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1 織田家仕官
1-5 津島踊り
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滝川主従は信長に仕えるようになってから城下に長屋をあてがわれた。簡素な茅葺屋根の長屋の中は当然、すべてが板の間で、広さだけはあるので十人くらいは住めそうだ。長屋の隣には、木下なにがしという剽げた猿顔の足軽が住んでいる。
「義太夫様」
愛くるしい笑顔を見せたのは、女素破、咲菜だった。甲賀には女子供の素破はいない。武蔵の国から来た咲菜は、旅先で知り合った義太夫が声をかけて甲賀に連れてきた。
「咲菜か」
留守がちだった義太夫は咲菜が甲賀に来てからは、ほとんど言葉を交わしていない。その程度の仲だったが、咲菜は義太夫を慕って甲賀を飛び出してきたのだ。
(これは渡りに船。好都合やもしれぬ)
すみれを失って以来、一益は元気がない。飯の支度から一益の世話まで、一通りのことは義太夫がこなしているが、どうにもこれでは花がないが、菊之助とともに来た歩き巫女に任せるわけにもいかない。身の回りの世話をする者を雇い入れたいと思っていたところだった。
義太夫は早速、咲菜を一益に引き合わせたが、すみれのことを引きずっているのだろう。なかなか興味を示してくれない。
何日たっても、黙って身の回りの世話をさせているだけだ。
「咲菜、わかっておろう。そろそろ殿にもお子が必要なのじゃ」
「そうはいうても…左近様は女子に興味が無いお方じゃ」
「そんな戯けたことがあっては我が家の先行きがない。」
義太夫は仕方がなく、一益に直接苦言を呈することにした。
「殿…殿もそろそろお子を…」
と言いかけると、一益は不機嫌になって義太夫の話を遮った。
「いらぬ気を回すな」
「咲菜がお気に召さぬと仰せならば、他の女子を探しまするが」
「下がれ、義太夫。聞きとうない」
「いえ、こればかりは譲れませぬ。殿に跡継ぎが無いままではお家の一大事。甲賀からきた者共も案じておりまする」
義太夫が食い下がったので、一益はうんざりした表情を浮かべた。
「わかった。もうよい」
それ以上、しつこくする訳にも行かず、義太夫は引き下がった。
一益は信長に呼ばれて清須城に登城した。
「左近、津島を存じておるな」
「はい。むろん。伊勢から尾張に参りましたる折、最初に立ち寄りました。」
「津島に堀田なるものがおる。わしはそのものの屋敷で祭りをやる」
信長は一益を見据えて言った。この奇妙な言動に一益がどう反応するか、観察している。
「村の者も呼び集める。しかし、ただの祭りでは面白うない。わしは家来衆に仮装させることにした」
「それは面白うござりまするな。かしこまりました。我が家からも数名出すといたしましょう」
その数名とは義太夫と、例の小者しかいないのだが。
「ん。七月十八日に挙行するゆえな」
一益は平伏して信長の前を引き下がった。
長屋に戻る道すがら一益はあれこれと考えた。今回、信長に仕えるようになって初めて個別に呼び出された。それが、この祭りの要請・・。
(上総介様のお志はいずこにあるのか・)
この時期、領主自らが祭りをやるほど、尾張は平穏ではないはずだが。何か裏があるのだろうか。
そんなことを考えて屋敷に入った。プンと飯を炊く香りがする。
「おお、殿。おかえりで」
義太夫が野草を刻んでいる。
「殿。申し訳なき義が・・。今日は味噌をきらしたため、味噌なしの味噌汁でござります」
「さようか・・」
義太夫の料理はお世辞にも旨いとは言えないが、腹の足しにはなっている。
一益は苦笑して居間に入った。床の間に富士の掛け軸が飾ってある。これは鯛之浦から同行している小者、木全彦一郎が書いたものだ。甲賀で生まれ甲賀で育った一益は未だ富士を見たことがない。なので、あの富士の絵が、まことの富士に似ているかどうかすらも分からない。木全彦一郎は見たことがあるのだろうか。
「殿」
顔を煤だらけにした義太夫が入ってきた。
「面白い顔じゃな、義太夫。ここに膳を三つ並べよ」
「ははっ」
義太夫が嬉しそうに台所に戻っていった。一益が信長に呼ばれたときから義太夫は嬉しそうにしているが、一益はそんなに陽気にしていられない。祭りをやると言われた日まであと四日しかない。
(津島か・・)
津島は木曽川河口にあり、信長の祖父、織田信定のときに織田弾正忠家の領地になった。多くの船が出入りする尾張きっての豊かな湊町で、祖父の代に津島を領したころからの蓄財により、信長は大量の鉄砲を調達できたようだ。信長の言う堀田とは、津島一帯を領する津島衆の中でも、津島社で代々神職を務めている家のことだと思われた。
やがて居間に膳が並べられた。一益はそれには気づかず、まだ考えている。
(津島からは・・伊勢が近い)
伊勢からきた木全彦一郎を見る。じっと俯いている。その、もの言いたげな表情に、一益はハッと気づいた。
一益がいつまでも箸を取らないので、義太夫も彦一郎も食べられずにいるのだ。
「ハハハハ、すまなかった。二人とも箸を取れ」
「ハハッ」
義太夫がホッとして箸を取った。それを見て彦一郎も箸を取った。
「殿。上総介様はなんと?」
「津島で祭りをやると仰せられた。しかも家来衆に仮装させて」
「津島で?」
「おぬしらにも祭りに出てもらおう。二人とも踊りの稽古をしておけ」
信長はいいかげんな踊りを踊る者を斬るという評判がある。それを知らない義太夫は笑って頷いた。
一益は
(余程の悪行を重ねなければここでの出世は望めまい)
そう思って鯛之浦を飛び出してきた。しかし
(己の力を試してみたい)
己の持てる力でどこまで行けるか、試してみたい。織田家に来て、信長に会ってからそう考えるようになった。一益が主と仰ぐ信長は、尾張一国で満足するような器には見えない。尾張の次は美濃。そして伊勢、近江を領するのではないか。
障子に黒い影が写った。と同時に静かに障子が開いて木全彦一郎が入ってきた。
―鉄砲が使えるなー
一益が予め書いておいた紙を出すと、彦一郎は驚き、大きく首を横に振った。一益は苦笑した。一益は更に先ほどから考えていたことを書き綴る。世にも静かな密談だった。
七月十八日は晴天だった。
領主の織田信長が祭りを挙行するというので、尾張はもとより、美濃、伊勢、三河からも多くの人が津島に集まってきていた。当然、鯛之浦の服部左京の密偵も紛れ込んでいたのだが。
信長主従の踊りが終わった後、津島の人びとがお返しの踊りを踊った。
餓鬼に扮していた義太夫と彦一郎は木陰で休んでいた。
一番目立つように餓鬼に扮しよう、と言い出した当の一益は祭りが始まるとどこへともなくいなくなってしまった。二人は目立ちすぎるため、辺りをうろうろする訳にもいかない。村の者たちは珍しがって寄ってくるし、反対に女子供は恐れて逃げて行ってしまう。
(えらい役目を仰せつかったものよ)
義太夫はふと、隣に座っている彦一郎を見た。似合いすぎていて、恐ろしい姿である。
見れば見る程ゾッとしてしまう。
「やれやれ、我らが殿はいずこへ参られたか」
視線を感じて顔を上げると、村人がこちらを指さして珍しそうに見ている。
「ここは目立つ。彦一郎、も少し目立たぬところへ・・おや?」
気づくと先ほどまで隣にいたはずの彦一郎の姿がない。あたりを見回したが、目立ちすぎるはずのその姿がどこにもなかった。
「殿といい、彦一郎と言い・・一体どうなっているのか」
津島が祭りで賑わっているころ、津島の横を流れる川を静かに下っていく船が一隻あった。船を漕いでいるのは滝川一益。船の真ん中にどかっとあぐらをかいているのは津島で天人に扮して祭りに出ている筈の織田信長だった。
「左近、船を漕ぐのがうまいのう」
「恐れ入ってござります」
一益はここ数か月、彦一郎から船の扱いを習っていた。何度となく川に落ちたが、今や全く問題なく船を漕ぐことができるまでに上達した。
「長島とはどのようなところじゃ。船がなくては攻められぬか」
「はい。長島は川に囲まれた天然の要塞にて・。上総介様はこれより長島へ参られるので?」
一益は信長に『船を漕げ!』と言われただけで、どこへ行くのか聞かされていない。
「ハハハ、それも面白いが長島ではない」
「では小木江でござりますか?」
織田領の小木江城は四月に願証寺の服部左京に奪われている。
「違う」
「では蟹江で?」
蟹江も服部左京に奪われていた。
「違う」
「では・・」
やはり桑名か・と思った。
「わかったか、左近」
「桑名でござりますな」
「桑名じゃ」
「上総介様。供も連れずに桑名とは・。服部左京に首を差し出すお覚悟でござりましょうか」
桑名は敵領だ。しかも、蟹江、小木江の向こうで遠い。
心配する?一益に、信長は舌打ちした。
「左近。供など連れて行ったら『ここに信長がおります』とあの服部左京に教えてやるようなものではないか。」
「は、確かに・・」
「それに供ならばそちがいる。そちはわし一人すら守れぬか」
「いいえ。この身に代えてもお守りいたします」
無論、供は一益一人ではない。木全彦一郎以下数名の素破が気配を隠してついてきている筈だ。
「左近、そなた尾張にくる前に北伊勢にいたと申したな。北伊勢はどうじゃ」
「北伊勢は・・。豊かな土地。桑名・四日市・関・亀山を抑えれば甲賀に抜けることもでき、南近江にでて京へ向かうことができまする。まずは桑名を抑えることが肝心かと」
信長はフムと頷き、
「そうか。ではわしが北伊勢を手に入れた暁には、桑名はそのほうにくれてやる」
「は。ありがたき幸せ」
妙な話だな、と思いながら、信長に合わせて返事をした。桑名は敵地だ。それを与えるとは如何なる意味なのか。
なんとも嫌な違和感だった。秘められた意味を思案する。
信長の微妙な表情の変化が、不穏な感情を抱かせる。
一益が思案していると、早くも船は桑名についた。信長は船を降り、そのあとに一益が従う。
「噂通りの大きな町じゃ」
「はい。ここを抑えれば、金も容易に集まりましょう」
もう夜明け近く、桑名の町にそびえる城がぼんやりとかすんで見えた。
「あれが城か。左近、あれを取れ」
「は?」
さすがの一益も意味が分からず信長を見た。信長の顔は真剣そのもの。戯れではなさそうだ。
「長島を落とすには時間がかかる。手始めに桑名を取れ」
一益は返す言葉がなかった。桑名だとて取るには時間がかかる。目の前にそびえる城は無人の城ではない。ちゃんとした城主がいる。それを木の実でも取るように『あれを取れ』とは。
「よいな。あの城を取れ。さすれば桑名はくれてやる」
「上総介様は、どうなさるので?」
「わしは美濃を取る」
信長からの援軍なくして伊勢を攻略することは不可能だろう。が、その信長は美濃を取るという。
「なるほど・・。美濃・伊勢を抑えた暁には、どうなさるおつもりでしょうか」
「つまらぬことを申すな、左近。さすれば近江を取って上洛し、天下を取るのじゃ」
「天下を取る・・・」
話が荒唐無稽で、どこまで本気なのかは分からない。ただ、予想外の大きな船に乗っているのだと思わされる。信長の言うことはただの大言壮語なのか。はたまた真の天下人になるのか。
(あるいは・・この方ならば・・)
本当に天下に号令をかけることができるかもしれない。その時自分は・・。信長とともに天下に名を馳せる。己の持てる力全てを使って百年続いた戦国の世を終わらせる。荒唐無稽な夢が現実になるような、そんな気がした。
「義太夫様」
愛くるしい笑顔を見せたのは、女素破、咲菜だった。甲賀には女子供の素破はいない。武蔵の国から来た咲菜は、旅先で知り合った義太夫が声をかけて甲賀に連れてきた。
「咲菜か」
留守がちだった義太夫は咲菜が甲賀に来てからは、ほとんど言葉を交わしていない。その程度の仲だったが、咲菜は義太夫を慕って甲賀を飛び出してきたのだ。
(これは渡りに船。好都合やもしれぬ)
すみれを失って以来、一益は元気がない。飯の支度から一益の世話まで、一通りのことは義太夫がこなしているが、どうにもこれでは花がないが、菊之助とともに来た歩き巫女に任せるわけにもいかない。身の回りの世話をする者を雇い入れたいと思っていたところだった。
義太夫は早速、咲菜を一益に引き合わせたが、すみれのことを引きずっているのだろう。なかなか興味を示してくれない。
何日たっても、黙って身の回りの世話をさせているだけだ。
「咲菜、わかっておろう。そろそろ殿にもお子が必要なのじゃ」
「そうはいうても…左近様は女子に興味が無いお方じゃ」
「そんな戯けたことがあっては我が家の先行きがない。」
義太夫は仕方がなく、一益に直接苦言を呈することにした。
「殿…殿もそろそろお子を…」
と言いかけると、一益は不機嫌になって義太夫の話を遮った。
「いらぬ気を回すな」
「咲菜がお気に召さぬと仰せならば、他の女子を探しまするが」
「下がれ、義太夫。聞きとうない」
「いえ、こればかりは譲れませぬ。殿に跡継ぎが無いままではお家の一大事。甲賀からきた者共も案じておりまする」
義太夫が食い下がったので、一益はうんざりした表情を浮かべた。
「わかった。もうよい」
それ以上、しつこくする訳にも行かず、義太夫は引き下がった。
一益は信長に呼ばれて清須城に登城した。
「左近、津島を存じておるな」
「はい。むろん。伊勢から尾張に参りましたる折、最初に立ち寄りました。」
「津島に堀田なるものがおる。わしはそのものの屋敷で祭りをやる」
信長は一益を見据えて言った。この奇妙な言動に一益がどう反応するか、観察している。
「村の者も呼び集める。しかし、ただの祭りでは面白うない。わしは家来衆に仮装させることにした」
「それは面白うござりまするな。かしこまりました。我が家からも数名出すといたしましょう」
その数名とは義太夫と、例の小者しかいないのだが。
「ん。七月十八日に挙行するゆえな」
一益は平伏して信長の前を引き下がった。
長屋に戻る道すがら一益はあれこれと考えた。今回、信長に仕えるようになって初めて個別に呼び出された。それが、この祭りの要請・・。
(上総介様のお志はいずこにあるのか・)
この時期、領主自らが祭りをやるほど、尾張は平穏ではないはずだが。何か裏があるのだろうか。
そんなことを考えて屋敷に入った。プンと飯を炊く香りがする。
「おお、殿。おかえりで」
義太夫が野草を刻んでいる。
「殿。申し訳なき義が・・。今日は味噌をきらしたため、味噌なしの味噌汁でござります」
「さようか・・」
義太夫の料理はお世辞にも旨いとは言えないが、腹の足しにはなっている。
一益は苦笑して居間に入った。床の間に富士の掛け軸が飾ってある。これは鯛之浦から同行している小者、木全彦一郎が書いたものだ。甲賀で生まれ甲賀で育った一益は未だ富士を見たことがない。なので、あの富士の絵が、まことの富士に似ているかどうかすらも分からない。木全彦一郎は見たことがあるのだろうか。
「殿」
顔を煤だらけにした義太夫が入ってきた。
「面白い顔じゃな、義太夫。ここに膳を三つ並べよ」
「ははっ」
義太夫が嬉しそうに台所に戻っていった。一益が信長に呼ばれたときから義太夫は嬉しそうにしているが、一益はそんなに陽気にしていられない。祭りをやると言われた日まであと四日しかない。
(津島か・・)
津島は木曽川河口にあり、信長の祖父、織田信定のときに織田弾正忠家の領地になった。多くの船が出入りする尾張きっての豊かな湊町で、祖父の代に津島を領したころからの蓄財により、信長は大量の鉄砲を調達できたようだ。信長の言う堀田とは、津島一帯を領する津島衆の中でも、津島社で代々神職を務めている家のことだと思われた。
やがて居間に膳が並べられた。一益はそれには気づかず、まだ考えている。
(津島からは・・伊勢が近い)
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一益がいつまでも箸を取らないので、義太夫も彦一郎も食べられずにいるのだ。
「ハハハハ、すまなかった。二人とも箸を取れ」
「ハハッ」
義太夫がホッとして箸を取った。それを見て彦一郎も箸を取った。
「殿。上総介様はなんと?」
「津島で祭りをやると仰せられた。しかも家来衆に仮装させて」
「津島で?」
「おぬしらにも祭りに出てもらおう。二人とも踊りの稽古をしておけ」
信長はいいかげんな踊りを踊る者を斬るという評判がある。それを知らない義太夫は笑って頷いた。
一益は
(余程の悪行を重ねなければここでの出世は望めまい)
そう思って鯛之浦を飛び出してきた。しかし
(己の力を試してみたい)
己の持てる力でどこまで行けるか、試してみたい。織田家に来て、信長に会ってからそう考えるようになった。一益が主と仰ぐ信長は、尾張一国で満足するような器には見えない。尾張の次は美濃。そして伊勢、近江を領するのではないか。
障子に黒い影が写った。と同時に静かに障子が開いて木全彦一郎が入ってきた。
―鉄砲が使えるなー
一益が予め書いておいた紙を出すと、彦一郎は驚き、大きく首を横に振った。一益は苦笑した。一益は更に先ほどから考えていたことを書き綴る。世にも静かな密談だった。
七月十八日は晴天だった。
領主の織田信長が祭りを挙行するというので、尾張はもとより、美濃、伊勢、三河からも多くの人が津島に集まってきていた。当然、鯛之浦の服部左京の密偵も紛れ込んでいたのだが。
信長主従の踊りが終わった後、津島の人びとがお返しの踊りを踊った。
餓鬼に扮していた義太夫と彦一郎は木陰で休んでいた。
一番目立つように餓鬼に扮しよう、と言い出した当の一益は祭りが始まるとどこへともなくいなくなってしまった。二人は目立ちすぎるため、辺りをうろうろする訳にもいかない。村の者たちは珍しがって寄ってくるし、反対に女子供は恐れて逃げて行ってしまう。
(えらい役目を仰せつかったものよ)
義太夫はふと、隣に座っている彦一郎を見た。似合いすぎていて、恐ろしい姿である。
見れば見る程ゾッとしてしまう。
「やれやれ、我らが殿はいずこへ参られたか」
視線を感じて顔を上げると、村人がこちらを指さして珍しそうに見ている。
「ここは目立つ。彦一郎、も少し目立たぬところへ・・おや?」
気づくと先ほどまで隣にいたはずの彦一郎の姿がない。あたりを見回したが、目立ちすぎるはずのその姿がどこにもなかった。
「殿といい、彦一郎と言い・・一体どうなっているのか」
津島が祭りで賑わっているころ、津島の横を流れる川を静かに下っていく船が一隻あった。船を漕いでいるのは滝川一益。船の真ん中にどかっとあぐらをかいているのは津島で天人に扮して祭りに出ている筈の織田信長だった。
「左近、船を漕ぐのがうまいのう」
「恐れ入ってござります」
一益はここ数か月、彦一郎から船の扱いを習っていた。何度となく川に落ちたが、今や全く問題なく船を漕ぐことができるまでに上達した。
「長島とはどのようなところじゃ。船がなくては攻められぬか」
「はい。長島は川に囲まれた天然の要塞にて・。上総介様はこれより長島へ参られるので?」
一益は信長に『船を漕げ!』と言われただけで、どこへ行くのか聞かされていない。
「ハハハ、それも面白いが長島ではない」
「では小木江でござりますか?」
織田領の小木江城は四月に願証寺の服部左京に奪われている。
「違う」
「では蟹江で?」
蟹江も服部左京に奪われていた。
「違う」
「では・・」
やはり桑名か・と思った。
「わかったか、左近」
「桑名でござりますな」
「桑名じゃ」
「上総介様。供も連れずに桑名とは・。服部左京に首を差し出すお覚悟でござりましょうか」
桑名は敵領だ。しかも、蟹江、小木江の向こうで遠い。
心配する?一益に、信長は舌打ちした。
「左近。供など連れて行ったら『ここに信長がおります』とあの服部左京に教えてやるようなものではないか。」
「は、確かに・・」
「それに供ならばそちがいる。そちはわし一人すら守れぬか」
「いいえ。この身に代えてもお守りいたします」
無論、供は一益一人ではない。木全彦一郎以下数名の素破が気配を隠してついてきている筈だ。
「左近、そなた尾張にくる前に北伊勢にいたと申したな。北伊勢はどうじゃ」
「北伊勢は・・。豊かな土地。桑名・四日市・関・亀山を抑えれば甲賀に抜けることもでき、南近江にでて京へ向かうことができまする。まずは桑名を抑えることが肝心かと」
信長はフムと頷き、
「そうか。ではわしが北伊勢を手に入れた暁には、桑名はそのほうにくれてやる」
「は。ありがたき幸せ」
妙な話だな、と思いながら、信長に合わせて返事をした。桑名は敵地だ。それを与えるとは如何なる意味なのか。
なんとも嫌な違和感だった。秘められた意味を思案する。
信長の微妙な表情の変化が、不穏な感情を抱かせる。
一益が思案していると、早くも船は桑名についた。信長は船を降り、そのあとに一益が従う。
「噂通りの大きな町じゃ」
「はい。ここを抑えれば、金も容易に集まりましょう」
もう夜明け近く、桑名の町にそびえる城がぼんやりとかすんで見えた。
「あれが城か。左近、あれを取れ」
「は?」
さすがの一益も意味が分からず信長を見た。信長の顔は真剣そのもの。戯れではなさそうだ。
「長島を落とすには時間がかかる。手始めに桑名を取れ」
一益は返す言葉がなかった。桑名だとて取るには時間がかかる。目の前にそびえる城は無人の城ではない。ちゃんとした城主がいる。それを木の実でも取るように『あれを取れ』とは。
「よいな。あの城を取れ。さすれば桑名はくれてやる」
「上総介様は、どうなさるので?」
「わしは美濃を取る」
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「なるほど・・。美濃・伊勢を抑えた暁には、どうなさるおつもりでしょうか」
「つまらぬことを申すな、左近。さすれば近江を取って上洛し、天下を取るのじゃ」
「天下を取る・・・」
話が荒唐無稽で、どこまで本気なのかは分からない。ただ、予想外の大きな船に乗っているのだと思わされる。信長の言うことはただの大言壮語なのか。はたまた真の天下人になるのか。
(あるいは・・この方ならば・・)
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