獅子の末裔

卯花月影

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12.紀州の烏

12-4. 年を経て昔を偲ぶ

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 三月に入り、雑賀衆は誓紙を出して織田家に降伏した。信長は朱印状を出して降伏を認め、代官を置いて都へ引き上げた。

 忠三郎が都から日野に戻ったのは四月。故郷の大地は、すでに田植えが終わり、広がる田畑は一面に新緑が息づいていた。
 若々しい稲の苗が、陽の光を浴びて、まるで命そのものを輝かせるかのように風に揺れている。その景色は、静かでありながらも、自然の力強い息吹を感じさせ、忠三郎の心を豊かに染めあげる。四方に広がる緑は、戦場の喧騒を忘れさせる静寂と、変わらぬ故郷の温もりを思い出させた。

(やはり我が城が一番落ち着く)
 居間に入り、脇息を引き寄せて座ると、変わらぬ故郷の山が見えた。ふぅと息をつく間もなく、誰かが近づいてくる足音が聞こえてくる。
 やっと戻ったというのに誰だろうか。
「若殿。お戻りで」
 見覚えのない侍女が姿を現した。この館の者ではない。父の館か、祖父の館で働く者だろうか。

「御台様が首を長くしてお待ちでござります」
 御台様とは信長の娘、吹雪のことだろう。ということは、この侍女は吹雪に仕える侍女らしい。
(珍しいこともあるもの)
 吹雪が呼ぶなどと、年に一度もないことだ。滅多に顔を合わせることもないので、同じ城にいることさえも忘れていた。
「支度を整えたら、そちらへ向かうと伝えよ」
 戻る早々、落ち着かないが、無造作に扱うこともできない。侍女が心得て吹雪の館に戻っていくと、さて、何を着ていこうかとぼんやりと考えた。

 吹雪の妹、風花は滝川一益に嫁いで以来、次々と子をもうけ、八郎、葉月、六郎に次いで、昨年は第四子となる七郎を生んでいる。妹の度重なる出産にあたって、吹雪は欠かさず祝いの品を贈っているが、その心中を知る者は多くはない。
 忠三郎もまた、吹雪の心に隠された思いに気づくことなく、近頃はもっぱら、義太夫とともに都の傾城屋から遊女を呼び寄せ、京にある滝川家の屋敷で骨休めをするのが常となっていた。そこでは、戦の喧騒から解放されるひとときの安らぎを得ていたが、その裏で家中が混乱していることには無頓着だった。

「若殿!若殿、一大事でござります!」
 町野左近がどたばたと騒がしい音を立てて走ってきた。
「爺は絶えず忙しそうにしておるのう」
 忠三郎が笑ってそう言うと、町野左近は慌てふためき、
「そのような悠長なことを言うておる場合ではありませぬ。ついに、ついに…」
「ついに?」
 町野左近はごくりと唾を飲みこむ。
「正寿様のことが御台様に露見してしもうたので」
「何、それはまことか」
 当年三歳の正寿丸はおさちが後藤家の館で産んだ子だ。
 危険を察知した後藤家の家人の手により、越前へ落ち延びようとしていたところ、事情を知った武藤宗右衛門が敦賀の関所で保護していた。
 越前一揆攻めのあと、宗右衛門から受け取り、密かに町野左近に渡して町野夫婦に育ててもらっていた。

 それから二年もの間、正室の吹雪には内密にされていたものが、何故、今回、吹雪の知るところとなったのか。
「父上が正寿様を城へお連れし、御台様に引き合わせてしまったのでござります」
 忠三郎や町野左近が紀州攻めで留守にしていたとき、留守を預かっていた町野左近の父、町野備前守が正寿丸を吹雪に会わせてしまったという。
「なにゆえ吹雪に会わせるなどということを…」
 どううっかりすれば、そんなことになるのか。

「父には御台様に内密にしていることを話してはおりませなんだ。それも、元はと言えば、若殿が御台様に話を通すと仰せられ…」
 正寿丸を日野に連れてきた当初はそのつもりだった。
 しかし機会を逸し、言いそびれた。その結果、約二年の間、吹雪には何も話していない。
(では呼び出されたのは、正寿がことか)
 間違いない。今、吹雪の元へ行けば事と次第を問いただされる。

「されど、これで御台様はご安堵なされておいでかと」
「安堵?何ゆえに?」
「もしや若殿は、女子に興味がないのではないかと、そう案じておられたので」
 頭にハエが止まっても気づかないような吹雪のことだ。本気でそう思っているのだろう。それにしても、どうしてそんな発想に至ったのか。いつにも増して吹雪がよく分からなくなる。

「然様なことはないと、おぬしが雪に話せばよかったのではないか?」
「そのようなことを申し上げては、まさに墓穴を掘る様なもので」
 確かに町野左近の言う通りだ。周りの者も、皆、否定したくてもできなかったようだ。
「吹雪に子が生まれた折に、正寿のことを話そうと思うていた。今は拙い。なんとかならぬか」
「なんとか、とは。これは如何ともし難いお家の大事。ここは潔くお覚悟を決めていただき、若殿が御台様の元へ行き…」
「いや、それにはまだ早い。爺、かようなときこそ爺の出る幕ではないか。雪の元へ行き、穏便に済むように取り計らえ」

 忠三郎は笑ってそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。
「そ、そんな…。若殿はいずこへ?」
「おぬしの屋敷じゃ」
 まるで吹雪のことなど忘れてしまったかのように、忠三郎はふらりとした足取りで馬屋へと向かった。その心に何かしらの思いがあるのか、それともただ無心でいるのか、いつもながら誰にもわからない。
 馬のいななきが遠くから微かに聞こえる中、忠三郎は軽く頭を振り、その音を振り払うように町野左近の屋敷に向かって馬を走らせた。

 日野中野城から少し離れた山村に住んでいた町野左近は、忠三郎の傅役になってから城下に屋敷を構えるようになった。
(最後に正寿の顔を見たのは…)
 昨年の暮れくらいだったかもしれない。町野左近の妻、おつうに抱かれていた姿を覚えている。
 屋敷に近づくと、垣根ごしに幼児の笑い声が聞こえてきた。
(この声は…)
 もしや正寿ではないだろうか。忠三郎は慌てて馬から降りて、割れた竹垣の隙間から、こっそりと中を伺う。
 おぼつかない足取りで庭先を歩く幼い子供が見えた。その後ろをおつうがつかず離れず、ついて歩いている。ややうつむき加減ではあるが、目元・口元がおさちに似ているような気がした。

(本来であれば…)
 幼い正寿の傍にいたのはおさちだった。おさちは昔から、弟の喜三郎や年少の従弟たちの面倒をよく見ていた。おさちが生きていれば、乳母に任せることをせず、自分が育てるなどと無茶なことを言い出したかもしれない。
(それはそれで、よかったかもしれぬが…)
 懐妊を知った時、忠三郎はおさちとともに子の成長を祝い、共に見守るつもりでいた。
   赤ん坊をあやすおさちの姿を何度も心の中で思い描いては、微笑んでいたものだ。幼い子がやがて立ち上がり、初めての一歩を踏み出し、言葉を覚え、笑顔を見せる――そのすべての瞬間に、おさちはどんなに喜び、どれほど幸せそうな表情を浮かべるだろうかと。
(されど、もうおさちはいない)
 今となってはただの夢に過ぎない。おさちが隣にいて共に喜ぶはずだった未来は、今や現実のものではない。忠三郎とともに正寿の成長を喜んだ筈のおさちはもうこの世にはいない。どれだけ思いを巡らせても、おさちは戻らない。
 
 正寿の姿をじっと見つめていた忠三郎の目は、次第に正寿から離れ、遠くへと向けられていく。
 深い喪失感が胸に広がるのを感じて、素早く馬の背に跨った。屋敷を離れる忠三郎の背中には、名残惜しさと逃れがたい過去への思いが、重く影を落としていた。風が吹き抜ける中、忠三郎は無言でその場を後にする。

 年をへて昔を偲ぶこころのみ 憂きにつけても深草の里

 (千載集六〇一)
 
 かの人を亡くして何年も経ってみると、生きていたころを偲ぶこころばかりが募ると詠う。

 四月の柔らかな風が忠三郎の周りをそっと包み込んだ。若葉の香りを含んだその風は、木々の間をくぐり抜け、軽やかに草を揺らしながら、過ぎ去った日々の記憶を呼び起こすかのように忠三郎の頬を撫でる。心地よくもどこか寂しさを感じさせるその風が、忠三郎の後ろ姿にひとときの安らぎを与えるかのように吹き抜けていった。

 **********************

 そのころ、三九郎は伊勢・長島から安土に来ていた。
 一旦は恭順した紀州ではあるが、再び不穏な空気が流れ始めている。
「紀州、南郷の一部に不和あり」
 そうこうしているうちに、雑賀荘・十ヶ郷で兵が動いたとの知らせを受けた。
 南郷の本願寺門徒が雑賀衆を引き入れている。畿内を統治している佐久間信盛に知らせを送り、注意を促したが、いかんせん信盛の動きは緩慢であり、兵を集めるのにも時間がかかりすぎる。
 いたしかたなく、三九郎を安土に送り、信長に紀州の動きを知らせた。

「ここで南郷を取られては、今後の紀州攻略に支障をきたすものと、父はそのように案じておりまする」
 一人で信長の前に進み出るのは気の重い仕事ではあったが、信長が嫡男・信忠に家督を譲り、少しずつ権限を委譲しているように、一益は三九郎に家督を譲るため、三九郎にいくつかの役割を与え、しかるべき隠居の日に備えようとしている。
「右衛門に命じて紀州に向かわせよう」
 大軍を動員するには時間が足りない。信長は佐久間信盛に知らせを送り、紀州の動向にあわせて挙兵を促すようだ。

(佐久間殿に紀州が抑えられるであろうか)
 兵力だけであれば、雑賀衆の十倍近い兵を集めることも可能だ。なんといっても畿内及び江南の国人衆の大半が佐久間信盛の与力であり、信盛直属の家臣を含めると織田家の中では最大規模の動員力がある。

(父上も、上様も、佐久間殿を見誤っておるのではないか)
 尾張以来、信長と行動を共にしてきた佐久間信盛。皆、若い頃から気心の知れた仲であり、どこかひいき目で見ているが、ほとんど面識のない三九郎が見る限り、さほど将として秀でているとは思えない。
(佐久間殿が雑賀衆を相手に互角に戦うことができれば、なんの問題もないが)
 果たしてどうだろうか。

 一抹の不安を抱えつつ、安土城下の屋敷に戻ってくると、予想に反して屋敷の中がやけに華やいでいた。
「客人か?」
 当主の一益が留守にしている屋敷に誰が来たというのか、不審に思って留守居の谷崎忠右衛門を呼んで尋ねた。
「はい。忠三郎様が」
「忠三郎?」
 忠三郎はここ安土でも、京でも、我が家のような顔をして滝川家の屋敷に上がり込み、寝泊りしている。
(あやつの厚かましさは義太夫を上回る)
 それもこれも一益が甘い顔をするからだが、常の事として誰も咎めだてすることはない。

「忠三郎はいずこに?」
「それが…母屋に…」
 忠右衛門は答えにくそうにそう言った。母屋には一益の妹の子、章姫がいる。
「もしや章のもとか?」
 三九郎が章姫の存在を知ったのは、章姫が安土に来てからだ。当初、信長の側室になった一益の妹の子だと聞かされ、首を傾げた。
(父上の妹?)
 一益には休天和尚をはじめ、兄弟がいることは知っていた。しかし妹の話は聞いたことがない。
 不審に思ったが、その妹なる人物は織田家の嫡男・信忠の乳母まで務めており、信長の側室として扱われている。あえて取沙汰するのも憚られた。

 母屋に行ってみると案の定、忠三郎と章姫が親し気に談笑している姿が見えた。章姫は普段と変わらず、さながら一輪の花が静かに風に揺れるかのような、艶やかで優美な姿をしている。
 二人の様子を見るに、今日、初めて顔を合わせたわけではなさそうだった。
「章…」
 あえて忠三郎を無視して章姫に声をかけた。章姫は気づいて振り向き、三九郎を見ると明るい笑顔を向けてきた。章姫が微笑むと、明るい笑顔が春の陽光のように柔らかく注がれ、傍にいる者の胸に穏やかな温もりが広がる。
「これは…三九郎殿じゃ。いつ、安土に?」
「来たばかり。先に上様にお目通りしてきた」
「では今日は屋敷に?ちょうどよい。退屈していたところじゃ」
 章姫が喜ぶと、三九郎はいや、と首を横に振り、
「ちと忠三郎に用がある」
 と二人の会話をぼんやりと聞いていた忠三郎を強引に連れ出した。

 簡素な造りの屋敷とは対照的に、安土の町はどこも人で溢れ、活気に満ちている。賑やかな商人たちの声が四方から響き、色鮮やかな店先が通りを彩り、その賑わいは町全体を包み込んでいた。
「如何した、三九郎。紀州に動きがあったか?」
 何故連れ出されたのかに気付いているのか、いないのか。忠三郎は悪びれることもなく、笑顔を見せる。
「二月の紀州攻めの折の鈴木孫一の采配は、敵ながら惚れ惚れするほどに見事であったと、武藤殿が仰せであった。わしも件の鈴木孫一とやらと直接対峙したいものじゃ」

 章姫のことなど忘れたかのように紀州の話を始めたので、三九郎も素知らぬ顔をして話を合わせることにした。
「その紀州のことであるが、佐久間殿に総指揮を任せておくには些か不安がある」
 そもそも雑賀衆との和睦は、今後、本願寺とは事を構えないという約定のもとになされている。無論、信長がそんな約定を守るはずもなく、配下の佐久間信盛に命じて、大坂本願寺領を取り巻くように砦を築かせ、囲みを解くそぶりも見せない。雑賀衆は織田方の動きを見て、約定を違えたと怒っているのではないか。

「孫一が動きを見せたか?」
「上様も父上も、あの鈴木孫一という男が分かっていない。本願寺にその人ありと言われた孫一の信心はまことのものじゃ。本願寺が右と言えば右を向く。織田家が本願寺と争うというのであれば、雑賀もまた、織田家と争うことを厭わぬであろう」
 紀州を巡って再度、大掛かりな戦さになる。三九郎はそう見ている。
「おぬしはそう思うか」

 忠三郎は、沿道の店先をちらりと覗き込み、時折野に咲く花に目をやりながら、風に揺れる一枚の葉のように、その心の所在を定めかねているようだ。
 聞くともなく、見つめるともなく、その姿は一瞬の興味に導かれながらも、何か遠い思案の底に沈んでいるかのように映った。忠三郎の心は、何かを捉えようとしながらも、常にどこか掴みどころがない。
「章姫殿が退屈されておる。何か面白きものを買い求めようと思うたが、なにがよいかのう」
 紀州の話に興じていた矢先、、章姫とは。
(全くこやつの心のうちはどこにあるのか)
 三九郎は呆れ半分に忠三郎を見やるが、忠三郎は意に介することなく、どこか遠くを見つめながら、ただ楽し気に笑みを浮かべるばかりだった。
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