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1章 お祖父ちゃんが遺した縁

第6話 まだ内緒のお話

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 翌週の金曜日。仕事終わりの夕方だが、昼の暑さが濃く残っている。もうすぐお盆になろうと言うのに、本当に残暑は訪れるのだろうかと疑ってしまう。

 リリコはつうと流れる汗をハンカチで拭いながら家路を急ぐ。今日はこれからお祖母ちゃんと「いちょう食堂」に行くのだ。

 今日は何をいただこうか。やはり河内鴨かわちがもが気になる。お刺身とスモークどちらにしようか。贅沢に両方いただいてしまおうか。

「お祖母ちゃんただいま。行こか!」

 玄関に入るなり叫んだリリコに、出て来たお祖母ちゃんは「あらあら」とおかしそうに笑う。

「リリちゃん、そう慌てんでも大丈夫やから。カウンタの奥予約してくれたんやろ?」

 落ち着いてゆっくりと楽しみたくて、行こうと決めた週の半ばに電話で席の予約をしておいたのである。

 就職するまではあまり電話を使うことが無く不慣れだったのだが、今は事務所に掛かって来た電話を取るのもリリコの仕事なので、すっかりと慣れた。

「せやけど早よ行きたい。お腹空いた~」

 リリコは小さくわめきながら靴を脱ぐ。まだ高いヒールが上手に履けないリリコは、低めのウエッジソールパンプスを愛用していた。色は汎用性の高い黒である。

「バッグ変えて来るから待っとって」

 リリコはパンプスを揃えるのももどかしく、いそいそと自分の部屋がある2階に上がる。小さなショルダーバッグに必要なものを放り込んで、またぱたぱたと下に降りた。

「お祖母ちゃんお待たせ!」

 小さく息を切らしながら言うと、お祖母ちゃんは「もう、リリちゃんたら」と呆れた様に笑う。

「そんな急がんでも。お祖母ちゃんも着替えて来るからちょっと待ってねぇ」

 お祖母ちゃんはのんびりと自分の部屋に向かい、リリコはそわそわして居間をうろうろしてしまった。



 早く行きたいと思いながらも、歩くペースはお祖母ちゃんに合わせるリリコである。

 「いちょう食堂」に着いてドアを開けようとした時、リリコはドアに貼られている『お知らせ』の張り紙に目が行った。

 リリコが読んでいるとお祖母ちゃんも並んで目を走らせ、ふたりは思わずきょとんとした顔を合わせる。

「ほんまやろか、これ」

「書いてあるってことはそうなん違うんやろうかねぇ。入って聞いてみようかねぇ」

「そうやな」

 リリコが重いドアを押して先にお祖母ちゃんを通す。中から「いらっしゃい!」と元気な声が響いた。

「こんばんは」

「こんばんはぁ」

久実子くみこさんリリコちゃん、らっしゃい! お待ちしてました。奥のお席どうぞ!」

 大将さんが快活かいかつに迎えてくれる。リリコとお祖母ちゃんは奥のカウンタ席に辿り着くと、置かれていた予約席のプレートを脇に避けて椅子に掛けた。

 さっそくメニューを広げるが、お知らせのことが気になってしまって、気もそぞろになってしまう。

「いらっしゃい」

 若大将さんがおしぼりを持って来てくれたので、リリコは思い切って聞いてみることにした。

「あの、表の張り紙のお知らせって」

「ああ」

 お知らせの内容とは、来月9月末で「いちょう食堂」が一旦休業するというものだった。再開日は今のところ未定とのこと。

「いやぁ、この建物、古いですやろ」

 それは確かに先週初めて来た時にも思ったことだが、リリコもお祖母ちゃんも肯定がためらわれ、「まぁ」と濁すにとどめる。

「ここは大将が始めた店で、そん時はまだ外観もここまで古く無かったんですよ。とくさんが通い始めてくれはったころもまだましやったですしね」

 お祖父ちゃんはそんな前からここを行きつけにしていたのか。

「でもこの建物自体はもうかなり前のもんになるんですわ。せやからオーナーが建て替えたい言うてね」

「新しくなるんですか。ええですねぇ」

 店内は掃除なども綺麗にされているが、やはり新しくなってくれるのは嬉しいとリリコは思ってしまう。これからも通いたいと思っているので、「いちょう食堂」には長く続いて欲しい。

「ええんですけどねぇ」

 若大将は困った様に首筋をく。

「新しゅうなったらその分賃料がぐんと上がるんですわ。今までは古いっちゅうこともあって、破格で貸してもろとったんです。せやからお客さんに大阪もんをこの値段で提供できとったんですわ。新しゅうなったらそれができんくなるんで、今大将と新しいところ探してる最中なんですわ」

「じゃあ移転しはるんですか?」

「その予定です。できたら長居ながいで探したいんですけど、もしかしたらよそに移ることになるかも知れません」

「そんな」

 リリコは愕然がくぜんとしてしまう。隣でお祖母ちゃんも「まぁ……」と残念そうな顔を浮かべた。

 長居から出てしまっても、そう遠く無いのなら行けるだろうが、今日の様に気軽に来れなくなるだろう。歩いて行けるならともかく、電車の距離になってしまえば足も遠のくと思う。それはとても残念である。

 たまの贅沢ぜいたくだと割り切れば良いのだろうが、お祖父ちゃんの縁で出会えたお店だ。せめてお祖父ちゃんが通っていた頻度ひんどで来れたらと思っていた。

 長居は下町ではあるが、大阪市なのである。なので当然地価はそれなりにする。同じ御堂筋線でも大和やまと川を超えてさかい市に行ってしまえばもう少し家賃も抑えられるだろうが、堺市の北端である北花田きたはなだ駅でも長居駅からは2駅だ。若いリリコならともかく、お祖母ちゃんを歩かせることなんてできない。

 ふと横を見ると、お祖母ちゃんが何やら考え込んでいる。リリコが「お祖母ちゃん?」と声を掛けると、お祖母ちゃんはそっとリリコに耳打ちして来た。

「リリちゃん、あのねぇ……」

 聞いたリリコは「え?」と驚く。

「そんなことできるん? でもそうなったら予算もかなり変わって来るで。多分建て方もややこしくなる思う」

「でもねぇ、せっかくお祖父ちゃんが教えてくれたお店やからねぇ、できたら続けて欲しいねん。もし次の建物が見付かれへんかったら、このままお店無くなってしまうかも知れへんやろ?」

「そりゃあそうかも知れへんけど」

 ひそひそ声で話をするリリコとお祖母ちゃんに若大将さんは首を傾げ、次には「すんません」と苦笑する。

「内輪の話してしもうて。お飲み物は何にします?」

 リリコは「あ、は、はい」と慌ててメニューに目を落とした。

「お祖母ちゃん、その話は帰ったらしよう。所長さんにも相談せなあかんと思う」

「あらぁ、そうやねぇ。それに思い付きだけで言うて、こちらに迷惑を掛けてしまうことになってもあかんしねぇ」

「うん。そやね」

 リリコは頷いて、あらためてドリンクメニューを眺めた。
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