獅子の末裔

卯花月影

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11.旭日昇天の勢い

11-5. 小国寡民(しょうこくかみん)

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 翌日未明、滝川一益率いる騎馬鉄砲隊が天王寺砦への血路を開いた。その隊列は風の如く駆け抜け、銃火の閃光が轟音とともに朝明けの空を斬り裂く。
 敵の防御は次々と崩れ、兵たちは瞬く間に倒れていく。天王寺砦への道は、血で染まった屍を越えて開かれた。激しい銃声が絶えず響き渡る中、信長率いる三千の兵は天王寺砦まで突撃し、明智光秀と合流。翌朝には反撃にでて一揆勢に攻めかかり、逃げまどう一揆勢を大坂本願寺の木戸口まで押し戻した。
「上様自らご出馬いただくとは…」
 光秀をはじめ、佐久間甚九郎や江南衆はみな、驚くとともに、一命を取り留めたことで安堵した様子だった。確かにここまで不利な戦さで兵を纏め挙げ、敵を追いこむことができるものは信長以外にはいない。

(さすがは上様じゃ)
 忠三郎は敵が逃げ去ったあとの戦場で、荒い息をつきながら甲冑を脱ぎ捨てると仰向けに倒れ込んだ。戦場の喧騒が遠のき、耳に響くのは、自分の鼓動と呼吸音だけだ。
 胸の中で高鳴っていた緊張がゆっくりと解け、体の力が抜けていくのを感じた。
(無事に砦にたどり着くことができた)
 銃弾が雨あられと注がれている中を、怪我一つ負うこともなく砦に着き、逆に敵の意表をついて追い立て、ついには勝利を手にした。

 自分でも信じられない。生と死の狭間をさまよったその恐怖が、今や少しずつ遠のいていく。背中に感じる大地の冷たさが、生き延びた現実を教えていた。
 安堵がゆっくりと全身に広がると、忠三郎は微かに笑みを浮かべ、深く息を吐き出した。
「若殿、かようなところに」
 町野左近が忠三郎の馬を見つけて、駆け寄ってくる。

「爺。そう慌てるな。我等は勝ったのじゃ」
「そうも参りますまい。上様がお呼びで」
「上様が?」
 今回の合戦の論功行賞だろうか。この合戦では一番槍も一番首も挙げてはいない。さしたる恩賞は期待できないと思っていたのだが。
 首を傾げて信長本陣へと足を向けると、諸将はすでに揃っており、信長が怒り心頭で仁王立ちしている姿が見えた。どうも論功行賞などという目出度い雰囲気ではないようだ。

(これは何故のご立腹であろうか)
 忠三郎は色を失い、そっと末席に腰を下ろす。
「一族皆が討死した訳ではあるまい。生き残った者は?」
 信長がイライラと歩き回りながら訪ねると、傍にいた佐久間信盛が冷や汗を流しながら、
「未だ生死不明でござりまする」
「生き残った者を皆、必ず見つけ出せ!」
 どうやら原田直政の親族を探しているらしい。

「皆、よいな。かの痴れ者どもを捕らえ、蓄財を全て奪い、我が領内から追い払え。庇い立てする者あらば、同罪と見なす故、このこと努々ゆめゆめ忘れるでないぞ」
 敗戦の責任を取らせる筈の原田直政がすでにこの世にないため、一族全員にその咎を負わせるようだ。
(これは厳しい御沙汰じゃ)
 原田直政に非がなかったわけでもないが、命を捨てて戦ったものに敗戦の責任を全て負わせるのはいささか厳しい沙汰といえる。ましてや原田直政は織田家の連枝にあたり、信長の一子・信正の叔父だ。

 忠三郎は目を伏せ、無常感に包まれた。もしこの敗戦がなければ、原田直政も、その忠実なる一族も、今なお命を繋ぎ、信長の片腕として畿内でその権勢を振るっていただろう。だが、戦は非情だ。誰もが栄光を掴むことを夢見ながら、いつの間にかその運命は引き裂かれ、砂のように指の間から零れ落ちていく。
(あれほど権勢を誇っていた原田殿が…)

 かつての原田直政の姿を思い浮かべた。その堂々たる背中、その鋭い眼光、そして信長に並び立つ姿――すべてが、今では過去の幻に過ぎない。一瞬の出来事であったが、彼らの名声も、誇りも、まるで風に吹き飛ばされる落ち葉のように消え去ってしまった。
 忠三郎の胸には、何とも言えぬ寂しさが広がった。栄華も名声も、やがては時の流れの中でかき消される運命にあるのだと、否応なく感じざるを得なかった。かつての威光があまりにも強く輝いていただけに、その消滅は一層、心に深い影を残した。

 信長の前を下がり、若江城へと戻る忠三郎の目に、退陣の支度を整える滝川勢の姿が見えた。
(上様はお怒りのあまり、義兄上になんの褒美も取らせぬというのか)
 今回の一番手柄は自ら敵の矢面に立ち、騎馬鉄砲隊を率いた一益だろう。しかし先ほどの評定では原田直政一族の始末のことだけで、褒美については何の話もでなかった。
(義兄上は如何お考えなのか)
 命を懸けて戦った家臣たちの手前もある。このまま何事もなかったかのように国に戻るとも考えられない。

 伊勢に戻る一益は、都や近江は通らず、かつて壬申の乱で大海人皇子が通ったと伝わる古道・大和街道を使って大和を通り、伊勢の関から四日市へ戻る。
 ふらりと足を向けると、滝川勢は陣払いとあって、緊張から解き放たれ、安堵した空気が流れていた。

「あ、鶴様」
 忠三郎を見た滝川助九郎が、一益を呼ぶために陣所に駆けていく。その姿を見て、忠三郎はあぁ、と気づき、背後に控える助太郎に声をかけた。
「助太郎、おぬしも皆と一緒に伊勢に戻りたいのではないか?」
 助太郎は少し眉を挙げたが、いいえと首を横に振る。
「忠三郎様をお守りすることが我が役目。殿のご意向でござります」
 生真面目にそう答えたので、忠三郎は苦笑して一益が現れるのを待った。

 初夏の柔らかな風が、忠三郎の頬をそっとなでていった。戦の喧騒とは対照的に、その風は穏やかで、静かな自然の調べを運んでくる。草木の匂いがかすかに漂い、鳥のさえずりが遠くから聞こえてきた。
 目を閉じると、心に重くのしかかっていた苦悩や疲労が、風に乗ってどこか遠くへ流れていくような気がした。
「鶴。如何した」
 気づくと一益がすぐ傍に立っている。
「伊勢にお戻りと聞き…。此度の合戦では一番手柄の筈。されど、義兄上には何も褒美はないので?」
 本当に聞きたかったこととは少し違う気もしたが、うまく言葉にすることができず、思いついたことを聞いてみた。
「此度の一番手柄は上様であろう。わしとて、上様が攻めかかると仰せにならなければ、敵に取り囲まれた砦に向かって行こうなどとは思わぬ」
 一益の言う通りだ。あの場面で、敵中に取り残されているものたちを救い出すことができる者がいるとしたら、それは信長しかいない。
「原田殿は、さぞや無念の思いを残していかれたことかと」
 原田直政は何を思い、何を感じながら最後の瞬間を迎えたのだろうか。
「あのような生き方では、華々しく散る以外はないのかもしれぬ」
 一益がまた謎のようなことを言う。
「それは如何なることで?」
「老子の小国寡民を存じておるか?」
「小国寡民?」

『小国寡民、什伯じゅうはくの器有りて用いざらしむ』
 小さい国で、民は少ない。多様な器具があっても、使わせない。

『民をして死を重じんて遠くうつらざらしむ、』
 民に命の大切さを考えさせ、遠くへ移り住みたいと思わせないのであれば、

舟輿しうよ有りといへども、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之をつらぬる所無し。』
 車と小舟があっても乗ることはなく、鎧と武器があっても、戦さをすることがない。

『民をしてた縄を結びて之を用いしめ、』
 民には、古来からの習慣であった縄を結んで約束の印とするようにさせ、

『其の食をうましとし、其の服を美しとし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましめば、』
 食事をおいしく、服を美しいと思い、住まいに満足し、生活様式を楽しませれば、

『隣国相望み、鶏犬の声相聞こゆるも、』
 隣国同士、互いに見渡せるとしても、鶏や犬の声が互いに聞こえる近さでも、

『民老死に至るまで、相往来せず。』
 人々は年老いて死ぬまで、互いに行き来しようとしない。

 老子の説く理想的な国とは、民が少ない小さな国。その国では便利な道具があっても使われることはなく、過剰な知識もなければ欲もない。衣食住が足りていることで満足するので、他の国に行きたいと願うこともない。その結果、自分たちにないものを求めることもなく、他の国を妬み、奪う心も生まれることはない。
 欲望に駆られ、他国の富や力を求めるのではなく、己の持つものに充足することで、真の泰平の世が訪れる。
 しかし進化や技術の発達、便利な生活を求める多くの人には、この老子の考えが受け入れられることはなかった。

(小国寡民とは…まさに今の織田家とは正反対のような)
 信長の大志、武力による天下泰平への道。その陰に潜む無数の犠牲や苦悩を目の当たりにした今、忠三郎の心は揺れ動いている。

「人は多くを得ようとするあまり、多くのものを失う。愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。有てるものを以て足れりとせねば、疲れ果て、やがては燃え尽きることとなる。存じておるか。三雲佐助がそなたに教えたという桃花源記。あれは陶淵明が小国寡民をもとに書いたと伝わる」
「それは…存じませなんだ」

 知らなかった。あの桃源郷の話に、そんな真意が隠されていようとは。
(では佐助が言いたかったことは…)
 鋭い刃と血によって築かれた国は、脆く、いつ崩れ去るかもわからない。勝利がもたらす一時の繁栄は、次の争いの種を生むに過ぎない。
 佐助が望んだのは、武力で他国を制圧することではなく、有てるものを以て足れりとすることでもたらされる泰平の世だったのではないだろうか。

 忠三郎はふと、手の甲で頬を撫でるようにして、初夏の風を感じ取った。まるで、過ぎ去った時が戻ってきたかのように、胸の中に何か懐かしさがこみ上げてくる。遠い昔、このような風の中で佐助とともに無邪気に過ごしていた日々が、ほんの一瞬、頭をよぎった。
 慣れ親しんだ古里の山河。そこに広がるのは、雄大でありながらも、どこか暖かく、慕わしい景色。山の緑、風に揺れる草木の香り、田畑で汗を流す人々。あの古里の山河が教えてくれたのは、戦いの果てに得る栄光や富ではなく、足元にある何気ない日常の中に隠されていたものだったのではないか。

「それから…桃の花の礼がまだであったな」
 一益が思い出したように言ったので、忠三郎は内心、何のことだったか思い起こそうとする。
(もしや…章姫殿に送った桃の木の枝のことか)
 町野左近には確かに、章姫に渡すようにと伝えた筈だが、何の間違えか、一益に渡されてしまったようだ。

(されど、共に添えた和歌は…)
 一益の様子を伺うに、和歌は見ていないらしい。
「なにやら義太夫が生けて、愛でておった」
「義太夫が?」
 義太夫は、忠三郎の思惑が一益に知られないようにと、必死に胡麻化し、殊更大げさに桃の枝を喜び、一益の居間に飾ったのだ。

 そんなことになっているとは知らない忠三郎は、よくわからないながらも桃の花を眺めて無邪気に喜ぶ義太夫の姿が目に浮かび、思わず口元が緩んだ。その光景は、戦場の厳しさを忘れさせるような、不意打ちのような可笑しさがあった。
「義太夫が桃の花の花びら一枚に心を寄せるとは」
 いかにも不釣り合いなその姿が、忠三郎の胸にじわりと笑いを引き起こす。
 随分と意図したことから外れているが、誰かが喜んでいるのであれば、それでもいいかもしれない。
「であれば、桃の花も喜んでおることでしょう」
 あまり笑っていると一益に不審がられてしまう。忠三郎はさりげなく、こらえた笑みを隠す。
 しかし、心の中にはその温かな光景が何度も繰り返されていた。
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