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CHAPTER7 君の決意

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 僕は「えっ」と息を呑んだ。そんなことをして、大丈夫なのか……。
「いいよー。沙世子お姉ちゃん、はい、これ」
 おろおろする僕をよそに、何も知らない亨くんは沙世子の傍に歩み寄り、素直に画用紙を差し出す。
「……とても、いい絵ね」
 しばらく間を置いてから、沙世子は静かに口を開いた。若干、声が震えている。画用紙を持っている指先は、力が入りすぎて真っ白だ。
 それでも、切れ長の瞳は絵だけを写している。
「亨くんは、シャチのどんな姿が一番『すごい』と思ったのかしら」
 沙世子の質問に、亨くんは即答した。
「シャチがジャンプして水の中に飛び込んだとき、プールの中に大きな波ができて、バシャーンってなってすごかった! 見てたぼくにも水がかかっちゃったんだよ」
「波や水がすごいと思ったのね。だったら、それをそのまま、亨くんが覚えている通りに描いたらいいんじゃないかしら」
「なるほど……。亨くんの絵、かなり上手いと思うけど、水飛沫が描いてないんだ。だから迫力に欠けるのかもなぁ」
 話を聞いていた藤也さんが、納得の表情を浮かべている。
 一方で、亨くんは「うーん」と首を傾げた。
「でも、バシャーンってなったとき、シャチはほとんど跳ねた水に隠れちゃってたよ。ぼくがいたところからだと、お顔が半分と、背中のヒレしか見えなかった」
 亨くんが覚えている通りに描くと、水飛沫がメインの絵になりそうだ。しかし沙世子は、「それでいいのよ」と断言した。
「見えた部分を、一生懸命描くの。亨くんは絵が上手いから、お顔やヒレだけでもシャチだということは分かるし、シャチが大好きという気持ちも伝わるはずよ」
「ぼくが見た通りの絵でいいの?」
「ええ。それで大丈夫。亨くんの心の中にあるものを、その通りに描けばいいのよ」
 亨くんはしばらく沙世子の顔と画用紙を食い入るように見つめた。やがて、「うん」と大きく頷く。
「ぼく、水がバシャーンてなってるところ、描く! あれ、ほんとにすごかったんだ。沙世子お姉ちゃん、ありがとう」
「シャチの周りに描いてあるのは、ショーを見ている人かしら。それはとても上手だし、そのままでもいいと思うわ」
「うん!」
 沙世子が手にしていた画用紙を受け取ると、亨くんは心の底から嬉しそうな笑みを浮かべる。
 僕は改めて紙面を覗き込み、「ん?」と首を傾げた。
「亨くん、聞いてもいいか」
「宏樹お兄ちゃん、何?」
「ショーを見ているのは僕たちだよな。一人足りないんじゃないか。貴島……お姉さんの姿が、どこにもない」
 シャチの周りに描いてあるのは全部で五人。
 小さい男の子は亨くん自身で、その隣の大人と子供は藤也さんと由麻ちゃんだろう。眼鏡をかけているのが僕で、髪が長いのが沙世子だ。
 だが、貴島がいない。一緒にショーを見ていたはずなのに、なぜ一人だけ描かれていないのだろう。
 そのことを指摘すると、亨くんはしゅんと項垂れた。
「だってぼく、お姉ちゃんの顔、何か上手く描けないんだよ……」
「描けない?」
 僕が首を傾げると、貴島がわたわたと口を挟んできた。
「あー、無理しなくていいよ、亨。家族の絵って逆に描きにくいでしょ。それにほら、わたしって絶世の美女だからさぁ。もともとモデルには向いてないんだよね。絵にも描けない美しさ、みたいな?」
「……誰が絶世の美女だって?」
 という僕の突っ込みの直後、沙世子が話をまとめてくれた。
「亨くんが描きたい人だけ、描けばいいんじゃないかしら」
「分かった。そうする!」
 亨くんは満足そうな笑みを浮かべ、「おやすみなさい」と言って弾むような足取りで寝室に戻っていった。
 弟を見送ってから、貴島が沙世子の傍に歩み寄る。
「亨にアドバイスしてくれて助かったよ、沙世子。……その、大丈夫だった? ごめん」
 事情を知らない亨くんがしたこととはいえ、心に傷を抱えている沙世子の前で絵を広げたことへのお詫びが、『ごめん』という言葉に含まれていると思われる。
 沙世子は「大丈夫よ」と小声で答えて、ふっと一つ息を吐いた。その表情から読み取れれるのは、無事にアドバイスができたという安堵の気持ちと、充実感だ。
 僕は、自分の胸が熱くなっているのを感じた。
 沙世子は今、勇気を振り絞って絵と向かい合った。過去のことを乗り越えて、確実に一歩、前に踏み出したんだ。
「沙世子ちゃんは、絵が得意なのかな」
 そこで、藤也さんが唐突に言った。
 沙世子はビクッと身体を震わせて「昔、描いていて……」と語尾を濁す。
「俺は芸術に関しては素人だけど、亨くんへのアドバイスは分かりやすかったよ。実はかなり絵が上手いんじゃないか? 作品を見てみたいなぁ。……そうだ。せっかくだし、沙世子ちゃんに舞台の装飾を担当してもらったらどうだ。背景に絵があったりすると、見栄えもいいしさ。どう? 描いてみない?」
 沙世子に絵を描けなんて……。あまりの展開に、僕は軽く唇を噛んだ。
 知り合って間もない藤也さんは、沙世子の事情を知らない。だから悪気なくこんなことを言うんだ。
 ひとまず、何かフォローを入れた方がいい。そう思って口を開きかけたとき、室内に控えめだがはっきりした声が響いた。
「――私、やってみます」
「えっ! 沙世子、本気?!」
 貴島が驚愕の表情を浮かべた。
 僕もゴクリと息を呑む。
「どこまでできるか分からないけれど……私、やってみたいの」
 みんなの視線の中心で、沙世子はきりりと顔を上げ、大きく一つ頷いた。

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