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19.天下騒乱
19-6. 新たなる野望
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六月八日、信長の横死から六日が経った。忠三郎はその思いを胸に固く抱き、軍勢を率いて日野中野城を出陣した。鎧の重さも今は感じない。背後で揺れる旗指物が風にひるがえるたびに、心の中で静かに火が燃え広がっていくのを感じる。皆の視線を一身に受けながら、堂々と前を見据えて進んでいた。
城から石原の地まで兵を進める。この先は笹尾峠。峠の向こうが土山になる。この道は土山から鎌掛、石原、八日市を経由し、東山道小幡宿へと抜ける険しい山道で、大軍が通るには適してはいない。
周囲は静まり返り、かすかな鳥の声だけが響いている。戦場の気配に緊張が張り詰める中、忠三郎はその場で軍勢を整えた。敵が迫るこの地において、もはや退くという選択肢はない。
「土山まで来ているのであれば、中将殿も直に参られよう。爺、使者を送り、我らがここに陣を構えておることを、お伝えせい」
「ハハッ」
忠三郎の命を受け、使者が駆け出していく。南勢から兵を集めてきているのであれば、一万、いや二万は下らないだろう。
家臣たちの顔に緊張と覚悟が浮かぶ。北畠中将こと織田信雄――織田家の次男として、信長、信忠亡き後の織田家を背負い、謀反人を討つ重責を担う立場にある。家臣たちは互いに目を合わせながらも無言のうちに頷き合う。
「さしもの中将殿も、覚悟を決めてこの戦に挑まれておられるであろう」
誰しもそう思っていた。梅雨の静けさに包まれた初夏の山里に、霞みがかった朝霧が漂う。かすかな緑の香りが鼻をくすぐり、近くを流れる小川のせせらぎが耳を優しく打つ。幾重にも重なる木々の葉は、露をまとい、わずかな光を受けてきらきらと輝いていた。自然が見せる美しさに一瞬心を和ませつつも、胸中にはどこか燃えるような焦燥が静かに沸き上がっていた。
その時、戻ってきた使者が頭を垂れ、思いもよらぬ言葉を口にする。
「これ以上、先へは進めぬと仰せでござりました」
「それはまた、何ゆえに?我が家からは中将殿の申し出に従い、人質まで送ったというに、未だ我らをお疑いか?」
しかし、使者はいえ、と首を横に振る。
「中将様は若殿の忠義を称え、大変お悦びでござりました。さりながら、不届きな伊賀の者どもが、異変を聞きつけ、一揆を起こしておるとの知らせが入り、まずこの一揆を鎮圧するのが先と仰せで」
遠くに見える鈴鹿の山並みが、あたかも静かな憂いを帯びているように見える。風がわずかに枝を揺らし、葉のさざめく音が耳に触れるとともに、忠三郎の心にもまた静かな苛立ちが募っていく。
「若殿、如何いたしましょうや。北畠勢がいなければ、我が方は到底、明智勢には叶わぬものかと…」
山深いこの地に広がる伊賀の者たちの気質は、先年の伊賀攻めで嫌というほど思い知らされた。表には出ず、闇に身を潜め、いつ叛旗を翻すとも知れぬ、不屈の抵抗心。伊賀の者たちは草の根のように、密かに生きながらえ、機を見てはじわじわと勢力を拡げているようだ。
(地に潜み、叛旗を翻す時を伺っていたのか…)
噂で耳にした都から尾張、美濃に至る治安の乱れが脳裏をよぎる。略奪が横行し、安穏だった村々も荒らされているという。天下泰平の夢が訪れようとしていた矢先、再び混沌の時代が戻ってきたかのようだ。夏の日差しにわずかに霞む山並みの奥深く、世の中の乱れがあたかもこの山間にも影を落としているように見えた。
「ここで北畠勢を待つ。北畠勢が現れず、敵が攻め寄せてきたときには、迎え撃つまで。皆、心して支度にかかれ」
忠三郎の声に、家臣たちは静かに頷き、それぞれの役割へと散っていく。
山風が吹き抜け、草木がざわめく音が耳に届く。静寂の中に、忠三郎と家臣たちの胸中にある緊張が高まり、やがてどこからともなく一羽の鷹が青空を舞い上がり、鋭い鳴き声を響かせた。
(必ず、織田家の誰かが上洛してくる。それまで、少しの間でも時を稼ぐことができれば、城は救われる)
この先の戦の行方は誰にもわからない。だが、城と民を守り、武士の誇りを全うすることこそ自らの使命であると感じていた。
風が木々を揺らし、遠くの山々は薄霞に包まれ、どこか儚げな空気をまとっていた。
「大軍を率いて来ておるのじゃ。一揆の鎮圧なぞ、さして時を要するまい。ここで静かに待つとしようではないか」
ふっと肩の力を抜き、そう言った忠三郎の声は、妙にのんびりとしている。
「は、ここで?」
訝しげに顔を上げた町野左近が、不思議そうに忠三郎を見やる。鋭い眼光で兵を鼓舞していたかと思えば、いつの間にやら、またも普段の悠然とした姿へと戻っている。
忠三郎の目は、静かに揺れる竹林の葉先を眺めるように穏やかで、口元には微かな微笑が浮かんでいる。その姿に、町野左近も思わず力が抜けるのを感じ、ただ静かに頷くほかはない。
その晩、忠三郎たちは石原で夜営を張り、しんと静まり返った夜の空気に身を沈めた。篝火が揺らめく中、年若い岡左内がもの言いたげに近づいてきた。
忠三郎は少し首をかしげ、穏やかに微笑む。
「如何した、左内。何か言いたげではないか」
岡左内は、齢十五。普段から歯に衣着せぬ物言いが多く、家中の者からは一風変わった男として知られ、何かと奇妙な発想で場をざわめかせることも少なくない。
「恐れながら、若殿はまた待つと仰せじゃ。一体、いつになったら、本腰を挙げて敵と戦う御所存か。大恩ある右府様を討たれ、逆臣を前にして、いつまでも手をこまねいて眺めておるなど、口惜しいとは思われぬか」
岡左内の真っ直ぐな言葉に、忠三郎は一瞬、驚いて目を見開いた。しかしすぐに、そのまっすぐな情熱を受け止めるかのように、やわらかな表情で応じる。
「左内、その憤り、痛いほど伝わっておる。おぬしの心の熱さが、わしの胸にも響いておる」
しかし、忠三郎の目はなおも穏やかだ。静かな夜の帳が落ちる中、岡左内はしばし黙り込み、遠くの山々を見渡すように視線を巡らせる。
「わしも、心の内では槍を構え、敵の策を突き破らんと望んでおる。だが、左内よ、焦らずともよい。風は、いつも我らが思わぬときに吹くもの。時が来れば、おぬしのその烈しさ、存分に役立てる場もあろう」
左内は思わず口を開きかけたが、忠三郎の静かな気迫に圧され、言葉をのみ込む。
「滝川様には…」
「知らせは送っておる。されど、何と言うても上野は遠い。伝令も、いまだ義兄上のもとへ届くには至らぬであろう」
左内は、忠三郎の悠然とした物言いに、胸中に抑えきれぬ苛立ちが広がるのを覚えた。あの信長も、一益も、忠三郎にとってはそれほどの存在でしかないのだろうか――そう思うと、思わずため息が漏れた。
「なんとも長閑な仰せ。若殿は気がせくことはござりませぬのか」
口にした言葉には、自らも抑えきれぬ焦燥が滲んでいた。一益にしても、はるか上野の地にある。知らせが届くまでには幾日かかることか。あまりにも悠長すぎるのではないか――そう問いかける気持ちが、左内の心に込み上げる。
しかし、忠三郎は変わらぬ調子でただ静かに微笑むのみ。その笑みは、秋風にさらされても落ちぬ梢の葉のごとく、あるいは夜空に浮かぶ星のごとく、揺らぐことを知らぬものだった。左内には、それがどうにもじれったく、はがゆかった。
(若殿は、右府様も滝川様もその程度の人としてしか見ておられぬのか。それとも、ただ…この乱世の波を、悠然と見据えておられるのか)
左内の心に、苛立ちと共に、小さな疑問が芽生える。それは忠三郎という人間の底知れなさ――戦の機を悟りながらも、静かに時を待つその姿に対する、複雑な想いだった。
忠三郎は、まだ何か言いたげな顔の岡左内を見て、柔らかに微笑んだ。小鳥が枝先でひと声鳴くように、静かに語りかける。
「左内、心得ておる。そう案ずるな」
肩を軽く叩くと、ようやく少し納得したように頭を下げた左内が、夜の薄明かりに紛れて去っていく。その後ろ姿が闇の向こうへ消えると、忠三郎は再び独り、篝火の前に佇んだ。初夏の風がふと頬を撫で、遠くからはかすかな虫の声が響いてくる。
知らせが届いたとして、一益はどう動くだろうか。信長亡き今、畿内の動乱は関東にも波及し、四面楚歌の状況に立たされるのは必至だ。一益が置かれた立場は、日野にいる自分以上に厳しいに違いない。遠く離れた異郷の地で、織田家の一角を支える重圧の中、一益もまた決して安易には進退を決められないだろう。
(再び、会う日がくるであろうか)
篝火の炎が微かに揺れ、暗闇にその揺らぎが溶け込んでゆく。忠三郎は一益の不愛想な顔を思い浮かべ、胸にぽつりと小さな痛みを覚える。見上げると、夜空には満天の星が瞬き、暗闇を照らしていた。夜風が頬をかすめ、遠くの山並みは薄い霧に包まれている。その奥に、星々が誰かの囁きを秘めたかのように輝いていた。静寂の中、星の光は限りなく遠いのに、どこか温もりを感じさせる。
(この空の下、義兄上も、そして義太夫も、この星を見ているであろうか…)
ふと、戦場を渡り歩く自分たちを見守るような、天の星々に思いを寄せた。今、目の前に広がる無数の光の一つひとつが、それぞれの地で尽力する者たちを象徴しているように思えた。
翌日、思わぬ知らせが届いた。
「日向守に呼応して兵をあげた大和の筒井勢が兵を引き、籠城の支度にとりかかっておりまする」
「筒井勢が兵を引いた?」
不可思議な話で、どうにも腑に落ちない。さらに、すでに近江に向かっていた兵さえも大和へ引き返しているという。
(ここにきて足を止め、守りを固めるとは…)
ただの戦略的な撤退であるのか、それとももっと大きな裏切りの兆しなのか。もしも後者であるならば、光秀にとって大きな痛手となるに違いない。
そこへ、町野左近が近づいてきて、どこか喜びを含んだ声で言う。
「若殿。これは我らの知らぬところで、なにやら風向きが変わっておるのでは?」
町野左近に応じるように、忠三郎はあどけない笑みを浮かべ、ひと息つくようにのどかに空を仰いだ。。
「敵味方の分かちも、風に散る落ち葉の如く、あちらこちらと移ろいゆく…そのようなものかもしれぬ」
常と変わらず、さながら他人事のように言う。そのたおやかな佇まいに、町野左近は苦笑を浮かべ、軽く頭を振る。忠三郎の冷静さには感心しつつも、町野は気を引き締め、さらに情報を集めるべく街道を行く者たちに声をかけるべく、家人たちを集める。
そこへ更に驚くべき報せが舞い込んだ。中国の地で毛利と対峙していた羽柴秀吉が、毛利との和議を結び、弔い合戦のためこちらへ向かいつつあるというのだ。
この知らせに、家臣たちは歓喜の声を上げた。
「羽柴殿の軍勢がいれば、もはや恐れるものはなし!」
手放しで喜ぶ家臣たちを尻目に、忠三郎は曖昧な笑顔を称え、ふと考えを巡らせる。
(早すぎる…)
置かれている状況、そして秀吉が従えている兵の数を鑑みれば、ここまで駆けつけるにしても異様な速さである。毛利と和議を結んだにしても、あまりに都合よく、事が運びすぎている。
(さながら、事前に知っていたかのような…)
胸にひとひらの疑念が舞い降りた。弔い合戦のためという名目を掲げながらも、すでにこの機に乗じる算段が練られていたのではないだろうか。
(ある程度のことを把握していたのであれば、兵を引く手筈を整えていたはず)
もし、日向守の動きを事前に察していたのならば、異様な速さで戻ってくることも可能だ。戦場での先を読む才に長けた羽柴筑前、かの者ならば、あるいはそれを予見していたかもしれない。
(あの羽柴筑前が、もしも、事前に日向守の動きを察していたのであれば…)
果たして、信長に知らせただろうか。秀吉が置かれていた状況は光秀とさほど変わらぬものだ。血と汗で築き上げた長浜城を堀久太郎に引き渡し、代わりに遠国への領地代えの命が下されていた。光秀同様、領土への執着心もまた、秀吉の胸の内で燻っていたことだろう。
(それをもって、あの男は何を成し、何を得ようとしているのか…)
心に淡い不安の影が差すのを感じ、空を仰ぎ、羽柴秀吉という男の生き様を思い浮かべた。下人から身を起こし、織田家の重臣にまで登り詰めたその姿は、あたかも天に手を伸ばすかのような野心そのものだ。普段の柔らかな笑顔や軽妙な語り口に、秀吉が鋭く隠し持つ野望を感じさせまいとする気配が滲んでいる。
(何も欲するところのない者が、ただそれだけであの高みまで上り詰めることなど、できるはずもない…)
忠三郎は思わず眉を寄せ、じっと思索を巡らせる。秀吉の底知れぬ野望が、光秀との戦にどのような形で顔を覗かせるのか。そして、信長亡き後の天下を、その手でどう掌握しようとしているのか——秀吉の行く末が、織田家の行く末とどう交わるのかを、心中で問うていた。
城から石原の地まで兵を進める。この先は笹尾峠。峠の向こうが土山になる。この道は土山から鎌掛、石原、八日市を経由し、東山道小幡宿へと抜ける険しい山道で、大軍が通るには適してはいない。
周囲は静まり返り、かすかな鳥の声だけが響いている。戦場の気配に緊張が張り詰める中、忠三郎はその場で軍勢を整えた。敵が迫るこの地において、もはや退くという選択肢はない。
「土山まで来ているのであれば、中将殿も直に参られよう。爺、使者を送り、我らがここに陣を構えておることを、お伝えせい」
「ハハッ」
忠三郎の命を受け、使者が駆け出していく。南勢から兵を集めてきているのであれば、一万、いや二万は下らないだろう。
家臣たちの顔に緊張と覚悟が浮かぶ。北畠中将こと織田信雄――織田家の次男として、信長、信忠亡き後の織田家を背負い、謀反人を討つ重責を担う立場にある。家臣たちは互いに目を合わせながらも無言のうちに頷き合う。
「さしもの中将殿も、覚悟を決めてこの戦に挑まれておられるであろう」
誰しもそう思っていた。梅雨の静けさに包まれた初夏の山里に、霞みがかった朝霧が漂う。かすかな緑の香りが鼻をくすぐり、近くを流れる小川のせせらぎが耳を優しく打つ。幾重にも重なる木々の葉は、露をまとい、わずかな光を受けてきらきらと輝いていた。自然が見せる美しさに一瞬心を和ませつつも、胸中にはどこか燃えるような焦燥が静かに沸き上がっていた。
その時、戻ってきた使者が頭を垂れ、思いもよらぬ言葉を口にする。
「これ以上、先へは進めぬと仰せでござりました」
「それはまた、何ゆえに?我が家からは中将殿の申し出に従い、人質まで送ったというに、未だ我らをお疑いか?」
しかし、使者はいえ、と首を横に振る。
「中将様は若殿の忠義を称え、大変お悦びでござりました。さりながら、不届きな伊賀の者どもが、異変を聞きつけ、一揆を起こしておるとの知らせが入り、まずこの一揆を鎮圧するのが先と仰せで」
遠くに見える鈴鹿の山並みが、あたかも静かな憂いを帯びているように見える。風がわずかに枝を揺らし、葉のさざめく音が耳に触れるとともに、忠三郎の心にもまた静かな苛立ちが募っていく。
「若殿、如何いたしましょうや。北畠勢がいなければ、我が方は到底、明智勢には叶わぬものかと…」
山深いこの地に広がる伊賀の者たちの気質は、先年の伊賀攻めで嫌というほど思い知らされた。表には出ず、闇に身を潜め、いつ叛旗を翻すとも知れぬ、不屈の抵抗心。伊賀の者たちは草の根のように、密かに生きながらえ、機を見てはじわじわと勢力を拡げているようだ。
(地に潜み、叛旗を翻す時を伺っていたのか…)
噂で耳にした都から尾張、美濃に至る治安の乱れが脳裏をよぎる。略奪が横行し、安穏だった村々も荒らされているという。天下泰平の夢が訪れようとしていた矢先、再び混沌の時代が戻ってきたかのようだ。夏の日差しにわずかに霞む山並みの奥深く、世の中の乱れがあたかもこの山間にも影を落としているように見えた。
「ここで北畠勢を待つ。北畠勢が現れず、敵が攻め寄せてきたときには、迎え撃つまで。皆、心して支度にかかれ」
忠三郎の声に、家臣たちは静かに頷き、それぞれの役割へと散っていく。
山風が吹き抜け、草木がざわめく音が耳に届く。静寂の中に、忠三郎と家臣たちの胸中にある緊張が高まり、やがてどこからともなく一羽の鷹が青空を舞い上がり、鋭い鳴き声を響かせた。
(必ず、織田家の誰かが上洛してくる。それまで、少しの間でも時を稼ぐことができれば、城は救われる)
この先の戦の行方は誰にもわからない。だが、城と民を守り、武士の誇りを全うすることこそ自らの使命であると感じていた。
風が木々を揺らし、遠くの山々は薄霞に包まれ、どこか儚げな空気をまとっていた。
「大軍を率いて来ておるのじゃ。一揆の鎮圧なぞ、さして時を要するまい。ここで静かに待つとしようではないか」
ふっと肩の力を抜き、そう言った忠三郎の声は、妙にのんびりとしている。
「は、ここで?」
訝しげに顔を上げた町野左近が、不思議そうに忠三郎を見やる。鋭い眼光で兵を鼓舞していたかと思えば、いつの間にやら、またも普段の悠然とした姿へと戻っている。
忠三郎の目は、静かに揺れる竹林の葉先を眺めるように穏やかで、口元には微かな微笑が浮かんでいる。その姿に、町野左近も思わず力が抜けるのを感じ、ただ静かに頷くほかはない。
その晩、忠三郎たちは石原で夜営を張り、しんと静まり返った夜の空気に身を沈めた。篝火が揺らめく中、年若い岡左内がもの言いたげに近づいてきた。
忠三郎は少し首をかしげ、穏やかに微笑む。
「如何した、左内。何か言いたげではないか」
岡左内は、齢十五。普段から歯に衣着せぬ物言いが多く、家中の者からは一風変わった男として知られ、何かと奇妙な発想で場をざわめかせることも少なくない。
「恐れながら、若殿はまた待つと仰せじゃ。一体、いつになったら、本腰を挙げて敵と戦う御所存か。大恩ある右府様を討たれ、逆臣を前にして、いつまでも手をこまねいて眺めておるなど、口惜しいとは思われぬか」
岡左内の真っ直ぐな言葉に、忠三郎は一瞬、驚いて目を見開いた。しかしすぐに、そのまっすぐな情熱を受け止めるかのように、やわらかな表情で応じる。
「左内、その憤り、痛いほど伝わっておる。おぬしの心の熱さが、わしの胸にも響いておる」
しかし、忠三郎の目はなおも穏やかだ。静かな夜の帳が落ちる中、岡左内はしばし黙り込み、遠くの山々を見渡すように視線を巡らせる。
「わしも、心の内では槍を構え、敵の策を突き破らんと望んでおる。だが、左内よ、焦らずともよい。風は、いつも我らが思わぬときに吹くもの。時が来れば、おぬしのその烈しさ、存分に役立てる場もあろう」
左内は思わず口を開きかけたが、忠三郎の静かな気迫に圧され、言葉をのみ込む。
「滝川様には…」
「知らせは送っておる。されど、何と言うても上野は遠い。伝令も、いまだ義兄上のもとへ届くには至らぬであろう」
左内は、忠三郎の悠然とした物言いに、胸中に抑えきれぬ苛立ちが広がるのを覚えた。あの信長も、一益も、忠三郎にとってはそれほどの存在でしかないのだろうか――そう思うと、思わずため息が漏れた。
「なんとも長閑な仰せ。若殿は気がせくことはござりませぬのか」
口にした言葉には、自らも抑えきれぬ焦燥が滲んでいた。一益にしても、はるか上野の地にある。知らせが届くまでには幾日かかることか。あまりにも悠長すぎるのではないか――そう問いかける気持ちが、左内の心に込み上げる。
しかし、忠三郎は変わらぬ調子でただ静かに微笑むのみ。その笑みは、秋風にさらされても落ちぬ梢の葉のごとく、あるいは夜空に浮かぶ星のごとく、揺らぐことを知らぬものだった。左内には、それがどうにもじれったく、はがゆかった。
(若殿は、右府様も滝川様もその程度の人としてしか見ておられぬのか。それとも、ただ…この乱世の波を、悠然と見据えておられるのか)
左内の心に、苛立ちと共に、小さな疑問が芽生える。それは忠三郎という人間の底知れなさ――戦の機を悟りながらも、静かに時を待つその姿に対する、複雑な想いだった。
忠三郎は、まだ何か言いたげな顔の岡左内を見て、柔らかに微笑んだ。小鳥が枝先でひと声鳴くように、静かに語りかける。
「左内、心得ておる。そう案ずるな」
肩を軽く叩くと、ようやく少し納得したように頭を下げた左内が、夜の薄明かりに紛れて去っていく。その後ろ姿が闇の向こうへ消えると、忠三郎は再び独り、篝火の前に佇んだ。初夏の風がふと頬を撫で、遠くからはかすかな虫の声が響いてくる。
知らせが届いたとして、一益はどう動くだろうか。信長亡き今、畿内の動乱は関東にも波及し、四面楚歌の状況に立たされるのは必至だ。一益が置かれた立場は、日野にいる自分以上に厳しいに違いない。遠く離れた異郷の地で、織田家の一角を支える重圧の中、一益もまた決して安易には進退を決められないだろう。
(再び、会う日がくるであろうか)
篝火の炎が微かに揺れ、暗闇にその揺らぎが溶け込んでゆく。忠三郎は一益の不愛想な顔を思い浮かべ、胸にぽつりと小さな痛みを覚える。見上げると、夜空には満天の星が瞬き、暗闇を照らしていた。夜風が頬をかすめ、遠くの山並みは薄い霧に包まれている。その奥に、星々が誰かの囁きを秘めたかのように輝いていた。静寂の中、星の光は限りなく遠いのに、どこか温もりを感じさせる。
(この空の下、義兄上も、そして義太夫も、この星を見ているであろうか…)
ふと、戦場を渡り歩く自分たちを見守るような、天の星々に思いを寄せた。今、目の前に広がる無数の光の一つひとつが、それぞれの地で尽力する者たちを象徴しているように思えた。
翌日、思わぬ知らせが届いた。
「日向守に呼応して兵をあげた大和の筒井勢が兵を引き、籠城の支度にとりかかっておりまする」
「筒井勢が兵を引いた?」
不可思議な話で、どうにも腑に落ちない。さらに、すでに近江に向かっていた兵さえも大和へ引き返しているという。
(ここにきて足を止め、守りを固めるとは…)
ただの戦略的な撤退であるのか、それとももっと大きな裏切りの兆しなのか。もしも後者であるならば、光秀にとって大きな痛手となるに違いない。
そこへ、町野左近が近づいてきて、どこか喜びを含んだ声で言う。
「若殿。これは我らの知らぬところで、なにやら風向きが変わっておるのでは?」
町野左近に応じるように、忠三郎はあどけない笑みを浮かべ、ひと息つくようにのどかに空を仰いだ。。
「敵味方の分かちも、風に散る落ち葉の如く、あちらこちらと移ろいゆく…そのようなものかもしれぬ」
常と変わらず、さながら他人事のように言う。そのたおやかな佇まいに、町野左近は苦笑を浮かべ、軽く頭を振る。忠三郎の冷静さには感心しつつも、町野は気を引き締め、さらに情報を集めるべく街道を行く者たちに声をかけるべく、家人たちを集める。
そこへ更に驚くべき報せが舞い込んだ。中国の地で毛利と対峙していた羽柴秀吉が、毛利との和議を結び、弔い合戦のためこちらへ向かいつつあるというのだ。
この知らせに、家臣たちは歓喜の声を上げた。
「羽柴殿の軍勢がいれば、もはや恐れるものはなし!」
手放しで喜ぶ家臣たちを尻目に、忠三郎は曖昧な笑顔を称え、ふと考えを巡らせる。
(早すぎる…)
置かれている状況、そして秀吉が従えている兵の数を鑑みれば、ここまで駆けつけるにしても異様な速さである。毛利と和議を結んだにしても、あまりに都合よく、事が運びすぎている。
(さながら、事前に知っていたかのような…)
胸にひとひらの疑念が舞い降りた。弔い合戦のためという名目を掲げながらも、すでにこの機に乗じる算段が練られていたのではないだろうか。
(ある程度のことを把握していたのであれば、兵を引く手筈を整えていたはず)
もし、日向守の動きを事前に察していたのならば、異様な速さで戻ってくることも可能だ。戦場での先を読む才に長けた羽柴筑前、かの者ならば、あるいはそれを予見していたかもしれない。
(あの羽柴筑前が、もしも、事前に日向守の動きを察していたのであれば…)
果たして、信長に知らせただろうか。秀吉が置かれていた状況は光秀とさほど変わらぬものだ。血と汗で築き上げた長浜城を堀久太郎に引き渡し、代わりに遠国への領地代えの命が下されていた。光秀同様、領土への執着心もまた、秀吉の胸の内で燻っていたことだろう。
(それをもって、あの男は何を成し、何を得ようとしているのか…)
心に淡い不安の影が差すのを感じ、空を仰ぎ、羽柴秀吉という男の生き様を思い浮かべた。下人から身を起こし、織田家の重臣にまで登り詰めたその姿は、あたかも天に手を伸ばすかのような野心そのものだ。普段の柔らかな笑顔や軽妙な語り口に、秀吉が鋭く隠し持つ野望を感じさせまいとする気配が滲んでいる。
(何も欲するところのない者が、ただそれだけであの高みまで上り詰めることなど、できるはずもない…)
忠三郎は思わず眉を寄せ、じっと思索を巡らせる。秀吉の底知れぬ野望が、光秀との戦にどのような形で顔を覗かせるのか。そして、信長亡き後の天下を、その手でどう掌握しようとしているのか——秀吉の行く末が、織田家の行く末とどう交わるのかを、心中で問うていた。
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―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
直違の紋に誓って
篠川翠
歴史・時代
かつて、二本松には藩のために戦った少年たちがいた。
故郷を守らんと十四で戦いに臨み、生き延びた少年は、長じて何を学んだのか。
二本松少年隊最後の生き残りである武谷剛介。彼が子孫に残された話を元に、二本松少年隊の実像に迫ります。
【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝
糸冬
歴史・時代
有馬法印則頼。
播磨国別所氏に従属する身でありながら、羽柴秀吉の播磨侵攻を機にいちはやく別所を見限って秀吉の元に走り、入魂の仲となる。
しかしながら、秀吉の死後はためらうことなく徳川家康に取り入り、関ヶ原では東軍につき、摂津国三田二万石を得る。
人に誇れる武功なし。武器は茶の湯と機知、そして度胸。
だが、いかに立身出世を果たそうと、則頼の脳裏には常に、真逆の生き様を示して散った一人の「宿敵」の存在があったことを知る者は少ない。
時に幇間(太鼓持ち)と陰口を叩かれながら、身を寄せる相手を見誤らず巧みに戦国乱世を泳ぎ切り、遂には筑後国久留米藩二十一万石の礎を築いた男の一代記。
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