獅子の末裔

卯花月影

文字の大きさ
上 下
112 / 134
21.北勢燃ゆ

21-4. 動乱の前触れ

しおりを挟む
 伊勢と近江の境に連なる山々にはいくつもの峠があり、往来の要所ともなる。忠三郎の母方の叔父にあたる千種三郎左衛門が抑える千草峠も、その一つ。この峠は、近ごろの不穏な空気が漂う中でも、いまだ問題なく通行が叶う、数少ない道であった。

 千草峠を越え、北勢へと続々と届く畿内や江南の様子は、一益の耳にもしばしば入っていた。その多くは、羽柴秀吉が次第に勢力を強めていることを示すもので、信長亡き後の織田家の行く末を憂う者たちの声が、峠を越えるたびに膨らんでいくようでもあった。

 また、各地から集まる情報は、ただ不穏な空気を伝えるのみならず、時には戦略の機微を示唆するものであった。一益はこれらを見逃さず、精査し、北勢防衛の糧としていた。

 長島城の広間には緊張感が漂っていた。開戦を目前に控え、北勢防衛の要たる評定はその最終段階に差し掛かっていた。誰もが己の役割を胸に刻みつつ、いよいよ決戦かと気を引き締める中、素破たちがもたらした新たな情報が場の空気を変えた。

「蒲生忠三郎が虎様を羽柴筑前の側室として差し出した、と」
 知らせを聞いた三九郎は思わず耳を疑い、隣に座る義太夫も驚愕のあまり息を呑んだ。
「蒲生家は、代々続く名家である。ましてや、あの忠三郎の父が、かような真似に及ぶなど、信じ難い…」
 三九郎は額に手を当て、必死に情報の真偽を吟味しようとする。忠三郎の性格や家柄を考えると、到底、腑に落ちない話だ。

 しかし、その後も同様の報せが次々と異なる筋から届けられる。評定の場はざわめき始め、疑念が膨らむ中、さらなる知らせが忠三郎の元にいる章姫から届けられた。

「虎様は、みごもっておいでだとか…」
 評定の場は一瞬にして静まり返った。その場に集う者たちは、皆、三九郎の心中を察し、あえて言葉を発する者はいなかった。重い沈黙が場を包む中、義太夫が決意したように口を開いた。
「若殿。これは、尋常ならざる事態かと…」
 義太夫の声が、重苦しい場の沈黙を破った。しかし、三九郎はその言葉に答えず、ただ深く息を吐き、視線を伏せたままだった。

 義太夫はその様子にさらに重い胸の内を抱えながら、一歩前へ進み、少し声を落として問いかけた。
「若殿にはすでに、ご存じのことでござりましたか…?」
 三九郎はしばらく無言のままだったが、やがてゆっくりと頷いた。
「…助太郎が戻った折に、聞いておる」
 その言葉に、場にいた家臣たちはさらに息を呑んだ。すでにその知らせを知っていながら、三九郎は何も語らず、ただ静かにその事実を受け入れていたという。
 
「若殿はそれで…手をこまねいて見ておると?奥方があのような卑賤な者の側女にされて、ただ、耐えると仰せで?」
 佐治新介があえて挑発的に口にしたその言葉に、居並ぶ家臣たちの間に緊張が走る。場の空気が一変する中、三九郎は鋭い眼差しを新介に向けた。
「聞き捨てならぬ!」
「されど、若殿。お耐えあそばされるだけでは、虎様もそのお腹のお子も、どのような運命を辿るやも知れませぬぞ」
 三九郎の手が拳を作り、膝の上で震えた。そして顔を上げると、周囲の家臣たちを悲痛な表情で見回し、ぽつりと呟いた。
「虎を…奪い返すことは、叶わぬのか…」
 その声には怒りよりも、どうしようもない悲しみと諦めの色が滲んでいた。
 家臣たちは目を伏せ、答える者はいない。たとえ一益や北勢の軍勢をもってしても、秀吉の手中にある虎を奪い返すことは、極めて困難だ。

「三九郎。そして皆も、軽挙妄動は控えよ」
 それまで黙っていた一益が口を開くと、居並ぶものが一斉に一益を見る。
「父上」
 三九郎は胸に渦巻く激情を隠すことなく、一歩前に出て父を睨むように見据えた。
「このままでは、それがしは家中どころか、世人からも笑いものとなりまする。それを耐えよと、そう仰せでござりまするか?」
 三九郎の声には怒りが滲み、居並ぶ者たちも息を呑む。しかし一益はただじっと三九郎を見つめた後、目を閉じ、深く息をつくと、口を開いた。

「怒りに任せて己を忘るるな。焦りや激情に身を委ね、道を誤ることは許されぬ」
 その声音は静かでありながら、座中に響くような威厳を帯びていた。
「これまで評定を重ねてきたのは、一重に故右府様から委ねられたこの地を守るため。皆で申し合わせた通りに事を進めねば、勝てるものも勝てなくなろう」
 一益の言葉に、沈黙が場を包んだ。三九郎は拳を握りしめたまま、父の言葉を噛み締めるようにじっと聞いていた。理は分かる。しかし、分かるからこそ胸に渦巻く感情を持て余す。

 名誉が失われ、世人の嘲笑を背負うことがいかに苦しいか、痛いほど理解していた。それでも、父の目には一片の迷いもない。そこにあるのは、この動乱を生き抜く覚悟と、守るべきものへの責任だけだ。

 三九郎は口を閉ざしたまま、一歩後ろへと下がる。しかし、その目には悔しさと怒り、そして耐え難い屈辱が浮かんでいた。心の奥底で炎のように燃え上がるその感情は、言葉にすれば裂けるほどの苦痛だった。
「――委細承知、仕りました」

 かすかに震える声でそう告げると、三九郎は静かにその場を離れた。その背中は、どこか重々しく沈んで見えた。屈辱に耐え、飲み込んだ激情が、やがて何に変わるのか。それは誰にも分からぬまま、ただ冷えた風がその場を吹き抜けていった。


 一月半ば、厳しい冬の空が広がる中、忠三郎は一連の祝いの儀を終え、叔父・関盛信、そして従弟の関一政を伴い、羽柴秀吉の前に伺候した。綿向山の冬の冷気が、忠三郎の心に何か重い影を落としているようだった。

 冬の冷え込みが厳しい夜だった。外は白い息が立ち上るほどの寒さだが、広間には薪の火が暖かく燃え、微かに乾いた木の香りが漂っていた。
 忠三郎は秀吉に対して形式的な祝辞を述べつつも、その眼差しには、互いの真意を探り合うような鋭さがあった。
「忠三郎殿が来てくだされたのじゃ。これで天下も収まるというもの。なに、わしは戦さなんぞは望んではおらぬ。故右府様がもたらした泰平の世を再び戦国の世に戻すことなど、恐れ多いことじゃ」
 秀吉は声高らかに笑い、明るさを振りまいた。その笑顔には、意図的とも思える無邪気さが漂っている。

 忠三郎は秀吉の言葉を静かに聞きながら、その表情の裏に潜む真意を探ろうとしていた。戦を望まぬと言いながら、その眼差しには、天下の覇権を狙う者ならではの鋭さが宿っている。
「それを聞き、安堵いたしました。織田家の臣として、これからも力を尽くす所存でござります」
 と、忠三郎は一礼した。

 秀吉は頷きながら酒を口に含み、微笑みを浮かべた。
「うむ、それでこそ蒲生家の御嫡子。右大臣様が目をかけて娘婿とした御仁じゃ。わしも忠三郎殿の働きに大いに期待しておる」
 だが、その声の調子がいかにも軽やかである一方で、忠三郎の胸の中には一抹の不安が渦巻いていた。秀吉の明るい言葉の奥底に潜むものを感じながらも、それを確かめる術はない。

「のう、忠三郎殿。我らは信長公のもと、長年労苦してきた。それを今更、無にするようなことを、わしが望むはずもない。そうであろう?」
 何か、含むような言い回しだ。気にはなるが言われてみると、秀吉の言う通りかもしれない、と思い始めた。
「おぬしもそうではないか?再び戦国の世となることは望んではおるまい?」
 秀吉が忠三郎の顔を覗き込むように言うと、忠三郎も深くうなずく。
「それは無論」
 忠三郎は頷きながらも、胸中にはもやもやとした霧が立ち込めていた。

(羽柴筑前の申すことは尤も。再び戦乱が広がることなど、誰が望もうか…)

 だが、その言葉の裏に潜む真意を探ろうとする自分もいる。
 秀吉は穏やかな笑顔で盃を傾け、忠三郎の顔をじっと見つめている。その視線は、燃える薪のように優しげでありながら、どこかじんわりと忍び寄る熱を感じさせた。

「のう、忠三郎殿」
 秀吉の声が静かに響く。外から吹き込む冷たい風が障子を揺らし、その音が妙に心に残る。
「この乱世を終わらせるには、強き意志と知恵が必要じゃ。信長公が築かれた礎を守るためにも、我らが一丸となるべきと思わぬか?」

 忠三郎は手元の盃を見つめながら、静かに頷いた。
「仰せの通り、乱世の再来は望むところではございませぬ」
 その声は確かに心からのものだった。戦乱で荒れた地を目にしてきた忠三郎には、泰平の有難さが骨身に染みていた。

 薪が弾ける音が静寂を破る。秀吉はその音に微笑を漏らしながら、さらに続けた。
「忠三郎殿。織田家を二つに割るような争いを避けるためにも、我らが一致団結するのが肝要じゃ。おぬしも、わしの考えに同意してくれると思うておったわい」

 その言葉に、忠三郎の胸には一瞬の迷いが生じた。秀吉の言葉は正しい。織田家の未来を考えるなら、対立ではなく統一が必要だ。それに、秀吉の人心を掴む力は計り知れない。あの信長ですら、秀吉を信頼し、重用していたのだから。
「…確かに」
 忠三郎は口を開き、慎重に言葉を選びながら応じた。
「筑前殿の仰せも、尤もなことかと」

 秀吉が満足そうに頷き、杯を持ち上げる。
「さすが忠三郎殿。おぬしのような賢き御方が理解してくれることは、何より心強いわ!」
 外では北風が木々を揺らし、霜の降りた庭をざわめかせていた。忠三郎はふと障子越しにその景色を思い浮かべ、胸の中で何かが静かに揺れ動いているのを感じた。

(筑前の言うことは正しい。されど、この道を進めば、義兄上や義太夫とは袂を分かつことになるかもしれぬ…)
 心の片隅に宿る不安と後悔を、冷たい風が吹き消していくような気がした。
「それがしも、この乱世に終止符を打つため、力を尽くす所存にございます」

その言葉に、秀吉の顔がさらに明るくなり、熱を帯びた声で応じた。
「うむ!その気概、嬉しい限りじゃ!」

 冬の夜は深まっていく。忠三郎の胸にはなおも葛藤が残っていたが、暖かな薪の火のように、秀吉の熱意がじわじわとその心を溶かし始めているのを、認めざるを得なかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

遠い昔からの物語

佐倉 蘭
歴史・時代
昭和十六年、夏。 佐伯 廣子は休暇中の婚約者に呼ばれ、ひとり汽車に乗って、彼の滞在先へ向かう。 突然の見合いの末、あわただしく婚約者となった間宮 義彦中尉は、海軍士官のパイロットである。 実は、彼の見合い相手は最初、廣子ではなく、廣子の姉だった。 姉は女学校時代、近隣の男子学生から「県女のマドンナ」と崇められていた……

大航海時代 日本語版

藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった――― 関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった ―――鎖国前夜の1631年 坂本龍馬に先駆けること200年以上前 東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン 『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

直違の紋に誓って

篠川翠
歴史・時代
かつて、二本松には藩のために戦った少年たちがいた。 故郷を守らんと十四で戦いに臨み、生き延びた少年は、長じて何を学んだのか。 二本松少年隊最後の生き残りである武谷剛介。彼が子孫に残された話を元に、二本松少年隊の実像に迫ります。

鬼嫁物語

楠乃小玉
歴史・時代
織田信長家臣筆頭である佐久間信盛の弟、佐久間左京亮(さきょうのすけ)。 自由奔放な兄に加え、きっつい嫁に振り回され、 フラフラになりながらも必死に生き延びようとする彼にはたして 未来はあるのか?

【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝

糸冬
歴史・時代
有馬法印則頼。 播磨国別所氏に従属する身でありながら、羽柴秀吉の播磨侵攻を機にいちはやく別所を見限って秀吉の元に走り、入魂の仲となる。 しかしながら、秀吉の死後はためらうことなく徳川家康に取り入り、関ヶ原では東軍につき、摂津国三田二万石を得る。 人に誇れる武功なし。武器は茶の湯と機知、そして度胸。 だが、いかに立身出世を果たそうと、則頼の脳裏には常に、真逆の生き様を示して散った一人の「宿敵」の存在があったことを知る者は少ない。 時に幇間(太鼓持ち)と陰口を叩かれながら、身を寄せる相手を見誤らず巧みに戦国乱世を泳ぎ切り、遂には筑後国久留米藩二十一万石の礎を築いた男の一代記。

満州国馬賊討伐飛行隊

ゆみすけ
歴史・時代
 満州国は、日本が作った対ソ連の干渉となる国であった。 未開の不毛の地であった。 無法の馬賊どもが闊歩する草原が広がる地だ。 そこに、農業開発開墾団が入植してくる。 とうぜん、馬賊と激しい勢力争いとなる。 馬賊は機動性を武器に、なかなか殲滅できなかった。 それで、入植者保護のため満州政府が宗主国である日本国へ馬賊討伐を要請したのである。 それに答えたのが馬賊専門の討伐飛行隊である。 

処理中です...