滝川家の人びと

卯花月影

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2 不浄の子

2-1 鸑鷟《がくさく》舞い降りる

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 南近江、六角氏の居城である観音寺城が落ち、十七の支城が次々と開城する中、最後まで抵抗を続けている城が一つだけある。
 日野谷、蒲生氏の立てこもる中野城だ。信長は観音寺城に本陣を置き、諸将を集めて軍議を開いた。
「左近、存念を述べよ」
「はっ。たかが小豪族の小城なれど、恐れながらあの城には相当数の鉄砲隊がおります。蒲生の戦力は主家六角を凌ぐとも言われ、伊勢の諸家でも恐れられており、力攻めすれば味方の被害は甚大かと」
 蒲生家の当主は賢秀だが、実権は父の快幹が握っている。戦国乱世をしたたかに生き延びてきた梟雄だ。
 信長はフムと頷いた。そこへ蒲生氏の縁戚にあたる伊勢の神戸蔵人が
「しばしお待ちくだされ!蒲生は名家。家を滅ぼすは本意ではないはず。降伏を促しては如何でござりましょう」
「降伏の条件は?」
 本領安堵しなければ快幹は納得しないだろう。
「では、これまでのように家を存続させる条件として織田家のどなたかを養子として蒲生の家を継がせまするか」
 丹羽長秀がそう尋ねる。北伊勢攻略で一益が使ってきた調略をここでもやれというのだ。
 神戸蔵人が、いや、と言う。
「隠居の快幹殿は一筋縄ではいかぬお方。まして蒲生の世継ぎは神童とも鸑鷟(がくさく)とも言われている程の聡明な御仁でござります。他家の者に跡を継がせるなど、考えも及ばぬことにて・・」
「がくさく?」
 居並ぶ家臣たちが顔を見合わせる。
 鸑鷟は中国最古の地理書「山海経」で紹介されている。3歳を超えると鳳凰になると言われる紫色の羽をもつ幻の鳥のことだ。
「それは当主の左兵衛大夫がことか?」
 そんな評判は聞いたことがない。
「いえ。左兵衛大夫の一子、鶴千代殿でござります」
 信長はフンと鼻先で笑い、
「年は?」
「齢十三」
 祖父快幹の大言壮語だろうと思われた。
「当主の左兵衛大夫は臆病者という評判。それを埋め合わせるための大ぼらでござりましょう」
 柴田勝家がそう言うと、居並ぶものは皆、笑った。信長は一人、小馬鹿にしたような顔で話を聞いていたが、
「面白いではないか。蔵人、その唐の国の妖魔をわしの前に連れてまいれ」
 神戸蔵人がエッと驚いた顔をする。
「小童が評判通りであれば本領安堵する。大ぼらであれば蒲生もそれまでじゃ。左近」
「ハッ」
「そちも蔵人とともに、小童を連れに日野へ行け」
「ハハッ」
 と返事をしたが、蒲生快幹が簡単に孫を渡してくるだろうか。嫌な役目だなと思って見ると、神戸蔵人は青ざめた顔をして下を向いている。
(・・であろうな・・)
 相手が悪い。龍神が住むという沼に自ら潜り、龍神を探して泳ぐような信長相手に、言い伝えだの祟りだのという話は通用しない。よりによって信長の前で何という話をしたのか・と後悔しているようだ。
「さ、神戸殿、参ろうか」
 一益はいつまでも立ち上がらない神戸蔵人を促した。

 日野中野城への道中、神戸蔵人はそわそわと落ち着きがなかった。
「神戸殿・・。小童が神童じゃ、鸑鷟じゃというたは、貴殿ではないか」
 一益が苦笑していうと、蔵人は額に汗を浮かべながら
「しかし・・。鶴殿は未だ童にて・・。」
 神戸蔵人の焦った態度は何からくるのだろう。他家の童一人の身を案じてのことなのか。親類である蒲生家に対する配慮なのか。
「鶴殿は特別な童じゃ。その鶴殿が万が一にも、織田の殿の逆鱗に触れてお手打ち・・などということがあれば、わしは快幹殿になんと詫びたらよいか・・」
 関盛信や神戸蔵人などの北伊勢の豪族たちは、皆一様に蒲生快幹を恐れているようだ。
(皆がここまで恐れる、蒲生快幹とは一体…)
 これまでの蒲生快幹の動きを見ても、このまま黙って滅びを待つつもりがあるとは思えない。
六角氏の内紛―観音寺騒動―当主の六角義治は、以前から確執のあった重臣の後藤賢豊親子を謀反の疑いをかけて謀殺した。 何通かの密書を取り押さえており、それが引き金になったことは間違いない。その問題の密書は、一益が木全彦一郎に命じて書かせた偽物であったが、登城してきたところをいきなり、なんの申し開きもさせずに斬り捨てたというから乱暴な話だ。
 家中は大混乱に陥り、六角の主だった家臣たちが皆、六角義治に反旗を翻した。その渦中の只中で、蒲生快幹は縁戚の後藤家をあっさりと見捨てると六角親子に肩入れして日野中野城に匿い、その後、双方の仲裁をした。蒲生父子の活躍で六角家の内紛は収まった。
 一人勝ちしたのは蒲生だろう。主家の六角の力を奪って弱体化させ、自身は家中での権力を盤石なものとし、今やその勢いは主家をしのぎ、南近江はもとより、甲賀、北伊勢にまで強い影響力がある。
(一筋縄ではいかぬ筈…)
 蒲生快幹を敵にまわすのは不都合だ。南近江の土豪たち、そして、その影響下にある甲賀を抑えていくためにも、蒲生の力は必要になる。諸々考えていると、日野中野城についた。
 一益と蔵人が広間に通されると、すぐに当主賢秀と父の快幹が現れた。
 賢秀は実直そのものといった武将。一方、快幹はというと、一癖も二癖もありそうな顔をしており、表情からは何も伺い知ることはできない。
「蒲生殿、南近江もこの城を残してすべて織田に降り申した。この上の合戦は詮無きこと。織田の殿と和睦して家名を残されることこそ肝要かと存じ上げる」
 一益が使者の向上を伝えると、賢秀が口を開いた。
「して、和睦の条件は?」
「それは・・」
 神戸蔵人が言い淀む。一益はやれやれと思いながら、
「城を開け、嫡男鶴千代殿をお連れせよとの御大将の仰せでござる」
 平然とそう言うと、賢秀も快幹も驚いて一益を見た。
「そ、それは、帰するところ、人質をだせと・・」
 神戸蔵人が事の次第を話して聞かせると、二人は顔を見合わせて唸っている。
「蒲生殿。鶴千代殿を人質として差し出してくだされば、本領も安堵されよう。如何じゃ」
 一益が言うと、賢秀が何か言おうとする。それを制して快幹が口を開いた。
「承知仕った。鶴千代を織田の殿に渡しましょう」
 賢秀がえっと驚いて父親を見る。
「父上!お待ちを!鶴千代はいまだ十三にて」
 やはり。計算高い快幹ならば孫の命を差し出してくるだろうと思っていた。
「信長は鶴千代が気に食わなければ斬ると言うておるのですぞ!」
 快幹は意に介せず、側近に鶴千代を呼びに行かせる。
(噂の妖魔登場か)
 言い争う蒲生父子を尻目に、一益はどんな子供が現れるのかと楽しみにしている。やがて、
「お呼びですか」
 色鮮やかな小袖を着て、広間の入り口で丁寧に手をついた子供がそう声をかけた。居並ぶもの全員が声のほうを見る。
「鶴千代、そなた下がっておれ」
 賢秀がそう言うと、快幹が
「いや、もそっと近う寄れ」
 と真逆のことを言う。鶴千代と呼ばれた少年は、クスッと笑い、一益と蔵人を見た。
(笑うておる・・)
 何も知らないのだろうか。大人びた笑みを浮かべて祖父の傍に座った。
「鶴千代、このお二方とともに織田の本陣へ行ってくれ」
 祖父の快幹がそう言うと、鶴千代は嬉しそうに頷き、
「噂の上総介殿のところでござりますな。それは嬉しいお役目」
「待て待て!物見遊山に行くのではない」
 父の賢秀が慌てたように留める。それを聞いて鶴千代が笑った。
「父上。何もご案じめさるな。この鶴千代にお任せくだされ」
「いやはや、さすがは鶴千代殿じゃ」
 神戸蔵人が感じ入ったように言って一益に目配せする。
(なるほど・・。確かにこれは・。並みの小童ではない・・)
 これが鸑鷟と呼ばれる所以なのだろうか。落ち着き払った態度で完全に周りの大人たちを圧倒している。さすがはあの快幹の孫というべきか。
 支度を整えるというので、一益は神戸蔵人とともに城門を出て、外で待つことにした。
 義太夫がそっと近づき、
「己の立場を分かっておらぬような危うい童を上様の前に連れ出し、大事に至らねばよいのですが…」
 義太夫が懸念するはずで、鶴千代のあの落ち着き払った態度からは、全く緊張感が伝わってこない。
 一益と神戸蔵人が城の外で待っていると、どこの公達かと思うような大紋直垂姿で鶴千代が荷物を纏め、家臣を連れてでてきた。
「新三郎、わしの筆は持ってきたか」
「はい。若が一番大事にされている象牙の筆。しかとここに」
 鶴千代が新三郎と呼んだ従者に笑顔を見せる。
「よしよし。ではどこへいっても歌を詠めるのう」
 歌を詠む?とは?
 この童が何を言っているのか、よくわからない。
「殿。やはり面妖な小童でござりますな。あの直垂の紋が蒲生家の紋と思われまするが」
 義太夫がひそひそと話しかけてくる。直垂の紋とは鶴千代の背中にある向かい合った鶴の紋のことだ。珍しい紋な上、背に紋を入れるのは兎も角、あそこまで大きく主張するのも珍しい。蒲生家の虚栄心の表れだろうか。
 鶴千代はというと、まるでどこかへ遊びにいくかのような溌剌とした様子だ。これでは義太夫が案じるのも無理はない。
(己の立場が分かっていないのか、はたまた、全てを悟った上での諦めの境地か)
 どちらかというと、何も分からず、ただ、信長に会うことを無邪気に喜ぶ童に見える。
 鶴千代は従者に手を取られ、なんとも危うい足取りでどうにか馬に乗る。
(武人の子が一人で馬にも乗れぬとは…)
 一益と義太夫が面食らっていると、鶴千代は興味津々という目で一益を見て、声をかけてきた。
「左近殿は甲賀のお方とか」
 一益は頷き、
「さよう・。この近江の者じゃ」
「よう聞き及んでおります。祖父から」
 鶴千代が屈託ない笑顔を向けてくる。快幹はどんな話をしているのだろう。
(にしても、武家の子とは思えぬ立ち居振る舞い)
 どこか優雅で、一挙手一投足がゆったりとしている。
「これは牛車を用意すべきでありましたな」
 義太夫小声でそうささやく。
 何百年ものときを越えて戦国に迷い込んだ平安貴族のような鶴千代は、新三郎と呼んだ従者を相手に終始多弁で、楽し気にふるまっている。この様子では、余計なことを口走り、信長を怒らせかねない。信長がどんな心づもりでいるのか、教えておいた方がいいかもしれない。そんなことを考えていると、それまで浮き浮きとしていた鶴千代が、行く道すがら、ふと一益の肩越しに何かを見て、遠い目になった。振り返って見ると、視線の先には中野城が見える。
(やはり童・・。心細いか・・)
 生まれてこの方、領国を出たことがないようだ。相手が子供ということもあり、一益が気遣って
「左兵衛大夫殿も快幹殿も、鶴千代殿の身を案じておられるじゃろう」
 と言うと、鶴千代は凡そ彼の雰囲気には似合わない高笑いをした。義太夫が露骨に驚いて鶴千代の顔を見ている。
「お爺様は・鶴千代のことなど、何とも思うておりません」
 おや・・と思い、鶴千代を見ると、にっこりと笑い、
「お爺様は蒲生の家のことのみ。そして父上はそんなお爺様に頭があがりませぬ」
 その通りだろう。しかしそれを平然と言ってのけるとは。
(この小童の笑顔は仮面か)
 そのことに気づいた。なんとも小賢しい。信長であればすぐに気づくだろう。その時信長はどうするだろうか。
「予め言うておくが、織田の御大将は鶴千代殿の評判を聞いて、噂通りかどうか、確かめたいと仰せじゃ」
 鶴千代は興味をひかれたように目を輝かせた。
「・・で、噂通りでなければ?」
「・・・」
 斬られるのだと、十三歳の少年に面と向かって言うのは忍びない。
 鶴千代はそんな一益の態度を見て、悟ったようだ。しばらく沈黙していたが、やがて聞きなれた小唄を口ずさんだ。
「死のうは一定、しのび草には何をしようぞ、一定かたり遺すよの」
「その小唄は・・」
 信長が好んで口ずさむ小唄だ。蒲生鶴千代は前もって信長の好みまで調べていたのだろうか。
(その上で、あの自信に満ちた物言いか)
  この蒲生鶴千代という少年は、子供らしさを前面に出しつつ、外見だけでは想像もつかないほどに老成しているようだ。
(そうやって、身を守っているのか)
 子供ながらに外敵から身を守るための術を身に着けているのだろう。…にしても、彼の外敵とは何なのか。
「左近殿、こうして道行を共にするのも何かのご縁。ひとつ、この鶴千代の願いをお聞き届けくだされぬか」
 鶴千代が微笑んでそう言う。
「願いとは?」
「これから行く観音寺城。そこでそれがしの命運が決まりましょう。万一、願い叶わず、それがしの命運尽きたときには、髪の毛一筋でもかまいませぬ。どうか日野の地へ、還してくだされ」
 年端もいかない少年に意外なことを言われ、改めてまじまじと鶴千代の顔を見た。温厚そうな目元は先ほど見た父の賢秀には似ていない。母親似なのだろうか。
「髪一筋になったとしても…帰りたい場所か」
 先ほど遠い目をして見ていたのは城ではなく、古里の地そのものだったようだ。
「無論。何物にも代えがたき我が故国。それゆえ、織田の御大将のもとへ向こうております」
 鶴千代が笑ってそう言う。少年の真っすぐな目を見ていることができなくなり、一益は軽く目を反らし、
「承知した。そなたの願い…しかと聞き届けた」
「ありがたや。これで心置きなく、観音寺城へ向かえまする」
 嬉しそうにそう言うと、再度、後ろを振り返った。鈴鹿の山々が青々として空に浮かび上がっている。
「あれなる綿向山は、それがしが幼きころより慣れ親しんだ山。我が家の守り神が宿りし山でござります」
 鶴千代はそう言うと、
 
 人はいざ心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける
 
 朗々と古歌を詠みあげる。
(武人の子というよりは、どこかの公家の子を相手にしているような)
 この類の人間とはかつて関わったことがない。なんとも扱いにくさを覚えつつ、馬の脚を進めるとほどなく観音寺城が見えてきた。つい先日までは六角義賢父子が居城としていたその城を見ると、鶴千代が馬の首を返して一益に言う。
「ここは六角のお館様の居城。したが今は織田殿のものとなり申した。時は戦国、世は無常。死のうは一定。生きているもの全て死ぬ定め。我が故国のため例えこの命潰えようとも、この鶴千代が生きた証を、いつか、誰かが思い起こしてくれましょう」
 鶴千代は自分が人質として信長の前にでなければ、日野が戦乱に見舞われることが分かっていたようだ。
(斬られることも覚悟の上で、生まれ故郷を守るために来たのか)
 誰かに言い含められたのか、自ら悟ったのか。それはわからない。しかし鶴千代という少年の計り知れない恐ろしさを垣間見た気がした。

 蒲生鶴千代の堂々とした態度は信長の前に出ても変わらなかった。恐れることなく問われたことに答え、終始笑顔を絶やさない。
「小気味よい小童じゃ。鶴、岐阜に参るか?」
 信長が上機嫌でそういうと、
「岐阜とは・・唐の国に八百年の泰平の世を築いた周の文王が起こった岐山から取って命名されたと聞き及んでおりまする」
 鶴千代は意外なことを知っていた。確かに鶴千代が言う通り、岐阜とは信長が命名した名前だ。
「御大将はこの日の本に泰平の世を築くおつもりでござりますな」
 目を輝かせて信長の真意を言い当てる。
「そなたもわしと共に泰平の世を築くか」
「はい。是非とも御大将のお供をさせてくだされ」
 鶴千代が嬉しそうに答える。
 信長はこの利発な少年を大層気に入ったようだった。上洛のあと、岐阜城に連れて帰って小姓にした。

 一益が次に鶴千代を見たのは、岐阜城に年賀の挨拶に出向いたときだった。
 信長は大の相撲好きだ。よく小姓たちに相撲を取らせて楽しんでいる。この時は正月とあって、信長お気に入りの小姓たちが相撲を取ることになった。
 年賀の挨拶に来ていた織田家家臣たちが集まり、口々に誰が優勝するかと話している。
「やはり今年も名人久太郎じゃろう」
 優勝候補は何をさせても名人という評判の堀久太郎だ。
「いやいや。今年こそ、仙千代じゃ」
 小姓頭の万見仙千代は信長のお気に入りの近侍の一人だ。
 義太夫も呼ばれて、一益の隣に立った。
「殿。噂の蒲生鶴千代が出てまいりましたぞ」
 義太夫がそう言った。義太夫は鶴千代を妙な小童と言っていたのだが。
「楽しみですなぁ」
 そうかな・と思った。家臣の手を借りて馬に乗っていた姿を思い出す。登場した鶴千代は予想通り華奢だった。対する相手はというと堀久太郎だ。体格差がありすぎる。
 案の定、鶴千代が派手に投げ飛ばされた。
「もう一番!」
 と鶴千代の声が聞こえてくる。
 そもそも十三歳の鶴千代と十六歳の久太郎では勝負にならない。それが分からない程愚かではない筈だが、何度投げ飛ばされても、鶴千代は擦り傷だらけになりながら、果敢に挑んでいく。
 あまりのしつこさに、信長が片手を振ると、万見仙千代と長谷川藤五郎が心得て、鶴千代を抱え込んで下がらせた。
「見事な負けっぷり。さすがといいましょうか。堀殿も情け容赦ないというか・・」
 義太夫が笑いを堪えてそう言った。
「やはり変わり者じゃな」
 一益が苦笑した。どんなに無様に投げ飛ばされても、鶴千代の笑顔は耐えない。
 催しが終わると、一益はそのまま義太夫を伴って岐阜城内の章姫の元へ向かった。
「おお、これは・・」
 信長の姿があった。一益に気づくと、
「左近もきたか」
 いつになく上機嫌だった。章姫がいるからだろう。章姫は信長に手習いを見せていたようだ。
「なかなかに筋がよいと、侍女たちが申しておったわい」
 信長が機嫌よくそういうと、章姫も喜んで
「父上にお見せしとうて、毎日励んでおりました」
 と信長に取りすがる。こういう無邪気なところが、人の心を惹きつけてやまないのだろうか。
「左近、章が見せてくれた」
「は?」
 信長が部屋の奥の文机をちらりと見た。
「こ、これは・・上様のお目にかけるほどのものでは・・」
 文机の上に大事そうに置いてあるのは、祝い肴を模した駒が入った箱だ。
 谷崎忠右衛門が章姫のために作ろうと言い出し、一益をはじめ、義太夫、滝川助九郎、木全彦一郎、それに侍女を何人か駆り出し、徹夜で作らされた。正月用にとひとつひとつの手のひらに乗るくらいの大きさの駒に色まで塗り、見た目も華やかに出来上がっている。
「恥じ入るばかりでござります」
「章は喜んでおる」
「我らにとっても大切な姪でござれば・・」
「その面倒見のよさを見込んで頼みがある」
「はっ」
 面倒見のよさとは・・嫌な流れだな、と思っていると、
「鶴のことじゃが」
 蒲生鶴千代のことだろう。信長は何か思案顔だ。
「あの鸑鷟を鳳凰にせい」
「は・・」
「あれにはわしの娘を娶らせようと思うておる」
「上様はそこまで鶴千代を見込んでおいででござるか」
 鶴千代を織田家の縁者にするという。信長はこれまで家臣に親族を嫁がせたことがない。
 いにしえより、鳳凰は徳のある者が王座に就くと現れると伝わる。これから天下を統一しようとしている信長にとって、鶴千代は天下を統べ治める者の象徴のような存在だ。
「されど、今はまだ鸑鷟のままじゃ。あれを鳳凰にする必要があろう」
「それを・・それがしに・・」
「近々南伊勢で戦となる」
「北畠との戦でござりますな」
 いよいよ信長が出馬して北畠と一戦になる。そうなれば伊勢は願証寺領の長島を残して、全て織田領になるだろう。
「その時に鶴に初陣させる。よいな左近」
「は・・」
 鶴千代に初陣で手柄をたてさせろ、という意味だろうか。信長の真意がわからなかったが、とりあえず頷いた。
 信長の真意が少しわかったのは、夜も更け、岐阜城下の屋敷に戻ったときだった。
 いつになく屋敷内が騒がしかった。
「何の騒ぎか」
 一益が訝しげに聞くと、滝川助九郎がいかにも不味いという顔をした。
「それが・・。殿の留守中に義太夫殿が蒲生様をお連れになり・・」
 行ってみると呆れたことに、宴会の最中だった。
「おお。左近殿、ようやくお戻りか」
 鶴千代が機嫌よく声をあげた。見れば義太夫、助太郎、佐治新介、山上一朗太の面々で、すでにかなり出来上がっている。
「主の留守に宴会とは・・義太夫・・」
 義太夫を睨むと、こちらはもう酔いつぶれる寸前で、
「いやいや、鶴殿があまりに気の毒ゆえ、お声かけしまして」
「童と思うていたら、これがなかなか酒がお強い。義太夫のほうが余程、弱いのでは」
 佐治新介が大笑いする。
「義太夫殿が、久太郎に勝つ秘策があると申されるで、ここへ参った次第にて」
 鶴千代が笑いながらそう言った。
「久太郎に勝つ秘策?」
 怪しいなと思いながら尋ねると案の定、
「これが酷い秘策でござります」
 と山上一朗太。
「相撲の前に、久太郎に腹下し薬を仕込めなどと」
「義太夫!」
 信長お気に入りの小姓相手になんということを言うのか、と一益が顔色を変えたが、義太夫はすでに酔いつぶれて、ピクリとも動かなくなっている。
「殿。酒の上での戯れでござります。お許しあれ」
 佐治新介にそう言われ、一益は呆れ、部屋の外に出た。
 庭に降りて少し歩くと、月が見えた。
(正月とはいえ・・全くもって呆れた連中よ)
 ため息交じりに夜の月を眺めていると、
「わしは戯れではないのじゃが」
 背後から声がした。蒲生鶴千代だった。滝川家の家臣たちはみな、酔いつぶれるか、出来上がっているのに、鶴千代は少し頬を赤くしているだけだ。
「戯れではない・とは?よもや本気で言うておるのか」
 一益が苦笑すると、鶴千代はいつもの笑顔で、
「はい。他に久太郎に勝つ手立てがありましょうか」
「そうまでして久太郎に勝ちたいか」
「勝ちたい。腹下し薬をくだされ」
 一益は呆れて、
「大概にせい」
 と吐き捨てた。鶴千代は笑顔を崩さない。
「では負けたままでおれと?上様や織田家中の面前で負けたままでおれと、そう申されるのか」
 涼しい笑顔を絶やさない鶴千代にも、負けて悔しいという感情があるのかと意外に思いつつ、信長の言うのはこういうことなのか・・と思い出した。鸑鷟を鳳凰にせよ、とは・・。
「鶴千代、そなたは武士(もののふ)である。武士ならば戦場で手柄をたて、弓矢をもって久太郎を打ち負かせ」
「戦場で、手柄を・・」
 鶴千代がフムと考え始める。その姿は武人には到底見えない。
「そなたは…在五中将か」
「は?何故にそのような?」
 筆より重いものを持ったことがないのかという程の細く、華奢な腕。女のような指。平安の歌人、在原業平を髣髴とさせる。今のままで戦場に出すのはあまりに心もとない。
「この屋敷には誰かしら、我が家の者がおる。皆に言い含めておくゆえ、お役目の合間をみてここに来て、武芸に励め」
「おお!左近殿!忝い!」
 鶴千代は走って奥の間へ行き、徳利と盃を持ってきた。
「左近殿!さぁ!」
 と盃を差し出す。
「固めの杯じゃ!」
「固めの杯?」
「今日からこの鶴千代を誠の弟と思うてくだされ!これは兄弟の固めの杯じゃ!」
 すっかり盛り上がっている鶴千代に、一益がたじろいでいると、鶴千代が朗々と語りだした。
「我ら生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う・・」
 どこかで聞いたような言い回しだった。途中で桃園の誓いだと気づいた。三国志演武に出てくる屈強な武人とは似ても似つかぬ戦国の在五中将は、やはり酔っているようだ。
(妙なことになってきた・・)
 蒲生氏が恭順し、信長が上洛した翌年正月の片時の平和な時間だった。
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