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1章 きっとここからが、始まり
第1話 理不尽な境遇
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季節は春。優しく吹く風は襟足で切り揃えた黒髪をふわりと撫でる。
亜沙は現在、大阪市浪速区の大国町にある実家に頼りながら、大阪北新地の料亭「つるの郷」に勤め、修行に励みつつ貯金に努めていた。
大阪市内の調理師専門学校を出て新卒で就職した「つるの郷」だったのだが、想像以上に男社会の空気感が残されており、亜沙を含め女性料理人は苦労しているのだった。
正確には、料理長だけがそうだった。席数がそれなりにある「つるの郷」だけに、料理人は料理長に副料理長、他にも亜沙を含めて数人いるのだが、副料理長以下は女性料理人にも厚意的だった。
昔気質の料理人といえば聞こえは良いかも知れないが、女性を忌避して排除したがるところはどうしても受け入れるのは難しい。
「つるの郷」に入っておよそ3年間、もうひとりの女性料理人である町田香里奈さんは5年、ひたすら掃除や洗い物、食材の下ごしらえしかさせてもらえなかった。いわゆる追い回しである。本来なら追い回しのお仕事であるはずの賄いも作らせてもらえないのだった。
そんな亜沙たちを気に掛けてくれていたのが、副料理長たちだった。料理長の目を盗んで焼き方を教えてくれたり、煮汁の味見をさせてくれたりした。
それを支えに、香里奈さんと助け合ってどうにか勤め続けていた。
そうしながら週に1度の休日である日曜日には、副料理長たちに教えてもらったことを思い出しながら、お家で試作研究したりして。時にはお勉強のために外食も。
そうして地道に研鑽を積み重ねて来た。それも全て、両親が経営する小料理屋「とりかい」を一緒に切り盛りし、やがては後を継ぐためだ。
亜沙は専門学校を卒業したら、すぐにでも「とりかい」に入れると思っていた。実地経験は足りないが、学校に入る前からお父さんに手ほどきを受けていたし、専門学校の授業や実習で知識や技術はしっかりと鍛えたつもりだったからだ。
だが、同期たちが就職活動を控えたその年次の頭、お父さんは言った。
「亜沙、実はな、お前がすぐにうちに入っても、満足に給料を出せるか判らへんねん。せやから数年、よそで修行を兼ねて貯金してくれんか」
何と言うことだろう。亜沙の人生プランががらがらと音を立てて崩れて行く様だった。「とりかい」でキャリアをスタートさせ、「とりかい」で終わらせる。可能ならば次代に受け継いで行けたら、そう思っていたのだ。
亜沙は相当ショックを受けた様な顔をしていたのだろう。お父さんは「まぁまぁ」と亜沙をなだめる様に優しく言った。
「数年の話や。ちょっと我慢して、外で働いて来てくれんか」
そう言われてしまったら、嫌だなんてわがままは言えない。なので亜沙は同期たちに混ざって就職活動に励んだ。
家の最寄り駅である大阪メトロ御堂筋線の大国町駅から通いやすく、小料理屋のおしながきに役立てることができそうなお店に焦点を当て、エントリーシートを作って面接を受けた。
いくつかの不合格の悔しさを味わい、どうにか内定をもらえたのが、今の勤め先である「つるの郷」なのである。
新しい環境はいつだって緊張する。進学のたびにそれを感じて来た。この就職でもそうで、それでも共通するのは期待。胸だって踊るのだ。
なのに料理長の理不尽な男尊女卑で、そうした希望は見事に打ち砕かれた。それでも副料理長たちがそうで無かったのは大きな救いだった。
料理長は隙あらば女性を貶すチャンスをうかがっている様な人だった。厨房にいてもさせてもらえることと言えば下ごしらえばかりだったから、少しでもスピードが足らないと良くどやされた。
お陰で包丁さばきだけは上達した。だがそれだけだ。あとは副料理長たちがこっそりと教えてくれるいくつかの技術で繋いで来た。
悔しくて何度も唇を噛み締めた。それでも縋り付いていたのは、一重にお給料のためだった。
言い方は良くないかも知れないが、「つるの郷」は大きな料亭だけあって、飲食業界の中ではお給料が良かったのだ。それが試験を受けた要因のひとつであったので、今から思うと浅はかだったと思うが、福利厚生もきちんとされていて、整った企業形態だと思ったのだ。
確かに事務部もあり、企業としては優秀だったのだろう。だがそれと中の人の人となりは別だ。事務の人たちはあまり関わりが無かったから判らないが、少なくとも料理長は亜沙たち女性料理人を疎んでいる。
それでも実力があるから料理長に登りつめている人なのだ。亜沙は足元にも及ばない。その一因を担っている張本人ではあるのだが、亜沙自身の研鑽が足りないと片付けられることだろう。
このままこの料亭で貯金を続けるか、お給料が下がってしまったとしても転職するか。
もう3年だ。日本料理には下積み3年なんて言葉がある。だが実際には1年から2年で次のステップに進むことがほとんどだ。実際に亜沙の1年後に入って来た新卒の男性料理人は、たった半年ほどの追い回しを経て、先付け・八寸場に昇格した。
亜沙はこのままくすぶり続けるしか無いのだろうか。
その日の深夜も亜沙は、へとへとになって帰宅した。重い身体をどうにか奮い立たせてシャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。
「今日も疲れた……」
亜沙は呟き、布団を被って目を閉じた。そのまま意識が飛んで行きそうになる。だが片隅にわずかに残る光る部分が、亜沙の思考を際立たせる。
どうしてもお仕事にやりがいを感じられないのだ。したがって達成感も無い。追い回しや下積みが現場や料理人修行にとって大事な役割りなのは分かっている。だが来る日も来る日も同じことの繰り返し。料理長にどやされながら、副料理長たちの小さな気遣いに望みを掛ける日々。
亜沙も受け身になろうとせず、料理長が見ていない時に他の料理人の近くでその手腕を見させてもらったり、味見をさせてもらったりしている。それでも自分の料理人としての成長を感じることがまるでできないのだ。
そんな日々が3年。そろそろ心が折れそうになっていた。いつまでこんなことを続けなければならないのだろうか。絶望しか感じなかった。
亜沙は現在、大阪市浪速区の大国町にある実家に頼りながら、大阪北新地の料亭「つるの郷」に勤め、修行に励みつつ貯金に努めていた。
大阪市内の調理師専門学校を出て新卒で就職した「つるの郷」だったのだが、想像以上に男社会の空気感が残されており、亜沙を含め女性料理人は苦労しているのだった。
正確には、料理長だけがそうだった。席数がそれなりにある「つるの郷」だけに、料理人は料理長に副料理長、他にも亜沙を含めて数人いるのだが、副料理長以下は女性料理人にも厚意的だった。
昔気質の料理人といえば聞こえは良いかも知れないが、女性を忌避して排除したがるところはどうしても受け入れるのは難しい。
「つるの郷」に入っておよそ3年間、もうひとりの女性料理人である町田香里奈さんは5年、ひたすら掃除や洗い物、食材の下ごしらえしかさせてもらえなかった。いわゆる追い回しである。本来なら追い回しのお仕事であるはずの賄いも作らせてもらえないのだった。
そんな亜沙たちを気に掛けてくれていたのが、副料理長たちだった。料理長の目を盗んで焼き方を教えてくれたり、煮汁の味見をさせてくれたりした。
それを支えに、香里奈さんと助け合ってどうにか勤め続けていた。
そうしながら週に1度の休日である日曜日には、副料理長たちに教えてもらったことを思い出しながら、お家で試作研究したりして。時にはお勉強のために外食も。
そうして地道に研鑽を積み重ねて来た。それも全て、両親が経営する小料理屋「とりかい」を一緒に切り盛りし、やがては後を継ぐためだ。
亜沙は専門学校を卒業したら、すぐにでも「とりかい」に入れると思っていた。実地経験は足りないが、学校に入る前からお父さんに手ほどきを受けていたし、専門学校の授業や実習で知識や技術はしっかりと鍛えたつもりだったからだ。
だが、同期たちが就職活動を控えたその年次の頭、お父さんは言った。
「亜沙、実はな、お前がすぐにうちに入っても、満足に給料を出せるか判らへんねん。せやから数年、よそで修行を兼ねて貯金してくれんか」
何と言うことだろう。亜沙の人生プランががらがらと音を立てて崩れて行く様だった。「とりかい」でキャリアをスタートさせ、「とりかい」で終わらせる。可能ならば次代に受け継いで行けたら、そう思っていたのだ。
亜沙は相当ショックを受けた様な顔をしていたのだろう。お父さんは「まぁまぁ」と亜沙をなだめる様に優しく言った。
「数年の話や。ちょっと我慢して、外で働いて来てくれんか」
そう言われてしまったら、嫌だなんてわがままは言えない。なので亜沙は同期たちに混ざって就職活動に励んだ。
家の最寄り駅である大阪メトロ御堂筋線の大国町駅から通いやすく、小料理屋のおしながきに役立てることができそうなお店に焦点を当て、エントリーシートを作って面接を受けた。
いくつかの不合格の悔しさを味わい、どうにか内定をもらえたのが、今の勤め先である「つるの郷」なのである。
新しい環境はいつだって緊張する。進学のたびにそれを感じて来た。この就職でもそうで、それでも共通するのは期待。胸だって踊るのだ。
なのに料理長の理不尽な男尊女卑で、そうした希望は見事に打ち砕かれた。それでも副料理長たちがそうで無かったのは大きな救いだった。
料理長は隙あらば女性を貶すチャンスをうかがっている様な人だった。厨房にいてもさせてもらえることと言えば下ごしらえばかりだったから、少しでもスピードが足らないと良くどやされた。
お陰で包丁さばきだけは上達した。だがそれだけだ。あとは副料理長たちがこっそりと教えてくれるいくつかの技術で繋いで来た。
悔しくて何度も唇を噛み締めた。それでも縋り付いていたのは、一重にお給料のためだった。
言い方は良くないかも知れないが、「つるの郷」は大きな料亭だけあって、飲食業界の中ではお給料が良かったのだ。それが試験を受けた要因のひとつであったので、今から思うと浅はかだったと思うが、福利厚生もきちんとされていて、整った企業形態だと思ったのだ。
確かに事務部もあり、企業としては優秀だったのだろう。だがそれと中の人の人となりは別だ。事務の人たちはあまり関わりが無かったから判らないが、少なくとも料理長は亜沙たち女性料理人を疎んでいる。
それでも実力があるから料理長に登りつめている人なのだ。亜沙は足元にも及ばない。その一因を担っている張本人ではあるのだが、亜沙自身の研鑽が足りないと片付けられることだろう。
このままこの料亭で貯金を続けるか、お給料が下がってしまったとしても転職するか。
もう3年だ。日本料理には下積み3年なんて言葉がある。だが実際には1年から2年で次のステップに進むことがほとんどだ。実際に亜沙の1年後に入って来た新卒の男性料理人は、たった半年ほどの追い回しを経て、先付け・八寸場に昇格した。
亜沙はこのままくすぶり続けるしか無いのだろうか。
その日の深夜も亜沙は、へとへとになって帰宅した。重い身体をどうにか奮い立たせてシャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。
「今日も疲れた……」
亜沙は呟き、布団を被って目を閉じた。そのまま意識が飛んで行きそうになる。だが片隅にわずかに残る光る部分が、亜沙の思考を際立たせる。
どうしてもお仕事にやりがいを感じられないのだ。したがって達成感も無い。追い回しや下積みが現場や料理人修行にとって大事な役割りなのは分かっている。だが来る日も来る日も同じことの繰り返し。料理長にどやされながら、副料理長たちの小さな気遣いに望みを掛ける日々。
亜沙も受け身になろうとせず、料理長が見ていない時に他の料理人の近くでその手腕を見させてもらったり、味見をさせてもらったりしている。それでも自分の料理人としての成長を感じることがまるでできないのだ。
そんな日々が3年。そろそろ心が折れそうになっていた。いつまでこんなことを続けなければならないのだろうか。絶望しか感じなかった。
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