滝川家の人びと

卯花月影

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1 織田家仕官

1-2 桑名

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 伊勢の商業都市「桑名」は地理的特性から室町時代には日本有数の港湾都市として多くの人が住み着き、あるいは出入りして賑わいをみせている。雨季には水害に悩まされるものの、肥沃で温暖な土地だ。この桑名から尾張の蟹江・津島・熱田にも船がでていた。
 滝川一益と義太夫が桑名についたのは甲賀を飛び出してから三日目だった。一益は甲賀以外の土地を知らない。見るもの聞くものすべてが新鮮だった。
 一益はあちこち見回っては町の賑わいに酔い、すっかり上機嫌になっていた。
「わしはこの土地が気に入った」
 と突然言った。
 義太夫は驚いて一益を見る。甲賀にいたころとは違う。水を得た魚のように生き生きと目が輝いている。
「いつかこの地を手に入れようぞ」
「ハッ」
 桑名を手中に治めるなど、今の一益では考えられない。一益は国を飛び出した一介の浪人なのだ。しかし、そんな不可能を打ち破る何かが、一益の言葉からみなぎっていた。
 意気揚々と歩く一益に、立派な刀を差した侍が近づいてきた。
「おぬし・・左近ではないか」
 見知らぬ土地で名前を呼ばれ、一益は驚いて声の方に振り向いた。
「おお。左京・・」
 と一益も懐かしそうに言った。
 左京と呼ばれたその男を見て、義太夫は一瞬目を光らせた。この小太りの男が、今、この辺りに勢力を伸ばしている服部党の首領、服部左京進友貞だと分かったからだ。
 元々国侍であった服部左京は願証寺と手を組んでから羽振りがいい。今は尾張の鯛之浦を本拠地として、大名並みの暮らしをしている。
「やはり叔父御を斬って甲賀を飛び出したというは真であったか」
「そんな噂がもうここまで届いているのか」
「おう。きっとわしを頼ってくるじゃろうと思っていたわ」
 服部左京はカラカラと笑った。一益は左京を頼ってこの地に来たわけではない。
「左京、わしは・・」
「よいよい。気にするな。暫くわしの元におるがよい」
 服部左京は笑って鯛之浦の砦に案内した。

 鯛之浦の砦は桑名から向かって願証寺の本拠地長島の向こうにある。織田信長のいる尾張の国境付近だ。
 滝川一益と義太夫はこの砦の一室をあてがわれた。これも甲賀の滝城の居間よりもはるかに広く、立派だ。部屋の窓からは織田家の領土という尾張の地が遠望できた。
 一益は外をちらりと見てあくびした。ここに来てもう十日になる。
「退屈じゃのう」
 服部左京に連れられてきた最初の一・二日は極楽のようだった。
~叔父を斬った日~
 夜半に滝城を出てからその夜の内に土山に出て、鈴鹿峠を越えて伊勢へ入った。関・亀山・四日市ときてその間、関所破りを繰り返して休む間もなく桑名についたのだ。
 一益も義太夫もくたくたに疲れていた。だからこの平和な鯛之浦の生活は極楽だった。食べるのも飲むのも事欠かず、夜盗に襲われる心配もない。しかし、四日・五日と経つうち、だんだん暇を持て余すようになった。
 こんなところでくすぶっていていいのか・・という不安に駆られた。
 一益はもう一度、大あくびをした。・・と、ガタガタと障子が開いて、小者が膳を運んできた。そして、一益の前に膳を置くと、紙を一枚差し出した。
 ~本日不漁似~
 と書いてある。膳に魚がないという意味だろう。この小者は口がきけないらしい。
 一益はコクリと頷いた。小者は平伏して部屋を出た。一益は黙ってその後姿を見送った。
(あの男、使えるかもしれぬ)
 身のこなしがどこか余人とは思えない。意思も強そうだ。何より口がきけない・・というのがいい。
 再び障子が開いて、義太夫が入ってきた。
「左近将監様。服部殿がお見えでござります。」
 その言葉が終わるか終わらないかの内に服部左京が入ってきた。
「左近、どうじゃ。ここの暮らしは」
 と目の前にどかっと座った。
「これといって不足はない・・が、いささか退屈じゃの」
 一益が正直に言うと服部左京は笑った。
「そろそろ左近がそう言いだすと思うて来たのじゃ。戦にでぬか。敵は尾張の織田信長じゃ」
「わしに願証寺の家来になれと申すか?」
「嫌か?」
 一益はしばらく黙った。服部左京が家来になれと言い出すのはわかっていた。それも悪くない、と思う。
 願証寺は大坂に本拠地を置く本願寺の分流で、この辺りの一大勢力だ。人も金も余るほどにある。ここに身を置けば生涯優雅な暮らしが約束されるだろう。
 しかし、それは自分の大志とは少し違うような気がする。
「少し考えさせてくれ」
「よかろう。焦る必要もない。色よい返事をまっておるぞ」
 そう言って、服部左京は部屋を出て行った。
(ここに身を置く・・)
 一益はふと、先ほどから傍らに座って静かに控えている義太夫を見た。
「義太夫。そちはどう思う?」
「されば・・それがしは反対でござります」
「なにゆえに?」
「願証寺の家人となれば、どう働いても侍大将がよいところ。恐れながら左近将監様は一国を治める力を充分にお持ちでござります。それゆえ・・」
「それゆえ願証寺ではなく、何者に仕えよと言うのじゃ?」
 義太夫は思案顔になった。
(侍大将がせいぜいか・・)
 余程の悪行を重ねなければここにいても立身出世は望めない。・・と思ってあることが頭に浮かんだ。
(尾張の信長・・)
 美濃のマムシと言われて恐れられたあの斎藤山城守が絶賛した男。いずれは美濃を獲るとまで言わしめた尾張の大うつけ。
 美濃・尾張の二国を手にしたあと、どうなるのか。二国に留まるのか。それとも・・。
 一益はまた義太夫を見た。すると義太夫は顔をあげた。
「尾張に参りましょう」
「何、尾張?!」
「尾張の織田信長は本家の清州城を乗っ取って尾張一国をほぼ手中に治めたと聞き及んでおります。この信長に仕えればあるいは・・」
「義太夫。実はわしも同じことを考えていた。」
「では決まりましたな」
「うむ。今夜中にここを抜け出そうぞ」
 敵国の尾張に行くと言えば服部左京は黙ってここから出してくれないだろう。一益はこの辺りの備えを見すぎている・・。となると早々に退散するしかない。
 しかし尾張との国境付近は警備が厳しい。やはり船で津島辺りまで逃げるしかないのだが、一益も義太夫も山育ちで船を使えない。
 思いあぐねていると、先ほどの小者が酒を持ってきた。一益は盃を受け取ってから「待て!」と小者を呼び止めた。小者は気づかず、部屋を出ようとしている。
(そうか、聞こえないのだ)
 と気づいて、小者の腕をぐいと引いた。小者は驚いて振り向いた。
「義太夫、紙と筆を」
 義太夫も心得てサッと紙と筆を差し出した。一益はそれを受け取るとサラサラと書いた。
~尾張へ案内せよ~
 小者は驚いて一益を見た。この小者が服部左京に全てを告げてしまったら、一益も義太夫もまたひと暴れして逃げなくてはならない。
 小者は暫く考えていたが、やがて顔を上げて大きく頷いて窓の前に立って外を指さした。何を言いたいのかはわからない。どうするつもりか・・と見ていると、なんと小者はヒラリと窓の外に飛び出した。
「あっ!」
 二人は息を呑んだ。ここは砦の三階なのである。
 慌てて窓に近寄って下を見ると、小者はピンピンして暗がりの中で手招きしている。
「お、驚きましたな。あの者も素破・・でござりましょうか?」
「・・のようじゃの。しかも手招きするということは・・」
「我等の素性を存じている・・ということでござりまするな」
「兎も角、急ごうぞ」
 二人は荷物を抱えてヒラリと飛び降りた。小者はそれを確認すると駆け出した。足も速い。この暗がりの中で石にも躓かずに疾走できるということは、この小者が紛れもなく素破であることを物語っていた。
(こやつ・・何者であろうか)
 一益は不気味に思いながらも小者の後ろについていった。
 やがて岸についた。船が沢山つけてある。当然、警備の兵がいる。
「義太夫・・」
 『やるぞ』と合図すると義太夫も心得て頷いた。・・が、二人が刀を抜くか抜かないかのうちに、小者は一人で兵のいるところに駆けて行ってしまった。
(如何いたす所存か)
 一益は唖然として小者を見た。次の瞬間、一益と義太夫はもう一度「あっ!」と驚きの声をあげた。
 駆けて行った小者は、スラリと腰の刀を抜きざまに一人目の兵を斬り、返す刀で二人目を斬り、驚いて飛び出してきた三人目が刀を振り上げた瞬間に左から右に真横に斬りつけたのだ。三人ともあっという間に倒されてしまった。その恐ろしい早業を『甲賀流』という。甲賀の中でもごく一部の郎党にのみ伝えられる技だ。
(あやつ・・甲賀者か)
 二人は声もでないほど驚いた。小者は平然として手招きしている。
「左近将監様、参りましょう」
 と義太夫が一益を促した。
「よし」
 一益は気を取り直して船に乗り込んだ。船はゴトリと揺れて動きだした。この小者は船を漕ぐのにも慣れている。
「こやつ、何者でござりましょう」
「わからぬ・・が、助かった」
 一益はホッと息を吐いた。後方を見ると、みるみる内に鯛之浦の砦が小さくなっていく。服部左京は今頃カンカンになって二人を捜しているだろう。目に浮かぶその姿が滑稽で、一益はクスリと笑った。
「左近将監様?」
「いや・・。尾張は近いのう・・」
 一益はまだ見ぬ地、尾張を思って胸を躍らせていた。
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