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2章 牛鬼の花嫁

第10話 ふたつの価値観

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 「とりかい」の営業が終わり、亜沙あさとお父さんが片付けをしていると「おい」と低くドスの効いた声が店内に響いた。もう何度か聞いたことのある声。牛鬼ぎゅうきだ。

 牛鬼はいつもの様にカウンタの向こう、客席に立っている。その恐ろしい顔には得意げなものが浮かんでいる様に見えた。

 亜沙はごくりと喉を鳴らす。ふうとはやはり震えてしまっていて、お父さんだけが平気な様子だった。

「もう無駄や。お前らがいくら余計なことをしても、来月にはあの女は俺の花嫁になる」

「……でもなぁ、あのお客さん、麻紀まきさん言うたっけ? 婚約者がいてはるやん」

 お父さんののんびりとした声が、この緊迫した場には場違いに聞こえた。

「せやから何や。こっちに引き摺り込んだら関係あらへん」

「で、でも」

 亜沙も思い切って口を開く。

「麻紀さんと拓真たくまさんは、めっちゃ仲が良さそうやった。麻紀さんは拓真さんと結婚しはった方が絶対に幸せになれると思う」

 すると牛鬼が「は?」と呆れた様に眉をしかめた。

「幸せ? それが何や。幸せや何や言うんやったら、俺のような偉大なあやかしの花嫁になれることが幸せやろうが」

「それがあやかしの価値観なんかも知れんけど、人間はちゃう。好きな人と一緒になって、一緒に生活して、って、それが幸せのひとつやねん。そもそも麻紀さんはあなたの存在すら知らんのやから」

「そんなの、連れて行けば俺の存在は知れる。俺の花嫁になれば大事にされて幸せになれる。それでええやろ」

「よ、よう無いです!」

 どうでも良い様に言い捨てる牛鬼に反論したのは、ぶるぶると震えていたふうとだった。今でも震えは治まっていない。それでもふうとは拳を握り締めて、がくがくする足をどうにか踏ん張っていた。

「あきません。あのお客さまは、麻紀さんは、た、拓真さんに大事にされるんです。せやからあのおふたりは、結婚を決めたんです。それを、それをあやかしの都合で、曲げたらあかんのです」

 すると牛鬼はぎっと目を釣り上げた。

「あやかしのお前がそれを言うんか」

「い、言います。だって、牛鬼さんの思いが純粋な様に、麻紀さんと拓真さんが思い合うんも、純粋なもんです。ぼくは、おふたりの思いを大事にすべきやって思います」

 震える声で、それでもはっきりと言い切ったふうとははぁはぁと息を荒くした。亜沙は少しでも落ち着かせるために、その背中を労わる様に優しく撫でた。ふうとは大きく深呼吸をする。

「ふうと、ありがとう」

 亜沙が優しく言うと、ふうとはまだ整わない息のままこくこくと頷いた。その勇気に後押しをされる様に、亜沙も顔を上げた。

「牛鬼さん、私は人間なんで、人間の常識でものを言います。人間は結婚をするときには、互いに好意を持って、互いを良く知って、生涯をともにできると思えたら一緒になるんです。もし麻紀さんがあやかしが見える人で、牛鬼さんと思い合って、牛鬼さんと一緒になることを納得してるんやったらええと思うんです。でもそうや無いんです」

 人間の常識に当てはめると、こうしてつきまとい、相手の都合や気持ちを考えずに自分のものにしようとするのはストーカーである。もちろん牛鬼にそんなつもりはさらさら無いだろう。牛鬼はただ愛する人に寄り添っているだけである。

 だがその思いは一方通行なのだ。麻紀さんに牛鬼が見えない限り、存在すら認識されない。当然そこにある感情も。そこで無理に花嫁にされて、麻紀さんは納得ができるのか。

 そればかりは、自分が麻紀さんでは無いのだから分からない。だが麻紀さんにはすでに心に決めた相手がいる。引き裂かれておとなしくしていろと言うのは無理な話だろう。

 牛鬼の思うがままにされて、麻紀さんが幸せになれる未来が、亜沙には見えなかった。それこそ亜沙の思い込みなのかも知れない。だが今持っている全てを、大事なものも人も含めて捨てさせられるのだから。

「麻紀さんは拓真さんと思い合っているから、拓真さんの花嫁になることで幸せになるんです」

 亜沙の言葉に、牛鬼は目を細めた。そこには冷たい色が窺える。

「俺では、あの女を幸せにできんて言うんか」

「それは分かりません。でも、今麻紀さんが大事にしてはる拓真さんと離されて、幸せになれるとは思えません。牛鬼さんはただ麻紀さんが欲しいだけですか? それとも幸せにしたいて思ってますか?」

 牛鬼はまるで動じない。きろりと亜沙を睨み付けた。

「……俺の花嫁になる。それがあの女の幸せや」

 駄目だ。堂々巡りだ。説得なんてまるで届かない。亜沙の、人間の常識なんてまるで通用しない。これがあやかしなのだ。ある意味不遜であり、ある意味純粋。己の信じることが全てなのだ。

「俺は俺のやり方であの女を幸せにする。これ以上邪魔をすんな」

 牛鬼は怒りを含ませた様な声色で言うと、亜沙たちが何かを言うのも待たず、消えた。

「あ……」

 亜沙は失望の声を漏らす。何を訴えても意味が無かった。もっと良いやり方があっただろうか。亜沙には分からなかった。
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