上 下
93 / 122
25章 美味しさは元気から

第1話 お医者さまの人徳

しおりを挟む
 葛原くずはらさんはとても穏やかなお客さまだ。男性で、ふくよかな体格と下がった目尻、のんびりとした話し方が人の良さをにじみ出している。

 そんな葛原さんは内科のお医者さまである。以前は勤務医だったのだが、今では一国一城の主人。開業医だ。

 クリニックは電車の距離にあるクリニックビルの一室。事務員さんひとり、看護師さん3人で運営されている。

 そしてお住まいの最寄り駅がこの煮物屋さんと同じで、帰りに良く寄ってくださるのだ。独身のひとり暮らしで、家に帰ってもひとりでご飯を食べるのは味気なく、またここでワンクッション置いて、診察などで緊張した心を解されるのだ。

 葛原さんは今日もにこにことビールを傾けている。医者の不養生なんてことにならない様にと、飲み過ぎない様に気をつけておられるので、いつも瓶ビール1本だけをゆっくり大切に飲まれるのだ。

 今日のメインは鶏もも肉と卵と長ねぎのポン酢煮込み。ポン酢と水の割り合いは1:3。生姜しょうがとお酒と砂糖も加えてことことと煮込む。柔らかな酸味のポン酢を使い、さっぱりとした一品に仕上がっている。彩りには青ねぎの小口切りを散らす。

 小鉢のひとつはきゃべつと桜えびのごま炒めだ。ざく切りきゃべつを菜種なたね油で炒め、塩をしてしんなりとしたら桜えびを加えて香りが立ったらお酒を加え、香り付けのお醤油を鍋肌から回し入れたら、たっぷりの白すりごまを振って全体を混ぜ合わす。桜えびと白ごまの深い旨味が強い一品だ。

 小鉢もうひとつはごぼうと人参と絹さやのごまマヨネーズ和えだ。歯応えを残すために太めの千切りにした野菜をさっと茹で、白すりごまとマヨネーズ、少量のお醤油で作った和え衣で和えた。白ごまとマヨネーズの甘味が野菜の旨味を引き出した、しゃきしゃきとした一品である。

 葛原さんはちびりとビールを傾け、ポン酢煮込みの鶏もも肉を口に放り込む。

「ああ~、これ本当にお酒に合いますねぇ~。飲み過ぎない様にするのが大変ですよ~」

 そう嘆息たんそくしながらもその表情は嬉しそうだ。葛原さんはその体型の通りたくさん召し上がれる方で、いつも大盛りでご注文される。大盛りは追加料金をいただいて、通常量の1.5倍をお盛りする。食べる量が多い方には好評なのだ。

「せめてご飯はお腹いっぱい食べてくださいね。私的にはもう少し飲まれても大丈夫じゃないかしら、なんて思ってしまうんですけど」

 佳鳴かなるが少しおどけた様に言うと、葛原さんは「そうですねぇ~」とのんびり言う。

「でも『今日も1本で抑えられたぞ』っていう達成感も良いものですよ~。中瓶1本で500ミリはあるでしょう? 充分と言えば充分なんですよねぇ~」

「そうですねぇ。中瓶はちょうど500ミリですね。缶ビールの大きい方と同じですものね。そう思うと確かに、おひとりでしたら充分な感じもしますけども」

「はい~。悪いのは、ついついお酒が進んでしまう美味しいご飯ですよ~」

「あら」

 おちゃらけた風に言う葛原さんに、佳鳴はくすりと笑う。

 煮物屋さんのご飯は優しい味付けだ。レシピによっては少し濃いめになるものもあるが、基本的にお醤油などの塩気は控える様にしている。その代わりに甘みや素材の旨味が引き立っている。

 一般的に味の濃いものがお酒やご飯に合うとされていて、確かに塩辛で日本酒なんてすばらしいと思う。佳鳴も千隼ちはやも大好きだ。だがこの煮物屋さんではご飯をたらふく食べて欲しい。だから優しい味付けを心がけているのだ。

 こうしたお酒を出す店の場合、利益が出やすいのは酒類である。だがこうした味付けと営業形態のためか、深酒をする様なお客さまは滅多におられなかった。

 何か嫌なことがあって、来店時には「今日はやけ酒!」なんておっしゃるお客さまも、佳鳴たちや馴染みのお客さまに愚痴ぐちをこぼしつつ、優しいご飯を食べると心をほぐしてくださるのだ。

「ビールが無くなったらブレンド茶で我慢です。でもできたらやっぱりビールで締めたいですよねぇ~」

 そんなことを言う葛原さんに、佳鳴は冷蔵庫から出した缶ビールをちらりと見せた。135ミリのミニ缶だ。

 普段煮物屋さんではお出ししないものなのだが、葛原さんのために最近置く様になったものだ。罪悪感無く飲める量だと思っている。

「あ、あ、店長さん、それは目の毒ですから~」

 嘆く葛原さんに、佳鳴は「ふふ」と小さく笑う。

「お身体の健康も大切ですけど、心の健康と栄養も大事だと思いますよ。ぜひ美味しくお酒とお食事を楽しんでくださいね」

 葛原さんは「ありゃあ~」と弱った顔を見せた。

「医者の僕が言うことを言われちゃいましたよ~。でも確かにあまり我慢するのも良く無いですもんねぇ~。もし無くなったらいただきますね~」

「はい。いつでもおっしゃってくださいね」

 そうしてまたお食事を続けていると、少し離れたところに掛けていた女性の常連さんが葛原さんに近付いて来て、こそっと「葛原さん」と声を掛ける。

「はぁい。どうされました~?」

 葛原さんは手を止めてにこやかに応える。女性は少し不安げな表情だ。

「あの、私最近、下腹が痛いことがあって」

「下腹ですか。いつもですか~?」

「いえ、時々です」

「お腹を壊したり、逆にお通じが無かったりとかありますか?」

「どちらも無いです」

「生理痛はどうですか? 重いですか?」

「そう、でも無いです。少しお腹が痛くなるぐらいで」

 すると葛原さんは少しばかり考えて、すぐににっこりと安心させる様な笑顔を浮かべた。

「お腹って、ストレスでも結構簡単に痛くなっちゃうものですからね~。でももし続く様なら、婦人科の病院に相談されてみたら安心かも知れませんね~」

「そ、そうですか」

 女性は幾分かほっとした様な表情になる。

「こんなところでまでごめんなさい。ちょっと気になったものだから」

 女性は申し訳無さげに頭を下げた。葛原さんは「いえいえ~」と笑顔のまま。

「違和感があると不安になりますよねぇ~。クリニックでは無いのでお話を聞くぐらいしかできないですけど、よろしかったらいつでもどうぞ~」

「はい。ありがとうございます。本当に助かります」

 女性はまた頭を下げて、自分の席に戻って行った。

 葛原さんはお医者さまなので、世間話の中で愚痴の様に不調を訴えるお客さまもいる。そんな時葛原さんは「大変ですねぇ~」などと言いながら耳を傾けて、ほんの少しばかりアドバイスをする。そんなことはしょっちゅうである。

 だが時折、こうしてやや深刻そうな相談事も持ち込まれる。そんな時葛原さんはまるで問診の様にお話を聞くのだ。

 クリニックでは無いので医療行為はできない。だから当然無償だ。だが葛原さんはどのお客さまに対してもにこやかに応えられている。

「これで少しでもご不安が減ったら良いですよねぇ~」

 そうおっしゃるのだ。何とも頭が下がる。

 そんな葛原さんなので、きっとクリニックで患者さんにも慕われているのだろう。患者さんで満員御礼なのが歓迎すべきかどうかは複雑なところだが。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

思い出を売った女

志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。 それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。 浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。 浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。 全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。 ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。 あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。 R15は保険です 他サイトでも公開しています 表紙は写真ACより引用しました

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

キャンピングカーで往く異世界徒然紀行

タジリユウ
ファンタジー
《第4回次世代ファンタジーカップ 面白スキル賞》 【書籍化!】 コツコツとお金を貯めて念願のキャンピングカーを手に入れた主人公。 早速キャンピングカーで初めてのキャンプをしたのだが、次の日目が覚めるとそこは異世界であった。 そしていつの間にかキャンピングカーにはナビゲーション機能、自動修復機能、燃料補給機能など様々な機能を拡張できるようになっていた。 道中で出会ったもふもふの魔物やちょっと残念なエルフを仲間に加えて、キャンピングカーで異世界をのんびりと旅したいのだが… ※旧題)チートなキャンピングカーで旅する異世界徒然紀行〜もふもふと愉快な仲間を添えて〜 ※カクヨム様でも投稿をしております

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

異世界は『一妻多夫制』!?溺愛にすら免疫がない私にたくさんの夫は無理です!?

すずなり。
恋愛
ひょんなことから異世界で赤ちゃんに生まれ変わった私。 一人の男の人に拾われて育ててもらうけど・・・成人するくらいから回りがなんだかおかしなことに・・・。 「俺とデートしない?」 「僕と一緒にいようよ。」 「俺だけがお前を守れる。」 (なんでそんなことを私にばっかり言うの!?) そんなことを思ってる時、父親である『シャガ』が口を開いた。 「何言ってんだ?この世界は男が多くて女が少ない。たくさん子供を産んでもらうために、何人とでも結婚していいんだぞ?」 「・・・・へ!?」 『一妻多夫制』の世界で私はどうなるの!? ※お話は全て想像の世界になります。現実世界とはなんの関係もありません。 ※誤字脱字・表現不足は重々承知しております。日々精進いたしますのでご容赦ください。 ただただ暇つぶしに楽しんでいただけると幸いです。すずなり。

処理中です...