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18.月満つれば則ち欠く
18-6. 安土の落日
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「若殿!輿を五十。鞍付の馬が百。他に馬二百、夜には整うと知らせが届きましてござります」
町野左近が現れてそう告げる。
「輿と鞍付の馬?」
なんのことかと首を傾げ、信長の妻妾を連れてくるにはその二つが必須であることに気付いた。
「爺にしては手際がよい。いつそのような手配を…」
町野左近は微笑んで軽く首を傾げ、
「はて、若殿が前もってお命じになっていたのでは?」
「何を申すか。前もってなどと、それではまるで…」
と言いかけて、ぎくりとした。
手際が良すぎる。この備え、まさに誰かがこうなることを事前に察知していたかのような用意周到さだ。
(まるで、この不測の事態を予見していたかのような)
信長が討たれることを予見し、ひそかにこの場を整えていた者がいるのか――。すでに城には兵千五百に膨大な兵糧の備えまでが用意されている。
(もしや…明智殿が謀反を企てていたことを知る者が、我が家中に…)
光秀が叛旗を翻すことを知っていた誰かが、動いていたとしか思えない。
(…とすれば、一体誰が…)
蒲生家には素破のような働きをする者はいない。戦場においてこそ物見はできるが、平時の諸将の胸奥を探り知るような、ひそやかなる動きは到底望むことなどできない。
(いや…。ただ一人、いた)
生涯の友・佐助。その歩みは風のごとく軽く、目を離した瞬間には人知れぬ道を越え、誰もが届かぬ情報を掴む力を持っていた。佐助こそ、如何なる秘密にも躊躇なく入り込み、知恵を持ち帰る者だった。
(まさか佐助が…)
ともに交わした友情、そして信頼は、今も心の奥に静かに宿っている。だが、思い起こすと胸中に、ぽつりと再びあの日の影が落ちる。
あの別れの日は今も鮮やかだ。祖父の命により、捕らえられ、連れられていった佐助。無言で見送るしかなかった自分に、佐助は微笑を湛えて振り返り、「必ず戻る」と約束した。
その笑顔は、少しの不安も見せず、ただ未来を信じる眼差しで溢れていた。
だが、待ち続けた時の中で、その言葉は風とともに遠ざかり、消えぬ思いだけが残された。
(大切なものは、いつもこの手から滑り落ちるように、失われていく)
母・お桐、兄・重丸、そして、おさち。皆、忠三郎の心に深い影を落とし、二度と戻らぬ幻のように、目の前から消えていった。だが、佐助だけは不思議と、どこかで生きているのではないかと、幾度となく心の奥底にその思いが蘇った。
それは淡く、儚い望みかもしれない。しかし、どうしても断ち切ることができなかった。
明日には城を出て、安土へ向かう。城内は混乱を極め、皆、慌ただしく立ち働く姿が見えた。
忠三郎はその中にあって、草葉が囁き、風がささやくように過ぎるのを感じながら、佐助のことをふと思い返す。
(佐助がわしの窮地を救おうと…)
佐助が、何も告げぬままに忠三郎を窮地から救おうとしているのではないか。
そう考えると、最近の不可解なできごとにも、ひとつの筋道が見えてくる。
菅屋九右衛門の枕元に立ったという先祖の声も、あの厠騒動も、今となれば何やら得も言えぬ因果を秘めているように思われる。あの事件がなければ、忠三郎も信長の傍らで、本能寺で露と消えていたかもしれない。
(菅屋殿も親子ともども、上様に殉じたと聞く…)
草の香に混じり、花びらがそっと散るように、静かに命が尽きていった人々の面影が浮かぶ。菅屋親子ばかりではない。忠義を尽くした馬廻衆も、小姓たちも皆、命を捧げて消えていった。その姿が、夜の帳に儚い蛍の灯火のように、心に浮かんでは消える。
(あの容花…)
久しぶりに戻った居間に、そっと置かれていた容花。淡い色合いの花びらが静かに揺れ、ひっそりとした気配がただよっていた。まるで誰にも語らぬ心の奥底を、ひとりで抱え込むように。その一片に秘められた言葉が、もしや、忠三郎に迫りくる危機を知らせようとしていたのではないか――
(では、佐助…。なぜ、おぬしはわしの前に姿を見せぬ)
花が消え入りそうにしおれ、やがて土に還るように、佐助の気配も、いつしか夜の帳に溶けてしまったのか。
静けさの中に、ただ容花がさりげなく置かれた意味を問い続ける。
佐助が何も告げずとも、その花は確かに言葉を宿し、忠三郎に語りかけていた。それでも、直接の姿を見せない佐助の思惑が、風のように遠く揺らめき、触れることもかなわぬのがもどかしい。
(されど…籠城と…この城に籠城せいと、そう言うておるのだな、佐助)
静まり返る居間に漂う微かな香りと共に、容花が静かに佇んでいる。その花の一片一片が、まるで佐助の無言の意志であるかのように、忠三郎の胸に沁み入る。薄明かりの中、花びらが語りかける――その身をこの城に留め、命を賭けて守れと。籠城の覚悟を持てと。
(佐助…おぬしは黙して、わしに道を示しておるのか)
言葉は交わさずとも、見えぬ場所でその心を尽くし、忠三郎に覚悟を促している佐助の気配が、花に宿っているように思える。風が止み、夜がさらに深まる中で、ただひっそりと、胸中に籠城の決意が芽生え始めていた。
翌朝未明、三百ほどの兵を率いて城をでた忠三郎は、薄明るい空の下、八日市を通り抜け、安土の手前、南腰越まで馬を進めた。峠に兵を残し、信頼のおける供回りのみを連れて安土を目指す。
やがて安土城下に近づくと、町にはただならぬ空気が漂っていた。噂はすでに町中に広がっているのか、街道は逃げ惑う人々で混乱し、悲鳴と怒号が入り混じる。すがるような視線でこちらを見る者もいれば、家財を背負い、我が子を抱きしめて走る者の姿もあった。
(明智勢襲来の知らせがここまで伝わっておるとは…)
安土の栄華をこの目で見てきたがゆえ、この凄まじい混乱ぶりが忠三郎の胸に痛烈な衝撃を与えた。ほんのつい先日まで、華やかな商人たちが行き交い、戦国の只中にあっても平和を誇っていた町が、今や絶望と恐怖に支配されている。
混乱は街道ばかりに留まらない。城下に並ぶ家臣たちの屋敷からも、次々と城を捨て本国へと逃げ出す者が絶えない。その姿はまるで逃げ水のごとく、安土のかつての繁栄が夢幻であったかのように思わせる。忠義も絆も、もはや薄氷のように崩れてゆくのかと、忠三郎の心は深く傷ついた。
(この地に根づいた人々は、何を頼りに、どこへ行こうとしているのか…)
城下の民もまた、行き先もわからぬままに身ひとつで逃げ惑っている。かつての安土の賑わいが胸に蘇り、忠三郎の心は言いようのない無力感に苛まれる。
しかし、忠三郎にとって最も衝撃的だったのは、城内に足を踏み入れたその瞬間だった。かつて厳重に守られていたはずの本丸は閑散としており、守衛に就いていたはずの者たちの姿はなく、二の丸で信長の妻子を守っていた家臣たちすらもほとんど残っていない。壮麗であった城内の静寂が、不気味に響いている。
かつては家中の隅々まで忠誠心で満たされていたこの城が、今や抜け殻のように空虚な城と変貌している。
「留守居役の筆頭、津田源十郎殿のお姿が見えぬようじゃが…」
忠三郎が思わず首をかしげると、側にいた町野左近が、ためらいがちに口を開いた。
「すでに本国・尾張に落ち延びられたとか」
「尾張に?…では、次席の山崎殿は?」
「城下の屋敷に火を放ち、領国へ戻られたとか」
城を守るべき要職にあった者たちが次々と姿を消し、まるで雪が溶けるかのように、かつての安土の強固な結束が崩れていく。この城が築き上げてきた権威や威光が、一夜にして脆くも崩れ去るとは。
(それゆえの日野籠城か)
忠三郎の胸に冷ややかな現実が突きつけられる。こうも織田家の家臣たちが逃げ去り、城内が空虚な様では、明智の大軍を前にして籠城すらも成り立たたない。残された道はただひとつ――信長の妻子を連れ、日野で籠城するほかはない。
(佐助…おぬしは、こうなることを見通していたのか)
ふいに、佐助の面影が心に浮かぶ。あの容花が告げていたのは、織田家の栄華が、信長一人の力によって保たれてきた儚さそのものだったのかもしれない。
忠誠を誓い、かつては強固に結ばれていたと思えた家臣たちでさえ、信長が討たれたと聞くや否や離散してしまった。
信長というひとつの太陽が沈めば、織田家の結束がいとも簡単に脆く崩れていくのを、佐助はすでに察していたのではないか――そう思うと、胸の奥で言いようのない寂しさがこみ上げる。
安土の城郭に響いた歓声や、繁栄の夢がかき消されるように、すべてが終わりを告げようとしている。つい先ごろ、共に笑い、酒を酌み交わした信忠の面影が、忠三郎の胸中に揺らめく。そして共に戦場に赴いた馬廻衆たちも、今やその名とともに風となり、ただ儚く消え去ってしまった。
かつての日々が脳裏を巡り、悲しみと虚しさが忠三郎の胸を覆う。
(我が身もまた、この安土に住み、織田家の一翼を担ってきた一人。皆と同じように、今、終焉の時を迎えるべきなのか…)
忠三郎の胸中に、決意とも諦めともつかぬ思いがよぎる。信長により安土が繁栄の象徴となり、共に築き上げてきた数々の時が、まるで幻のように遠ざかってゆく。空を覆う雲が、安土の城郭にかかり影を落としているかのように、忠三郎の心もまた、重い翳に覆われていく。
(されど…まだ活路はある)
たとえ安土が落ちようとも、守るべき者を失うわけにはいかない。信長の威光に満ちた安土の地も、今や戦火に包まれようとしているが、それで終わりではない。
(日野に戻り、生き抜けと、そう言うておるのだな、佐助)
日野から安土へと向かう道すがら、信長の元で戦い、命を賭けて仕えてきたこれまでの歳月が、織田家のためにあり続けた日々が何度も何度も思い起こされた。
八日市から安土に向かう道は安土街道。信長が商人たちを呼び寄せるために作らせた道だった。
(すべては上様の手の内。上様の思いがこの地に籠められている)
しかし、信長亡き今となっては、父祖が築き上げた日野の地こそが、忠三郎自身の根でもあると気づかされた。
(日野に籠り、皆を守り抜くことが、我が使命)
このまま日野へ戻れば、なににも代えがたき故国を戦禍に巻き込んでしまうかもしれない。そう恐れる反面、幼い頃から隅々まで知り尽くした日野谷であれば、明智勢を散々に翻弄する自信がある。
かつてのように、血がたぎる思いとは異なる、確かな決意が心の奥で静かに湧き上がる。父祖の地に戻り、安土の喧噪も都の煌びやかさも一切を捨て、人々を守るために生き抜く。織田家の輝きが消えゆく今こそ、古里で命を懸けるべきではないか。
町野左近が現れてそう告げる。
「輿と鞍付の馬?」
なんのことかと首を傾げ、信長の妻妾を連れてくるにはその二つが必須であることに気付いた。
「爺にしては手際がよい。いつそのような手配を…」
町野左近は微笑んで軽く首を傾げ、
「はて、若殿が前もってお命じになっていたのでは?」
「何を申すか。前もってなどと、それではまるで…」
と言いかけて、ぎくりとした。
手際が良すぎる。この備え、まさに誰かがこうなることを事前に察知していたかのような用意周到さだ。
(まるで、この不測の事態を予見していたかのような)
信長が討たれることを予見し、ひそかにこの場を整えていた者がいるのか――。すでに城には兵千五百に膨大な兵糧の備えまでが用意されている。
(もしや…明智殿が謀反を企てていたことを知る者が、我が家中に…)
光秀が叛旗を翻すことを知っていた誰かが、動いていたとしか思えない。
(…とすれば、一体誰が…)
蒲生家には素破のような働きをする者はいない。戦場においてこそ物見はできるが、平時の諸将の胸奥を探り知るような、ひそやかなる動きは到底望むことなどできない。
(いや…。ただ一人、いた)
生涯の友・佐助。その歩みは風のごとく軽く、目を離した瞬間には人知れぬ道を越え、誰もが届かぬ情報を掴む力を持っていた。佐助こそ、如何なる秘密にも躊躇なく入り込み、知恵を持ち帰る者だった。
(まさか佐助が…)
ともに交わした友情、そして信頼は、今も心の奥に静かに宿っている。だが、思い起こすと胸中に、ぽつりと再びあの日の影が落ちる。
あの別れの日は今も鮮やかだ。祖父の命により、捕らえられ、連れられていった佐助。無言で見送るしかなかった自分に、佐助は微笑を湛えて振り返り、「必ず戻る」と約束した。
その笑顔は、少しの不安も見せず、ただ未来を信じる眼差しで溢れていた。
だが、待ち続けた時の中で、その言葉は風とともに遠ざかり、消えぬ思いだけが残された。
(大切なものは、いつもこの手から滑り落ちるように、失われていく)
母・お桐、兄・重丸、そして、おさち。皆、忠三郎の心に深い影を落とし、二度と戻らぬ幻のように、目の前から消えていった。だが、佐助だけは不思議と、どこかで生きているのではないかと、幾度となく心の奥底にその思いが蘇った。
それは淡く、儚い望みかもしれない。しかし、どうしても断ち切ることができなかった。
明日には城を出て、安土へ向かう。城内は混乱を極め、皆、慌ただしく立ち働く姿が見えた。
忠三郎はその中にあって、草葉が囁き、風がささやくように過ぎるのを感じながら、佐助のことをふと思い返す。
(佐助がわしの窮地を救おうと…)
佐助が、何も告げぬままに忠三郎を窮地から救おうとしているのではないか。
そう考えると、最近の不可解なできごとにも、ひとつの筋道が見えてくる。
菅屋九右衛門の枕元に立ったという先祖の声も、あの厠騒動も、今となれば何やら得も言えぬ因果を秘めているように思われる。あの事件がなければ、忠三郎も信長の傍らで、本能寺で露と消えていたかもしれない。
(菅屋殿も親子ともども、上様に殉じたと聞く…)
草の香に混じり、花びらがそっと散るように、静かに命が尽きていった人々の面影が浮かぶ。菅屋親子ばかりではない。忠義を尽くした馬廻衆も、小姓たちも皆、命を捧げて消えていった。その姿が、夜の帳に儚い蛍の灯火のように、心に浮かんでは消える。
(あの容花…)
久しぶりに戻った居間に、そっと置かれていた容花。淡い色合いの花びらが静かに揺れ、ひっそりとした気配がただよっていた。まるで誰にも語らぬ心の奥底を、ひとりで抱え込むように。その一片に秘められた言葉が、もしや、忠三郎に迫りくる危機を知らせようとしていたのではないか――
(では、佐助…。なぜ、おぬしはわしの前に姿を見せぬ)
花が消え入りそうにしおれ、やがて土に還るように、佐助の気配も、いつしか夜の帳に溶けてしまったのか。
静けさの中に、ただ容花がさりげなく置かれた意味を問い続ける。
佐助が何も告げずとも、その花は確かに言葉を宿し、忠三郎に語りかけていた。それでも、直接の姿を見せない佐助の思惑が、風のように遠く揺らめき、触れることもかなわぬのがもどかしい。
(されど…籠城と…この城に籠城せいと、そう言うておるのだな、佐助)
静まり返る居間に漂う微かな香りと共に、容花が静かに佇んでいる。その花の一片一片が、まるで佐助の無言の意志であるかのように、忠三郎の胸に沁み入る。薄明かりの中、花びらが語りかける――その身をこの城に留め、命を賭けて守れと。籠城の覚悟を持てと。
(佐助…おぬしは黙して、わしに道を示しておるのか)
言葉は交わさずとも、見えぬ場所でその心を尽くし、忠三郎に覚悟を促している佐助の気配が、花に宿っているように思える。風が止み、夜がさらに深まる中で、ただひっそりと、胸中に籠城の決意が芽生え始めていた。
翌朝未明、三百ほどの兵を率いて城をでた忠三郎は、薄明るい空の下、八日市を通り抜け、安土の手前、南腰越まで馬を進めた。峠に兵を残し、信頼のおける供回りのみを連れて安土を目指す。
やがて安土城下に近づくと、町にはただならぬ空気が漂っていた。噂はすでに町中に広がっているのか、街道は逃げ惑う人々で混乱し、悲鳴と怒号が入り混じる。すがるような視線でこちらを見る者もいれば、家財を背負い、我が子を抱きしめて走る者の姿もあった。
(明智勢襲来の知らせがここまで伝わっておるとは…)
安土の栄華をこの目で見てきたがゆえ、この凄まじい混乱ぶりが忠三郎の胸に痛烈な衝撃を与えた。ほんのつい先日まで、華やかな商人たちが行き交い、戦国の只中にあっても平和を誇っていた町が、今や絶望と恐怖に支配されている。
混乱は街道ばかりに留まらない。城下に並ぶ家臣たちの屋敷からも、次々と城を捨て本国へと逃げ出す者が絶えない。その姿はまるで逃げ水のごとく、安土のかつての繁栄が夢幻であったかのように思わせる。忠義も絆も、もはや薄氷のように崩れてゆくのかと、忠三郎の心は深く傷ついた。
(この地に根づいた人々は、何を頼りに、どこへ行こうとしているのか…)
城下の民もまた、行き先もわからぬままに身ひとつで逃げ惑っている。かつての安土の賑わいが胸に蘇り、忠三郎の心は言いようのない無力感に苛まれる。
しかし、忠三郎にとって最も衝撃的だったのは、城内に足を踏み入れたその瞬間だった。かつて厳重に守られていたはずの本丸は閑散としており、守衛に就いていたはずの者たちの姿はなく、二の丸で信長の妻子を守っていた家臣たちすらもほとんど残っていない。壮麗であった城内の静寂が、不気味に響いている。
かつては家中の隅々まで忠誠心で満たされていたこの城が、今や抜け殻のように空虚な城と変貌している。
「留守居役の筆頭、津田源十郎殿のお姿が見えぬようじゃが…」
忠三郎が思わず首をかしげると、側にいた町野左近が、ためらいがちに口を開いた。
「すでに本国・尾張に落ち延びられたとか」
「尾張に?…では、次席の山崎殿は?」
「城下の屋敷に火を放ち、領国へ戻られたとか」
城を守るべき要職にあった者たちが次々と姿を消し、まるで雪が溶けるかのように、かつての安土の強固な結束が崩れていく。この城が築き上げてきた権威や威光が、一夜にして脆くも崩れ去るとは。
(それゆえの日野籠城か)
忠三郎の胸に冷ややかな現実が突きつけられる。こうも織田家の家臣たちが逃げ去り、城内が空虚な様では、明智の大軍を前にして籠城すらも成り立たたない。残された道はただひとつ――信長の妻子を連れ、日野で籠城するほかはない。
(佐助…おぬしは、こうなることを見通していたのか)
ふいに、佐助の面影が心に浮かぶ。あの容花が告げていたのは、織田家の栄華が、信長一人の力によって保たれてきた儚さそのものだったのかもしれない。
忠誠を誓い、かつては強固に結ばれていたと思えた家臣たちでさえ、信長が討たれたと聞くや否や離散してしまった。
信長というひとつの太陽が沈めば、織田家の結束がいとも簡単に脆く崩れていくのを、佐助はすでに察していたのではないか――そう思うと、胸の奥で言いようのない寂しさがこみ上げる。
安土の城郭に響いた歓声や、繁栄の夢がかき消されるように、すべてが終わりを告げようとしている。つい先ごろ、共に笑い、酒を酌み交わした信忠の面影が、忠三郎の胸中に揺らめく。そして共に戦場に赴いた馬廻衆たちも、今やその名とともに風となり、ただ儚く消え去ってしまった。
かつての日々が脳裏を巡り、悲しみと虚しさが忠三郎の胸を覆う。
(我が身もまた、この安土に住み、織田家の一翼を担ってきた一人。皆と同じように、今、終焉の時を迎えるべきなのか…)
忠三郎の胸中に、決意とも諦めともつかぬ思いがよぎる。信長により安土が繁栄の象徴となり、共に築き上げてきた数々の時が、まるで幻のように遠ざかってゆく。空を覆う雲が、安土の城郭にかかり影を落としているかのように、忠三郎の心もまた、重い翳に覆われていく。
(されど…まだ活路はある)
たとえ安土が落ちようとも、守るべき者を失うわけにはいかない。信長の威光に満ちた安土の地も、今や戦火に包まれようとしているが、それで終わりではない。
(日野に戻り、生き抜けと、そう言うておるのだな、佐助)
日野から安土へと向かう道すがら、信長の元で戦い、命を賭けて仕えてきたこれまでの歳月が、織田家のためにあり続けた日々が何度も何度も思い起こされた。
八日市から安土に向かう道は安土街道。信長が商人たちを呼び寄せるために作らせた道だった。
(すべては上様の手の内。上様の思いがこの地に籠められている)
しかし、信長亡き今となっては、父祖が築き上げた日野の地こそが、忠三郎自身の根でもあると気づかされた。
(日野に籠り、皆を守り抜くことが、我が使命)
このまま日野へ戻れば、なににも代えがたき故国を戦禍に巻き込んでしまうかもしれない。そう恐れる反面、幼い頃から隅々まで知り尽くした日野谷であれば、明智勢を散々に翻弄する自信がある。
かつてのように、血がたぎる思いとは異なる、確かな決意が心の奥で静かに湧き上がる。父祖の地に戻り、安土の喧噪も都の煌びやかさも一切を捨て、人々を守るために生き抜く。織田家の輝きが消えゆく今こそ、古里で命を懸けるべきではないか。
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