獅子の末裔

卯花月影

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17.あだし野の露

17-6. 饅頭の力

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 翌朝、忠三郎は堀久太郎と連れ立ち、柏原城への迎撃に備える。
 三九郎が比自山近隣の村々や寺院を見て回ると、一つ残らず焼き払われたあとだった。
「大したものではないか」
 三九郎が感心したようにそう言う。
「三九郎…。様子見か?」
「かような火遊びに興じていたとは…。おぬしの火攻め、手抜かりなく完璧じゃと、父上もさよう仰せであった」
 三九郎の言葉には妙に含むような響きがある。
「火攻めは火をつける時と場所を選ばなければ効果はない。孫子は明晰な頭脳や知恵なくばなしえないと説いておる」
 褒めているのか、けなしているのか、三九郎の言葉にどうも手放しで喜ぶ気にはなれぬ。忠三郎は苦笑しながらも、自らの火攻めに込めた意図が果たしてどれほど理解されているのか、内心で測りかねていた。

 忠三郎は少し目を伏せたまま、ぽつりと呟く。
「こうでもせねば、村人どもが現れ、背後を襲われるやもしれぬゆえ…」
 三九郎はその言葉に応じず、一瞬忠三郎の顔をじっと見つめ、静かに言葉をかける。
「…如何した。わしはおぬしの判断を責めるつもりはないが」
 忠三郎は、三九郎の柔らかな口調に少し意外さを覚え、胸の奥でふっと安堵が広がるのを感じた。次の瞬間、なんとも言えぬ可笑しさがこみ上げて、思わず笑みを漏らした。

(わしは一体、誰に言い訳をしているのであろう)
 戦さは人を獣に変える。こうして村々に火を放つことも、かつてなら心に刺さる痛みを伴ったはずが、今ではほとんど抵抗を感じぬ自分がいる。しかし、どこかにまだ人としての心が残っているのか、心の奥底からかすかに訴えかける声が聞こえるような気がする。

(いや…違う。佐助、おぬしがわしの心に問うているのか)
 冷たい風が、痩せ枯れた木々の間を吹き抜け、霜で白く覆われた地が一層寂しげに広がっている。秋も末、紅葉すら色褪せ、ただ枯れ枝ばかりが風に揺れ、音もなく、ただ冷たく乾いた葉が舞い落ちていく。

 忠三郎の心に、ふいに佐助の姿が浮かび上がる。地に根を下ろすが如く、生き抜いていた素朴な姿。飾らぬ言葉と、まっすぐな眼差し。共に過ごした日々の中で、佐助はただ友として、飾らぬ自らを語り、無骨な武士には作れぬ泰平の世を作ってくれと言った。その眼差しが、今もどこかで忠三郎の胸の奥に深く残り続けているように思える。

 三九郎は、忠三郎がふと黙り込んだ様子を不思議そうに見やりながらも、構わず話を続けた。
「この先の柏原城。すでに南伊勢から伊賀に攻め入った北畠中将様が陣城を築いているとか」
「三位中将殿が?」
 長期戦に備えてのことだろう。北畠勢は万を超える大軍だが、信雄は単独で城攻めすることなく、本隊の到着を待っている。
(これ以上の失敗は許されぬと、分かっておるのであろうな)
 今回の戦さの発端は、そもそも北畠信雄が信長の許しを得ずに独断で伊賀へ攻め入った末、大敗を喫したことによる。その失態を晴らすべく、名目上、信雄が総大将に据えられてはいるものの、信雄の足元にはかすかな焦りが見え隠れするようにも思えた。

 大軍を引き連れての行軍は、道中の険しさもあってか、想像以上に時間を要した。秋の日は早く傾き、やがて西の空に薄紅の名残が浮かび上がる頃、ようやく柏原城があるという赤目の地へとたどり着いたのは、すでに翌々日の夕暮れであった。

 足元に積もる落ち葉は、軍馬のひづめに踏まれて音を立て、ひんやりとした風が谷間を伝って吹き抜ける。辺りを見渡すと、山肌がわずかに霞み、重なり合う木々の影が、まるでこちらを伺うかのように静かに佇んでいる。その静寂は、かえって戦を待つ者たちの緊張をいや増すかのようであった。

 忠三郎が目を凝らすと、三九郎の言葉の通り、北畠信雄が既に遠くに立派な陣城を築いているのが見えた。だが、その陣城は柏原城から離れすぎており、周囲に空堀と土塁が高々と築かれているものの、攻めの要をなすには二里(八キロ)も遠く、微妙な位置にあった。

 この伊賀攻めはもともと、北畠信雄がその威信を取り戻すための戦いであったはず。奇襲を怖れてのことだろうが、これではかえって周囲から嘲笑を浴びるだけであろうと忠三郎は苦々しく思わざるを得ない。

「中将殿の名誉を守る戦さであればこそ、立て籠もっては始まらぬが…」
 忠三郎はそう呟き、北畠信雄の陣が果たしてどのような意図でここに築かれたものかと思案する。すでに日は傾き、紅葉に彩られた山影が、彼らの行軍の疲れを重ねるように冷たく迫ってくる。

「中将殿の名誉を守る戦さであればこそ、立て籠もっては始まらぬが…」
 忠三郎はそう呟き、北畠信雄の陣が果たしてどのような意図でここに築かれたものかと思案する。すでに日は傾き、紅葉に彩られた山影が、彼らの行軍の疲れを重ねるように冷たく迫ってきた。

 翌日、この陣城で諸将が集められ、評定となった。
「明日早朝より皆、総がかりで城を攻め落とせ」
 重苦しい空気が陣中に流れる中、信雄の言葉が響く。歴戦の者たちが口を揃え慎重論を訴える中での強引な命令に、忠三郎も久太郎も気乗りがせぬまま返事をせざるを得なかった。かつて比自山での敗戦の悔しさが胸に去来するが、どうにも策のない力攻めは、同じ轍を踏む恐れがある。皆が顔を見合わせ、暗黙のうちに不安を感じ取っているのがわかった。

 誰もが発言を控える中、一益が口を開く。
「お待ちくだされ。伊賀衆は手練れ揃い。取り囲んで兵糧がなくなるのを待つのがよろしいかと」
 信雄はその提案に一瞬考え込んだが、戦いに日数がかかることを露ほども喜ばぬ様子で手を振った。
「そんな回りくどい策など要らぬ。伊賀者ごとき、総攻撃の勢いに恐れをなして逃げるであろう。皆々、明朝に備え、今夜はしっかりと休息をとるがよい!」
 信雄の厳命に、忠三郎は僅かに視線を伏せた。明らかに無謀とも思える策に、誰もが心中で渋面を隠しつつ、ただ下を向くばかりだ。兵糧攻めの利を説いた一益も、これ以上言葉を尽くすことなく、静かに口を閉ざす。

 しかし、一益の顔には、秋の冷えた夜気に乗って漂う煙のごとく、不安の影がよぎっているのが見て取れた。忠三郎は無言のまま、その眼差しに宿る憂いを受け止めるが、ただ黙っているよりほかになかった。

 やがて、陣中の者たちは夜営の支度に取り掛かり始めた。皆、それぞれの思いを抱えながらも、備えを整えるしかない。山々には、晩秋の気配が濃く漂い、山裾を染めた黄葉が夕闇に沈んでいく。そんな静けさに紛れて、忠三郎はひそかに呟いた。
(果たして、これが賢明なる決断なのか…)

 戦さに臨むからには命を賭けねばならぬ。忠三郎は深く息をつき、夜の闇に身を沈めるようにして、自らの覚悟を再び胸に刻み込んだ。

 十月八日卯刻。柏原城の静寂が薄明の空に溶け込む中、総攻撃が始まった。
 山間の霧が晴れぬうちから合図の法螺が響き渡り、寄せ手の軍勢がぞろぞろと動き出す。だが、城内から撃ち放たれた矢が鋭く飛び交い、伊賀衆の守りは想像以上に激烈で、寄せ手が城壁へと近づくのを許さない。

 伊賀衆の反撃はまさに凄まじく、山城の地形を活かし、隠れ伏せる者たちが次々と現れては、奇襲を仕掛けてくる。隠れ道や塹壕があちこちに張り巡らされており、寄せ手が進もうとするたびに罠にはまり、味方の悲鳴が寒空にこだました。わずかな油断も命取りになりかねず、軍勢は次第に足を止め、焦りと疲労が色濃く漂い始めた。

 忠三郎もまた、背後で次々と討たれていく兵の叫びを聞き、腹の底で不安が蠢くのを感じた。

 この日一日で織田勢の死傷者は千を超え、戦場には兵たちの血が霧雨のように染み渡った。しかし、伊賀衆の勢いはまったく治まる気配を見せず、寄せ手の前に立ちはだかる頑強な守りを崩すには至らなかった。冷たい風が吹きすさぶ中、本陣では再び軍議が開かれた。集まった将たちの顔には疲労と焦燥の色が見える。

 丹羽長秀が静かに口を開き、憂いの色を滲ませながら提案する。
「いかに大軍を擁しても、ただ兵を無為に失うばかり。ここは一旦、兵を治め、兵糧攻めを以て戦うのが得策かと存じ上げます。安土の上様へも、その旨を使者にて申し伝え、ご裁可を仰ぐのはいかがかと」

 その言葉に、重苦しい沈黙が場を包む。戦の膠着と消耗を前に、再考の時機が訪れていると誰もが感じつつも、信長の厳命を胸にどう応じるべきか、各々が思案に沈んでいた。

 信雄は丹羽長秀の進言に思い悩んだ末、ついに安土への使者を立てる決断を下した。
 数日を経て、安土から到着した使者は信長の即時の訪れを伝え、戦場には新たな緊張が漂う。そして検分を経た信長から、ようやく兵糧攻めの許可を得た。信雄はその知らせに安堵の色を浮かべた。

 忠三郎もその夜、一益の本陣へと呼ばれた。揺れる焚き火の影に包まれる帳中で、一益は冷静に兵糧攻めの方針を告げた。忠三郎は一益の打つ手の確かさに納得しつつも、日を追うごとに伊賀の地が焦土と化すであろうことに、内心複雑な想いを抱かざるを得なかった。

「それから…」
 一益はふと視線を外し、微かな秋風が本陣の帳を揺らすのに目を留めた後、再び忠三郎を見つめた。
「村に火を放つな。農夫を斬ってはならぬ。この戦を終えたのち、伊賀の国が枯れてしまっては、いずれ人も土地も立ち行かぬ」
 柔らかな言葉の奥に、ただならぬ重みが宿る。秋も深まり、枯れた野を渡る風が、伊賀の山々を吹き抜けるように、忠三郎の心にもひんやりとした余韻を残して通り過ぎる。
(義兄上は、この戦さの後の伊賀のことをお考えか)
 戦さにおいて、敵の民草を守るなどということが語られることは滅多にない。

「されど、義兄上。伊賀の者どもは村人とて侮れませぬ。突如として刃をとり、我らを襲うこととて日常にござります」
 忠三郎の声には、どこか刹那的な哀切が宿っていた。情けをかけ、不意を衝かれて大事な兵を失ったその悔しさが、深く刻まれている。兵だけではない、胸に強く残る痛み。幼い頃から親しくしていた従兄・美濃部上総介が、そして折角、案内を願い出てくれた伊賀の耳須弥次郎もまた、伊賀衆の手で無惨にも命を散らした。

 秋風が野を渡り、木々の葉をふるわせる。忠三郎はその冷たい風に、失われた者たちの面影を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
 一益はじっと忠三郎を見つめる。その眼差しには、厳しさとともに何か温かみのようなものが浮かんでいた。そして、静かに口を開いた。
「その者は半農半士の素破であろう。そのようなものを怖れて何とする」

 その言葉は、咎めでも叱責でもなく、ただ淡々と響いた。忠三郎はふと胸がすくような思いがし、一益の言葉の奥に潜む真意に心を揺らした。
 秋の夕陽が長く影を伸ばすなか、冷ややかな一益の声の中に、どこか心の強さと大らかさを感じる。
「恐るるに足らぬと?何故そのように仰せに…」
 言いかけたところで、昨夜の出来事が脳裏に蘇った。
 昨夜、柏原城に籠もる伊賀衆の者どもが、密かに城を出て、周辺の村々から民を集めたとの話を耳にした。集まった者たちに松明を持たせ、寄せ手を混乱に陥れようと画策したようだ。

 夜も更けた頃、静まり返った陣の中に、ざわめきが広がった。暗がりの向こう、山道のあちらこちらに松明の光が点々と揺れていた。敵の大軍が夜襲を仕掛けてくるかのように、幾筋もの炎が山肌を埋め尽くしていた。

『夜襲か!』
 周囲が緊張に包まれ、皆、すぐに武具を整え出陣の構えを取ろうとしたが、丹羽長秀が慌てふためく兵たちに叫んだ。

『狼狽えるな!松明を掲げているのは、敵ではない!』
 皆が驚き、顔を見合わせる中、長秀の視線は静かに炎の一つ一つを見定めていた。
『よく見るがよい。陣形が乱れておる上、足取りもたどたどしい。これは、おそらく付近の民であろう』

 その言葉に一同が息を飲んだ。敵が民を用いて寄せ手の兵を攪乱させようとした苦肉の策も、長秀の冷静な見極めによって見破られ、無用な戦火を避けられたことは確かだった。

(伊賀者の浅知恵も、さすがにお見通しというわけか)
 長秀が民と見抜いたことで、敵の策に動じずに済んだことは、忠三郎の心にも小さな安堵をもたらした。だが、忠三郎の心中には、ひとつの思いが微かに過ぎった。
(そうも簡単に、敵と敵ではない者を見分けられるというのならば…)
 確かにそれは一益の言う通り、恐れる必要はなく、無為に民の血を流すこともなくなる。
 忠三郎は静かに一益の前を下がりながら、心の奥底に小さな疑念を抱いた。

(義兄上や丹羽殿のような目利きであればこそ、敵と民との違いを見極められるというもの。しかし、我が身が果たして、そのような手練れのように動けようか…)

 一見すれば明快な理ではある。民の血を無為に流さぬためには、精妙な判断と経験が必要であり、自分にそれが備わっているかどうか、少しばかり腑に落ちぬ思いが覆った。
 秋の夜風が肩を撫で、次第に冷え込む草原に一陣の葉が舞い落ちる。
「如何した。妙な顔をしておるが…さては腹が減ったか?」
 ふと聞こえた間の抜けた声に振り返ると、案の定、義太夫がにやにやとした顔で立っていた。
「…いや、そうではないが」
 と忠三郎が渋く答えると、義太夫は大袈裟に眉を上げ、
「そりゃまた珍しゅうござる!蒲生の若殿、わしらの真似をして、赤米でも召し上がっては如何か?味わいはなかなか乙なものでござるぞ!」
 と笑いながら鍋の縁を叩く。

 忠三郎は思わず苦笑し、ついさっきまでの重い思案もどこへやら、義太夫のおどけた様子に軽く肩を落とした。
「おぬしはつくづく、いらぬことばかり気を回すのう」
 と言いつつ、義太夫の妙に楽しげな顔を見て、己も何やら微笑ましい気分になってきた。
「義兄上や丹羽殿は如何にして、敵と民を区別しておるのであろうか」
 ふと、思っていたことが口をついで出る。義太夫はフム、と首をかしげ、
「伊賀の者どもを見分ける方法がある」
 と神妙な顔をして語り始めた。
「見分ける方法?」
「然様。まず目を見るべし。我ら甲賀の者とは異なり、伊賀の者はやけに目つきが悪い」
「目つきが悪い、とな?」
 忠三郎が目を細め、半信半疑で問い返すと、義太夫はますます神妙な顔つきになり、声を低めて続けた。

「然り。何分、伊賀の者は幼き頃より夜陰に紛れて暗躍するがゆえ、自然とこう…目つきが鋭うなるのだ!ほれ、我らのような甲賀の者とはひと味もふた味も違うのじゃ」
 と言って、自らの目尻を指で引っ張って見せる。

 忠三郎は唖然として義太夫を見つめ、
「なるほど、目つきか…。随分と妙な見分け方じゃな」
 と呟く。伊賀の者の目つきが悪いとはよく言ったものだ。滝川家の郎党たちも負けず劣らず目つきが悪いのだが。
 すると、義太夫は慌てて両手を振って、
「まぁまぁ、それだけではない!奴らは声もどことなく冷え冷えとしておるし、つねに何かを隠し持っておる!例えば、懐に妙な石ころなど、いざという時のためのものが…」
 と妙な調子で語り始めた。

「…で、甲賀の者はいざという時のため、懐に饅頭を隠しもっておるのであろう?」
「よう存じておるではないか。饅頭ばかりではない。干し柿のときもあれば、兵糧丸のときもある。我ら甲賀の者は腹ごしらえも常に万全じゃ。饅頭がなければ干し柿、干し柿がなければ兵糧丸…それが甲賀の誇りじゃ」
「それが甲賀の誇りか…」
 忠三郎は笑いを抑えきれずに肩を揺らした。一益が聞いたら、何と言うだろうか。
「然様。おぬしも饅頭の力を知っておけ。戦さ場とて、腹が満ちてこそ勇気も湧く。誇りとは何も、ただの力のみではない。ほれ、腹が減っておるのであろう?」
 そう言って義太夫が懐から兵糧丸を取り出す。戦支度の慌ただしさの中にも、秋の風情とともに温かさが漂い、戦場の冷気も少し和らぐように感じられた夜だった。
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