獅子の末裔

卯花月影

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9.伊勢の残滓

9-1. 二人の謀将

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 忠三郎は三の丸に戻り、町野左近に声をかけ、家臣たちを広間に集めるようにと伝えた。
「お爺様を二の丸に幽閉する」
 忠三郎が思い切ってそう告げると、居並ぶ家臣たちは皆、動揺を隠せず、互いに顔を見合わせている。長年仕えてきた主君を裏切ることに少なからず抵抗があるだろう。一様に驚いた顔をしたが、
「若殿。ようやくご決断くだされたか」
 町野左近が安心したように言う。
「ようやく…とは」
「恐れながら大殿のなさりようには我等一同、当家の行く末を憂いでおりました。されど殿は病身の上、筋の通らぬことはなさらぬお方。いかに気にそぐわぬことがあろうと大殿を封じ込めることなどはお許しにはならぬ。そして若殿は争いごとがお嫌い。これでは我が家が正されることはないと諦めておりました」
 他の家臣も同じ意見のようだ。皆が町野左近の話に頷く。

 父・賢秀は『日野の頑愚』と揶揄されている。頑愚とはつまり、愚かな程に頑固者。筋の通らぬことを嫌うが、同時に、父である快幹に直接何かをすることは道義に反すると言うだろう。
「案ずるな。これより滝川左近殿とお爺様が対面なさる。その折に、お爺様が何を画策していたのか、明白になる。皆はその後、お爺様に二の丸で静かにお過ごしいただけるよう努めてくれればよい」
 家臣たちには広間の隣の部屋で待機するようにと言い含め、祖父と一益の待つ本丸・広間へと向かった。

「遅くなりました」
 一礼して中へ入ると、なんとも重々しい静けさが漂い、息が詰まるような緊迫した空気が流れている。
「飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家の宿老、滝川左近殿が我が城にわざわざお越しとはのう」
 祖父がそう言って笑うが、その笑みには妙な威圧感がある。長年の戦場で鍛え上げられた冷酷で鋭い目つきとともに、まるで蛇が獲物を狙うように不気味な微笑を浮かべている。
 それに対して一益は、緻密に張り巡らされた計略と独自の倫理感を持ち、その鋭い頭脳で相手をじわじわと追い詰めてきた謀将。その目の奥には深い洞察と策謀が秘められている。
 一益の口元にも微かな笑みが浮かんでいるが、それは油断ならない警戒心を示していた。
「快幹殿も息災でなによりじゃ」
 いつもながらにどこか傲岸な態度だ。この二人の間にいると、息をするのも憚られる。
 そこへ膳番が二人の前に膳を運んでくる。
 快幹はそれを見て、おや、という顔をして
「これは…器が違うておる。これは忠三郎のものであろう」
 と膳番に声をかける。
「いえ。それがしは早、いただきました故、どうぞ、お爺様がお召し上がりを」
 忠三郎がにこやかにそう言うと、快幹は平静を装いつつも、目の色が変わっるのがはっきりと分かった。

(義兄上の仰せの通りであったか)
 一益は食事そのものではなく、器に毒が塗ってあると、そう指摘したのだ。
(盲点であった)
 鯉に毒見させていたが、鯉が食べても大丈夫だったものでも、妙な味がして、吐き出していたときがあった。
「快幹殿。如何なされた」
 一益が平然とそう聞く。その言葉の裏には、無数の伏線と未だ見ぬ結末が隠されていることを快幹は感じ取ったようだ。二人の知略と野望がぶつかり合い、互いにどこで牙を剥くか、微妙な駆け引きが続く。その場にいる誰もが息を呑み、今にも大きな何かが訪れそうな緊張感に包まれていた。
(お爺様は如何に言い逃れなさるのか)
 忠三郎が息をつめ、祖父の出方を見守っていると、快幹が突如、笑い出した。

「これは…戯れが過ぎるのう」
 祖父は顔色一つ変えないが、明らかに常とは違う。快幹の堂々とした風貌はそのままだが、その眼には予想外の出来事に対する動揺が浮かんでいる。乱世の奸雄と呼ばれ、誰もが恐れた祖父が言葉を詰まらせる姿は、なんとも滑稽だった。
 ひとしきり、声をあげて笑った快幹は、怒りを露わにして立ち上がり、忠三郎に詰め寄る。畳を踏む音がひときわ鋭く、まるでその一歩一歩が床をも砕かんばかりの勢いだ。
「我が蒲生家は俵藤太藤原秀郷公以来の名家。先祖代々、この地を守り、治めてきた。それがあろうことか、信長などと尾張の片田舎のどこのものとも分からぬ怪しげな血筋の卑賎の者にこの地を踏み荒らされた。その上、愚かな孫は信長に取り込まれて娘まで連れ帰り、織田家の者のように振舞うようになり下がりおったわ」
 祖父は自分をそんな風に見ていたのか。

(されど、これでよかったのかもしれぬ)
 はじめて祖父の本音を聞けた。何故、執拗に命を狙ってくるのかもわかった。これでもう、祖父に淡い期待を抱くこともないし、くだらない茶番を演じる必要もない。祖父が本音を明らかにしなかったように、忠三郎も思いを口にすることはなかった。これまで争いを避けるために、どれだけ無駄な時を過ごしてきたことだろうか。
 忠三郎は不思議と可笑しくなって、フッと笑う。
「すべて、世の中の在りにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなる様、またかくの如し。いはむや、所により、身の程に従いつつ、心を悩ます事は、挙げてかぞうべからず」
  世の中の生きづらさ、わが身と住処との儚く、空しいことは先に述べた通りである。まして置かれた境遇を受け入れ、心を悩ませたことは数え上げることはできない。
 度重なる戦乱と天災に苦しむ世を生きた歌人・鴨長明は世俗を離れて書いた方丈記の中でそう綴る。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見きわめることができるだろうか。

 一益は、悲し気に方丈記の一節をつぶやく忠三郎を黙って見ていたが、
「その孫を、家を守るために人身御供にして岐阜に送ったは快幹殿であろう。忠三郎は命じられるがまま岐阜にいったまで。それが、ようやく質から解放されて戻った孫を毒をもって殺めようとは、いかに乱世とはいえ言語道断、許しがたい所業。斬って捨てたいところではあるが、忠三郎に免じて命は取らぬ。されど、次はないと思われたい」
 その一言一句はまさに、これまで忠三郎が言いたくても言えなかったことだった。
(許しがたいと、義兄上はそう思われているのか)

 忠三郎が深く傷ついていることが分かっているかのように、この胸の内を代弁してくれている。
(たとえ口には出せずとも…)
 こうして代わりに怒り、口には出せぬ、晴らす術なき思いを分かってくれる誰かがいるのであれば、それだけで充分と思えた。
(そうか、だから…月の輝く日に、会いたいと、そう願ったのか)
 ようやく自分の欲していたものに気付いた。自分でも気づかぬうちに、幼い頃からずっと、待っていた。さげすまれ、悲しみに沈む心を知ってくれる誰かを。
「お爺様。二の丸にお引き取りくだされ。二の丸からは今後、一歩も出られませぬように」
 忠三郎は祖父にそう告げると、静かに襖を開けた。どうなることかと待っていた家臣たちが姿を現し、快幹を取り囲み、広間の外へと連れていく。
「大殿。こちらへお越しくだされ」
 長年にわたって築き上げた策略や権謀術数で数々の敵を欺き、難局を切り抜けてきた快幹だが、今回はその策が尽き、逃れられない状況に追い詰められている。
「おのれ…信長ずれにしっぽを振って、わしを捕えるとは何たる不幸者じゃ!魔王の手先に成り下がりおって!」
 未だ自らの敗北を認めることができないように、罵声をあびせながら去っていく祖父の姿は、かつての威厳ある将としての面影がわずかに残っているものの、その背後には長年の策略と悪事が崩れ去った跡が見えた。

 快幹を見送ると、どっと疲れが押し寄せた。忠三郎はふぅと息をついてその場に座り込む。
(これですべては終わった)
 佐助が捕らわれてからずっと、祖父と戦ってきた気がする。その戦いが終わりを告げるかのように、広間は急に静かになった。
 一益が何事もなかったかのように振り返る。
「鶴。そなたは心の中で、人を恨みたくないと思うておる。それでよい。誰も恨むな。世は乱世。時は戦国。母御もそう思うておられるじゃろう。今のままのそなたでおれ」
 そうなのだろうか。自分でも分からないが、祖父を恨んだり憎んだりする気持ちは不思議と湧いてはこない。
「義兄上。そのように案じてくださらねども…もう、気は晴れました。義兄上が、わしの思いを全て言うてくだされたではありませぬか」
 いつもなら冷静に振る舞う忠三郎も、今は言葉が喉につかえるようで、ぎこちなくしか答えられなかった。不器用ながらも、いつも自分を気遣ってくれる一益のことばは、忠三郎の胸の奥に温もりを起こし、一益への恐れをやわらげる。
 一益は頷き、
「然様か…そなたの気が晴れたか」
「はい。さて、皆を呼んで、酒宴にいたしましょう。腹が減って目が回りそうじゃ」
 うかうかしているとまた食べそびれてしまいそうだ。控えの間で待たされている義太夫は、今宵はうまい酒を飲み、布団で眠れると楽しみにしているだろう。
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