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3章 烏天狗の悲劇

第1話 甘い卵焼きの魔法

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 松島まつしまさんは若い痩身の男性。「とりかい」のご常連である。お仕事先はこの本町ほんまちだが、服装などが厳しく無い職場なのか、いつもジーンズにシャツなどのラフな服装だった。

 今は8月になり、すっかりと真夏の気候。ここ数年の日本は熱帯雨林を思わせる様な太陽の照り付けと湿度で、不快とも言える日々が続く。とはいえ、だからこそ「とりかい」でも生ビールが飛ぶ様に出るのである。暑いときの生ビールは別格だ。

 松島さんも1杯目に生ビールを注文し、出すとさっそくぐいと傾けた。ごっごっごっと軽快に喉を鳴らす。

「あー旨っ。亜沙あさちゃん、鶏の唐揚げと、茄子の揚げ浸しちょうだい」

「はい。お待ちくださいね」

 お茄子の揚げ浸しは、旬の今が特においしい一品である。夏だということもあって、仕込みのときに揚げて漬け汁に浸し、冷蔵庫できんきんに冷やしてある。

 とろりと揚がったお茄子にお出汁ベースの漬け汁が染み込んで、噛むとじゅわっと溢れ出て来るのだ。輪切りの鷹の爪も使っているので、ほのかなピリ辛でこれも夏にぴったりである。

 亜沙は小鉢にお茄子の揚げ浸しを盛り付ける。これもカウンタに出していないだけで作り置きお惣菜の仲間なので、手軽に食べてもらえるスピードメニューである。

「はい、お茄子の揚げ浸し、お待たせしました。鶏の唐揚げ、これから揚げますからね」

「うん、ありがとう」

 唐揚げ用の鶏肉は調味料に漬けて、冷蔵庫に置いてある。日本酒にお砂糖、お醤油にすり下ろしたしょうが、隠し味にオイスターソースを少々。シンプルな味付けである。にんにくを使ってもおいしいが、女性などは匂いを気にするお客さまもいるので、「とりかい」では使っていない。

 鶏肉の水気を軽く切り、薄力粉と片栗粉を合わせた粉をまぶし、温まった油にそっと落とした。途端に揚げ鍋の中はじゅわーと泡が広がる。「とりかい」では揚げ油はべに花油を使っている。からりと軽い仕上がりになるのだ。

「亜沙ちゃん、唐揚げ終わってからでええんやけど、卵焼きってできる? 何や今日はだし巻きやなくて卵焼きの気分やねん。甘いやつ」

「あれですか? いわゆるちっさいころに親御さんとかが作ってくれた様な」

「そうそう。おかんの卵焼きみたいな。弁当とかに入ってたやつな。最近実家に帰れてへんから、ドラマで見たら何や懐かしなって」

「ええですよ。お砂糖入れて焼きましょね。ご実家って遠いんですか?」

箕面みのおやねん。せやから実家からここまで通えんことも無いんやけど、まぁ微妙に遠いからな。今は中津なかつでひとり暮らしや」

「あら、中津にお住まいですか。最近美味しいお店増えてるって聞きますよ」

 中津は、大阪メトロ御堂筋みどうすじ線と阪急電車の神戸線および宝塚線が通っている。御堂筋線なら梅田駅、阪急電車なら大阪梅田駅から1駅ということもあるのか、ここ近年評判の飲食店なども増えて来ていると聞く。

 本町勤務なら、交通の便はかなり良い。御堂筋線でたったの3駅だ。

 そしてご実家がある箕面市は、大阪の北部、北摂ほくせつ地域の市のひとつである。阪急電車の箕面線や、御堂筋線から伸びる北大阪急行の数駅が最寄り駅になる。

 確かに通勤できない距離では無い。最寄り駅が北大阪急行沿線なら30分ほどである。だがこちらはほんのつい最近千里中央せんりちゅうおう駅から延伸されたので、当時、ご実家からだと本町はやや面倒だったのかも知れない。阪急の箕面駅からだと乗車時間はそれほどでも無いが、乗り換えが2回あるのだ。

「確かにめっちゃお店増えてるけど、俺はやっぱりここが落ち着くわ」

「そう言うてくれはるんやったら嬉しいですわ」

 亜沙は言いながら、ボウルに卵を3個割り入れる。菜箸で軽くほぐしたところにお砂糖、そしてお塩を少々入れ、かしゃかしゃと菜箸を往復させ、空気を含ませない様に混ぜ合わせる。

 最初は溶け切らないお砂糖とお塩がざりざりと音を立てる。だが混ぜている間に溶け込んで、音は徐々に消えて行った。

 卵焼き器を火に掛け、畳んだクッキングシートに含ませた米油を薄く塗る。これはだし巻き卵を焼くときに使うものである。

 火加減に注意して、亜沙はお砂糖入りの卵液を少量、卵焼き器に流し入れた。じゅわぁっと音がして、全体に薄く行き渡らせるとゆっくりと固まって行く。

 お弁当に入れるのなら、しっかりと火を通さなければ食中毒の心配がある。だがここでは焼き上がりをすぐに食べてもらうので、半熟程度でも大丈夫だ。亜沙は菜箸でくるくると卵を巻いて行く。

 だし巻き卵の様にお出汁が入っていないので、菜箸でも巻きやすいのだ。だし巻き卵は卵とお出汁の割り合いが三対二が黄金比と言われ、卵液はかなりさらさらになり、巻くときも慣れていなければターナーを使わないと、あっという間に崩れてしまう。なので卵焼きは気持ち的に少し気楽に焼くことができるのである。

 巻いた卵はほんの少し色付いている。お砂糖が入っているので焦げやすいのだ。だがその焼き目すらも「おかんの卵焼き」の醍醐味である。亜沙は芯を作るとまた薄く米油を塗り、次の卵液を入れた。

 そうして卵液が無くなったら、少し、ほんの少しだけ焼き付けて、焼き色を付ける。良い色になったら卵焼き器を器用にひっくり返して角皿に乗せた。

 だし巻き卵なら大根おろしを添えるが、卵焼きなら必要無い。彩りにパセリを添えて、松島さんに差し出した。

「はい、甘い卵焼き、お待たせしました」

「ありがとう。めっちゃええ色!」

 見た目はお気に召してもらえた様だ。松島さんはさっそくお箸を入れて、熱々の卵焼きを頬張った。

「あ~こんなんこんなん。おかんが作ったのんはもっと焦げとったんやけど、ええ香ばしさと甘さやわ。旨いなぁ」

 すると他のお客さまも懐かしさが触発されてしまったのか、別のご常連から「ずっこいわ!」と声が上がる。

「そんなん僕も食べたいわ。亜沙ちゃん、僕にも作ってもらえる? 甘い卵焼き」

「もちろんええですよ。お待ちくださいね」

 甘い卵焼きは、その懐かしさで多くの人の琴線に響くのだろう。亜沙はくすりと笑みを零し、冷蔵庫から卵を取り出した。
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