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4 羅生門
4-2 月の仙女
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この年、琵琶湖で上洛のための大船建造が始まり、一益も呼び出された。その後、挙兵した足利義昭を討伐するため、兵を引き連れて上洛。信長は妙覚寺に入った。
「ここは少し手狭では。新たに屋敷を作っては如何なものかと」
提案したのは明智光秀。信長はフムと頷き、
「どこかによい場所があるか?」
「はい。あれなる吉田山。洛中を見下ろす場所に位置し、警護するに適した山かと」
「よかろう。皆で行き、その場を検分して参れ」
皆、とは誰をさすのか。その場にいた柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、そして一益は顔を見合わせ、どうやら自分たちを指しているようだと互いにうなずき、光秀の言う吉田山へ向かうことにした。
いにしえより神楽岡と呼ばれていた吉田山は洛中の北東に位置する低い丘。
「やれ船を造れの屋敷を造れのと、織田家の家老を集めて命ずることではなかろうて」
夏、真っ盛りで伊勢も暑いが山に囲まれた都はとても暑い。雑用ばかりさせられ忙しいのは一益ばかりではない。その一益に従って連れまわされる家臣たちは尚のこと。
上洛前から機嫌の悪かった新介がぶつぶつと文句を言うと、それを聞いていた義太夫は、慌てて新介の口をふさぐ。
「滅多なことを申すな。誰か聞いておるやもしれぬ。黙ってついていけ」
二人が件の吉田山へたどり着くと、涼しい風が吹きぬけてきた。早くも重臣たちは屋敷を立てるのに適した場所を物色している。
「これはよい。都よりもよほど涼しい。我が滝川家の屋敷もここに建てては如何なものかのう」
少し機嫌がよくなった新介が提案する。
「我が家の屋敷であれば、もう都にあるではないか」
義太夫のいう屋敷とは、洛外にある廃寺を補修しただけの、隙間風の吹く簡素な館のことだ。よく廃屋と間違われている。
(あれが天下の織田家の家老の屋敷とは)
情けなくて涙がでるわい、と言おうとすると、隣にいた義太夫がいない。
「おや…」
見ると少し離れた場所で、義太夫が誰かと話している。
(あれは…)
装束を見るに相手は神主のようだ。この吉田山にある吉田神社の神主、吉田兼和と思われた。
平安期から続く卜部(うらべ)氏の末裔で、鎌倉期に入ってからは代々、卜部氏が吉田神社の神職を務めている。その後、権勢を誇り、各地にある神社の支配権を持っていたと伝わるが、それも今は昔で、目の前にいる吉田兼和はなんとも気の弱そうな痩せた男。
「それは手遅れになるまえに、殿に話すべきじゃ」
義太夫の声が聞こえてきた。
「如何した、義太夫」
「おぉ。こちらはこの社の神主。このご仁の申すところによれば、この辺り一帯は吉田神社の神苑。それゆえ、ほいほいと屋敷など建てられては迷惑千万と…」
義太夫が説明を始めると、吉田兼和は真っ青になった。
「迷惑などと、滅相もないことでござります!たいへん、たいへん誉れあることと申し上げましたが…、されど、されど…」
軍勢が駐留する屋敷を建てれば、出入りの兵によって荒らされたり、戦場と化す危険性がある。ようは、自分の家の目の前に、屋敷などは建ててくれるなと、そう言いたいらしい。
「さりとて、明智様がこの場所がよいと、そう仰せになったゆえ…」
今更、無理だろうと思ったが、義太夫が苦笑して、
「こっそり殿に話をしてみようではないか」
「いらぬ世話ばかりやいて、つまらぬ目にあうぞ」
新介は忠告するが、義太夫は意に介せず軽々と一益のいる方向へと走っていく。
「殿!」
折よく他の重臣たちが傍にいないことを確認すると、声をかけ、事情を説明した。
「なに、神主は知らぬこと?明智十兵衛はあの神主と昵懇と聞き及ぶ。それゆえ、折り込み済みと思うていたが…」
「いえ、むしろ寝耳に水のようで」
何やら思っていたこととは違うようだ。
一益がちらりと神主を見ると、どうなることかとハラハラしながらこちらを見守っている。
神主の気持ちも分からないでもない。都といえば、過去には何度も戦禍に巻き込まれている。少し離れた吉田神社は戦禍を免れてきているが、信長の駐留地にされれば危険性は増す。
(されど…)
そんな理由では屋敷を建てるのをやめにさせることはできない。
少し離れたところでは、屋敷に使う木材の運搬について、柴田勝家と丹羽長秀が話をしている。一益はそこへつかつかと歩み寄り、
「権六、五郎左、ちと待て。この場に上様の屋敷を建てるのはやめたほうがよい」
おもむろにそう言ったので、二人は驚いて顔を見合わせた。
「それはまた、何ゆえに?」
「ここは洛中からは艮(うしとら)の方角。鬼が出入りするという鬼門じゃ。同じく艮の方角にあった比叡山延暦寺。古来、あれが鬼の門を塞いでいると伝わるが、焼き払うたばかり。されど、今はこれなる吉田神社が鬼の門を塞いでおる。それゆえ、かような場所に上様の屋敷を建てるのは如何であろうか」
一益が尤もらしくそう言うと、柴田勝家と丹羽長秀はなるほどと頷く。義太夫は神主と顔を見合わせ、キツネに摘ままれたような顔になった。
(確かに洛中から見ればここは北東…)
忌むべき方角と言われれば、だんだんとそんな気がしてくるから不思議だ。
「では上様へは検分の結果、ここに屋敷を建てるのは望ましからぬとお伝えしよう」
「まぁ、上様がお泊りになるのであれば、やはり洛中がよろしかろう」
二人は互いにそう言って、付き従ってきたものたちに引き上げを命じて山を下りていった。あちこち走り回っていた秀吉も、何が起きたか分からないままに引き上げた。
一行が去り、吉田山が静かになると、
「なんとお礼を申し上げたらよいやら」
吉田兼和がペコペコと頭を下げる。
「我等も引き上げじゃ」
一益は何事もなかったかのように山を下りようとした。すると吉田兼和が追いすがり、
「しばし、お待ちくだされ!このお礼をさせてくだされ」
「それには及ばぬが…」
「いやいや、そう仰せにならず…後日、ぜひ、我が家へお越しくだされ。石風呂の支度をしておきますゆえ」
「石風呂?」
「はい。明智様は我が家の石風呂を大層気に入られて、何度もお出でくだされております。今日のお礼にぜひぜひ滝川様も」
風呂が趣味とはいかにも明智光秀らしい。
吉田兼和の好意を無下にするのも憚られる。一益はフムとうなずき、吉田山を後にした。
ようやく北伊勢に戻ったところで、越前への出陣命令が下った。
「浅井家の家臣が一人、こちらへ寝返ったようじゃ。上様はこれを機に浅井・朝倉を始末すると仰せである」
「我らは甲冑を脱ぐ暇もなく…任重くして道遠し、ですな」
最近、ぼやいてばかりの佐治新介が繰り言を言ったので、義太夫が笑う。
「泣く子も黙る佐治新介様もお疲れか。わしなどは忙しゅうて妻帯する暇もない。新介は早、隠居でも考えるか」
「何を申すか。わしは殿が、すりこ木のようにこき使われているのを案じておるのじゃ」
新介がしたり顔でそう言うと、黙って聞いていた一益は苦笑した。
「そう申すな。江北が終われば、また、全軍をあげて一揆勢との戦いになる。皆もしばらくは休む間はないと思うてくれ」
辺りが薄暗くなる中、軍議が終わり、家臣たちが広間を出ていった。義太夫だけがその場に残った。何か話があるようだ。
「三九郎がことか?」
「はい。藤九郎が国友で聞いた噂にて。杉谷家の者と共に鉄砲を買い求めに現れたと」
織田家の追撃から逃れ、江北に逃げているのだろう。危険を冒しても近江から離れないのは、近江に資金源があるからだ。
「銭の出所は蒲生快幹といったところか」
「快幹が六角家に金を貸していたというほど蒲生家は懐温かいようで。重丸を倒せば、快幹も諦めるやもしれませぬ。さすれば織田家を目の敵にしている杉谷衆も身動きが取れなくなりましょう」
日が暮れてきた。義太夫が灯明皿の灯心に火を灯すと、部屋がほのかに明るくなる。
「重丸も共におるのか」
「恐らくは。此度の戦さで密かに鶴を狙うてくるやもしれませぬ」
一益が扇子をパチパチと鳴らしだす。何か思案しているときの癖だ。
(後顧の憂いを断つか)
重丸は命ある限り、忠三郎から家督を奪おうとする。しかし忠三郎のあの性格では、重丸を討つことはできない。
「誘い出せるか?」
「鶴を囮に使えば…」
忠三郎はいいとは言わないだろう。しかも杉谷衆が背後にいる。危ない橋を渡らせたくはないが、危険を避けていては重丸を倒すことはできない。それともうひとつ、気がかりなことがある。
「上様のお命を狙うたものは」
「それは分かりませぬな。杉谷衆全員を捕えて拷問にでもかけねば、難しいかと」
信長の息のかかったものに捕えられれば、そうなるだろう。そして三九郎が捕えられれば、一益の子であることも明るみになる。
(そうなる前に捕えるか、それとも…)
一益は激しく扇子の音をたてる。今までなら簡単に出せていた答えが出せない。
義太夫はそんな一益をじっと観察していたが、やがて溜まりかねて口を開いた。
「殿。どうかこの義太夫にだけはお心の内をお聞かせくだされ。余人はいざ知らず、それがしには分かっておりまする。殿が狙うた獲物を取り逃がす筈はありませぬ。先日の能楽の折、わざと急所をはずして三九郎様を撃たれました。まことは三九郎様を助けたいとお考えなのでは?」
一益が義太夫を見ると、義太夫がジッと顔色を窺う。一益は苦笑して、
「あの時、倒すべきであった」
「殿!」
「そなたが思うほど、わしは腑抜けてはおらぬ」
義太夫に腹の内を見透かされ、言下に否定した。
誰かほかの者に捕えられれば拷問されて処刑される。その前に自分の手で討ち取るべきだと思っている。ただ、そう思っていた筈なのに、
(できなかった…)
咄嗟に迷いがでて、急所を外した。
義太夫はしばらく一益の顔を見ていたが、
「承知いたしました。では此度の北江攻めが好機となりましょう」
一益は無表情に頷いた。
峠を越えて江北へ入ると、信長本隊がすでに国友近くにある月ヶ瀬城の攻略中だった。
「山本山城主の阿閉貞征がこちらに寝返っとる。あのような城、日暮れ前には落ちやぁす」
苗字を木下から羽柴に替えた秀吉が現れてそう言った。浅井家の家臣たちを調略したのは秀吉だ。
「朝倉の援軍は?」
「早、越前を出た由。明日・明後日には現れやぁす。…にしても、いつ見ても左近殿の軍勢は装備がええですなぁ」
一益は蔵入りの大半を鉄砲に費やしている。秀吉はざっと見渡して鉄砲隊の多さに驚いたようだ。
新介や藤九郎が何しにきたという怪訝な顔をして秀吉を見る。二人は秀吉の尾張弁が苦手だ。
「何じゃ、禿ねずみ。何用で参った?」
一益がそう言うと、秀吉は満面笑みを浮かべ、
「左近殿に弟の小一郎のことでご相談がありゃぁす」
「弟?そちの弟のことか」
「左近殿の姫、葉月殿を小一郎の嫁にいただきてゃあというご相談で」
と言い出したので、新介も藤九郎も仰天した。一益は一喝しようかと思ったが、秀吉は 信長のお気に入り武将だ。
「葉月はまだ赤子じゃが」
冷ややかにそう言うと、
「それは無論、知っとりまする。それゆえ、今すぐとではにゃあて、他家との縁談が決まるみゃあに、行く行くというお約束をいただきてゃあて」
あり得ないとは思ったが、最近の秀吉は勢いがあり、その頭角を現しつつある。配下に加えた家来の力かもしれないが、戦さ上手という評判でもあるから無下には扱えない。
「考えておく」
と短く返事をした。
その日の夕刻、月ヶ瀬城が落城し、翌日には豪雨の中、朝倉勢が籠る大嶽城と丁野山城を落とした。
夜になり、雨が上がったころ、信長本陣から伝令がきた。
「朝倉勢が撤退を始めたら追撃せよとの仰せじゃ」
「では皆々準備を…」
と義太夫が幔幕の外へ出ようとしたとき、
「殿、右の山の手より、不審な狼煙があがりましてござりまする」
佐治新介が現れてそう告げた。義太夫がエッと驚き、
「右の山の手…敵のいる方角ではありませぬな。あちらには蒲生勢が…」
杉浦衆が誰かに忠三郎の居場所を教えているのだろう。
「やはり来たか。彦一郎、義太夫」
彦一郎が頷いて姿を消し、義太夫が立ち上がった。
夜になり、月が眩しいほどに輝いている。唐の国では中秋節と呼ばれる。一年のうちでも最も美しいとされている中秋の月を見る月見の宴が開かれるようになったのは平安のころからという。
『月には仙女が住んでいて、兎たちに薬を作らせておる』
そして心優しい仙女は、地上の民が流行り病に苦しむと深く心を痛め、兎に命じて薬を届けてくれるのだと、そう教えられた。
『仙女?』
『母上のような、美しく心根の優しい貴人じゃ』
(母上のような…あの時、確かにそう言った。ということは、教えてくれたのは重丸か)
忠三郎は帷幕の中で一人、月を見上げて幼き日を思い出していた。
幼い頃の記憶はわずかしかない。小柄で温和な母。そして重丸…。争った覚えは一度もない。
(それが今になって、何故、付け狙うてくるのか…)
百済寺焼き討ち以来、重丸の足取りがつかめていない。
滝川助太郎が何か知っているようにも見えたが、問いただしたところで白を切るのはわかっていた。
「若殿。なにやら狼煙が上がった場所にこの者がおり、若殿に会わせよと…」
町野長門守が見るからに怪しげな僧侶らしき男を連れて幕内に入ってきた。僧侶が近づくと、滝川助太郎が瞬時に忠三郎と僧侶の間に入る。
忠三郎はもしやと思い、床几から立ち上がった。
「わしが蒲生忠三郎じゃ。そなたは?」
僧侶は忠三郎を見ると、顔をあげ、
「重丸様の使いの者でござりまする」
と言ったので、忠三郎は躍り上がらんばかりに喜んだ。
「重丸は生きておるのじゃな」
「百済寺から逃れ、この先の寺に身を隠していたところ、流行り病にかかり明日をも知れぬお命。忠三郎様に一目会い、今生の別れを告げたいと仰せにござりまする」
「それはまことか…。この先の寺とは?」
忠三郎が僧侶に問いかけると、滝川助太郎と町野長門守が慌てて止めた。
「明らかに罠でござりましょう。忠三郎様、罠とお分かりになっていながら、何故にわざわざ命を捨てに行かれるので?」
「止めるな、助太郎。重丸に会いたいのじゃ。会って話をしたい」
忠三郎が強引に行こうとするのを、二人が必死に遮る。
「若殿!話ならそれがしが代わりに!どうかお留まりを!」
「では長門、そちも共に参れ」
「いいえ。みすみす罠と分かっている場所へ行かせたなどと、殿に申し開きができませぬ。どうあっても行くと仰せであれば、まず、この助太郎を斬ってから、お行きなされ」
三人がもみ合っていると、僧侶がいきなり立ち上がり、助太郎と長門守の後頭部を殴りつけた。
二人が音をたてて倒れる。
「ぬしは、甲賀の者か」
忠三郎は驚いて言葉を失う。僧侶は平然として、顔色一つ変えていない。手際が良すぎる。慣れた様子からも、ただの僧侶とは思えない。
「ご家中の者に気づかれる前に、早う参りましょう」
僧侶に冷ややかに促され、忠三郎は頷いた。
僧侶の後に続いて草深い山道を歩いていく。
(この暗がりの中を月明かりだけで、こうも早く歩けるとは)
やはりこの僧侶は甲賀の素破に違いない。
夜目の効かない忠三郎は、おぼつかない足取りで僧侶の後を追う。やがて開けたところに出た。
見ると大木の根元に小さな祠がある。僧侶はそこで足を止めた。
「寺ではなかったのか」
忠三郎が笑って言うと、僧侶は振り返り、
「寺などないと、最初からお分かりでは」
言い終わらないうちに持っていた杖を構えた。
(仕込み杖か)
仕込み杖とは刀を杖に見立てたもの。噂に聞いたことはあったが実物を見るのは初めてだった。
物陰からは待っていたかのように重丸が現れる。
見ると、足を引き摺って刀を杖代わりにしている。
「重丸…その足は?」
忠三郎が問うと、重丸が嘲笑う。
「白々しい。全て己にやられたのじゃ!」
周りの木々から次々に不審な素破と思しき一団が姿を現す。
「違う!わしは…」
「黙れ!手も足もまともに動かなくなり、お爺様にまで見捨てられ…」
重丸が口惜しそうに唇を噛む。
「全て忘れて静かに暮らそうとしても、なお己に邪魔され…」
百済寺のことだとわかった。
「わしは何も…何もしては…」
「わしはただでは死なん。己は神も仏も恐れず、平然と寺社を焼き払う鬼畜。信長に捕らえられる前に、刺し違える!」
激しく憤る重丸に、忠三郎は戸惑いながら、
「待て、わしの話を聞け。わしは何もしておらぬ」
「蒲生勢が百済寺を焼き払うのをこの目でしかと見ておるわ」
「それは…」
重丸に会ったら言いたいと思っていたことがあった。
(童の頃の約束を忘れたか。共に国を守る約束をしたではないか)
しかし百済寺焼き討ちのことを言われ、何も言えなくなってしまった。
重丸は怒りに燃えた目で忠三郎を睨んで刀を抜く。それを合図に素破達が刀をかまえる。
忠三郎も身の危険を感じて刀を抜いた。そのとき、忠三郎の真横にいた素破が虚空を掴んで仰け反った。
木全彦一郎だ。
彦一郎は、返す刀でその横の素破を切り伏せる。気づいた素破たちが彦一郎に襲いかかる。
呆気にとられていると、重丸が刀を振りかざした。忠三郎が向き直り、刀をかまえたとき、山間に銃声が響いた。
「重丸!」
重丸が音を立ててその場に倒れた。
慌てて駆け寄ると、心の臓を撃ち抜かれ、既に事切れている。火縄銃なら煙がたなびいている筈と思い、辺りを見回すが、分からない。
どこから撃ったかも分からない程、遠くから撃ったのだろう。
忠三郎はあまりの事にヘタヘタとその場にへたりこんだ。
「鶴!無事か!」
義太夫と助九郎が手勢を連れて現れた。
「これは…重丸か」
義太夫が忠三郎の傍に横たわる重丸を見て問うと、忠三郎が目を真っ赤にして力なく頷いた。
「童の頃…二人で共に国を守る約束をしたと、言えなかった…」
忠三郎が肩を震わせて、重丸の手を取る。
「鶴、しっかりいたせ」
「重丸がいると分かっていて、百済寺に火を放った」
「それは…」
信長からの恩義を忘れて、六角勢に兵糧を調達していた百済寺が悪いのではないか、義太夫はそう思っている。
そもそも延暦寺が焼き討ちされていることを思えば、当然、逆らえば焼き払われることは覚悟の上で、あえて歯向かってきたのではないか。
「このようなことができるのは…一人しかおらぬ…」
月明かりで遠くから命中させられるのは、一益しかいないと、そう言っているのだろう。
「鶴、それはのう…」
義太夫が何と言ってなだめようかと考えていると
「何故に…何故に義兄上はこのようなことを…」
忠三郎が責めるように言うと、義太夫は少し醒めた様子で、
「おぬしはそうやって殿を恨むか」
「重丸のことは、わしが始末をつけると言うたはずじゃ!」
「守る価値もなき奴…殿は上様の前でおぬしを庇い、粉骨砕身の思いで守ってきた。そんなことも分からず、今宵もフラフラと誘い出され、自ら危うい目に遭うて助けられた挙句にそれでは、殿がよくとも、わしらが阿呆らしゅうなるわ」
義太夫が呆れたように言うと、忠三郎は黙り込んで重丸の亡骸を見つめる。
「されど…殿は、鶴はそれでよいと、そう仰せじゃ」
義太夫が声色を変えて言うと、忠三郎が怪訝な顔をして見上げる。
「それでよいとは?」
「今のまま、分別のないままでよいと」
なおも分からず、義太夫の顔を見る。
「殿はのう、鶴は常日頃から大人びた物の考えをすると案じておられた。それがこと身内のこととなると、童に戻る。言うても言うても伝わらぬ。じゃが、鶴はそれでよい。年若い時には年若い時の振る舞いがある。若さに任せた無謀な行いがあってこそ、長じてから振り返って分かるようになる。年不相応に思慮深い者は、長じてから疲れ果てた老人のようになると、そう仰せじゃった」
「義兄上がそのように…」
常日頃から何を考えているのかよく分からない一益が、そんなことを思っていたのだと、初めて知った。
「重丸の亡骸は我が家のものに命じて信楽院に運ばせようほどに」
義太夫が忠三郎を促す。
「そろそろ戻らねば…おぬしは一軍の将ではないか」
忠三郎が涙を拭って立ち上がった。
忠三郎と義太夫が自陣に戻ると、既に軍勢が移動したあとで、誰も残っていない。
「我ら滝川勢は先陣を仰せつかっていた…どうやら朝倉勢が動いたために、追っていったようじゃ」
忠三郎が驚き、
「我らも先陣を仰せつかっておる…されど大将を置いていくとは…」
朝倉勢が退却を始めたので、先に戻った一益が滝川勢と蒲生勢を率いて追撃に向かったのだろう。
「急いで合流せねば。わしは兎も角、鶴がおらぬと知れると拙いことになろう」
二人は慌てて、後を追ったが、いくら馬を走らせても追いつけない。ようやく木之本の地蔵山で追いついた。一益は二人の顔を見ると
「やっと参ったか」
「朝倉勢の追撃は…」
「上様に先を越され、秀重、忠右衛門が追撃に加わった。蒲生勢からは町野左近が兵を率いて追っていったが、上様は大変お怒りじゃ」
よりにもよって信長に先陣を越されるとは。
「それは…上様の元へお詫びに向かわねば…」
忠三郎が青くなって行こうとすると、一益が留める。
「待て、先陣を命じられていたは、我らだけではない。柴田、丹羽、羽柴らの重臣あわせ二十名ほど。皆、上様に遅れをとり、厳しくお叱りを受けたため、皆で詫びを入れ、今戻ったところじゃ」
「皆で詫びに…では、上様はわしがおらなんだことにお気づきでは…」
「わからぬが、常のそなたを存じておれば、誰も不思議には思うまい。それよりも、そなたは町野左近に追いつき、朝倉勢の追撃に加わったほうがよい。朝倉勢は刀根山から敦賀へ向かって退却しておる」
「心得た!」
忠三郎が頷いて馬に乗り、走り去る。
「殿。重丸の亡骸は信楽院に送りました」
一益は騎乗しようとして、チラリと義太夫を見た。
「重丸を仕留めたか」
義太夫はエッと驚き、
「あれは殿が…撃ったものかと…」
「どこを撃たれていた?」
「心の臓を一発。即死でござりました」
一益が思案顔になった。
「わしならば…生かして捕える」
「なるほど。殿も人の子でござりますな。鶴があれほどに思うておるゆえ、生かして捕えると」
義太夫が感心したように言うと、一益は冷笑した。
「そうではない。上様を撃ったものを突きとめねばならぬ。帰するところ…」
同じことを考えた者が、重丸を撃ったのだろう。
「口封じだと?」
「であろう。江北が片付けば、いよいよ逃げ場を失う。早う杉谷衆を捕えねば、他の者に先を越される」
「しかし捕えるといいましても、どこを探せばよいのやら…」
「蒲生快幹じゃ。快幹を見張れ」
「ハハッ」
織田勢は敦賀まで追撃を続け、朝倉義景のこもる一乗谷城を落とした。そして北江へ戻り、浅井久政・長政親子が籠る小谷城を陥落させた。ここに北近江および越前が織田家の支配下に置かれることになった。
「ここは少し手狭では。新たに屋敷を作っては如何なものかと」
提案したのは明智光秀。信長はフムと頷き、
「どこかによい場所があるか?」
「はい。あれなる吉田山。洛中を見下ろす場所に位置し、警護するに適した山かと」
「よかろう。皆で行き、その場を検分して参れ」
皆、とは誰をさすのか。その場にいた柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、そして一益は顔を見合わせ、どうやら自分たちを指しているようだと互いにうなずき、光秀の言う吉田山へ向かうことにした。
いにしえより神楽岡と呼ばれていた吉田山は洛中の北東に位置する低い丘。
「やれ船を造れの屋敷を造れのと、織田家の家老を集めて命ずることではなかろうて」
夏、真っ盛りで伊勢も暑いが山に囲まれた都はとても暑い。雑用ばかりさせられ忙しいのは一益ばかりではない。その一益に従って連れまわされる家臣たちは尚のこと。
上洛前から機嫌の悪かった新介がぶつぶつと文句を言うと、それを聞いていた義太夫は、慌てて新介の口をふさぐ。
「滅多なことを申すな。誰か聞いておるやもしれぬ。黙ってついていけ」
二人が件の吉田山へたどり着くと、涼しい風が吹きぬけてきた。早くも重臣たちは屋敷を立てるのに適した場所を物色している。
「これはよい。都よりもよほど涼しい。我が滝川家の屋敷もここに建てては如何なものかのう」
少し機嫌がよくなった新介が提案する。
「我が家の屋敷であれば、もう都にあるではないか」
義太夫のいう屋敷とは、洛外にある廃寺を補修しただけの、隙間風の吹く簡素な館のことだ。よく廃屋と間違われている。
(あれが天下の織田家の家老の屋敷とは)
情けなくて涙がでるわい、と言おうとすると、隣にいた義太夫がいない。
「おや…」
見ると少し離れた場所で、義太夫が誰かと話している。
(あれは…)
装束を見るに相手は神主のようだ。この吉田山にある吉田神社の神主、吉田兼和と思われた。
平安期から続く卜部(うらべ)氏の末裔で、鎌倉期に入ってからは代々、卜部氏が吉田神社の神職を務めている。その後、権勢を誇り、各地にある神社の支配権を持っていたと伝わるが、それも今は昔で、目の前にいる吉田兼和はなんとも気の弱そうな痩せた男。
「それは手遅れになるまえに、殿に話すべきじゃ」
義太夫の声が聞こえてきた。
「如何した、義太夫」
「おぉ。こちらはこの社の神主。このご仁の申すところによれば、この辺り一帯は吉田神社の神苑。それゆえ、ほいほいと屋敷など建てられては迷惑千万と…」
義太夫が説明を始めると、吉田兼和は真っ青になった。
「迷惑などと、滅相もないことでござります!たいへん、たいへん誉れあることと申し上げましたが…、されど、されど…」
軍勢が駐留する屋敷を建てれば、出入りの兵によって荒らされたり、戦場と化す危険性がある。ようは、自分の家の目の前に、屋敷などは建ててくれるなと、そう言いたいらしい。
「さりとて、明智様がこの場所がよいと、そう仰せになったゆえ…」
今更、無理だろうと思ったが、義太夫が苦笑して、
「こっそり殿に話をしてみようではないか」
「いらぬ世話ばかりやいて、つまらぬ目にあうぞ」
新介は忠告するが、義太夫は意に介せず軽々と一益のいる方向へと走っていく。
「殿!」
折よく他の重臣たちが傍にいないことを確認すると、声をかけ、事情を説明した。
「なに、神主は知らぬこと?明智十兵衛はあの神主と昵懇と聞き及ぶ。それゆえ、折り込み済みと思うていたが…」
「いえ、むしろ寝耳に水のようで」
何やら思っていたこととは違うようだ。
一益がちらりと神主を見ると、どうなることかとハラハラしながらこちらを見守っている。
神主の気持ちも分からないでもない。都といえば、過去には何度も戦禍に巻き込まれている。少し離れた吉田神社は戦禍を免れてきているが、信長の駐留地にされれば危険性は増す。
(されど…)
そんな理由では屋敷を建てるのをやめにさせることはできない。
少し離れたところでは、屋敷に使う木材の運搬について、柴田勝家と丹羽長秀が話をしている。一益はそこへつかつかと歩み寄り、
「権六、五郎左、ちと待て。この場に上様の屋敷を建てるのはやめたほうがよい」
おもむろにそう言ったので、二人は驚いて顔を見合わせた。
「それはまた、何ゆえに?」
「ここは洛中からは艮(うしとら)の方角。鬼が出入りするという鬼門じゃ。同じく艮の方角にあった比叡山延暦寺。古来、あれが鬼の門を塞いでいると伝わるが、焼き払うたばかり。されど、今はこれなる吉田神社が鬼の門を塞いでおる。それゆえ、かような場所に上様の屋敷を建てるのは如何であろうか」
一益が尤もらしくそう言うと、柴田勝家と丹羽長秀はなるほどと頷く。義太夫は神主と顔を見合わせ、キツネに摘ままれたような顔になった。
(確かに洛中から見ればここは北東…)
忌むべき方角と言われれば、だんだんとそんな気がしてくるから不思議だ。
「では上様へは検分の結果、ここに屋敷を建てるのは望ましからぬとお伝えしよう」
「まぁ、上様がお泊りになるのであれば、やはり洛中がよろしかろう」
二人は互いにそう言って、付き従ってきたものたちに引き上げを命じて山を下りていった。あちこち走り回っていた秀吉も、何が起きたか分からないままに引き上げた。
一行が去り、吉田山が静かになると、
「なんとお礼を申し上げたらよいやら」
吉田兼和がペコペコと頭を下げる。
「我等も引き上げじゃ」
一益は何事もなかったかのように山を下りようとした。すると吉田兼和が追いすがり、
「しばし、お待ちくだされ!このお礼をさせてくだされ」
「それには及ばぬが…」
「いやいや、そう仰せにならず…後日、ぜひ、我が家へお越しくだされ。石風呂の支度をしておきますゆえ」
「石風呂?」
「はい。明智様は我が家の石風呂を大層気に入られて、何度もお出でくだされております。今日のお礼にぜひぜひ滝川様も」
風呂が趣味とはいかにも明智光秀らしい。
吉田兼和の好意を無下にするのも憚られる。一益はフムとうなずき、吉田山を後にした。
ようやく北伊勢に戻ったところで、越前への出陣命令が下った。
「浅井家の家臣が一人、こちらへ寝返ったようじゃ。上様はこれを機に浅井・朝倉を始末すると仰せである」
「我らは甲冑を脱ぐ暇もなく…任重くして道遠し、ですな」
最近、ぼやいてばかりの佐治新介が繰り言を言ったので、義太夫が笑う。
「泣く子も黙る佐治新介様もお疲れか。わしなどは忙しゅうて妻帯する暇もない。新介は早、隠居でも考えるか」
「何を申すか。わしは殿が、すりこ木のようにこき使われているのを案じておるのじゃ」
新介がしたり顔でそう言うと、黙って聞いていた一益は苦笑した。
「そう申すな。江北が終われば、また、全軍をあげて一揆勢との戦いになる。皆もしばらくは休む間はないと思うてくれ」
辺りが薄暗くなる中、軍議が終わり、家臣たちが広間を出ていった。義太夫だけがその場に残った。何か話があるようだ。
「三九郎がことか?」
「はい。藤九郎が国友で聞いた噂にて。杉谷家の者と共に鉄砲を買い求めに現れたと」
織田家の追撃から逃れ、江北に逃げているのだろう。危険を冒しても近江から離れないのは、近江に資金源があるからだ。
「銭の出所は蒲生快幹といったところか」
「快幹が六角家に金を貸していたというほど蒲生家は懐温かいようで。重丸を倒せば、快幹も諦めるやもしれませぬ。さすれば織田家を目の敵にしている杉谷衆も身動きが取れなくなりましょう」
日が暮れてきた。義太夫が灯明皿の灯心に火を灯すと、部屋がほのかに明るくなる。
「重丸も共におるのか」
「恐らくは。此度の戦さで密かに鶴を狙うてくるやもしれませぬ」
一益が扇子をパチパチと鳴らしだす。何か思案しているときの癖だ。
(後顧の憂いを断つか)
重丸は命ある限り、忠三郎から家督を奪おうとする。しかし忠三郎のあの性格では、重丸を討つことはできない。
「誘い出せるか?」
「鶴を囮に使えば…」
忠三郎はいいとは言わないだろう。しかも杉谷衆が背後にいる。危ない橋を渡らせたくはないが、危険を避けていては重丸を倒すことはできない。それともうひとつ、気がかりなことがある。
「上様のお命を狙うたものは」
「それは分かりませぬな。杉谷衆全員を捕えて拷問にでもかけねば、難しいかと」
信長の息のかかったものに捕えられれば、そうなるだろう。そして三九郎が捕えられれば、一益の子であることも明るみになる。
(そうなる前に捕えるか、それとも…)
一益は激しく扇子の音をたてる。今までなら簡単に出せていた答えが出せない。
義太夫はそんな一益をじっと観察していたが、やがて溜まりかねて口を開いた。
「殿。どうかこの義太夫にだけはお心の内をお聞かせくだされ。余人はいざ知らず、それがしには分かっておりまする。殿が狙うた獲物を取り逃がす筈はありませぬ。先日の能楽の折、わざと急所をはずして三九郎様を撃たれました。まことは三九郎様を助けたいとお考えなのでは?」
一益が義太夫を見ると、義太夫がジッと顔色を窺う。一益は苦笑して、
「あの時、倒すべきであった」
「殿!」
「そなたが思うほど、わしは腑抜けてはおらぬ」
義太夫に腹の内を見透かされ、言下に否定した。
誰かほかの者に捕えられれば拷問されて処刑される。その前に自分の手で討ち取るべきだと思っている。ただ、そう思っていた筈なのに、
(できなかった…)
咄嗟に迷いがでて、急所を外した。
義太夫はしばらく一益の顔を見ていたが、
「承知いたしました。では此度の北江攻めが好機となりましょう」
一益は無表情に頷いた。
峠を越えて江北へ入ると、信長本隊がすでに国友近くにある月ヶ瀬城の攻略中だった。
「山本山城主の阿閉貞征がこちらに寝返っとる。あのような城、日暮れ前には落ちやぁす」
苗字を木下から羽柴に替えた秀吉が現れてそう言った。浅井家の家臣たちを調略したのは秀吉だ。
「朝倉の援軍は?」
「早、越前を出た由。明日・明後日には現れやぁす。…にしても、いつ見ても左近殿の軍勢は装備がええですなぁ」
一益は蔵入りの大半を鉄砲に費やしている。秀吉はざっと見渡して鉄砲隊の多さに驚いたようだ。
新介や藤九郎が何しにきたという怪訝な顔をして秀吉を見る。二人は秀吉の尾張弁が苦手だ。
「何じゃ、禿ねずみ。何用で参った?」
一益がそう言うと、秀吉は満面笑みを浮かべ、
「左近殿に弟の小一郎のことでご相談がありゃぁす」
「弟?そちの弟のことか」
「左近殿の姫、葉月殿を小一郎の嫁にいただきてゃあというご相談で」
と言い出したので、新介も藤九郎も仰天した。一益は一喝しようかと思ったが、秀吉は 信長のお気に入り武将だ。
「葉月はまだ赤子じゃが」
冷ややかにそう言うと、
「それは無論、知っとりまする。それゆえ、今すぐとではにゃあて、他家との縁談が決まるみゃあに、行く行くというお約束をいただきてゃあて」
あり得ないとは思ったが、最近の秀吉は勢いがあり、その頭角を現しつつある。配下に加えた家来の力かもしれないが、戦さ上手という評判でもあるから無下には扱えない。
「考えておく」
と短く返事をした。
その日の夕刻、月ヶ瀬城が落城し、翌日には豪雨の中、朝倉勢が籠る大嶽城と丁野山城を落とした。
夜になり、雨が上がったころ、信長本陣から伝令がきた。
「朝倉勢が撤退を始めたら追撃せよとの仰せじゃ」
「では皆々準備を…」
と義太夫が幔幕の外へ出ようとしたとき、
「殿、右の山の手より、不審な狼煙があがりましてござりまする」
佐治新介が現れてそう告げた。義太夫がエッと驚き、
「右の山の手…敵のいる方角ではありませぬな。あちらには蒲生勢が…」
杉浦衆が誰かに忠三郎の居場所を教えているのだろう。
「やはり来たか。彦一郎、義太夫」
彦一郎が頷いて姿を消し、義太夫が立ち上がった。
夜になり、月が眩しいほどに輝いている。唐の国では中秋節と呼ばれる。一年のうちでも最も美しいとされている中秋の月を見る月見の宴が開かれるようになったのは平安のころからという。
『月には仙女が住んでいて、兎たちに薬を作らせておる』
そして心優しい仙女は、地上の民が流行り病に苦しむと深く心を痛め、兎に命じて薬を届けてくれるのだと、そう教えられた。
『仙女?』
『母上のような、美しく心根の優しい貴人じゃ』
(母上のような…あの時、確かにそう言った。ということは、教えてくれたのは重丸か)
忠三郎は帷幕の中で一人、月を見上げて幼き日を思い出していた。
幼い頃の記憶はわずかしかない。小柄で温和な母。そして重丸…。争った覚えは一度もない。
(それが今になって、何故、付け狙うてくるのか…)
百済寺焼き討ち以来、重丸の足取りがつかめていない。
滝川助太郎が何か知っているようにも見えたが、問いただしたところで白を切るのはわかっていた。
「若殿。なにやら狼煙が上がった場所にこの者がおり、若殿に会わせよと…」
町野長門守が見るからに怪しげな僧侶らしき男を連れて幕内に入ってきた。僧侶が近づくと、滝川助太郎が瞬時に忠三郎と僧侶の間に入る。
忠三郎はもしやと思い、床几から立ち上がった。
「わしが蒲生忠三郎じゃ。そなたは?」
僧侶は忠三郎を見ると、顔をあげ、
「重丸様の使いの者でござりまする」
と言ったので、忠三郎は躍り上がらんばかりに喜んだ。
「重丸は生きておるのじゃな」
「百済寺から逃れ、この先の寺に身を隠していたところ、流行り病にかかり明日をも知れぬお命。忠三郎様に一目会い、今生の別れを告げたいと仰せにござりまする」
「それはまことか…。この先の寺とは?」
忠三郎が僧侶に問いかけると、滝川助太郎と町野長門守が慌てて止めた。
「明らかに罠でござりましょう。忠三郎様、罠とお分かりになっていながら、何故にわざわざ命を捨てに行かれるので?」
「止めるな、助太郎。重丸に会いたいのじゃ。会って話をしたい」
忠三郎が強引に行こうとするのを、二人が必死に遮る。
「若殿!話ならそれがしが代わりに!どうかお留まりを!」
「では長門、そちも共に参れ」
「いいえ。みすみす罠と分かっている場所へ行かせたなどと、殿に申し開きができませぬ。どうあっても行くと仰せであれば、まず、この助太郎を斬ってから、お行きなされ」
三人がもみ合っていると、僧侶がいきなり立ち上がり、助太郎と長門守の後頭部を殴りつけた。
二人が音をたてて倒れる。
「ぬしは、甲賀の者か」
忠三郎は驚いて言葉を失う。僧侶は平然として、顔色一つ変えていない。手際が良すぎる。慣れた様子からも、ただの僧侶とは思えない。
「ご家中の者に気づかれる前に、早う参りましょう」
僧侶に冷ややかに促され、忠三郎は頷いた。
僧侶の後に続いて草深い山道を歩いていく。
(この暗がりの中を月明かりだけで、こうも早く歩けるとは)
やはりこの僧侶は甲賀の素破に違いない。
夜目の効かない忠三郎は、おぼつかない足取りで僧侶の後を追う。やがて開けたところに出た。
見ると大木の根元に小さな祠がある。僧侶はそこで足を止めた。
「寺ではなかったのか」
忠三郎が笑って言うと、僧侶は振り返り、
「寺などないと、最初からお分かりでは」
言い終わらないうちに持っていた杖を構えた。
(仕込み杖か)
仕込み杖とは刀を杖に見立てたもの。噂に聞いたことはあったが実物を見るのは初めてだった。
物陰からは待っていたかのように重丸が現れる。
見ると、足を引き摺って刀を杖代わりにしている。
「重丸…その足は?」
忠三郎が問うと、重丸が嘲笑う。
「白々しい。全て己にやられたのじゃ!」
周りの木々から次々に不審な素破と思しき一団が姿を現す。
「違う!わしは…」
「黙れ!手も足もまともに動かなくなり、お爺様にまで見捨てられ…」
重丸が口惜しそうに唇を噛む。
「全て忘れて静かに暮らそうとしても、なお己に邪魔され…」
百済寺のことだとわかった。
「わしは何も…何もしては…」
「わしはただでは死なん。己は神も仏も恐れず、平然と寺社を焼き払う鬼畜。信長に捕らえられる前に、刺し違える!」
激しく憤る重丸に、忠三郎は戸惑いながら、
「待て、わしの話を聞け。わしは何もしておらぬ」
「蒲生勢が百済寺を焼き払うのをこの目でしかと見ておるわ」
「それは…」
重丸に会ったら言いたいと思っていたことがあった。
(童の頃の約束を忘れたか。共に国を守る約束をしたではないか)
しかし百済寺焼き討ちのことを言われ、何も言えなくなってしまった。
重丸は怒りに燃えた目で忠三郎を睨んで刀を抜く。それを合図に素破達が刀をかまえる。
忠三郎も身の危険を感じて刀を抜いた。そのとき、忠三郎の真横にいた素破が虚空を掴んで仰け反った。
木全彦一郎だ。
彦一郎は、返す刀でその横の素破を切り伏せる。気づいた素破たちが彦一郎に襲いかかる。
呆気にとられていると、重丸が刀を振りかざした。忠三郎が向き直り、刀をかまえたとき、山間に銃声が響いた。
「重丸!」
重丸が音を立ててその場に倒れた。
慌てて駆け寄ると、心の臓を撃ち抜かれ、既に事切れている。火縄銃なら煙がたなびいている筈と思い、辺りを見回すが、分からない。
どこから撃ったかも分からない程、遠くから撃ったのだろう。
忠三郎はあまりの事にヘタヘタとその場にへたりこんだ。
「鶴!無事か!」
義太夫と助九郎が手勢を連れて現れた。
「これは…重丸か」
義太夫が忠三郎の傍に横たわる重丸を見て問うと、忠三郎が目を真っ赤にして力なく頷いた。
「童の頃…二人で共に国を守る約束をしたと、言えなかった…」
忠三郎が肩を震わせて、重丸の手を取る。
「鶴、しっかりいたせ」
「重丸がいると分かっていて、百済寺に火を放った」
「それは…」
信長からの恩義を忘れて、六角勢に兵糧を調達していた百済寺が悪いのではないか、義太夫はそう思っている。
そもそも延暦寺が焼き討ちされていることを思えば、当然、逆らえば焼き払われることは覚悟の上で、あえて歯向かってきたのではないか。
「このようなことができるのは…一人しかおらぬ…」
月明かりで遠くから命中させられるのは、一益しかいないと、そう言っているのだろう。
「鶴、それはのう…」
義太夫が何と言ってなだめようかと考えていると
「何故に…何故に義兄上はこのようなことを…」
忠三郎が責めるように言うと、義太夫は少し醒めた様子で、
「おぬしはそうやって殿を恨むか」
「重丸のことは、わしが始末をつけると言うたはずじゃ!」
「守る価値もなき奴…殿は上様の前でおぬしを庇い、粉骨砕身の思いで守ってきた。そんなことも分からず、今宵もフラフラと誘い出され、自ら危うい目に遭うて助けられた挙句にそれでは、殿がよくとも、わしらが阿呆らしゅうなるわ」
義太夫が呆れたように言うと、忠三郎は黙り込んで重丸の亡骸を見つめる。
「されど…殿は、鶴はそれでよいと、そう仰せじゃ」
義太夫が声色を変えて言うと、忠三郎が怪訝な顔をして見上げる。
「それでよいとは?」
「今のまま、分別のないままでよいと」
なおも分からず、義太夫の顔を見る。
「殿はのう、鶴は常日頃から大人びた物の考えをすると案じておられた。それがこと身内のこととなると、童に戻る。言うても言うても伝わらぬ。じゃが、鶴はそれでよい。年若い時には年若い時の振る舞いがある。若さに任せた無謀な行いがあってこそ、長じてから振り返って分かるようになる。年不相応に思慮深い者は、長じてから疲れ果てた老人のようになると、そう仰せじゃった」
「義兄上がそのように…」
常日頃から何を考えているのかよく分からない一益が、そんなことを思っていたのだと、初めて知った。
「重丸の亡骸は我が家のものに命じて信楽院に運ばせようほどに」
義太夫が忠三郎を促す。
「そろそろ戻らねば…おぬしは一軍の将ではないか」
忠三郎が涙を拭って立ち上がった。
忠三郎と義太夫が自陣に戻ると、既に軍勢が移動したあとで、誰も残っていない。
「我ら滝川勢は先陣を仰せつかっていた…どうやら朝倉勢が動いたために、追っていったようじゃ」
忠三郎が驚き、
「我らも先陣を仰せつかっておる…されど大将を置いていくとは…」
朝倉勢が退却を始めたので、先に戻った一益が滝川勢と蒲生勢を率いて追撃に向かったのだろう。
「急いで合流せねば。わしは兎も角、鶴がおらぬと知れると拙いことになろう」
二人は慌てて、後を追ったが、いくら馬を走らせても追いつけない。ようやく木之本の地蔵山で追いついた。一益は二人の顔を見ると
「やっと参ったか」
「朝倉勢の追撃は…」
「上様に先を越され、秀重、忠右衛門が追撃に加わった。蒲生勢からは町野左近が兵を率いて追っていったが、上様は大変お怒りじゃ」
よりにもよって信長に先陣を越されるとは。
「それは…上様の元へお詫びに向かわねば…」
忠三郎が青くなって行こうとすると、一益が留める。
「待て、先陣を命じられていたは、我らだけではない。柴田、丹羽、羽柴らの重臣あわせ二十名ほど。皆、上様に遅れをとり、厳しくお叱りを受けたため、皆で詫びを入れ、今戻ったところじゃ」
「皆で詫びに…では、上様はわしがおらなんだことにお気づきでは…」
「わからぬが、常のそなたを存じておれば、誰も不思議には思うまい。それよりも、そなたは町野左近に追いつき、朝倉勢の追撃に加わったほうがよい。朝倉勢は刀根山から敦賀へ向かって退却しておる」
「心得た!」
忠三郎が頷いて馬に乗り、走り去る。
「殿。重丸の亡骸は信楽院に送りました」
一益は騎乗しようとして、チラリと義太夫を見た。
「重丸を仕留めたか」
義太夫はエッと驚き、
「あれは殿が…撃ったものかと…」
「どこを撃たれていた?」
「心の臓を一発。即死でござりました」
一益が思案顔になった。
「わしならば…生かして捕える」
「なるほど。殿も人の子でござりますな。鶴があれほどに思うておるゆえ、生かして捕えると」
義太夫が感心したように言うと、一益は冷笑した。
「そうではない。上様を撃ったものを突きとめねばならぬ。帰するところ…」
同じことを考えた者が、重丸を撃ったのだろう。
「口封じだと?」
「であろう。江北が片付けば、いよいよ逃げ場を失う。早う杉谷衆を捕えねば、他の者に先を越される」
「しかし捕えるといいましても、どこを探せばよいのやら…」
「蒲生快幹じゃ。快幹を見張れ」
「ハハッ」
織田勢は敦賀まで追撃を続け、朝倉義景のこもる一乗谷城を落とした。そして北江へ戻り、浅井久政・長政親子が籠る小谷城を陥落させた。ここに北近江および越前が織田家の支配下に置かれることになった。
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