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22.骨肉の争い
22-5. 破軍星
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搦手口へと続く道は険しい。城の裏手に位置するその場所は、普段は人が通ることなどない、鬱蒼とした森の中に隠れている。枝葉が空を覆い、薄暗いその道は、足元も見えぬほどの茂みと、滑りやすい土の斜面で、侵入者を阻んでいる。
「おのれ、これでは満足に歩くこともままならぬ…」
後方の兵の一人が愚痴を漏らすのを耳にし、忠三郎は口元を引き締めた。
(これほどの道、敵が不用意に隙を晒しているとは思えぬ…)
中ほどまで進んだところで、忠三郎は手を上げて進軍の足を止めた。周囲の兵たちはその合図を受け取り、小声で指示を伝え合いながら所定の位置に散開していく。森の中は一層静まり返り、遠くで鳴く鳥の声だけが、かすかに耳を掠めていた。
ここで夜を待つ。堀久太郎が先んじて搦手口の城門を破り、城内に侵入した合図が届けば、忠三郎も兵を率いて城内へなだれ込む手筈となっている。
「ここから先は、声を上げぬように。動くもまた慎重にせよ」
忠三郎は低い声で命じ、兵たちに緊張を促した。草木の隙間から見える夕空は、すでに淡い茜色に染まり始めていた。
(久太郎の一隊は、既に搦手口へと達しているか…)
そう思いつつも、忠三郎の胸には不安が募っていた。風に揺れる木々の音すら、どこか耳に触る。
叔父は、搦手口であれば、比較的、敵兵が少ないだろうと言っていた。こうして実際に進んでみると、その言葉の裏付けも取れる。ここまでの道は苔むした岩場に覆われ、急斜面が続く。その上、木々が密生し、ただでさえ狭い道筋がさらに歩きづらい。これでは大軍を送り込むのが難儀なのも頷ける。
(されど…)
忠三郎は険しい山道を見下ろしながら、眉をひそめた。
(もしやこれが敵の企てであれば…)
不吉な思いが胸中にわき起こり、冷たい汗が背筋を伝う。敵の目論見通り、この狭い道を選んだがゆえに、大損害を被ることになる可能性も考えられる。
(罠だとすれば、敵は狭き道を利用し、攻め入る我らを一網打尽にするつもりかもしれぬ…)
忠三郎は思わず周囲を見回した。静寂が耳を打つ中、風に揺れる木々のざわめきが、敵の忍び寄る気配にすら思えてくる。
張り詰めた時が続き、いつの間にか周囲は闇に包まれていた。夜の静けさが一層、緊張を引き立てる。
(そろそろ久太郎が動き出す頃…)
忠三郎は冷えた夜風に触れながら、ゆっくりと立ち上がった。森の中は月明かりも届かず、暗闇に覆われている。耳を澄ませば、遠くからかすかな足音や、甲冑が擦れる音が聞こえるような気がした。
(搦手口への攻撃が始まれば、城方も混乱に陥るはず。それから攻め入るのがこちらの役目)
しかし胸中には未だ一抹の不安が残る。久太郎が搦手口を突破したその先で何が待っているのか、想像するだけで胸がざわつく。
(ここまで来た以上、もはや引き返すことは叶わぬ)
忠三郎は手に持った槍を軽く握り直し、周囲の兵たちに目をやった。緊張の中にあっても、彼らの表情には迷いが見えない。
(皆の覚悟に応えねばならぬ。それが大将の務め…)
忠三郎は静かに深呼吸をし、目を閉じた。やがて、どこか遠くから鉄砲の音が聞こえてきた。それは夜討ちが始まったことを告げる合図だった。
鬨の声が森の闇を引き裂くように響き渡った。その後に続くのは、耳をつんざくような銃声。夜空を照らす火花のような閃光が森の奥から微かに見える。
(ついに始まったか…)
忠三郎は槍を握りしめながら、胸中で念じた。城方の反撃が予想以上に激しいらしく、時折響く地鳴りのような大きな音が夜の静寂をさらに乱す。
「若殿、何やら搦手口で大きな戦が起こっているようにございます」
町野左近の報告に、忠三郎はうなずく。
「敵が慌てておる証拠だ。それに紛れて、我らも時を見計らう」
しかし、胸の奥には新たな疑念が湧き起こる。これほど激しい反撃を、果たして敵が偶然に準備していたのだろうか。
(やはり…この状況、何かがおかしい)
そう思った時、
「若殿!一大事でござります!」
暗がりの中で誰かが駆け寄り、息も絶え絶えに報告を続ける。
「敵方が仕掛けてきたのでござります!搦手口を目指していた堀様の一隊が火攻めに遭い、その火が森にも燃え広がっておりまする!」
振り返ると、すぐそばの木々が赤々と燃え始めていた。森を覆う闇が炎に追い払われ、空気が熱を帯びて肌に刺さる。
「何…!」
忠三郎は思わず槍を握り締めた。
「それで、久太郎は?」
「はっ、搦手口付近で大混乱に陥っている様子にござりまする!兵が散り散りになり、戻るべき道も封じられておりまする!」
(これは…まさか、罠か…!)
忠三郎の胸に蘇るのは、叔父・盛信の言葉だった。
「搦手口から忍び寄るが肝要…」
その言葉が今となっては裏切りの凶刃のように胸に突き刺さる。
「全軍、退け!このままでは焼け死ぬ!」
忠三郎の怒号が森に響き渡る。辺りには燃えさかる炎の音と、兵たちの慌てふためく声が渦巻いていた。
風が強く、火の巡りが早い。煙は猛り狂う獣の如く、森を覆い尽くさんとする勢いで迫ってくる。忠三郎は、その獣に飲まれぬよう、ひたすら山道を駆け抜けた。
しかし、不案内な山中である。右も左も分からず、木々の影がどれも同じに見える中、ただ本能の赴くままに火の手から逃れ続ける。
気がつけば、背後に付き従う兵の数も心もとないものとなっていた。数えるほどの兵士に、かろうじて町野左近が息を切らしながらついてきている。
「若殿!我ら、兵とはぐれてしまいましたぞ!」
町野左近の情けない声が背後から届くが、忠三郎には返す余裕もない。ただ荒い息を整えつつ、前方を睨み続けるのみであった。
(かような夜の山中で、どうやって森を抜ければよいものか…)
夜陰は深く、森は暗黒に包まれ、進むべき方向すら知れない。火の手は迫り、煙が鼻をつく中、頭に浮かぶのはただ一つ――とにかく森を抜け、本隊と合流しなければ…。
「若殿、いかがなされまする!どこを目指せばよいのやら…!」
町野左近がしがみつくような声を上げ、忠三郎は思わず笑った。全く頼りにならないが、緊張感をやわらげる役割だけはしっかりと果たしてくれている。
「爺、我らに明かりを持つ者はおらぬか?」
「明かりとて、皆、煙にまかれてしまい申した…」
町野左近は肩を落としつつ答える。その姿に忠三郎は目を伏せ、静かに言葉を漏らした。
「ならば目を凝らせ。この暗がりに慣れるまで、ひとまずここで気を整えるぞ」
忠三郎の言葉に、町野左近と数名の兵も息を呑んでその場に立ち尽くす。月明かりも頼りない森の中で、彼らの息遣いだけが静寂の中に響く。
(火の手はすぐそこまで迫っている…されど、無闇に進めば再び道を見失う)
忠三郎はふと耳を澄ませた。遠くから、微かに川のせせらぎの音が聞こえてくる気がした。
「爺、耳を澄ませ。水音が聞こえぬか?」
町野左近は訝しげに耳を傾け、数瞬の沈黙の後、小さく頷いた。
「確かに、水音が…!若殿、もしや川の近くまで参れば道筋が見つかるやもしれませぬな!」
「然り。水沿いならば開けた場所があろう。皆、ここから川音を頼りに進もうぞ!」
忠三郎の号令に、兵たちの顔にも少しの光が差したようだった。そして一行は、水音を道標に、火の手を背にして再び森を駆け抜け始めた。
小川のせせらぎの音が耳をくすぐる中、忠三郎は星空を見上げた。頭上の木々が切れ、ぽっかりと覗いた夜空には無数の星が瞬いている。その中でも、ひときわ目を引く七つの星が連なる形――その剣先にあたる星が輝いていた。
「あの星は…」
忠三郎の声が小さく漏れる。見覚えがある。七つの星の剣先、かつて佐助から教えられたその名を思い出す。
『大陸では破軍星と呼ばれ、あの星に向かって戦えば勝利を掴み、背を向ければ敗北すると伝わる星でござります』
『破軍星…』
星降る夜、佐助が焚火を囲む中で語ったその言葉が脳裏に甦る。
『はい。ここ、日の本においても、古より弓矢神と呼ばれる軍神で…』
佐助の声は、どこか厳かで、その星には、不思議な力が宿っているかのように思えたのを覚えている。
さらに、佐助が最も力を込めて教えてくれたのは――
『あの星に限っては、いかなる季節においても、常に北の空に位置しておるため、闇夜に活動する素破であれば、誰しも覚えておる星で』
忠三郎はその言葉を反芻し、深く息をつく。
(破軍星…北の空に常に輝く星。闇夜に迷えば、この星を目印とせよと佐助は教えてくれた…)
森に閉ざされ、行き先を失いかけた状況で、この星が再び目印となるかもしれない。忠三郎の胸には、僅かながらも希望の光が灯った。
「爺、あの星を目印とする。あれが北じゃ。川沿いに進み、森を抜けるぞ」
「はっ!」
星の力を借り、忠三郎たちは再び希望を胸に進み始めた。
小川の流れに沿って歩みを進める中、忠三郎は星空を頼りに前を進み続けた。破軍星――常に北に輝く星。その存在が、暗闇の中で行くべき方向を示してくれる。
「若殿、川のせせらぎも少しずつ大きくなっておりまする。この先、開けた場所に出られるやもしれませぬぞ!」
町野左近が少し明るい声を出す。忠三郎は無言のまま頷き、木々の間を進んだ。
(破軍星に背を向けることなかれ…)
佐助の言葉が再び胸をよぎる。いつしか忠三郎の心には、この星がまるで見えざる守護者のように感じられるようになっていた。
やがて、小川は大きな岩場に差し掛かり、その先には木々が途切れた場所が現れた。夜風が吹き抜け、月明かりが微かに辺りを照らす。
「若殿、ここは…」
「ようやく、森を抜けたか」
忠三郎は目の前に広がる開けた景色に安堵の息を漏らす。月明かりの下には遠くに平野が広がり、いくつかの炎の揺らめきが見える。おそらく本隊の陣営だろう。
ホッと安堵したのも束の間、耳に突き刺さる左近の悲鳴じみた声が響いた。
「若殿!敵襲でござる!」
その声と同時、銃声が闇を裂き、忠三郎らの前に小高い丘が姿を現す。そこに立つのは馬上の武者。
「おお、忠三郎、そこにおるな!」
闇をも貫く大音声に、兵らのざわめきが広がる。
「あれなるは新介か…」
火の手を逃れてきたこの道筋を知り、待ち受けていたようだ。新介の声高な呼ばわりに、忠三郎が馬首を巡らせんとした刹那、町野左近が慌ててそれを押し留めた。
「若殿!ここにおられることを敵に知られてはなりませぬ。急ぎあちらへ退かれませ!」
「されど、新介に背を向けるは…」
言いかけて、丘の上から突撃する騎馬兵の姿を目にした。その数百にも及ぶ。 町野左近はなおも懸命に忠三郎の手綱を引き、急かす。
「若殿!このままでは間に合いませぬ!いますぐお逃げくだされ!」
「いや、この距離では…」
と言いかけたとき、にわかに地鳴りのような轟音が響き渡り、空気が震えた。
その音の元を探らんと見ると、丘の下には燃え上がる炎。追いすがらんとする新介の一隊と忠三郎らの間を隔て、炎が舞い踊るように燃え広がっている。
「これは何と!」
驚愕する忠三郎を余所に、町野左近が声を張り上げる。
「何やら訳も分かりませぬが、これぞ天が授けたもうた好機!若殿、急ぎ参りませ!」
「心得た!」
町野左近に背を押されるように、忠三郎は馬の腹を蹴る。後ろを振り返れば、燃え盛る炎と混乱する新介の兵たち。その正体はついぞ知る由もなかったが、忠三郎らは無事にその場を脱し、夜の闇へと駆け抜けていった。
「おのれ、これでは満足に歩くこともままならぬ…」
後方の兵の一人が愚痴を漏らすのを耳にし、忠三郎は口元を引き締めた。
(これほどの道、敵が不用意に隙を晒しているとは思えぬ…)
中ほどまで進んだところで、忠三郎は手を上げて進軍の足を止めた。周囲の兵たちはその合図を受け取り、小声で指示を伝え合いながら所定の位置に散開していく。森の中は一層静まり返り、遠くで鳴く鳥の声だけが、かすかに耳を掠めていた。
ここで夜を待つ。堀久太郎が先んじて搦手口の城門を破り、城内に侵入した合図が届けば、忠三郎も兵を率いて城内へなだれ込む手筈となっている。
「ここから先は、声を上げぬように。動くもまた慎重にせよ」
忠三郎は低い声で命じ、兵たちに緊張を促した。草木の隙間から見える夕空は、すでに淡い茜色に染まり始めていた。
(久太郎の一隊は、既に搦手口へと達しているか…)
そう思いつつも、忠三郎の胸には不安が募っていた。風に揺れる木々の音すら、どこか耳に触る。
叔父は、搦手口であれば、比較的、敵兵が少ないだろうと言っていた。こうして実際に進んでみると、その言葉の裏付けも取れる。ここまでの道は苔むした岩場に覆われ、急斜面が続く。その上、木々が密生し、ただでさえ狭い道筋がさらに歩きづらい。これでは大軍を送り込むのが難儀なのも頷ける。
(されど…)
忠三郎は険しい山道を見下ろしながら、眉をひそめた。
(もしやこれが敵の企てであれば…)
不吉な思いが胸中にわき起こり、冷たい汗が背筋を伝う。敵の目論見通り、この狭い道を選んだがゆえに、大損害を被ることになる可能性も考えられる。
(罠だとすれば、敵は狭き道を利用し、攻め入る我らを一網打尽にするつもりかもしれぬ…)
忠三郎は思わず周囲を見回した。静寂が耳を打つ中、風に揺れる木々のざわめきが、敵の忍び寄る気配にすら思えてくる。
張り詰めた時が続き、いつの間にか周囲は闇に包まれていた。夜の静けさが一層、緊張を引き立てる。
(そろそろ久太郎が動き出す頃…)
忠三郎は冷えた夜風に触れながら、ゆっくりと立ち上がった。森の中は月明かりも届かず、暗闇に覆われている。耳を澄ませば、遠くからかすかな足音や、甲冑が擦れる音が聞こえるような気がした。
(搦手口への攻撃が始まれば、城方も混乱に陥るはず。それから攻め入るのがこちらの役目)
しかし胸中には未だ一抹の不安が残る。久太郎が搦手口を突破したその先で何が待っているのか、想像するだけで胸がざわつく。
(ここまで来た以上、もはや引き返すことは叶わぬ)
忠三郎は手に持った槍を軽く握り直し、周囲の兵たちに目をやった。緊張の中にあっても、彼らの表情には迷いが見えない。
(皆の覚悟に応えねばならぬ。それが大将の務め…)
忠三郎は静かに深呼吸をし、目を閉じた。やがて、どこか遠くから鉄砲の音が聞こえてきた。それは夜討ちが始まったことを告げる合図だった。
鬨の声が森の闇を引き裂くように響き渡った。その後に続くのは、耳をつんざくような銃声。夜空を照らす火花のような閃光が森の奥から微かに見える。
(ついに始まったか…)
忠三郎は槍を握りしめながら、胸中で念じた。城方の反撃が予想以上に激しいらしく、時折響く地鳴りのような大きな音が夜の静寂をさらに乱す。
「若殿、何やら搦手口で大きな戦が起こっているようにございます」
町野左近の報告に、忠三郎はうなずく。
「敵が慌てておる証拠だ。それに紛れて、我らも時を見計らう」
しかし、胸の奥には新たな疑念が湧き起こる。これほど激しい反撃を、果たして敵が偶然に準備していたのだろうか。
(やはり…この状況、何かがおかしい)
そう思った時、
「若殿!一大事でござります!」
暗がりの中で誰かが駆け寄り、息も絶え絶えに報告を続ける。
「敵方が仕掛けてきたのでござります!搦手口を目指していた堀様の一隊が火攻めに遭い、その火が森にも燃え広がっておりまする!」
振り返ると、すぐそばの木々が赤々と燃え始めていた。森を覆う闇が炎に追い払われ、空気が熱を帯びて肌に刺さる。
「何…!」
忠三郎は思わず槍を握り締めた。
「それで、久太郎は?」
「はっ、搦手口付近で大混乱に陥っている様子にござりまする!兵が散り散りになり、戻るべき道も封じられておりまする!」
(これは…まさか、罠か…!)
忠三郎の胸に蘇るのは、叔父・盛信の言葉だった。
「搦手口から忍び寄るが肝要…」
その言葉が今となっては裏切りの凶刃のように胸に突き刺さる。
「全軍、退け!このままでは焼け死ぬ!」
忠三郎の怒号が森に響き渡る。辺りには燃えさかる炎の音と、兵たちの慌てふためく声が渦巻いていた。
風が強く、火の巡りが早い。煙は猛り狂う獣の如く、森を覆い尽くさんとする勢いで迫ってくる。忠三郎は、その獣に飲まれぬよう、ひたすら山道を駆け抜けた。
しかし、不案内な山中である。右も左も分からず、木々の影がどれも同じに見える中、ただ本能の赴くままに火の手から逃れ続ける。
気がつけば、背後に付き従う兵の数も心もとないものとなっていた。数えるほどの兵士に、かろうじて町野左近が息を切らしながらついてきている。
「若殿!我ら、兵とはぐれてしまいましたぞ!」
町野左近の情けない声が背後から届くが、忠三郎には返す余裕もない。ただ荒い息を整えつつ、前方を睨み続けるのみであった。
(かような夜の山中で、どうやって森を抜ければよいものか…)
夜陰は深く、森は暗黒に包まれ、進むべき方向すら知れない。火の手は迫り、煙が鼻をつく中、頭に浮かぶのはただ一つ――とにかく森を抜け、本隊と合流しなければ…。
「若殿、いかがなされまする!どこを目指せばよいのやら…!」
町野左近がしがみつくような声を上げ、忠三郎は思わず笑った。全く頼りにならないが、緊張感をやわらげる役割だけはしっかりと果たしてくれている。
「爺、我らに明かりを持つ者はおらぬか?」
「明かりとて、皆、煙にまかれてしまい申した…」
町野左近は肩を落としつつ答える。その姿に忠三郎は目を伏せ、静かに言葉を漏らした。
「ならば目を凝らせ。この暗がりに慣れるまで、ひとまずここで気を整えるぞ」
忠三郎の言葉に、町野左近と数名の兵も息を呑んでその場に立ち尽くす。月明かりも頼りない森の中で、彼らの息遣いだけが静寂の中に響く。
(火の手はすぐそこまで迫っている…されど、無闇に進めば再び道を見失う)
忠三郎はふと耳を澄ませた。遠くから、微かに川のせせらぎの音が聞こえてくる気がした。
「爺、耳を澄ませ。水音が聞こえぬか?」
町野左近は訝しげに耳を傾け、数瞬の沈黙の後、小さく頷いた。
「確かに、水音が…!若殿、もしや川の近くまで参れば道筋が見つかるやもしれませぬな!」
「然り。水沿いならば開けた場所があろう。皆、ここから川音を頼りに進もうぞ!」
忠三郎の号令に、兵たちの顔にも少しの光が差したようだった。そして一行は、水音を道標に、火の手を背にして再び森を駆け抜け始めた。
小川のせせらぎの音が耳をくすぐる中、忠三郎は星空を見上げた。頭上の木々が切れ、ぽっかりと覗いた夜空には無数の星が瞬いている。その中でも、ひときわ目を引く七つの星が連なる形――その剣先にあたる星が輝いていた。
「あの星は…」
忠三郎の声が小さく漏れる。見覚えがある。七つの星の剣先、かつて佐助から教えられたその名を思い出す。
『大陸では破軍星と呼ばれ、あの星に向かって戦えば勝利を掴み、背を向ければ敗北すると伝わる星でござります』
『破軍星…』
星降る夜、佐助が焚火を囲む中で語ったその言葉が脳裏に甦る。
『はい。ここ、日の本においても、古より弓矢神と呼ばれる軍神で…』
佐助の声は、どこか厳かで、その星には、不思議な力が宿っているかのように思えたのを覚えている。
さらに、佐助が最も力を込めて教えてくれたのは――
『あの星に限っては、いかなる季節においても、常に北の空に位置しておるため、闇夜に活動する素破であれば、誰しも覚えておる星で』
忠三郎はその言葉を反芻し、深く息をつく。
(破軍星…北の空に常に輝く星。闇夜に迷えば、この星を目印とせよと佐助は教えてくれた…)
森に閉ざされ、行き先を失いかけた状況で、この星が再び目印となるかもしれない。忠三郎の胸には、僅かながらも希望の光が灯った。
「爺、あの星を目印とする。あれが北じゃ。川沿いに進み、森を抜けるぞ」
「はっ!」
星の力を借り、忠三郎たちは再び希望を胸に進み始めた。
小川の流れに沿って歩みを進める中、忠三郎は星空を頼りに前を進み続けた。破軍星――常に北に輝く星。その存在が、暗闇の中で行くべき方向を示してくれる。
「若殿、川のせせらぎも少しずつ大きくなっておりまする。この先、開けた場所に出られるやもしれませぬぞ!」
町野左近が少し明るい声を出す。忠三郎は無言のまま頷き、木々の間を進んだ。
(破軍星に背を向けることなかれ…)
佐助の言葉が再び胸をよぎる。いつしか忠三郎の心には、この星がまるで見えざる守護者のように感じられるようになっていた。
やがて、小川は大きな岩場に差し掛かり、その先には木々が途切れた場所が現れた。夜風が吹き抜け、月明かりが微かに辺りを照らす。
「若殿、ここは…」
「ようやく、森を抜けたか」
忠三郎は目の前に広がる開けた景色に安堵の息を漏らす。月明かりの下には遠くに平野が広がり、いくつかの炎の揺らめきが見える。おそらく本隊の陣営だろう。
ホッと安堵したのも束の間、耳に突き刺さる左近の悲鳴じみた声が響いた。
「若殿!敵襲でござる!」
その声と同時、銃声が闇を裂き、忠三郎らの前に小高い丘が姿を現す。そこに立つのは馬上の武者。
「おお、忠三郎、そこにおるな!」
闇をも貫く大音声に、兵らのざわめきが広がる。
「あれなるは新介か…」
火の手を逃れてきたこの道筋を知り、待ち受けていたようだ。新介の声高な呼ばわりに、忠三郎が馬首を巡らせんとした刹那、町野左近が慌ててそれを押し留めた。
「若殿!ここにおられることを敵に知られてはなりませぬ。急ぎあちらへ退かれませ!」
「されど、新介に背を向けるは…」
言いかけて、丘の上から突撃する騎馬兵の姿を目にした。その数百にも及ぶ。 町野左近はなおも懸命に忠三郎の手綱を引き、急かす。
「若殿!このままでは間に合いませぬ!いますぐお逃げくだされ!」
「いや、この距離では…」
と言いかけたとき、にわかに地鳴りのような轟音が響き渡り、空気が震えた。
その音の元を探らんと見ると、丘の下には燃え上がる炎。追いすがらんとする新介の一隊と忠三郎らの間を隔て、炎が舞い踊るように燃え広がっている。
「これは何と!」
驚愕する忠三郎を余所に、町野左近が声を張り上げる。
「何やら訳も分かりませぬが、これぞ天が授けたもうた好機!若殿、急ぎ参りませ!」
「心得た!」
町野左近に背を押されるように、忠三郎は馬の腹を蹴る。後ろを振り返れば、燃え盛る炎と混乱する新介の兵たち。その正体はついぞ知る由もなかったが、忠三郎らは無事にその場を脱し、夜の闇へと駆け抜けていった。
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だが、いかに立身出世を果たそうと、則頼の脳裏には常に、真逆の生き様を示して散った一人の「宿敵」の存在があったことを知る者は少ない。
時に幇間(太鼓持ち)と陰口を叩かれながら、身を寄せる相手を見誤らず巧みに戦国乱世を泳ぎ切り、遂には筑後国久留米藩二十一万石の礎を築いた男の一代記。
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