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CHAPTER10 君の嘘
①
しおりを挟む眼鏡が手放せない僕にとって、レンズに水滴が付着するのはとても煩わしいことの一つだ。視界を少しでも邪魔されるのが嫌で、雨の日はこまめに眼鏡拭きを使う羽目になる。
だが、今日はそんなことをしている余裕などなかった。さっきから強風と雨に晒されて上手く前に進めない。眼鏡はおろか、身体じゅうがびしょ濡れだ。
「沙世子、どこだ……」
家を出た僕は、向かい風に足を取られながらがむしゃらに進んでいた。街灯や、時折走ってくる車のライトを頼りに、沙世子の姿を探す。
なんとか稲垣海岸駅まで来たが、あたりは閑散としていた。この時間ならいつもは帰宅する会社員や塾帰りの子供がいるはずなのに、誰も歩いていない。
通り過ぎてきた商店街も薄暗かった。軒を連ねている飲食店が、台風で早じまいをしたせいだろう。
駅の構内に入り、僕は足を止めた。雨と風が凌げるだけでかなり楽だ。
ホッとしたら、少し冷静になってきた。勢いでここまで来てしまったが、あてもなく動くのは危険だし意味がない。沙世子がどこへ行ったのか、考えてみよう。
まず、貴島からかかってきた電話を思い出す。
沙世子はレインコートと長靴を身に着けていると言っていた。いくら台風とはいえ、近所のコンビニに行く恰好じゃない。遠出するつもりなのだろうか。
だとすると、駅まで来て、電車に乗ってどこかへ……。
「いや、違う」
そこまで考えて、僕はゆっくり首を左右に振った。
沙世子は用心深い性格だ。電車に乗って遠くへ行くつもりなら、スマホと財布を家に置きっぱなしにするはずがない。少なくとも財布くらいは持って出るだろう。
一方、パスケースだけは所持している可能性がある。となると、駅から稲高前まではバスで移動できる。
おそらく、沙世子はさほど遠くに行っていない。せいぜい高校の周辺が限度だ。
家から駅までの道に姿はなかった。バスに乗って、稲高方面へ足を向けたのだろうか……。
僕の思考はそこで停止した。
沙世子は学校に用があって外出したのか? なら、母親に行き先を告げていてもよさそうだ。そうしなかったのは、目的地が違うからじゃないのか?
稲高ではないとしたら、どこへ行ったんだ……。
分からない。
絶望感が足元から駆け上がってくるのを感じて、僕は駅の柱に身体を預けた。濡れたチノパンがずっしりと重く、そのままズルズルと座り込みたくなる。
「沙世子……」
軽く目を閉じると、脳裡に沙世子の姿が浮かんだ。
誰よりも美しい少女は僕の想像の中でしだいに小さくなっていって、手を繋いで過ごした子供時代の姿へと変わる。
あのころ、沙世子は黙って絵を描いていることが多かった。
僕はそれをじっと見ていた。おもちゃやゲームで遊んだわけじゃないけど、沙世子の傍で過ごせるだけで楽しかったし、嬉しかった。その気持ちは、今でも変わっていない。
僕は沙世子とただ一緒にいたいんだ――この先も、ずっと。
そうだ。こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。僕が諦めてしまったら、沙世子が危ない目に遭うかもしれない。
誓ったじゃないか。助けるって。考えても分からないなら、ひたすら足を動かせ、葉村宏樹!
ふぅと息を吐いて、もたれていた柱から身体を離す。
気合いを入れ直したところで、貴島から何か連絡が来ているかもしれないと思い、スマホを取り出した。
着信を示すマークはなかった。液晶画面を見て、真っ先に目に飛び込んできたのはデジタル時計だ。その下に、天気予報のウィジェットが表示されている。
当たり前だが、大雨を示すマークがあった。
予想通り、稲垣海岸は打ち寄せる激しい波のせいで立ち入り禁止となっている。台風のあとは砂浜にいろいろなものが打ち上げられて少し汚く見えるので、好きじゃない。
うんざりしながらスマホをしまおうとしたが、僕はそこでハッとした。
立ち入り禁止――すなわち『行ってはいけない場所』。
沙世子は母親に行き先を伝えないまま家を出た。それはもしかしたら、『正直に教えたら外出を止められる』と思ったからではないだろうか。
なぜなら、目的地が『行ってはいけない場所』だから……。
それに、沙世子が身に着けているのはアウトドア用の長靴だ。つまり、ある程度水に浸かることを想定しているはず。
思い浮かぶ場所は、一つしかない。
「海だ……」
僕は呟いて、駆け出した。
ちょうど駅前に停まっていたバスに、発車ギリギリで滑り込む。
細長い乗り物の中には僕と運転手しかいなかった。バス停で待っている人は一人もおらず、稲垣高校前までノンストップだ。
バスを降りてから、猛然と走り出した。
海の間際まで行くには、県立の公園内を突っ切る必要がある。公園にはいくつかの入場口があるが、僕は稲高前のバス停から一番近いゲートを目指した。
スニーカーはすでに洪水だし、進むたびに口の中まで雨が入ってくる。それでも諦めない。諦めてたまるか!
歯を食いしばって走っていると、やがて前方に赤い光が見えた。
パトカーの赤色灯だ。何だろうと思って少しスピードを緩めると、雨や風の音にまじって、男女の怒鳴るような声が聞こえてきた。
「――公園内は立ち入り禁止だよ。君、止まりなさい!」
「お願い。通してください! お願いします!」
ヤッケを羽織った警官が、白いレインコートを着た誰かともみ合っている。そうこうしているうちに、レインコートのフードが外れた。
「沙世子!」
現れた顔を見て、僕は叫んでいた。
警官の制止を振りほどこうとしているのは沙世子だ。僕に負けず劣らずずぶ濡れで、束になった髪からは水がしたたり落ちている。
「離してください。私、行かなきゃ――!」
一瞬の隙をついて警官から逃れた沙世子は、一目散に走り出した。
公園の入場ゲートには『立ち入り禁止』と書かれた重厚な柵が設置されていたが、それを乗り越えようとしている。
「君、やめなさい!」
「沙世子、止まれ!」
僕と警官は慌てて沙世子を捕まえた。男二人に押さえられたら、華奢な少女ではとうてい太刀打ちできない。
「私、どうしても海岸に行きたいの。どうしても……」
僕の腕に縋り付くようにして、沙世子は項垂れた。とりあえずは制止できたようだ。安堵したのか、警官が大きく溜息を吐く。
「君はこの子の知り合いかな」
聞かれて、僕は素直に頷いた。
「はい。僕と沙世子は家が近所で、同じ高校に通っています」
「そうか。二人とも高校生なんだな。……市内をパトロールしていたら、この子が公園の中に立ち入ろうとしていて、止めたんだよ。でも、どうしても海岸に行きたいと言ってね。困っていたんだ。雨や風がこれからもっとひどくなる。君たち、早く家に帰りなさい」
「――嫌です! 私、帰りません」
沙世子は即座に頭を振った。それから僕の方を見て、懇願するように言う。
「お願い、宏樹。ここを通して。私、どうしても海岸に行かなきゃいけないの」
そのまま振りほどかれそうになったので、僕は咄嗟に沙世子の腕を強く掴んだ。
「落ち着け、沙世子。今から海岸に行くなんて無謀すぎる。高波に攫われて、溺れるかもしれないぞ」
「それでも私は行きたいのよ!」
首を左右に振りながら身を捩る沙世子は、まるで駄々っ子のようだった。こんな姿を見るのは始めてだ。すぐ横で、警官が呆れ果てている。
僕は言い聞かせるような気持ちで口を開いた。
「沙世子は行き先を言わずに家を出てきただろう。お母さんが探してるぞ。貴島にも連絡が行ってて、あいつもいろいろ手を尽くしてる。みんな沙世子のことを心配してるんだ。もちろん僕も……。だから、帰ろう」
「嫌よ。私、帰らない。海岸に行く」
「こんな嵐の日に海岸に行って、何をするつもりなんだよ」
そう尋ねると、沙世子の青みがかった瞳が潤んだ。
「……スクールバッグにつけていたマスコットを、落としてしまったの」
「マスコットって、シャチのやつか? 鴨川アクアワールドで買った……」
「そうよ! 三人お揃いで買った、大事なものよ」
僕の言葉を遮るようにして、沙世子は声を振り絞った。瞳から溢れた涙が、頬を濡らす雨とまざり合っている。
「家に帰ってからしばらくして、シャチのマスコットがなくなっているのに気付いたの。昼間、海岸で佐々峰さんともみ合っていたでしょう。そのとき、マスコットのボールチェーンが切れかかっていたのだと思うわ。それで、歩いているうちに落としてしまったのよ……」
まだ明るい時間、沙世子は佐々峰に突き飛ばされて砂浜で転んだ。
そのときスクールバッグも投げ出された。マスコットの金具にダメージが加わった可能性は大いにある。
「家に着くまでに通った道は全部探したわ。稲高前のバス停からバスに乗ったから、車内で落としていないか、バス会社に確認の電話をしてみた……。でも、シャチのマスコットは届いていないって言われたの。だからきっと、海岸で落としたのよ。探していないのは、あそこだけなの!」
細い指が、立ち入り禁止と書かれた柵の先を示す。
今にも僕を振りきって駆け出しそうな沙世子を見て、警官が厳しい顔つきで口を挟んできた。
「危険だから海岸に行っては駄目だ。先ほど満潮を迎えたんだよ。君が本当に落とし物をしたのなら、それはもう波に攫われてしまっているはずだ。探したい気持ちは分かるが、諦めなさい」
「嫌、諦められない! だってあれは、とても大事なものなの」
普段は礼儀正しい沙世子が、年上の警官に敬語を使わないなんて……。
僕が面食らっていると、レインコートに包まれた肩が震えた。
「このままだと、文化祭の発表ができないかもしれない。練習を積んできた劇も、みんなで作ったケコミ幕も、なかったことになってしまう……。もう、あのマスコットしか残っていないの。あのマスコットは、私と宏樹と朱夏が、一緒にいたっていう証なのよ!」
涙まじりの声に、僕の胸がぎゅっと締め付けられる。
華奢な身体から溢れているのは、沙世子の心の叫びだ。ついさっき、僕も全く同じことを考えていた。あのシャチのマスコットがどれだけ大切なものか、理解できる。
だが僕にとっては、沙世子そのものが一番大事なんだ。
「沙世子、気持ちは分かるけど帰ろう。警察の人が言う通り危険だし、マスコットはもう見つからないと思う」
沙世子は僕の腕の中で「嫌……」と呟いた。
「これ以上、何かを失いたくないの。私のせいで、大事なものが消えてしまった。私が嘘をついたから、私が世界一の嘘つきだから……」
そこで、小さな頭がぐらりと揺れた。そのまま崩れ落ちそうな沙世子を、僕は慌てて支え直す。
「しっかりしろ、沙世子。嘘をついたって、どういうことだ。何があったんだ!」
「父は悪くないの……」
「え?」
「父がいなくなったのは、私のせいなの。――何もかも全部、嘘なのよ!」
レインコートから覗く左の甲に、赤黒い傷跡が残っている。沙世子はそこに、右手の爪を強く食い込ませていた。
息を呑んだ僕の頭上を稲妻が走り抜ける。
雷鳴が轟くまでの一瞬の間が、そのときは永遠のように長く感じられた。
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