滝川家の人びと

卯花月影

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2 不浄の子

2-3 魔虫谷

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 南伊勢大河内城には伊勢の国司北畠具教が籠っている。一益は近隣の城を落とそうと、大河内城近くにある阿坂城を攻撃したが、なかなか落とすことができなかった。
そこで方針を変え、北畠具教の弟、木造具政を調略することにした。これがようやく成功し、木造城を織田方に引き入れた。これにより五月から北畠との本格的な戦闘が始まった。
再三の一益の要請に応じて信長が七万の大軍を率いて伊勢に出陣してきたのは永禄十二年八月。
信長は丹羽長秀、稲葉良通、池田恒興、木下秀吉などの主だった重臣たちを連れて行軍してきた。
「さすが、滝川殿の軍勢は鉄砲隊が多いのう」
 響くような甲高い声が聞こえた。
 声のほうを見ると、小さな体に不釣り合いな甲冑を身に着けた武将が歩いてきた。最近、信長の覚えめでたいという噂の木下藤吉郎だ。
「さてはて、滝川殿はこの戦で手柄をたてた暁にはいよいよ織田家の姫を娶ろうとされておるのう」
 なんのことだという目で振り向くと、秀吉がカハハと笑いながら近づいてきた。
「これはこれは左近殿じゃ」
 声の大きさに、義太夫も佐治新介も秀吉を見る。
「お犬様もお市様もすでに嫁がれ、左近殿はどなたを狙うておられるのやら」
 好色だという噂の秀吉らしいなと思いながら、いちいち相手にするのも面倒になり、その場を去ろうとすると
「お犬様に付文までされた左近どのゆえ」
 と言ったので、足が止まった。
(付文?)
 覚えがない。なぜ、そんな風聞が立ったのか。少し考え、以前に義太夫が木全彦一郎に書かせた恋文の一件を思い出した。
(あれをお犬殿に渡していたのか・・)
 ジロリと義太夫を睨むと、義太夫がいかにも不味という顔をして目を反らせた。
 一益がなおも相手にせずにいると、このよく喋る男は調子に乗り、
「じゃが、風花様はやめておきなされ。呪われた姫という噂じゃ」
 声をおとしてそう言った。
(かような下賤な者に・・)
 怒りで言葉を発しそうになった、その時、
「藤吉郎、控えよ。左近殿に無礼である」
 静かに諭す声がした。
 蒲生鶴千代だった。鶴千代は一益と秀吉の間に割って入ってきて
「そなたのような下賤な者が、御大将の御身内の話をするものではない」
 見下すようにそう言ったので、秀吉は縮こまり、
「これは御大将の娘婿の忠三郎様。大変ご無礼致しました」
 と言って、逃げるように去っていった。
 鶴千代は五月に元服して忠三郎と名乗っている。
「あの下郎は義兄上を怒らせようとしておる」
 笑いながらそう言った。
「わしを怒らせる?何故に・・」
「下郎は戦場で手柄を立てたことがないという話ゆえ、この戦で手柄を立てて帰りたいと思うておるようにて・・この後の軍議で分かるかと」
 嫌な空気だなと思いながら信長本陣に向かった。
 軍議が始まるなり秀吉が、
「まずは阿坂城を落とすことが先決でござろう」
 と口を開いた。
(いちいち嫌な奴だ・・)
 阿坂城は一益が何度となく攻めて落とせなかった城だ。
「左近殿が落とせなかった城。そう易々と落とせるとは思えぬが・・」
 一益のいとこ、池田勝三郎がそういう。秀吉は笑って
「いやいや。御大将自らが出陣なされておいでじゃ。敵も震え上がっておりましょう」
 だんだん腹がたってきたが、忠三郎の言ったことが頭にあった。
「では、そのほうが攻め落とせ」
 信長がそう言うと、その言葉を待っていたかのように秀吉が大きく頷いた。
「ハッ。必ずやこの城を落としてみせましょう」
 下郎ごときにあの城が落とせるはずがない・・そう思いながら信長本陣を後にした。

 翌朝早く、秀吉が先陣を切って城に攻めかかった。一益がそれを遠目で見ていると、蒲生忠三郎が現れた。
忠三郎は父の賢秀とともに、一益の本陣の隣に布陣している。忠三郎は家臣の町野左近を連れて度々姿を現した。
「おお。鶴。おことの力でこの城を落としてくれ。この戦に伊勢の命運がかかっておる」
 義太夫に言われて、忠三郎はいつもの笑顔で頷いた。
「鶴。初陣じゃな」
「いかにも」
 その顔には焦りも気負いもみられない。
「義兄上、ご安じめさるな。この戦で一番手柄を立てるのは猿ではない」
「では・・誰じゃと申す?」
「それは無論、この蒲生忠三郎。この戦さで我が名を天下に轟かせてみせましょう」
 ぬけぬけとそう言って笑った。
 それもそうだろう。南伊勢の戦が落ち着いたところで、美濃の秀吉や近江の忠三郎にはなんの益にもならない。 誰も彼も、自分が手柄を立てることしか考えていないのか・・。一益は白々とした気分になる。
「殿。木下が手傷を負ったとの知らせが・・」
 佐治新介がどこからか聞きつけてきてそう告げた。
「やはりあの城を落とすは容易なことではありますまい」
 城方に弓の名手がいて、秀吉に狙いを定めてきたらしい。
「致し方ない・・。木造兵庫頭に合図して城門を開けさせい」
 阿坂城を守る将の一人、木造兵庫頭に何度も使者を出し、命と引き換えに寝返りを促している。
 佐治新介が短く返事をして去っていった。
 まもなく狼煙が上がり、それを合図に城門が開かれた。
 秀吉の軍勢が城内に攻め入り、城がおちたのはその日の夕刻。
 一益はそのまま佐治新介を阿坂城に入れ、信長本隊と共に北畠の本城、大河内城へ兵を勧めた。
 難攻不落と言われた大河内城が建てられたのは南北朝時代というから、かれこれもう百年はたつ。城山の東と北は川、西と南は深い谷があり、これを落とすとなると相当な犠牲を覚悟しなければならない。
「これは大層な要害で。余程の策を講じなければ力攻めは難しいのでは?」
 義太夫も新介も気乗りしないようだ。
「今を置いてこの城を落とす機会は訪れまい。なんとしても落とす必要があるが…」
 時をかけて兵糧攻めしかないかもしれない。そんな考えが浮かぶ中、諸将が集められて再び軍議となった。そのころにはもう、誰の頭に何があるのか、だいたい想像がついた。
 一益は北伊勢攻略で抜群の手柄を立てている。織田家にはそのことをよく思っていないものも少なくない。
 丹羽万千代改め五郎左衛門長秀が、大河内城の夜討ちを主張した。これも一益ばかりに手柄をたてられてなるものか・・という焦りから出たものであることはすぐに分かった。
 いい加減、うんざりしていた一益は、ついに口を開いた。
「あのような堅固な城を相手に夜討ちとは、戦のイロハも分からぬ戯言じゃ」
と、にべもない態度をとった。丹羽五郎左衛門はもちろん、その場にいた諸将は激しく反発した。
「少しの手柄を誇って何たる傲慢な態度」
「あのような堅固な城だからこそ、敵の裏をかいて夜討ちを仕掛けようという五郎左の意見こそ尤もじゃ。明るいうちでは矢玉の的になるだけではないか」
 掴みかからんばかりに怒る部将たちの顔を見ながら、一益は軍議が面倒になった。
「皆、まことに小さき者ども。あの城をよう見て、冷静になれ。己の手柄のことばかり考えておるゆえに、目の前の城がいかに危うい城か、わからぬのじゃ」
 すっかり興ざめして、つい余計なことを口走ってしまった。
「なんじゃと!無礼な!」
 と数名が床几から立ち上がったところで
「黙れ!」
 信長が雷のような声で一喝した。部将たちは色を失い、辺りは静まり返った。
「ならば、五郎左、右京亮、勝三郎の三名で城を攻めてみよ」
 丹羽長秀、稲葉良通、池田恒興の三人で夜討ちをかけることに決まり、軍議はいとも簡単に終わってしまった。
 信長の出した結論が満足のいくものでなかっただけに、一益は何も言わずに退席した。
「義兄上!本陣での軍議は如何でござった?」
 忠三郎がうきうきとした様子で聞いてきた。義太夫がクスリと笑う。忠三郎が大真面目に一益を義兄と呼ぶのがおかしいのだろう。一益は義太夫をジロリと睨み、
「今宵、西に布陣している丹羽、稲葉、池田の三名で夜討ちをかけることに決まった」
 夜討ちと聞いて、忠三郎は空を見上げる。
「今にも雨が降りそうじゃが・・。鉄砲が使えぬのでは・・」
 先ほどから気になっていたことなのだ。昨日までの晴天が一転して、にわかに雲が広がっている。
 もともと夜討ちは寄せ手に不利だ。これで雨など降ったら、味方は更に不利な状況になる。
「あやつらは槍遊びがしたいのじゃろう」
 信長の主力部隊がいなければ、城を落とすことはできない。だが、伊勢攻略をここまで進めてきたのは一益なのだ。これ以上、他の部将たちに手柄を横取りされるのにも嫌気がさしていた。信長から夜討ちの話を出されたときに全く反対しなかったのも、そんなことを考えたからだった。
 その夜は激しい雨が降った。月が隠れ、草木が雨に濡れ、足元がぬかるんでいた。
「あの辺りが西の搦手口か」
 丹羽五郎左衛門は林の中から城のある方角を見て言った。豪雨で雨も林も空もハッキリと識別することができない。
「五郎左様。この雨の中、本当に夜討ちをなさるので?」
 従者が恐る恐る聞いた。五郎左は笑って従者を振り向いた。
「無論のことよ。これしきの雨で兵を引いたとあってはこの丹羽五郎左の名がすたる。それにのう、この雨音で我らが城に近づく物音が消される。今がまさに好機じゃ」
 雨は容赦なく寄せ手の兵に振り続けた。城に押し寄せた丹羽五郎左の兵は搦手に殺到した。
「よし!敵は浮足だっておるぞ。未だ!攻めかかれ!」
 敵方はまさかこの雨の中、夜襲をかけてくるとは思わなかったろう。五郎左にはまさに好機に見えた。ところが、
「五郎左様!背後に敵が・・」
「何、敵?馬鹿な・・」
 そんなはずはない、と一喝しようとして後ろを振り向いた。その時、固く閉じられていた門が一斉に開いた。
「しまった!袋の鼠じゃ!早く引き上げを・」
 言い終わらないうちに、北畠の兵が開いた門からどっと出てきた。
「全軍撤退じゃ!皆逃げろ!」
 前と後ろ、両方から攻め立てられて、丹羽五郎左の軍は大混乱に陥った。いや、五郎左だけではない。ともに出陣してきた池田・稲葉の両軍も蜂の巣を突いたような混乱に陥っている。
 織田方の動きは城方にはどうやら筒抜けらしい。おまけにこの雨で敵に囲まれていることに全く気付かなかったのだ。
 こんなところで死んではそれこそ物笑いの種になってしまう。そう悟ると、五郎左も馬の首を返して、単身敵の押し寄せている後方に突進した。敵中突破すれば信長の本陣に出ることができる。
 皮肉なことに、夜が明けてきた頃から雨は徐々に晴れて、丹羽・稲葉・池田の三将が命からがら退却してくる様子が、信長の陣からとてもよく見えた。
「五郎左めが、とんだ失態を!」
 信長は持っていた軍配を投げつけた。
「左近を呼べ!」
 打ち破られて引き下がる信長ではない。次の手を打つため、滝川一益を呼びに行かせる。
「御大将。お呼びにござりまするか」
「左近、見たか?」
「ハッ。夜討ちは失敗したよしにて・・」
「そちならばどう攻める?」
「されば、大河内城の西にある魔虫谷から城へ攻め上りまする」
 比較的手薄と思われる城の西側の魔虫谷から登って城壁を越えれば本丸に入り、突破口が開ける。
「やってみる価値はあるとはいえ、厳しい戦闘が予想されまする。大河内は堅固な城にて、力攻めは難しいと思われた場合に備える必要もあるかと」
「ではどうしろと申すか」
「兵糧攻めでござる」
 近隣の村や城を焼き払い、人々を大河内城へと集め、城内の食料が尽きるのを待つ。大河内には大勢の兵が籠城している。思うように人が逃げ込んでくれれば、食料が完全に尽きるまで一か月かからないと、一益は見ている。
 まもなく戦局を打開するため、兵糧攻めの案が通った。一益は付近の村や町に一斉に軍勢を差し向けた。特に北畠具教が大河内城に移る前まで居城としていた霧山城の周辺は伊勢街道に面した交通の要所であり、城下には多気御所と呼ばれる国司館、そして三千を超える屋敷が立ち並んでいた。
 それら全てに火を放ち、収穫期を迎えた畑の刈田により兵糧を確保した。これらの乱暴・狼藉に驚いた忠三郎は、意気揚々と本陣に戻って来た義太夫を掴まえた。
「義太夫、足軽どもが付近の村々から馬や女子を捕え、火を放っているというではないか。何故、咎めぬのじゃ」
 これらの略奪行為を乱取りという。足軽たちのほとんどは乱取り目的で戦さに参加している。咎めだてしてしまえば、兵は集まらなくなる。
 忠三郎になんと説明しようかと義太夫が考えていると、傍で聞いていた佐治新介がつかつかと歩み寄る。
「鶴殿、戦さに飯はつきもの。これほどの軍勢で他国に攻め入ったのじゃ。苅田せねば、我らは皆、飢えてしまう。同じく、足軽どもは敵兵などは目に入らぬ。それよりも、ここでしっかり金目の物を奪って帰らねば、あやつらも長き冬を越すことなどはできぬ。かようなことは日の本中で…上杉も武田もしておること。六角も同じではないか」
「何、では我が軍勢でも…」
 新介は当たり前という顔をして忠三郎を見る。
「おぬしのところの傅役は何も教えてはくれぬのか。まぁ、無理もない。鳳雛様にはきれいごとしか教えられぬのであろう。されど戦さはきれいごとでは済まされぬ。皆、明日を生きるために必死になっておるのじゃ」
 新介は馬鹿にしたようにそう言うと、踵を返して行ってしまった。義太夫は苦笑いして、
「ちと説明に難があるが、あらかた新介の言う通りじゃ。これがあるから自領が戦さ場になるのを皆、恐れる。いかに戦さに勝ったとしても、作物が失われ、民草が根こそぎ連れ去られては残された者は飢えるばかりで、国は立ち行かなくなる。それが戦さというものよ」
 義太夫は、華々しい武者働きばかりが戦ではないのだと、そう言いたいのだろう。
「では…もしや、此度の戦さが収穫期直後だったのは…」
「気づいたか。然様、織田の御大将も、殿も、そのつもりがあるからこそ、この時期を狙ったのじゃ。その上、村の者が恐れて大河内城に逃げ込んだであろう。これも殿の狙い通り。兵糧攻めの手筈とはかようなもの」
 乱暴・狼藉は敵を城に追い立てるための必要悪。略奪行為前提の出兵と言われて、忠三郎は返す言葉もない。
 義太夫の言う通り、付近の里人たちは皆、大河内城に逃げ込んだので、兵糧が尽きるのも時間の問題と思われた。ところが、二重三重に包囲しているにも関わらず、一か月たっても城内の様子は変わらなかった。
 痺れを切らした信長は、魔虫谷からの攻撃命令を下した。
 一益が信長本陣から戻ると、蒲生忠三郎が待っていた。
「義兄上。いよいよご出陣でござりますな」
 意気揚々と忠三郎が言う。
「蒲生勢には出陣命令が下りてはおらぬ」
 冷たくそう言われ、忠三郎が食い下がる。
「それがしはここまで来て、日々城を眺めているばかり。一度も敵と対峙したことがありませぬ」
 意気盛んな忠三郎に、義太夫がまぁまぁと宥める。
「初陣など、そうしたもの。傍にいる家臣どもが気を利かせて敵の首をとってきたら、それを手柄にするものよ。これからいくらでも敵と相まみえる時もこよう程に、此度は我らにまかせて…」
 と言い終わらない内に、忠三郎が目をむいて怒り始めた。
「余人はいざ知らず、この蒲生忠三郎は家臣の手柄を横取りするような小さき器ではない!」
 義太夫の余計な一言が、火に油を注いだらしい。
「魔虫谷から上るのじゃ。ここで待っておれ。城内に入ったら狼煙を挙げるゆえ、総攻撃となるであろう。義太夫」
「ハッ」
「明日の早朝に出陣じゃ。皆に触れ回れ」
 義太夫が心得て去っていく。忠三郎はもの言いたげに一益を見ている。
「鶴。軍規違反は厳しく罰せられる。妙な真似をするでないぞ」
 忠三郎に厳しく釘をさした。
 この少年は毎晩、高いびきで誰よりも早く寝入っているらしい。戦場で和歌を詠んだり笛を吹いたり、そののどかな態度は理解に苦しむが、やはり早く敵とまみえたいと思っているのだろう。
(あれを鳳凰にせよとは・・)
 などと考えていると、白々と夜が明けてきた。
「よし、討って出る!滝川助太郎、法螺を鳴らせ!」
 幕屋の外に声をかけると、短い返事がして法螺貝の音が山々に響き渡った。
「殿!」
 義太夫が幔幕に入ってきた。
「参るぞ、義太夫。全軍に通達せよ」
「かしこまってござりまする」
 先日の丹羽五郎左の失敗もある。同じ失敗をするわけにはいかない。信長をはじめ、織田家の部将たちが固唾をのんで見守っているのだ。
「者共、かかれ!」
 一益が軍配を振り下ろすと、滝川勢が怒涛のように魔虫谷に突進した。その先頭を、一人さっそうと馬を走らせていく武者がいる。
「あれは・・」
 誰だろうかとみていると、向い鶴の旗指物を差した兵が慌てて追いかけていくのが見える。
「義太夫、あれは蒲生勢ではないか?」
「まことにあの旗は・・。蒲生勢でござりますな。では、先ほど走っていったは・・」
 義太夫が兵の一人に追いついて声をかけ、戻ってきた。
「あれは鶴でござります。鶴が一人で勝手に飛び出したため、蒲生家中の者が顔色変えて追いかけておりまする」
 まさかとは思っていたが、やはり飛び出していった。一益は深く嘆息し、
「義太夫、何人か連れて鶴を探して連れ戻れ」
「ハッ」
 義太夫が慌てて馬の首を返す。その姿を見ながら一益は舌打ちした。忠三郎を死なせたとあったら信長は烈火のごとく怒るだろう。
 山間に激しい銃声が響いている。城方からも撃ちかけられているようだ。次々に寄せ手の兵が倒れていくのが見える。
「義太夫も鶴も戻らぬな・・」
 味方の損害が多い。兵を引きたいが、二人が戻らないうちはそれができない。やがて谷を埋め尽くすほどに人馬の躯が重なり、山の背に日が沈みだした。
 山々が夕日に照らされるときになっても、二人は戻らなかった。
「滝川殿!」
 血相変えて馬を走らせてきたのは、忠三郎の傍にいたはずの蒲生家の老臣・種村伝左衛門だ。
「鶴は如何いたした?」
「は、それが、我ら、若のお側につけられており申したが、乱戦の中でお姿を見失い・」
「何?で、鶴は?」
 と、問うと、
「見つかりませぬ・・」
「未だ敵陣におるのか!」
 一益が怒鳴った。
「もう待てぬ。全軍引き上げさせる」
「それでは若が・・」
 種村伝左衛門が真っ青になった。
「日が落ちる。これ以上続けては全滅じゃ。問答する暇はない。そちも鶴を探せ!」
「はっ!」
 すでに蒲生勢は総崩れとなっていたが、一益は撤退命令を出した。
 夜になり、兵があらかた引き上げてきた後になっても、二人は戻ってこなかった。
(鶴はともかく・・義太夫に限って逃げ遅れるなどということはない筈・・)
 暗くなり、道迷いを避けてどこかに身を隠しているだろうとは思ったが、気が気ではない。
 眠れぬ夜を過ごした翌朝、一益は重い足取りで信長の本陣に赴いた。
「敵の抵抗激しく、これ以上攻めるは困難かと」
一益がそう言うと、信長はイライラと床几から立ち上がった。
「蒲生勢は何故攻めかかったのじゃ」
「それは・・。恐らくは忠三郎が初陣で、待ちきれずに飛び出したためかと・・」
「で?鶴は?」
「探させておりますゆえ、直に戻りましょう」
 信長の額に青筋が浮かんでくるのが見える。
 一益はそれには動ぜず、
「ここは兵糧攻めで時を待つしかござりますまい」
 といった時、幕外から声が聞こえてきた。
「蒲生忠三郎様、滝川義太夫様、無事ご帰陣にござります」
 皆がハッと顔を挙げる。一益もホッと安堵した。まもなく、敵の首を二つ持った忠三郎、続いて義太夫が入ってきた。
「蒲生忠三郎、只今戻りました」
 嬉しそうにそう言う忠三郎に、
「鶴!おのれはわしの命に背き、一騎駆けの武者のような真似をしおった。一軍の将にあるまじき行いじゃ!」
 信長の甲高い声が響きわたったので、一同は震え上がった。
「面目次第もございりませぬ」
 忠三郎と義太夫が平服する。一益は一人、おや・・と首を傾げた。信長の声色はさほど怒っていない。
 案の定、信長は
「したが初陣にして目覚ましい働き、天晴である。打ち鮑をつかわす」
 と近侍に手を振った。
 どんな雷が落ちるかと肝を冷やしていた並みいる者たちはホッと胸をなでおろした。
(やはり上様は鶴には甘い・・)
 忠三郎に限らず、信長は子飼いの家来に特別甘い。
 二人がありがたく褒美を受け取り、幔幕を去ったのち、一益が再び口を開いた。
「兵糧が尽きた頃合いを見計らい、北畠と和議を結びまする。戦わずして人の兵を屈するは善の善なりと申します。もはやこれ以上、戦さを続けることは我が軍にとっても、北畠にとっても上策とは思えませぬ。上様の次男・茶筅丸様を北畠の養子とすることで、南伊勢を織田家の支配下とすることが望ましいかと」
 以前から考えていたことだ。戦闘が長引くようであれば、信長の一子を伊勢に置いて戦乱を収める。
 今度は茶筅か、と信長は苦笑し、
「左近。わしが子は童だけになるが、この先はないか?」
 随分信長の親族を使ってしまったと気づいたが、平然と答えた。
「はい。これにより伊勢が平定されまする」
「よかろう、許す。その方が後見となり、茶筅を盛り立ててくれ」
「ハハッ」
 一益の作戦は当たり、一か月後に大河内城は兵糧が尽き、城方が和議を申し込んできた。
 信長は、大河内城を一益に任せて全軍を引き上げていった。
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