上 下
10 / 56
1章 きっとここからが、始まり

第9話 労いの時間

しおりを挟む
「ただいま」

「おかえり」

「おかえり~」

 奥の、おそらくリビングから両親の声がした。亜沙あさはしっかりと戸締りをして黒いスニーカーを脱ぐ。リビングに入ると、やはりそこにはふたりがいた。

「お父さんお母さん、お疲れさん」

「亜沙もお疲れさん。少し飲むか?」

「え、うん」

 お父さんからそんなお誘いを受けることが珍しいので、亜沙は面食らう。だが素直に行け入れて、バッグを下ろして薄手のベージュのコートを脱いだ。

 お父さんお母さんも帰って来て間もないのか、ふたりして上着こそ脱いでいるが家を出た時の格好のままだった。お父さんは若々しい赤い薄手のセーターにブルーのジーンズ、お母さんは紫の花柄のワンピースである。

 お父さんはキッチンから缶ビールを3本とグラス、小鉢をみっつトレイに乗せて持って来た。小鉢の中はふき味噌だった。

「今日の惣菜や。少し取っておいてん」

 ソファに座り、お父さんは缶ビールのプルタブを開けると亜沙にグラスを渡してくれた。

「ほれ」

 お父さんが缶ビールを差し出す。注いでくれるのだろう。亜沙は「ありがとう」とグラスを斜めにした。お父さんのビールはお母さんが、お母さんのビールは亜沙が注ぐ。

「亜沙、3年間、ほんまにお疲れさまやったなぁ」

「お疲れ!」

「ありがとう」

 3人はグラスを合わせた。そうか、両親は亜沙を労ってくれるために起きてくれていたのだ。いつもふたりの方が帰りが早いので、亜沙が帰って来たときにはお風呂を済ませていることも多く、就寝の挨拶だけを交わすことがほとんどだったのだが、今日は亜沙が「つるの郷」最後の日だからだと。明日の日曜日が休日なこともあるのだろう。

 亜沙はビールのグラスに口を付ける。こくりと傾けると、少し苦味のある、しかし爽やかな冷たさが喉をするりと通り過ぎた。お仕事終わりだからさらに格別だ。

「はぁ~」

 亜沙の口から心地よい溜め息が漏れ出た。お父さんも隣で「ふぅ」と息を吐いた。お母さんは豪快に「はぁー!」と店を仰いだ。

「亜沙、ほんまにええんか?」

「何が?」

 お父さんの問いに亜沙は首を傾げ、またこくりとビールをひとくち口に含んだ。

「明後日から「とりかい」に入るん。少し休んでもええんやで」

「まぁその分、私が楽させてもらえるんやから、ええっちゃあええんやけど」

 お母さんも言いながら、ふき味噌をつまむ。

「ああ」

 亜沙は少しでも早く「とりかい」に入りたいと望み、特別なお休みは取らないと決めた。生活リズムも「つるのさと」にいたときと変わらないし、それを崩す方が嫌だなと思ったのだ。

 何よりも早く、お父さんと一緒に厨房に立ちたい。少しでも早く戦力になりたい。そのために必要なのはまずは実地経験である。特に亜沙は「つるの郷」では追い回ししかできなかったので、実質いちからのスタートである。

 お母さんがいなくなるのは残念ではあるが、その分亜沙ががんばらねばと、気が引き締まる思いもある。

「ううん、お休み無い方が私にはええねん。早く「とりかい」でお料理したい」

 亜沙がはっきりと言うと、お父さんは「そうか」と頬を緩めた。お母さんも「うん」と納得した様な顔で頷いた。亜沙の少し頑固な性格を知り尽くしているふたりなので、もうこれ以上言うことは無いと思ったのだろう。

「お父さん、お母さん、あらためて、どうぞよろしくね」

 亜沙が言うと、ふたりは一瞬きょとんとした表情になり、すぐに揃って「はは」を笑みを浮かべた。

「こちらこそやわ。これからもあんじょう頼むな」

「ま、何かあったら相談ぐらいは乗るから。一応「とりかい」には慣れとるしな」

「うん」

 少しでも早く、お父さんに頼られる存在になりたい。まずはお母さんの様にお父さんを支えて、そしていつかは。亜沙は気合いを入れる様に、膝の上に置いていた左手をぐっと握った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

繋がりのドミグラスソース

山いい奈
キャラ文芸
守梨はビストロ「テリア」を営んでいた両親を同時に喪ってしまう。 幼馴染みの祐樹が見守ってくれていた。 そんな祐樹は幽霊が見え、両親が幽霊になってお店に帰って来たと言うのだ。 悲しみから立ち上がり、両親が遺したものを受け継ぎ、その思いを引き継ぐ物語。

こども病院の日常

moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。 18歳以下の子供が通う病院、 診療科はたくさんあります。 内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc… ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。 恋愛要素などは一切ありません。 密着病院24時!的な感じです。 人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。 ※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。 歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー 庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。 そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。 しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……

猫又の恩返し~猫屋敷の料理番~

三園 七詩
キャラ文芸
子猫が轢かれそうになっているところを助けた充(みつる)、そのせいでバイトの面接に遅刻してしまった。 頼みの綱のバイトの目処がたたずに途方にくれていると助けた子猫がアパートに通うようになる。 そのうちにアパートも追い出され途方にくれていると子猫の飼い主らしきおじいさんに家で働かないかと声をかけられた。 もう家も仕事もない充は二つ返事で了承するが……屋敷に行ってみると何か様子がおかしな事に……

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

九尾の狐に嫁入りします~妖狐様は取り換えられた花嫁を溺愛する~

束原ミヤコ
キャラ文芸
八十神薫子(やそがみかおるこ)は、帝都守護職についている鎮守の神と呼ばれる、神の血を引く家に巫女を捧げる八十神家にうまれた。 八十神家にうまれる女は、神癒(しんゆ)――鎮守の神の法力を回復させたり、増大させたりする力を持つ。 けれど薫子はうまれつきそれを持たず、八十神家では役立たずとして、使用人として家に置いて貰っていた。 ある日、鎮守の神の一人である玉藻家の当主、玉藻由良(たまもゆら)から、神癒の巫女を嫁に欲しいという手紙が八十神家に届く。 神癒の力を持つ薫子の妹、咲子は、玉藻由良はいつも仮面を被っており、その顔は仕事中に焼け爛れて無残な化け物のようになっていると、泣いて嫌がる。 薫子は父上に言いつけられて、玉藻の元へと嫁ぐことになる。 何の力も持たないのに、嘘をつくように言われて。 鎮守の神を騙すなど、神を謀るのと同じ。 とてもそんなことはできないと怯えながら玉藻の元へ嫁いだ薫子を、玉藻は「よくきた、俺の花嫁」といって、とても優しく扱ってくれて――。

処理中です...