獅子の末裔

卯花月影

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17.あだし野の露

17-5. 戦さ場の味噌

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 伊賀衆の奇襲に備え、一旦佐奈具へと退いた忠三郎は、翌朝の早い時刻に再び比自山の麓へと馬を進めていた。まだ朝霧が漂い、あたり一面が淡く薄灰色に染まる中、心中は静かならぬざわめきを帯びていた。

「昼過ぎには左近様ご着到との知らせが届いておりまする」

 そう告げる町野左近の声が耳に届き、忠三郎はしばし無言で頷いた。迎えるべき本隊の到着に安堵の気持ちが混じりながらも、その胸には複雑な思いが交差している。
(義兄上の命を一切聞かず、兵を動かした上に大敗北を喫した。なんと詫びたらよいものか…)
 忠三郎はひとり静かにそう呟くと、悔恨の念が胸を締めつけるのを感じた。
 信長や一益への深い尊敬と信頼があったからこそ、その命に背いた己が何よりも許し難く、心に重くのしかかる。無謀とも言える判断でおびただしい兵を失ったこと、その失態を思うたび、冷たい秋風が頬を刺すように身に沁みた。

(小癪な奴らめ)
 忠三郎は唇をかみしめながら、思わず目を細めた。比自山に籠るわずかな数の伊賀衆に、これほどまでに翻弄され、退却を余儀なくされるとは、思いも寄らぬことだった。忠三郎が目指したのは、輝かしい勝利と名を挙げる機会であったが、このままでは、むしろ北畠信雄と同様に、無様な笑い者になりかねぬと、内心の焦りが募る。

 忠三郎の悔しさはひとしおであったが、それ以上に苦々しい思いを抱えているのは、堀久太郎だ。強引に城攻めを敢行し、兵を退かせた忠三郎に対しても、またしても手強い奇襲を繰り広げる伊賀衆に対しても、久太郎の不満と苛立ちが、ひしひしと伝わってくるようだった。

(伊賀者の狡猾さ、侮るべきではなかった…)
 しかし、この屈辱を晴らす機会はすぐそこまで迫っている。滝川・丹羽の本隊が到着するや、形勢は一変し、味方が圧倒的に優位に立つ。忠三郎はその確信に満ちた思いを噛みしめ、胸中に燃え上がるものを感じた。これまで巧妙な遊撃戦を展開してきた伊賀衆の策も、大軍を前にしては流石に通用しない。

 秋の冷えた風が草木を揺らし、朝露に濡れた地面が足元に広がっていたが、忠三郎の心中には、もう一抹の迷いや恐れはなかった。圧倒的な兵力を背に、いかなる伏兵も、いかなる奇襲も、もはや恐れるに足りぬと己を鼓舞し、これまでの屈辱を乗り越える覚悟を決めた。
(この比自山に、今度こそ我らが旗を立ててみせようぞ)

 はやる心を抑えつつ、ただひたすら本隊の到着を待ち続けた忠三郎。やがて、町野左近の報告通り、昼が近づく頃、遠くから縦木瓜の旗印がゆっくりと揺れながらこちらへと向かってくるのが見えた。忠三郎の視線はその旗印に吸い寄せられ、瞬くことすら忘れたかのように見つめる。
「義兄上じゃ。やっと義兄上が来てくだされた」

 忠三郎は静かにそう呟き、胸の内に湧き上がる喜びと安堵をかみしめた。旗印がゆったりと風に揺れる。兵たちの威風堂々たる進軍の様子は、まさに大軍の到来を告げる壮観な光景だった。一益の姿があの旗の下にあることを確信したとき、忠三郎の心には戦意が新たに燃え上がり、これからの勝利が手に届くものに思えた。

(義兄上と共にあれば、伊賀衆も恐るるに足りぬ…今度こそ、必ず勝利を)
 忠三郎は幔幕の外まで出迎え、一益の姿を見つけるや否や、喜び勇んで駆け寄った。しかし、一益は微塵も表情を崩さず、じっと忠三郎を見据えている。
 張り詰めた空気が漂う中、忠三郎はハッと我に返り、慌てて頭を下げた。
「義兄上、此度の失敗、どうかお許しくだされ」
 一益は冷然と忠三郎を見据え、少しの沈黙を置いた後、静かに問いただした。
「待てと伝えておいた筈。何故、兵を動かした?」
 忠三郎は、再び頭を垂れつつも、意を決して顔を上げた。
「比自山では日に日に兵が増え、土塁を築き、強固な守りを固めておりまする。このまま手をこまねいて見ていては、味方に不利になると思い…」
 一益の瞳は冷ややかに光り、忠三郎の言葉を遮るように鋭く返した。
「鶴、焦りが利を見失わせたこと、よもや気づいておらぬとは言うまいな。敵が強固に守りを固めるは、我らの策に対する答えと心得よ。むやみに打って出ることこそ、かえって敵を利するもの」
 すべて見抜かれている。忠三郎は言葉を失い、言い訳も封じられて、ただ押し黙るしかなかった。
「殿。堀様が…」
 義太夫が告げると、帷幕がそっと開かれ、堀久太郎が中に姿を現した。久太郎は顔を曇らせ、思い詰めた表情で一益を見据えた。
「左近殿。このままでは、我らは世間の物笑いの種になりましょうぞ。どうか明日の城攻めの先陣を、この堀久太郎にお任せくだされ!」
 その言葉を聞くや、忠三郎はバタリと床几から立ち上がり、堀に向き直った。
「待て!何を申す。先陣はこのわしが…」
 久太郎は一歩も引かぬ構えで切り返す。
「おぬしの独断専行で手痛い敗北を喫したこと、忘れたわけではあるまい!この堀久太郎が先に立ち、無駄な恥を雪ぐと決めたのじゃ!」
 犬猿の仲の二人はたちまちぶつかり合い、帷幕の中には緊張と苛立ちが張り詰めた。見かねた一益が深い息を吐き出し、冷静な眼差しで二人を制しようと、重々しく口を開いた。
「ふたりとも、まだ分からぬのか…」
 その声は低く、響くような力が込められていた。忠三郎も久太郎も、一瞬にしてその場に立ち尽くし、息を飲んだまま一益を見つめる。
「先陣争いが何のためか、敵に見透かされておるではないか。 高ぶりが来れば、恥もまた来る。明日はふたりで手を携え、先陣を務めるがよい」
 一益の言葉に、その場の空気が一変した。忠三郎と久太郎は、目の前の命令に戸惑いながらも互いに顔を見合わせ、言葉を飲み込んだ。普段であれば激しい口論を続ける二人だが、一益の冷徹な眼差しに圧倒されていた。
「…手を携え、共に先陣を…?」

 忠三郎が絞り出すように問い返すと、一益はただ無言で頷いた。その静かな威圧感が、二人の高ぶる意地をしずめていくかのようだった。
「わしと手を組むのが不満か、忠三郎?」
 久太郎が皮肉を込めて言うが、忠三郎は視線を外し、苦々しげに唇を噛んだ。

「それは…。ご命令とあらば致し方ない」
 堀久太郎と共に先陣を務めることに不満がないわけではないが、これも一益の指示であればやむを得ない。
「…というても、伊賀者どもも、この大軍を前に、黙って見ているだけとは思えぬが…」
 一益の口ぶりには、何か意味深なものが含まれているように聞こえた。しかし、忠三郎にはその意図が掴めず、ここで問うのは野暮と判断して口を閉ざした。矛を収めたまま、明日を迎えるべく心を静めるしかない。

 かくして、忠三郎は胸中に複雑な思いを抱きながら、堀久太郎と共に城攻めに臨むこととなった。
(次こそは汚名を雪がなければなるまい)
 そう自らに言い聞かせ、決意も新たに陣屋を後にした。だがその時、ひょいと漂ってきたのは、どこか懐かしくも旨そうな香り…。
(さては…)
 ふと気になって振り返ると、町野左近と目が合った。どうやら同じ匂いに気づいたらしく、無言のまま頷きあうと、二人は香りの元へと向かった。

 そこには、義太夫が大鍋をかき回しながら、湯気の中で満足げに鼻を鳴らしているではない。鍋の中では、お馴染みの芋がらをはじめ、きのこやら山菜がぽつぽつと煮え、晩秋の山から集められた実りが彩りを添えていた。
「やはりおぬしか」
 忠三郎が声をかけると、義太夫はにやりと笑みを浮かべ、玉杓子を掲げた。
「やっと参ったか。助太郎、助九郎に命じて山の幸を集めさせたのじゃ。これを食って、力をつけよ」
 義太夫は、得意げに湯気の立つ椀を差し出し、顔に満足げな笑みを浮かべている。その様子に、忠三郎は軽く息をつくが、晩秋の冷えた空気の中、湯気が立つ椀の中身が妙に美味そうに見える。
「まあ、ありがたく頂戴いたそう」
 忠三郎はそう言いながら、慎重に一口すすってみる。
(はて…)
 普段滝川家の屋敷で食べるものとは明らかに異なる味わいに、忠三郎は思わず首を傾げた。何かしら、ほろ苦く、塩気も強い気がする。そんな様子を見て、義太夫が笑った。
「気づいたか。味噌が違うのじゃ」
「味噌が違う」
「然様。これは戦さ場用の味噌じゃ」
 義太夫の説明に、忠三郎はますます訝しげな顔をした。
 陣中で使われる味噌は、普段の米から作られる味噌ではなく、三河や尾張、美濃で常用されている豆味噌だった。信長が米味噌を「水っぽい」と嫌い、豆味噌を常用としていたため、近江出身者の多い滝川家でも戦場では豆味噌が用いられていた。
「ちと苦く…塩気が多すぎて、いささか食しにくい…」
「豆を潰したものゆえ、さもあらん。されど戦さには豆と塩じゃ。此度は兵糧丸も味噌玉も豆味噌で作っておる」
 義太夫が言う通り、豆味噌はその高い塩分と豆のコクが特徴で、保存性が高く、厳しい戦場でも持ちこたえる。普段の食事とは異なる濃い味付けが、しばしば胃に重くのしかかるが、いざというときには確かな力になる。
 忠三郎は苦味を感じつつも、じんわりと体に染みるようなこの独特の風味を味わい直した。

(散々な負け戦の挙句に義兄上から叱られ、気が滅入っておると察したのであろうか…)
 ちらりと義太夫を見ると、義太夫が茶化すように言った。
「殿に叱られて、拗ねておるのではないかと思うてのう」
 義太夫が茶化すようにそう言う。
「拗ねておるとはまた随分な…」
 心外なことを言われ、忠三郎はわずかに眉をひそめたが、否応なく胸の内が見透かされたような心地だ。叱られた自分が少し意気消沈しているのは否めない。義太夫が差し出してくれた豆味噌の椀を手に取ると、その塩気がじんわりと体に染み入る。

 義太夫はしみじみと、まるで明日への励ましを込めるように続ける。
「勝敗は戦さのつきもの。今日負けても、明日勝てばよい」
 味噌の味わいが、いつも以上に深く、風情が漂う晩秋の気配と重なる。赤く色づいた葉が夜露に濡れ、遠くから虫の声が風に流れてくる。冷えた空気に息を吐けば、わずかな白い煙が秋の景色に溶けていく。忠三郎はじっと晩秋の風を感じながら、ふと自然に肩の力が抜けたような気がした。

 夜明け前の冷たい空気を切り裂くように、堀久太郎と共に兵を率いて比自山を駆け上がった忠三郎は、意気揚々と将兵に声をかけた。
「伊賀の者どもに思い知らせてやるのじゃ!」
 闇に包まれた砦に向かい、力強く先陣を切って進む。木々の陰が不気味に揺れる中、騎馬武者が続き、馬の脚は勢いよく砦の柵を飛び越えた。後に続く足軽たちの手により、バキリと柵が割られると、何の抵抗もなく道が開けた。
「これは…」
 中へと突入しても、そこには人影ひとつない。忠三郎は一瞬、息を呑んで周囲を見回したが、ただ風が吹き抜け、草がざわめくばかりで、兵士たちも戸惑い顔だ。

「久太郎。これは如何なることか」
 堀久太郎も唖然とした表情で砦内を見渡し、険しい顔つきになった。
「伊賀の者どもにしてやられたわ」
 久太郎の声は、悔しさを噛み殺すように低く響いた。忠三郎も唇を噛み締め、先ほどまでの意気込みがひとしきり萎んでいくのを感じた。

 どうやら、昨日の大軍勢の到着を見て、伊賀衆は夜陰に乗じて砦を放棄し、姿を消してしまったようだ。
「やはり伊賀者、素破の類は手強い…」
 忠三郎が悔しさを滲ませながら呟くと、久太郎も無言で頷き、砦の奥へと目をやった。抜け殻のように静まり返った砦には、焚き火の跡だけが冷たく残っている。風が冷え込む中で、二人の心にもひやりとした思いが走った。
「また、奴らを追って山を彷徨うか…いやはや、骨が折れる」

 二人は肩を落としながらも山を下り、一益の前で一連の顛末を報告した。一益はいつもの静かな眼差しを向け、軽く首を振って
「ふたりとも、気を落とすことはない。これもすべては我が計略のうち」
 と告げた。
「では…義兄上は、伊賀衆が逃げることをご存じだったので?」
 忠三郎が目を丸くして問うと、一益は淡々と答えた。

「伊賀の者どもも、に愚かではない。されど逃げ場所は限られておる。奴らが逃げ込むとすれば、伊賀の最奥、赤目の柏原城。そこへ女や子供も伴って籠城しようという算段であろうが…」
 一益の口元にわずかな笑みが浮かんだ。忠三郎と久太郎もようやく合点がいく。柏原城は、その地形から攻めにくいが、籠るにしても人々を収容するには限度がある。大勢が籠城すれば、その分、兵糧も早く尽きていく。
「さすが滝川左近殿…」
 と久太郎が思わず感嘆の声をもらすと、一益はその声を軽くいなしながら、冷静に語り出した。

「義兄上は最初から、兵糧攻めをお考えであったと?」
 忠三郎が問うと、一益はわずかにうなずいた。その眼差しには、信長の「殲滅せよ」という厳命がちらつくも、戦況を見極める確かな意志が伺えた。
「然様、敵にとってこの伊賀の地はどこもかしこも己の庭のごとき場所。余所者の我らがいかに大軍を揃えたとて、まともに力攻めしては得るものも少ない。急いては事を仕損じる。速やかならんことを欲するなかれ。速やかならんことを欲すれば則ち達せず。焦って力攻めに走れば、味方の兵をいたずらに失うばかりじゃ」

 一益の言葉に、忠三郎は深く頷き、改めてその慧眼に感服の念を抱いた。久太郎もまた、伊賀衆の狡猾さと土地勘を思えば、彼らの知略を真正面から受けることは、愚かであると痛感した。晩秋のひんやりとした風が吹き、枯れ葉が舞い散る山々の景色が、冷徹な戦術の必要性を静かに語りかけてくるかのようだ。

「柏原城を取り囲めば、最早敵は逃げる術もなく、あとはただ座して死を待つばかりとなろう。その時こそが、和睦を持ちかける絶好の機会と心得よ」
 夕刻、薄紅の残る空を仰ぎつつ忠三郎は、義兄の策の妙に言葉を失う。燃え残る秋の陽が山の陰に沈む頃、次なる戦の静かなる幕開けの気配が、冷たい空気の中に漂い始めていた。
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