滝川家の人びと

卯花月影

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6 色即是空

6-1 天白川

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 叱られ終えた義太夫は、これも常のことと意気消沈することもなく、長島から船に乗ると桑名へは戻らず、南へと向かった。
 数日前から日永・安国寺の住職で一益の弟である休天和尚に呼ばれていたのを思い出したのだ。
「日永も久方ぶりじゃ」
 戦禍から守られたらしく、街道沿いには見慣れた民家が並び、その後ろには田畑も点在している。人はひとりもなく、空の鳥もみな飛び去ったほど荒廃した長島と比べると、その差は歴然としている。
(殿は最初から、長島辺りを焼き尽くすおつもりで、ここいらを保護して来られたのじゃろうか)
 まさかとは思ったが、一益のことだ。考えられなくもない。日永は東海道と伊勢街道が交わる追分にあたり、長島・桑名から上洛する一番の近道になる。伊勢湾に面していて、漁師もいれば、商売をするものもいるが、湊町桑名とはまた異なる佇まいを見せる。一益も義太夫同様、今後、重要な地になると思っているのかもしれない。
(この地は耕作に適しておる)
 はじめて日永の地を踏んでから、そう思っていた。長雨のたびに氾濫する天白川。堤を設けて、川の水をひいてくれば、一帯に広がる地をすべて水田に変えることができるのではないか。
 そう考え、休天に頼んで付近の百姓たちに声をかけてもらったが、集まったのはわずか三名。その三名に義太夫の壮大な計画を話してみたが、誰一人耳を貸すものはいなかった。
『百姓どもが協力せぬのは無理からぬこと。これは義太夫のせいではない。皆、よそから来て、北勢一帯を焼き払った我等を毛嫌いしておるのじゃ。そうでなくとも戦さのたびに駆り出しておる。これ以上の賦役は難しかろうて』
 休天はそう言って義太夫を慰めた。
(堤を作るのは金も時間もかかる。されど、この眼下に広がる地が畑となり、作物を実らせれば、この地に住む者たちは飢えることがのうなるというに…)
 そして有り余るほどの収穫を得られれば、食糧を得るために他国に攻め入る必要もなくなる。
 三百年以上前には日永城なる城があったという丘山に登ると、伊勢湾が、そしてその向うの三河の地まで見渡せた。
 この山より向こう側は、かつて海だったという。それが長い年月をかけて川の上流から運ばれてきた土が蓄積され、良質な土により今の地が形成された。水分をたっぷりと含んだ土地は、峠の向こう、日野の地と同じように、いや、伊勢湾に面した温暖な日永であれば冷害に悩まされることもなく、日野以上に豊穣な地となるはずだ。
 義太夫は幾度もこの丘山に登っては、あの川の水をどうやって引き込もうかと模索し、閑散としたこの地が豊かな水をたたえた田園となる姿を夢見た。
 初夏の青い空の下には青々とした稲が風に揺られる。やがて夏を終え、秋を迎えるころ、花の終えた青い稲穂は黄色味を帯び、一面が黄金色となる。たわわに実った稲が秋の日差しに輝く中、人々は収穫を喜ぶ。その光景を想像するだけでもわくわくと胸が躍った。
 しかしそれも村の者が誰一人として協力する気がないのであれば、夢は夢でしかなくなる。義太夫は壮大な夢を諦め、自領の桑名で小さな薬草園と夏麦畑を作るに留めることにした。
 その義太夫の元に休天から呼び出しがあったのは、設楽原の戦いを終えて伊勢に戻った直後。
 何だろうかと安国寺に向かうと、休天しかいないはずの境内で、童が一人、せっせと掃除している姿があった。
(あれはもしや…)
 あの時の童ではないだろうか。そう思ってジッと見ていると、童がこちらに気づいて顔を上げた。
「あの…義太夫殿では?」
「いかにも義太夫じゃ。休天殿は?」
 と聞くと童が義太夫の後ろに視線を移す。ふと背後に気配を感じて振り返って見ると、休天が不思議そうな顔をして立っていた。
「おぉ!驚いたわい。やにわに後ろに立たれるとは」
 義太夫が大声をあげると、休天も驚いた顔をする。
「驚いたのはわしのほうじゃ。武田との戦さを終え、戻っておったか」
 義太夫は、おや、と首を傾げた。
「お呼びと聞いたが…」
「わしが?いや、呼んではおらぬ。他の者と間違うておるのではないか」
 休天が呼んでいるというから来てみたが、どうやら違うらしい。
(安国寺から言伝を頼まれたと、そう言うていた筈じゃが…)
 寺の名を間違えたかな、と自信がなくなってきたとき、先ほどからジッと義太夫を凝視している童に気づいた。
「もしや、わしを呼んだのは…」
 まさかと思ってそう尋ねると、童がはっきりと頷く。
「金坊。そちが義太夫を呼んだと?」
「金坊?小童の名?」
「然様。金吉(かねきち)と名乗ったゆえに、金坊と…」
 金吉なる童は驚く休天を尻目に、つかつかと歩み寄る。
「義太夫殿は天白川に堤を作り、田に水を引くとか。ぜひ、わしにも手伝わせてくだされ」
 子供らしく、目を輝かせてそう言うので、義太夫はポリポリと頭を掻いて
「うむ…。そうしたいのは山々ではあるが、いかんせん、ここいらの者どもが尽力してくれねば、どうにもならぬ」
 義太夫が残念そうに言う。すると金吉は咎めるように
「飢えることなき地を作るのに、そう容易く諦めるというのか?」
「それは…」
 随分食い下がるな、と驚き、再度、金吉を見る。その手の傷を見ると、やはりあの時の童だと分かるが、この童は何を考えて義太夫を呼びだしたのだろうか。
「世の理は童が考えるよりもゴチャゴチャとして、面倒なものなのじゃ」
 どうもうまく説明がつかず、苦し紛れにそう言うと、金吉は大きく肩を落として背を向け、走っていってしまった。
「がっかりさせてしもうたのう…」
「金坊は飢饉で弟を亡くしたと、そう言うておった」
 なるほど、それで…と納得し、
「親は?」
「織田勢に討たれたと」
 そう言われてしまうと、少なからず、金吉を孤児にしてしまった責任を感じる。
(わしとて、堤を築きたい思いはある。されど、我らは所詮、余所者。他国から押し入った無法者と思われている以上、誰も耳を貸そうとはせぬ)
 こんなにも領民に背を向けられて、領国統治などできるのだろうか。
(さぞや、わしのことを不甲斐ないと思うておるのじゃろうなぁ)
 金吉の落胆した顔が思い起こされる。
「そう気を落とすな。義太夫の仕事は戦さであろう?」
 休天は励ますつもりでそう言っているのだろうが、
(まるで、わしが戦さしかできぬ戦さ馬鹿と、そう言うておるような…)
 どうにも釈然としない。戦さ馬鹿では与えられた国を豊かにすることなどできない。かといって、自ら焼き払った地をそう簡単に復興させることなどできるだろうか。
 一益は、どうやって北勢をよみがえらせるつもりなのだろう。
  
 伊勢長島城に戻った一益の元に、織田勘九郎信忠からの急使が現れたのは五月下旬。
 書状には勘九郎率いる尾張・美濃勢が設楽原の戦場から、そのまま東美濃にある岩村城に向かったと書いてあった。この勢いで武田を叩き、東美濃を攻略するようだ。
「岩村城とは、章姫様の嫁ぎ先。城主の秋山はこちらに寝返ると言う約定でしたな」
 佐治新介が言う。
「約定通り、秋山が城を開けて武田攻めに加わるのであれば大事に至ることはないのでは」
 三九郎が言うと、津田秀重が首をひねる。
「わざわざ知らせを寄こしたということは、雲行きが怪しいと、そう匂わせているようにも取れますが」
 一益もそう思っている。勘九郎は、城攻めが開始される前に、章姫を岩村城から奪還したいと言っているのではないだろうか。
「岩村城は霧に包まれた堅固な山城。城内で手引きするものがいなければ、忍び込むなど容易なことではありませぬ」
 居並ぶものが頷く。
(上様は岩村城を攻め落とすと、本気でそう仰せなのか。おつや殿は約定を違えるおつもりなのか)
 これまでを振り返ると、腑に落ちないことがいくつかあった。
 先日、わざわざ屋敷まで訪ねてきた勘九郎は、章姫の心配しかしていないように思えた。
(武田方には上様の四男、御坊丸がいたはず…)
 岩村城が秋山虎繁の手におちたとき、城内にはおつやの養子になった信長の四男、御坊丸がいた。
 御坊丸はそのまま人質として武田信玄のもとに送られた。信玄からは養子にしたいと申し入れがあり、信玄亡き後も甲斐に留められている筈だ。
(助けろと言うならば、まずは御坊丸ではないのか。それに…)
 信長がおつやを許したのかと聞いた時、勘九郎は言い淀んだ。
(上様は身内に甘い。ましてや女子を斬るなど考えられぬ筈…)
 勘九郎が即答できない何かがあるのだとしたら、それは何だろう。
 これ以上、考えを進めるには情報が少ない。
「誰か、おつや殿のことを、もう少し何か存じているものはおらぬか」
 敵国のことならともかく、尾張・美濃を詳細に探らせてきたことはない。
 三九郎と秀重がウームと唸ると、新介が、
「つや様のことであれば、義太夫が何か存じておるやもしれませぬ。先日もなにやら一人でブツブツ申しておりましたゆえ」
「義太夫が?」
「女子といえば、義太夫で。昔、尾張にいたおりに、殿の恋文をおつや様のもとに届けたのが義太夫でござりますれば」
 三九郎がエッと驚いて一益の顔をみる。
 誤解のある言い方だったが、確かに新介の言う通りだ。
「義太夫を呼べ」
 暫くは屋敷で大人しくさせておくつもりだったが、致し方ない。蟄居を申しつけられ、桑名の私邸で大人しくしている筈の義太夫を呼びに行かせることにした。
 
 おつやは信長の父、信秀の妹になる。信長よりも少し年下で、美濃の斎藤氏の重臣に嫁いでいたが、その夫は信長に討ち滅ぼされた。
 義太夫が一益の名をかたって付文したのは、この一人目の夫が信長に討たれて、おつやが清州に戻ってきた頃だ。
 その後、信長の命で織田家の家臣に嫁いだが、その夫も討死。しばらくは岐阜に留まっていたが、信長の命で当時、岩村城の城主だった遠山景任に嫁いだ。
 しかし遠山景任が病死。おつやは信長の四男、御坊丸を養子に迎えて岩村城を守っていたが、武田に攻められあえなく降伏。その美貌に惚れ込んだ寄せ手の将、秋山虎繁はおつやを正室に迎えた。
 秋山虎繁は四人目の夫になる。
 閉門が解かれ、自由の身となり、喜んで飛んでくるかと思われた義太夫が姿を現したのは、呼び出してから二日後だった。
「閉門中の身で、どこをほっつき歩いておった?まさか…」
 佐治新介が義太夫に肘鉄を食らわせると、義太夫はカハハと笑ってごまかし、
「いやはや、桑名から長島までも一苦労じゃ」
 桑名から木曽川、長良川、揖斐川に囲まれた中州の中心に位置する長島には、船でなければ渡ってくることができない。
「たわけたことを申すな。桑名から長島まで二日もかかったと、そう申すか?」
 義太夫は口うるさい従兄弟の詮索にも動ぜず、
「ちと薬草を取りに行った帰りに道に迷うておったのじゃ」
 平然と分かりやすい嘘を口にする。
 一益は手を振って二人の会話を遮り、
「義太夫、そなた、おつや殿に会うたことがあろう?」
「殿。急なお呼び出しで何事かと思えば、今更そのような。もっと早う言うてくだされば、それがしがいかようにもひと肌脱ぎ、話を整えましたところを。しかるに、もはや手遅れ。あのお方は岩村城の敵将の奥方にて」
 妙な勘違いをしている。
 面倒になり、顎をしゃくって新介に事と次第を説明させた。
「では…勘九郎様は岩村城を攻め落とすと?」
 義太夫の顔色が変わる。
「それはあくまで秋山が約定を違えたときの話じゃ」
 思いつめた顔の義太夫が、しばらく何かを考えて、そして顔をあげた。
「これは、妙な話に我らが見事に乗せられましたな」
 義太夫が弱弱しく笑う。
「妙な話?とは?」
「最初から可笑しな話で。そもそも、おつや様が容易く城を明け渡して敵将に嫁ぎ、武田入道が敵である上様のお子を養子にしたことから妙な流れでござりました」
 義太夫にしては珍しく鋭い。それは違和感の一因だ。
 おつやは何故、城を枕に討死することを選ばず、敵に嫁いだのか。
 武田信玄は何故、御坊丸を助け、養子にしたのか。
「まだありまする。武田家譜代家臣の秋山が簡単に寝返りの約定を交わし、章姫様が秋山の息子に嫁いだことも、可笑しな話で」
「秋山虎繁が寝返るなどという話は、最初からなかった…と?」
「それは、それがしの想像でござります」
 ますます可笑しな話だ。
 信長は確かな手ごたえがあったからこそ、娘を差し出したのではなかったのか。
(あの上様が敵将の口車に乗り、章を敵の元に送り出したとは思えぬ…)
 何かがあった筈だ。信長を信じさせる何かが。
「おつや様が清州の城下でお過ごしの折、それがし、何度もお屋敷にお邪魔いたしましたが…」
「何!」
 流石に聞き捨てならない。何を目的として通い詰めていたのか。
「あ、いえ、それは殿のためというよりは、おつや様の侍女に用向きがあり…。で、その折に何度も顔を見たのが…」
「織田掃部か」
「ご慧眼、恐れ入りまする」 
 尾張日置城主だった織田掃部は織田家譜代の臣で、早くから武田家との交渉を任されていた。
 一時期、信長の勘気にふれて織田領から姿を消した。どこかに身を隠していたらしいが許されて帰参し、今は何事もなかったかのように連枝衆に名を連ねている。
 この一連の話の裏に織田掃部がいることは、なんとなく気づいていた。それにしても解せない。
「上様があのような者のいいなりとなって、章を簡単に渡すとは思えぬが」
 信長が掃部の口車に乗ったとは考えにくい。もっと別な要因がある。
「それは…まだ我らには見えていない事柄が潜んでいるものかと」
(見えていない事柄…というよりは…)
 見ていたのに気づかなかった、のではないだろうか。
 これまでで違和感を感じたのは…。
 勘九郎は何故、わざわざ屋敷に来て、婚儀のことを告げたのだろうか。
(わしと話しているのを知られたくない誰かがいたということか)
 それは、信長なのか、もしくは掃部なのか。
 掃部にしても腑に落ちないことが多い。
 そもそも信長は織田掃部を嫌っているように見えた。
(それが何故か、帰参を許し、今も武田との交渉に使い、言われるままに章姫を嫁がせた)
 何故、織田掃部はのこのこと信長の前に姿を現したのだろうか。まるで信長が自分を許すと分かっていたかのように。
 設楽原での発言はどうだろう。
 降り続く雨の中、信長に撤退を迫った。
(雨だけが理由ではない、としたら)
 雨はただの口実で、武田と戦わせたくない理由があったということだ。
(あやつは身を隠していたとき、どこで何をしていて、何を土産に帰参を許されたのか)
 それ以前に、何をして信長を怒らせたのだろう。
「義太夫、その、何度も用向きがあったという侍女から探り出せばよいではないか」
 佐治新介が笑って言うと、
「あれは尾張にいたころゆえ、十年以上も前のことじゃ」
 この話の鍵は掃部なのか、おつやなのか、信長なのか…。
「義太夫、滝川助九郎とともに、少し探ってみよ」
「ハハッ」
 ようやく閉門が解けたからか、義太夫はいつにも増してやる気満々に返事をする。一益はまだ何か思案するかのように頬杖つきながら、義太夫の様子を窺う。
(可笑しいものは他にもいる)
 それも目の前に。
 夕暮れ近くなり、家臣たちがそれぞれの屋敷に帰っていくのを待って、山村一朗太を呼び出した。
「閉門中、義太夫はどこへ行っていたか存じておるか?」
「恐らくは日永の安国寺ではないかと」
「安国寺?」
「はい。休天殿に呼ばれていると、そう申されていたような…」
 であれば、休天に問いただせばすぐに理由がわかる。それよりも気がかりなことがある。
「義太夫が博打で得た金はどこへ消えた?」
 休天に金を用立てていたとは思えない。一朗太は、はて、と首を傾げる。
「桑名あたりの傾城町では?」
「わしもそう思うていたが…」
 ここ三月で急に博打をはじめたのがどうにも気になる。甲賀を出て以来、一度もそんなことはなかった。
「では、やはり、それは女子でござりましょう。義太夫殿であれば他には考えにくいかと」
 傾城町ではなく、特定の誰かだと言っているようだ。
「…どこの誰じゃ」
「そこまでは…義太夫殿のことであれば、それがしよりも仲の良い鶴殿にお聞きになっては如何でしょうか」
 一朗太の言う通りだ。忠三郎はいかにも何かを知っていそうな態度だった。
「わかった。そなた先に日野へ行き、明後日、例の場所で待つと伝えよ」
「ハハッ」
 短く返事をして一朗太が姿を消した。忠三郎にしろ、義太夫にしろ、いちいち手古摺らせてくれる。そして他愛もない二人とは全く別の思惑で動いているであろうおつや、その背後にいる織田掃部。何かを察しているであろう織田信忠。それぞれの思惑をひとつずつ紐といていくしか、章姫を助け出すことはできないだろう。

 夕暮れ時の日野信楽院。
 少し早めについたと思っていたが、入口に滝川助太郎がいて、一益に気づくと顔をあげる。
 忠三郎は標の松の前にしゃがみ込んでいた。
 
 「人はただ むなしき色を こころにて
           風も目にみぬ 山のあまひこ」

 あまひこは尼彦とも表記され、厄災や疫病から逃れる方法を人に教えると言われている。むなしき色は色即是空、すなわち実体のないもののこと。この和歌は、災いから自分を救ってくれる実体のないものを人の心は求めていると、そう言っている。
 一益が背後に近づくと、忠三郎が気づいて笑顔を見せる。
「それは高祖父という蒲生智閑の?」
「はい。齢五十を過ぎ、仏門に入ってからも槍の先に阿弥陀仏をかけ、戦場に出ていた高祖」
 ちょうど、いまの一益と同じ齢だ。
「静かな暮らしを退け、死ぬまで戦うことを選んだお方でござります」
「死ぬまで戦う…」
 ぞっとするが、信長の元にいれば、そうなってもおかしくない。
「鶴、そなたはいつ来ても、今来たようには見えぬが、いつからここにいる?」
「よう覚えてはおりませぬが、城を出たのは昼を過ぎたころであったような」
 昼過ぎから日暮れまで、ずっと信楽院にいたという。
「ここで何をしておる?」
「取り立てて何と言うほどのことは…。ただ、目上のお方をお待たせしてはならぬと、幼き頃より教えられておりまする」
 照れたように笑った。いつもながら、この、のどかさには驚嘆する。
 戦場ではともかく、普段の忠三郎は、時の流れが世人とは異なり、馬よりは牛に乗って歩いているかのように、ゆったりしている。常に付き従っている助太郎と町野長門守の苦労も推して知るべしといったところか。
「まぁ、よいわ。それよりも…義太夫が金を借りに来たであろう」
「義兄上、それは…」
 忠三郎が返事につまる。
「あれはどこの女子に金を用立てておるのじゃ」
「何度か聞いたことがありまするが、義太夫も口が堅く、尾張におるころからの馴染みとしか聞き及んではおりませぬ。ただ…」
「ただ?」
「義太夫が金を借りにくるようになったは、ここ三月ほど。博打で相当、儲けていると言う割には金が足りぬと申します。余程のことかと」
 そんな重大なことを主である自分に隠していたのかと、腹もたったが、忠三郎が何も事情を知らない以上、取沙汰するのもはばかられる。
 仕方がなく、これまでのいきさつを話すと、忠三郎は明るく笑い、
「それはいとも容易く説明のつくこと。章姫殿が輿入れしたのが三月前でありませぬか?」
 それだ。
 章姫が輿入れしたのは三月前。勘九郎の家来たちと共に滝川家の者も何人か、岩村城まで同行している。
 言われてみるとその頃から義太夫の様子がおかしい。
「となれば、その馴染みの女子というのは岩村城におるものと考えるのが自然では」
「何。ではあやつは敵に金を用立てていると?」
 それが事実であれば重大な軍規違反になる。
「義太夫も秋山伯耆守がこちらへ寝返ると、信じていたからこそではありませぬか。そもそも武田家譜代家臣の秋山伯耆守がそう簡単に寝返るとは思えませぬ。上様も義太夫も、甘い言葉にのせられただけ。案の定、秋山は寝返るどころか、その気配すらなく、籠城の手筈を整えている。そこで騙されたと気づいた」
 解せない。なぜ、二人とも、そんな不確かなことを簡単に信じたのか。
「その不確かで、にわかに信じがたいことを言うたのが、誰なのか、なのでは?」
 織田掃部は考えられない。あの嘘で塗り固めたような男は織田家中でも殊更に評判が悪い。信長はもちろん、義太夫でさえも信じないだろう。
「まさに色即是空。皆、見えている事柄ではなく、誰かの想いを信じ、動いた結果がこれなのでしょう」
(誰かの想い…なんのことだ)
 忠三郎の言っていることがわからない。
「先年の合戦で、掃部がおつやの方を説いて、岩村城を開城させたと、そう聞き及びましたが」
 古くから武田との折衝を行ってきた掃部が、裏で動き、秋山とおつやの方の婚儀を進めたと聞いている。
「然様。上様の四男、御坊丸様の命と引き換えに、城を明け渡し、秋山伯耆守に嫁いだ」
「義兄上から聞く勘九郎様の様子を鑑みるに、みな、武田は御坊丸様を殺めることはない、しかるに章姫殿はわからないと、そう思うておるような」
 そう。それも不可思議な話だ。
 むしろ逆なら話はわかる。御坊丸は男。章姫は女。命の危険があるのは章姫ではなく御坊丸のはず。
(おかしな話が多すぎる)
 行き詰ってきたので視点を変え、武田側の視点で考えてみる。
「そもそも秋山は章を人質とするため、縁組を申し入れてきたのじゃ」
「されど、人質であれば御坊丸様でも問題ない筈。何故に章姫殿を人質にしようとしたのか…」
 武田にとって、章姫は何故、必要だったのだろうか。
「御坊丸様では、人質として意味をなさない。なぜなら、武田が御坊丸様を殺めることはないと、上様は知っているから…なのでは?」
 武田にとって、御坊丸とは何なのだろう。
「わからぬな」
「一番わかりやすい者から墜としていっては?」  
 忠三郎が笑って言う。
「義太夫か。そなたは何を知っていて、何を隠している?」
「いえ。知っているのも隠しているのも義太夫でござります。わしは義太夫の顔色と態度から勝手に憶測しておるのみ。わしの憶測が正しければ、義太夫は岩村城に何度か足を踏み入れておるゆえ、章姫殿救出もあるいは…」
「鶴、いい加減に話せ。そなたの憶測とは?」
 一益がじれてそう言うと、忠三郎は声をあげて笑った。
「色恋のことではさしもの義兄上も…」
「そなたから色恋の手ほどきなど受けとうはない。まことは義太夫の相手を存じておろう?」
 忠三郎は、笑って、はい、と答える。
「おつやの方では?」
「何?そのようなことがあろう筈もない」
「いやいや、これは義太夫が一方的に想うておるだけのこと。義太夫がおつやの方の話をするときの様子を見て、それと気づかぬは義兄上くらいのもので、他の者は皆、それとなく察しておりましょう」
 言われてみると腑に落ちることが多々ある。
「だからあやつ…あのように顔色を変えて…」
 章姫が一益の子だと知っているのは義太夫しかいない。それもあり、章姫の心配をしてくれているものと思っていたのだが。
「一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く。傾国とはまさにこのこと。おつやの方に言われるままに、金を渡していたと思われますが、これはあくまでもわしの推論でござります」
 だとすると、
『我らには見えていない事柄が潜んでいるものかと』
 義太夫はそう言っていた。
 今回、おつやに騙されたと知った時点で義太夫には見えたのだろう。見えていなかった事柄が。
「皆が皆、義太夫と言えば女子、というは、そういうことであったか。我が甥ながら、なんという愚か者…」
 一益が深くため息をつくと、忠三郎は苦笑いした。
「義兄上、そう仰せられますな。相思はぬ人を思うは大寺の餓鬼の後に額づくがごと、と申しますが、義太夫は尾張にいたころより、もう十年以上も、ただひたすらに、一途に、おつやの方を想うて…」
 庇っているつもりなのか、忠三郎がいつものように、ゆったりと語りだすのを軽く制し、
「鶴と義太夫が手籠めにした女子。岐阜の屋敷で子を産んでおる」
 忠三郎がエッと驚き、
「手籠めとは…義兄上も人聞きの悪い…して、あのそれは…」
「男じゃ」
「男子?…それは、それはまた…」
 動揺を隠せない忠三郎に、
「九郎と名付けた。滝川左近の四男じゃ。岐阜に行ったら風花に事の次第を話せ。そなたが風に何も話さぬゆえ、わしは痛くもない腹を探られておる」
 忠三郎が狼狽して、目で町野長門守を探している。そんな忠三郎を横目で見ながら、
(一途が聞いて呆れる)
 皆が皆、誰かの思惑に乗って、みすみす章姫を武田に渡してしまっている。
 岩村城に向かった義太夫はどうするつもりなのだろうか。
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糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

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