじゃ」
とぼけた顔をしてそう言うと、忠三郎はあぁ、と笑って
「今より百年ほど前、この地にきた本願寺八世、蓮如が吉崎御坊なる寺で教えを広めたのが事の始まりと言われておる」
「おぉ、五人の女房に二十人以上も子を産ませたという腐れ坊主か」
蓮如は寂れて衰退の一途をたどっていた本願寺を復興し、各地に広めた本願寺中興の祖と呼ばれている。
「流石、義太夫。そういったことだけはよう存じておるな」
忠三郎は笑って、握り飯を飲み込み、
「蓮如がその教えを民に分かりやすいように書き下し、朝晩唱える経文を短くしたことで、無学な者でも容易に門徒に加わることができるようになったという話じゃ。それゆえ、あの者らは六字名号、すなわち南無阿弥陀仏としか言わぬじゃろう?それと、」
「それと?」
「人は目に見えるものにすがる。蓮如は各寺や村に阿弥陀如来絵像を与えることで、民のこころを捉えた。それが、念仏を唱えて死ねば極楽に行けるという、疑わしき話をも信じさせることへと繋がったのであろう」
それが鋤や鍬で武士と戦うことになるのが、なんとも解せないところではある。
「それだけ、あの者どもも必死ということよ。あの中には年貢を納められず、身売りして門徒の奴隷となっているものもおるしのう」
「それゆえに、そのやる気のない態度か」
義太夫が笑うと、忠三郎は困ったような笑顔を見せる。
「やる気がないわけでは…」
「わかりやすい奴。昼間から酒まで飲んでおるではないか。殿が見たら、おぬしに従う兵が無駄死にするだけじゃと、お叱りになろう」
「されど、女子供を斬るのでは功名もなにもない」
忠三郎の態度に、さしもの義太夫もこれは拙いと気づき、
「あまり甘く見るな。おぬしが思うておるよりも手強い敵。弾よけ衆が先陣を切るとはいえ、油断していては命取りになる」
「弾よけ衆?越前衆のことを言うておるのか。それはまた酷い言いようじゃな」
忠三郎は声をあげて笑う。
「案ずるな。わしとて織田家の一軍の将。上様が根切せよと仰せならば、迷うことなく一揆衆を根絶やしにする覚悟じゃ」
と目が隠れるほどに笑う。この癖は昔から変わらない。己の心を隠すときは必ず、こんな笑い方をする。
(妙に意気込み、一人で敵陣に突っ込んでいくよりは、よいかもしれぬが)
長島以来、こんな調子で、何か考えるところがあるようだが、いざ戦さが始まれば血が騒ぐのか、常の忠三郎に戻る。
「長島の話は聞いている筈なのに、何ゆえにあの者どもは我等と戦うため、血眼になって戦さ支度を整えておるのであろうか」
まるで滅びるために戦っているように見える。
「進めば極楽。退けば地獄と教えられておる。地獄が怖いのじゃろ」
一向衆の門徒たちは、織田勢と戦って死ねば、極楽に行けると、そう教えられているらしい。
忠三郎はしばらく何か考えているようだったが、やがてため息をつき、
「分からぬのか」
「分からぬ?」
「然様。水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘っているようなものではないか。それが分からぬゆえに、かくも懸命に戦うつもりでおるのじゃろう」
わからないだろう。しかし人とは皆、そのようなものではないだろうか。自分が懸命に掘っている水溜が壊れていると気づくことがあるのだとしたら、それは精進ではない。
「これもまた天命か」
冷たい雨は降り止まない。風も強くなってきた。明日も雨は続くだろう。
(あの山深い、岩村城も雨であろうか)
おつやはどうしているだろう。岩村城は無事だろうか。義太夫の手を取った武者姿のおつやの顔が、思い起こされた。
翌日、降り続く雨の中で城攻めが開始された。
越前の入り口にある杉津砦、板取城を落とし、一揆勢が籠る城に次々に火を放って突き進む。
先陣を行く越前衆と羽柴秀吉、明智光秀が府中竜門寺に夜襲をかけ、逃げる敵二千を討ち取ると信長本隊の到着を待った。
この先は部隊をわけて、各所に散らばった一揆勢の殲滅に向かう。
一益は信長の次男北畠三介、三男神戸三七、蒲生忠三郎とともに一揆勢が集まっているという大滝に向かった。大滝には難攻不落と言われた山城、大滝城と大滝寺がある。
「我らは子守りということで」
佐治新介は不満そうだ。
「くれぐれも、怪我をさせることのなきよう致さねば」
義太夫も何か言いたげだ。
「手柄は御曹司のもの。不始末は我らの咎となる、はるばる越前まできて損な役回りにて」
「そう申すな。わしはあの方々の後見。致し方あるまい」
家臣たちの愚痴めいた話を聞きながら大滝城まで進んで城を取り囲むと、降り続いていた雨がやみ始めた。
陣を張り、北畠三介の陣へと赴く。
この六月に正五位下に叙された北畠三介は北畠中将と呼ばれている。
「左近、参ったか」
三介は一益の顔を見ると安心したように言う。見れば幔幕に血痕が飛び散っている。誰かを斬ったばかりのようだ。
「如何なさりました?」
「聞こえぬか?先刻より城から聞こえてくる声、なんとも不気味ではないか。あれは何と言うておるのじゃ」
城の中からは念仏以外の声が聞こえてきている。
「我ら王孫、主を持たじ、と申しておりまする」
帰するところ、自分たちは帝の血を引く者だから、武士による統治を認めない、とそう言っているらしい。
「何故にあの者どもが帝の子孫であるか」
「謂れもなき戯言。中将殿、かような戯言に耳を傾けていてはこの戦は終わりませぬ」
この頼りなさでは家中の取り纏めも難しいのではないかと心配になる。
「予めあれなる山に裏から登って伏兵を置き、城とこの一帯に火を放ちまする。さすれば門徒どもは皆、山裾に向かって逃げ惑いましょう。そこを待ち伏せしていた伏兵により一気に倒し、殲滅いたす所存」
一益がそう話すと、三介の顔にありありと恐れが現れる。
「したが、この一帯にある社とあれなる山は小白山大明神と呼ばれ、土地の者からは神が宿る山と恐れられていると聞いた。そのような神をも恐れぬ所業が許されるのか」
先ほどからの怯えた態度はその話を聞いたためか。誰がそんなつまらない話を耳に入れてしまったのかと内心舌打ちしながら、
「上様からは一人も余すところなく討ち取るようにと全軍に厳命が下っておりまするが…」
信長と聞いて、三介は困惑している。
「であれば、捕えた者どもは、わしの元に引き立ててくるには及ばぬ」
「は?」
「みな、父上の元へ送れ。捕った首も同様である」
自分は関わりたくないと、そう言っているのと同じだ。
(中将と呼ばれる者には、ろくなものがいない)
共にきていた滝川藤九郎の顔が引きつっている。
家臣たちに伝えにくい命令ではあったが、一益は頷いて三介の陣を後にした。
次に忠三郎の元に行くと、一人、ぼんやりと目の前の山を見上げている。
帷幕の外で一益を待っていたようだ。
「北畠中将殿は及び腰だったのでは?」
笑ってそう言う。
「何か聞いていたか?」
「先ほど、中将殿の家人に呼ばれ、陣屋に行きました。中には、この地に住むという農夫がおりました。その農夫が申すには、これより千年前、この地に天人が現れ、民に紙漉きの技を伝授したと伝わると言うて、これを…」
と見事な和紙を取り出して見せる。
写経用として製紙技術が大陸から伝来したのは九百年前と伝わるので、この地の紙作りはそれよりも古いことになる。
「その言い伝えが、この辺り一帯を神が宿る山とする所以でござりまする」
農夫の話を聞いて恐れた三介が対応に困り、忠三郎を呼んだのだろう。
「これが実に見事な職人技。この地の厳しい寒さ、凍るような水がかように美しい紙を生み出すもののようにて」
忠三郎が一益に和紙を一枚、取って渡す。
京の都にも持ち込まれているというその紙は、なめらかで破れにくく、真っ白で皺もない。
「それと言うのも、この五箇と呼ばれる地一帯には、三椏(みつまた)なる樹木がそこここにあり、その木の皮を紙の材料とし…」
忠三郎が延々と紙作りの話を続ける。忠三郎と三介は、農夫が語って聞かせる紙づくりの話を黙ってずっと聞いていたようだ。
従容というか、ぼんやりしているというか。
一益は、いつまでたっても終わらない話を続ける忠三郎を軽く制して、
「その農夫というは…」
偵察にきた間者ではないだろうか。
「そう思うたゆえ、斬り捨てました」
問答無用で斬ったようだ。
(その一言を言うがために、長々と紙づくりの話をしたのか)
不自然なほど平静を装う忠三郎の表情が何かを訴えている。門徒とただの農夫を見分ける術がなかったのだろう。
忠三郎は苦笑して、
「北畠中将殿は話を聞いてひどく狼狽し、神仏の祟りが恐ろしいと仰せになりました」
「…待て、五箇と申したな。村はここだけではないのか」
五か所ある、いやそれ以上の、もっと多くの村がこの奥に点在しているという意味ではないだろうか。
「はい。やはり義兄上も気づかれましたな。恐らくは、この奥にも村があるものと。兵を差し向けまするか」
語るに落ちたとはこのことだ。農夫は何も考えずに地名を口走ったのだろうか。
「うかつにも、そんなことを口にするとは…」
間者にしては無防備だ。軍勢を見て恐れた農夫が、村が無関係であると説明するために来た可能性が高い。
「鶴、そなた、間者ではないと分かっていて、斬ったか」
「それと気づいたときは、早、首が胴から離れた後」
そうだろう。長島がそうであったように、ここ越前でも、農夫であっても暴徒の可能性もある。
忠三郎は少しの沈黙のあと、
「無辜の民を斬ったそしりは、この身が負いまする」
平然と言うその瞳の奥が揺れていた。
「哀れ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき。情けなうも討ちたてまつるものかな」
平家物語だ。
幸若舞の『敦盛』で知られる一節で、源氏の将、熊谷次郎直実は十七歳の平大夫敦盛を見て、我が子を思い出して逃がそうとする。そこへ背後から味方の兵が押し迫る。熊谷次郎は泣く泣く敦盛を討ち取り、武士の家に生まれた我が身を嘆く。
信長が好んで謡うこの幸若舞は、越前発祥と言われている。
「山の奥に村があるということを中将殿は?」
「気づいてはおられぬ筈」
忠三郎はあえて黙っていたようだ。
「…それゆえに、かようなところで甲冑もつけず、わしを待っていたのか」
「中将殿はともかく、義兄上の目は胡麻化せぬと、そう考え、お待ちしておりました。城を含め、辺り一帯を焼き払えば、敵が奥の村へ逃げ込みましょう」
そうなれば山奥まで敵を追い、村々を焼き払うことになる。忠三郎はそう考えて、一人では決めかね、一益を待っていたのだろう。
「この山の手に伏兵を置き、城から逃げてきたところで一斉に撃て」
「して、撃ち漏らしたものは…如何いたしましょう」
忠三郎は躊躇いながら問う。逃げた者は、石山本願寺目指していくかもしれない。この先の本願寺との戦いを考えて、一人も逃すなと言われているのだ。
「この周辺だけでよい。奥深くまで追うな」
「義兄上…」
忠三郎が泣きだしそうな笑顔を見せる。
「そなたは考え違いをしている。この場の指揮を委ねられているのはこのわしじゃ。敵を逃した責めも、無辜の民を斬ったそしりも負うのはわしじゃ。そなたが負うべきではない。それゆえ、鶴、そなたは思い煩うことなく敵を撃ち滅ぼせ」
一益が諭すようにそう言うと、忠三郎は一益の目を見て何かを考え、そして常の笑顔を見せた。
「委細承知。では中将殿と三七殿にもそのようにお伝えしましょう」
少し安心したようだったが、笑顔に影がある。賢い忠三郎には、命じられたまま、何も考えずに従うことはできないだろう。
一益は自陣に戻ると、物見を出し、付近を調べさせた。
大滝城と辺りの社域の堂塔は四十八妨あると言われている。
城から銃声が聞こえてきているが、案の定、弾がこちらまで届いていない。
「あの体たらくで王孫気取りとは、笑止千万にて」
佐治新介が嘲笑うと、居並ぶ者がみな笑い出す。
「所詮、無知な下民どもが我らの怖さを知らずに、当たりもしない鉄砲を撃ってきているにすぎませぬ」
木全彦次郎が言う。
どんなに武器がよくとも、火薬の量ひとつ間違えただけで、弾は飛ばなくなる。兵が訓練されていなければなおのこと。
山裾から登って城の裏手に回り、一気に攻め落とすことにした。
「飛火炬で一斉に射掛け、城の者どもを焼きつくせ」
城に火をかけるとともに、四十八妨の堂塔すべてに兵を送り、火をかけると、山全体が燃えているかのように赤々と照らし出された。
火の勢いに逃げ惑う人の群れが城門に殺到し、門からでてきたところを鉄砲で撃ち、次々に倒すとわずかな時間で死体が山と積み上がる。
火は翌日も燃え続け、ようやく消えたのは二日後の朝だった。
一益は火が落ち着いたのを見て城に足を踏み入れた。
「よう燃えましたなぁ。火薬の量はほどよいようで」
義太夫が辺りを見回して言う。
小高い山の尾根伝いに燃え尽きた本丸館があり、そのすぐ近くで馬の脚を止めた。
「父上、如何なされました」
三九郎が後に続いて馬から降りる。
見渡す限り無惨な死体の山だった。城から逃げたものたちは山裾を目指して走り、後ろから撃たれたようだ。
「一面に横たわる門徒どもの亡骸を埋葬させよ」
そこへ義太夫と忠三郎も現れる。
一益は埋葬が終わったのを見届けると、馬から鐙を外して埋めた。
「殿、何をなされておいでで?」
義太夫が来て不思議そうに尋ねる。
「この者どもが冥土で使えるように、鐙を埋めたのじゃ」
忠三郎が、あぁと近づいてきて、
「この地が…再び戦さに巻き込まれるようなことがなきようにと願いを込めて…」
一益は頷き、
「この先は幾代にも渡って平和が守られ、この地に住む者たちが静かに紙を漉き、暮らしていくことを皆で祈ろう」
人は何故、湧き水の泉を捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ってしまうのだろう。それは、懸命に掘っている水ためが、壊れていることに気づけないからではないだろうか。しかし気づくことがなければ、また同じことを繰り返してしまう。
神でも仏でもなんでもいい。どうかもう無辜の民の血が流されることがないように。この悲しみの地が喜びの地と変わり、千代に渡り、この地の穏やかで静かな暮らしが守られるように、そう誰かに願わずにはいられなかった。
この戦さで討ち取られた一揆衆は三万とも四万とも言われている。
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